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11.最後の上演


 ……最終公演。

 あたしははあ、と大きく息を整えた。台詞を大きく客席に向かって響かせる。


「……“夢を見たの”」


 今のところは順調。想定したとおりの流れ。

 想定した皆のチームワーク。正直、息がつまりそうになる。……気を抜いてはいけない。それは知っているから。

 ――秀ちゃんだって言ってたんだもん。『ベターではなくベストを尽くした』、そう言われるようにって。


 そう、次からはきっとあの子がチームリーダーだから。

 ……せめて上級生としては「行動」で示さなきゃ。頑張れって、応援してるよって。後は頼んだ、もうタッチしないぞ。そんな感じで、のびのびとしなきゃ、堂々とやり切らなきゃ。

 いかにあたしが自分の中身に確証がなくても。自信が持てずとも。あの子の期待に、最後くらい応えなきゃ。君は……まとめられてるよって。


 ……あたし、元くん曰く、水だもん。

 何にだって形が変わるはずだから。



「“早くいかないと彼が……彼が死んでしまう!”」

「“どこに行くんだ!”」



 そんな当の秀ちゃんが立ち上がる瞬間、机が音を立てた。……勿論あの子のことだから、間違えて足を打ち付けるような真似はなかなかしない。

 最初のときはさすがに偶然、事故でなったんだけど――「そのほうが面白いから!」という理由でわざとやることになった。


 うん、必死さが出るからね。

 だから「机の脚に蹴躓く」までが、ちゃんとお芝居。

 躓いたその体勢のまま、姿勢を崩した秀ちゃんが台詞と一緒に咳き込んだ。



「“戻っておいで……!”」

「“……ごめんなさい”」



 ……ベルの父は体が弱いが、行商人だ。商いの帰り道、末の娘であるベルに手土産を持って帰ろうとして、野獣の大切に育てていた薔薇を摘んだ。ベルと野獣の出会うきっかけを作った張本人。その罪悪感で余計に身体を壊す苦労人。


 今回そんな役柄の秀ちゃんは、文字通りその瞬間――全力で病人だった。


 野獣のところからようやく呼び戻した末娘。彼女の看病でようやく復調してきたと思ったら、野獣の危機を「虫のしらせ」で感じたベルにスッと去られる。

 荒々しく、恐ろしい印象しかない野獣。彼になぜか惹かれていく自分の娘を思いながら、それを止められるだけの気力も体力もない己を呪い、力なく崩れ落ちる。



「“……ああ、神様。あの子の行く末は……”」



 ……で、彼、『役作り』で何をやったか。

 分かりやすく秀ちゃんは思いついたことを片っ端からやる性格だ。どんなに突拍子のないことでも、それが次のステップにつながると思ったら時間の許す限りに挑戦する。

 ストレートもストイックも度を越せば変人というけれど、明らかに演劇部の2大変人は秀ちゃんと津田さんのツートップだろう。


 確か彼はこのシーンを最初に台本で読んだその後……このシーンの為に校庭の400メートルトラックを全力疾走したりしていたのだ。

 「限界まで走ると喉カラッカラになるし、鼻水でねえ?」という理由で。


 確かに元々が元気ハツラツで、あまり風邪すらひかない子だ。だから走った後の状態から不調の感覚を思いっきり叩き込む。

 ……なるほど、秀ちゃんらしい。


 なら、あたしは?


「…………」


 何ができる? どう見せる?

 何をしたら、あれだけのクオリティに見合う何かができる? つりあうものになる、最悪届かなくとも、手を伸ばしたという証明になる?


 頑張ったと。

 本気でやってるって、証明できる?


「……!」


 証明。違う気がする。対象が違う。何の? あたしは誰にこれを見せたい? 何のためにこの場所にいる?


 ……野獣の倒れる夢を見たベルが彼を救うため、急いで城に舞い戻るシーン。

 あたしは足に力を込め、袖横の『花道』に向かって走り出した。


 ほら、音楽のライブでもよく見るでしょ?

 客席側に向かってでっぱっているあそこだ。

 一瞬の暗転。その隙に引っ込む秀ちゃんたちを見ながら、息を整える。



『……考えている暇はなかった。心配している、そんな場合でもなかった……家に帰って、野獣さんを忘れて。10日目に見たものはただの夢?』



 あらかじめ録音した、ベルの台詞。録音の台詞だから、反響の仕方は勿論違う。

 勿論暗転の間の道具の片付けから注意を逸らすためのものでもあるが、もう一つこれには役割があった。「ベルの心の底の声」だという演出だ。

 心の底から聞こえた、自分自身への問いかけ……花道にスポットが当たり、それに被せるように、その声に向けたベル自身の回答を、続きの台詞を口に出す。



「“本当に、そうでしょうか……”」



 そうだ、頑張ろう……あたしにしかできないことは、なんだ。

 分からなくても見えなくても、時間だけは過ぎていく。待ってはくれない。

 だって、これはもう稽古じゃないんだから。



「……“私は野獣の彼と暫くの間過ごしたし、彼の人となりも理解している。そこに、絆があったからとは考えられないのでしょうか? そこに真実の恋心が。愛があったからだとは”」



 盛り上げよう。あれ? 誰のために?

 秀ちゃんも大事だけど……ああ……そう、お客さんにしてみれば一番ハラハラするところだろうから、その心情を考えて……できるだけ気持ちを盛り上げる。


 ゴクリと息を呑み、一拍。

 BGMの盛り上がりを合図に、また舞台中央に向かって走り出す。その予定。


 足をまた踏み出して……あれっ?


「………!」


 ぴん、と足が何かに引っかかる。糸か、紐のようだ。

 慌てて足にストップをかけるけど、それは間に合わず、派手に……



「……っ!?」







 ……前のめりになって、すっ転んだ。





 撥ね飛ばされたみたいに、我ながら大げさに転がる。とっさに受身を取った右手がジンジンと痛む。今、いったい何が?

 ……一瞬だけ頭によぎったのは、ゲネの直前に転んだ元くんの姿だった。



  ――「お前も、ゲネは有志の誰かが引っかかればいいと言ったはずだが」



 あの照明上にいた囁き声。多少言葉尻が甘くはなっていたけど、聞き間違えるはずはない……あれは確かに、演劇部の影の実力者。

 顧問の、()()()()の声だった。

 考えないようにしていたことが、ひとつぶひとつぶ。ぽろりぽろりと目の前にこぼれ出すような感触。あ、無理だこれ。集中なんて、もうできない。


 ……無理だ。終わった。

 せめて台詞だけこなそう。スイッチが切れてしまった。勢いがしぼんじゃった。


 ふと、袖からちらっと見えた秀ちゃんが口だけを動かすのが分かる。



(――早く!)



 下手の津田さんも手で合図を送っているのが見て取れた。……我に返る。そうだ、無理でもいい。無理やりにでいい。とにかく立たないと、続けないと。あたしが原因で終わらせちゃいけない。だって……


 ――これが、あたしの。



 泣いても笑っても、最後の公演だから。



「――――……。」



 手が動かない。足も感覚が鈍い。でもやらないと!



(……なんのために?)



 心の内側で、誰かが聞いた気がした。あの、録音の台詞と同じだ。心の底から――何か別のものが語りかけてきた気がしたんだ。



(……だって。お前は、見えないんだろ?)



 ……見えない。



(……自分の姿が透明で、形も分からない。一本、大事な芯が通ってない。お前には自分が、そう見える)



 そうだ。



(自分が見て、「自分」を分からないなら――他人が見たって、きっと分からないんじゃないか。こんなところに突っ立って、こんなに大勢の人の前で喋っても、もしかしたら意味がないのかもな。何も変わらないのかもな。そうお前は、いつも心の中で自嘲気味に思ってる)



 そうだね、合ってるよ?



(……いつもへらへら笑ってるけど、明るく勝手に振る舞うけど、あんたの心の中は、いつだって不安でいっぱいだ)



 ……そうだね。



(3年間。きっと「何かが変わるかも」と思いながら演劇部にいたんだろう。そこで色々な人を見てきて、色々なことを経験して――カッコいい先輩に憧れたり、同級生に憧れたり……後ろをずっとついてきていたはずの後輩が、急に追い抜いてきたように見えたり)



 ……ホント、そうだね。



(でもそこにいながら、己の中に意味を見出せなかったんだろう。「自分なんているだけだろう」。そう思っていた。ただそこにいただけのような心地だったんだろう。……いや、演劇部でだけじゃない。実生活ですらそう思ってる。それがきっと、『谷川ユキ』だ)



 ……うん、結局なんにも変わらなかった。

 不定形で、おぼつかない。

 あたしの趣味は、変わらず「恋」で。

 常に横に「気の置ける誰か」がいないと満足しないタチで。


 それは結局大概が異性だし、だいたいは向こうがあたしを好きになってくれる。自分から好きになることはない。きっと、そんなものだった。


 こっちはただ、その人に報いているだけ。好きになってくれたのが嬉しくて。好きになってくれたその感情が、あたしにとってただ必要だから。自分を奮い立たせるために不可欠だから。

 不安だから……しがみついて寄生してるだけ。


 ……気の置けない誰かがいなければ安心しないのは、彼らがあたしの『くつろげる居場所』になるからだ。

 彼らが器の代わりをして、水の自分が己の形をようやく保てるからだ。


 そうしてようやく、「自分の姿」が見えた気がするからだ。



(……だから、お前を気に入らないやつが部内にいたら。身近な誰かがお前を否定して傷つけるのだとしたら)



 あたしはそうだね、「その形」になってしまう。



(お前もああ、と思う。……なるほど自分は「そういうやつ」なんだと、素直に思ってしまう。己を肯定するものが、何もなくなる)



 その声は、自分のものより低かった。まだ少しあどけないけど、男の人のものだった。……甘かった。それもそうだと思わされた。



(……さっき言われたろ、人は「鏡」だと。人の反応を見て、ウケを見て。己の立ち振る舞いや思考を変える。流されてころころ変えていく……恐らくあんたはその性質が。人のリアクションを見る力が、人一倍強い。影響される力も。影響されて、成長する力も)



 ……成長? これは、ただの意思の弱さじゃなくて?



(弱いもんかよ。それは強さだ。良くも悪くもな――あんただけの「強み」なのさ。でもだからこそ、自分から見ても一貫性がないように思う。――いざ、「人に害された」なら、自分が誰かに傷つけられる理由があるように思う。「覚えてないが、どこかで何かをした、きっと自分が悪かった、見えてないから知らなかった、ああー、あたしはダメなやつだな」と)



 ……随分ひどいことを言うもんだね。あたしの中の誰か。

 それも、よりにもよって元くんみたいな口調で。



(……お前はいつもそうだ、胸を張って生きられない。己の悪い部分どころか、良い面ですら定かじゃない。だって、自分の目にはそれは映らない)



 …………。



(そんな人間が……佐田秀彦や津田美潮と同じ舞台に立つ資格はあるのかと、きっとやたらに不安になる)



 …………そうだね。



(……それでもだ。お前は、それでも立ち続けられるのか? 毎度毎度、毎日毎日自分の価値を測り続けて。自分に価値を見出せず、それでも溺れた人のように手を伸ばして)



 ……。



(人の鏡によっかかり、毎日毎時、毎分毎秒人の顔色を窺い「価値はなんだ」と問いかけて。それでようやくアイデンティティを構築して。……なあ、そのまま生き続けられるのか? それで、先に進めるのか?)



 今のところは……



(なあ、今だよ。ユキ)



 声は呟いた。



(――ぶち壊せ。もう限界だって叫べ。どうせ最後なんだってやめちまえ。そんな「いっぱいいっぱい」な状態で芝居が続けられてたまるか!)



 …………。



(なあ、怖くないか? 今、お前は悪意を見ただろう。自分に向けられたそれを、体全体で受け止めただろう! 手紙を見て震えたそれを、もう一度思い出さないか? ……なあ!)



 …………。



(もう見てて痛々しいんだよ。我慢がそんなに美徳かよ。怖いなら怖いって言え、嫌なら嫌と口に出せ、飲み込むな、そこがお前のダメなところだよ!)



 ……なんて、騒々しい。でもなんて、()()()

 その、やけに具体的な幻聴に笑ってしまう。ダメなところ、かぁ。



(……さすがに、そんなものに影響されるぐらいなら辞めちまえよ。染まっちまうくらいなら別のものに手を伸ばせよ。……素直すぎるんだよ。悪意に触れたら心が折れる。立ち直れなくなる。自分の意思を見せるときなんじゃねえのか。何も言わないから皆つけあがるんだろ。必要以上にいじられるんだろ。不安に押しつぶされて、立てない。そんな選択肢があったっていいんじゃねえの。――なあ、立つなよ。もういいから)



 ……よくないよ。



(もういいから!)



 よくないって言ってんの!



(…………。)



 ……いいの。いいんだよ。

 あなたの言いたいことは、なんとなく分かるつもりだ。

 つもりだけかも? でもね、ここまできて。

 投げっぱなしなんてさ、卑怯だと思うんだ。投げ出して、得られるものって絶対にないと思うんだ。


 もはや意地だよ。やりとげたい。

 最後までやってから「限界だー」って叫ぶから。大丈夫。


 ……まだやれる。そう思いたい。

 あたし。まだ動くよ。後のことを考えるのは、また今度でいい。



(……そんな目をしときながら。一瞬だけ全部崩れた、すっ飛んだ。そんな顔しときながら。まだやるのかよ、すげえなあんた)



 やるよ。やりたいんだよ。

 だって「君」、最後だって言ったじゃん。あたし、やっとその自覚が持てたんじゃん。……見てるんでしょ、元くん。


 最後まで奇跡を信じて何が悪いの?

 最後くらい……憧れたものに追っ付きたい、追い越したい。ああもう、イジメだ、嫌がらせだ、関係ない!


 高校生だよ? 高校3年生の、秋だよ!

 ……演劇部の最後のイベントくらい、何かを成したいじゃん!

 何者かになって、終わりたいじゃん!


 正体不明の何の色もない、何の味もしないものじゃなくて、「何か」になりたいじゃん!


 たとえそれが誰かの目線で見ただけの鏡像だったとしても、あたしから見ればまやかしにしか思えない何かだったとしても。



(……。)



 ……行ける。ほどけた意識を、集中を、もう一回だけ編み上げる!


 秀ちゃんに向かって頷き、あたしは即座に立ち上がろうとした。

 その時……



「べるぅ、がんばれー!」


 客席から……声が、聞こえた。

 つたない声だった。


「……こらっ」


 嗜める、誰かの声。……親? ああ……。



「…………。」



 子供だ。子供の、声援。

 声援? 誰に?

 その子は、あたしに何を見た?


 本物の……ベルを見たのでは?



  ――「理屈でどうこうじゃない、過程も段階もすっ飛ばして目の前の誰かになりきる。入り込む。それだけで全てが完成するなら何も理屈をこねなくていい」


  ――「……お客さんはね、私にとって鏡なの。人って自分の目で自分の体の全体像は見られないでしょう?」


  ――「あなたがもし私と同じタイプの人だったなら……」



 ……そうだ。

 今、あたしが集中すべきは……谷川ユキとして頑張ることじゃない。


 ()()()()()ことだ。


 本物の……この、昔話の時代を生きた、「それ」になることだ!



 ――合致したような感覚がした。求められたものと、自分の求めたものが、ようやく噛み合う。

 いかに()()かじゃない。いかに()()するかじゃない。一生懸命やってるように()()()()じゃない。


 ちゃんと、「目の前の誰かとして()()()」ことだ!!



 客席の様子を見る。

 息を飲んだままの、それ。



  ――「お客さんにはきっと、あなたが何者であるかが()()()()()



 ……立ち上がった。あれからどれだけ立っただろう。時間感覚がないけど、長いこと座り込んでいたわけじゃないとは何となく思えた。


「ッ……」


 立ち上がれ、谷川ユキ。

 あたしが「ベル」なら、何をする?

 痛くても、転んでも。直感を信じて……衝動のまま、立ち上がる。走り続ける。


 だってそれが……この子のやるべきことだ。もう一度、一途に恋した野獣に会うために。


 転んだことはどうやら演出と受け止められているようだ、不自然な様子ではない。

 ふと客席に見えた顔があった。最前列。ギュッと両手で膝の頭を握りしめた、津田実記さんの表情。

 ……事故か事故じゃないかぐらい、あの人なら分かってしまうだろう。

 でも、いくら本職の人でもちゃんと観客だ。お客さんなのだ。

 今は別の世界に誘わなくてはならない。


 大丈夫!


「……“まだ、間に合う!”」


 その時のあたしはただがむしゃらだった。

 受け身をとった右手の痛みも忘れるほどに、ただひたすらに息をした。吸って、吐いて。口を開いた。




    *   *   *   *




「お疲れ様でしたー!」


 カンカンカンカン! どさ!


「おい誰だ今試合終了っぽいSE入れたの!」

「あとノックアウトされてんぞ」

「音響ー! 遊ぶなー!」


 ――人の体というのは不思議なものだと、つくづく思う。

 あの時は本番中だという緊張感があった為なのか、その後暫くはあたし自身もあまり右腕を意識せず、痛みをあまり感じずに動いていた。

 でも終わって、緊張がふと解けてみると……段々と痛みが強くなってきたのがわかる。漠然と思った。


 ……どうしよう。何というか、ジクジク来るというか、痺れもする。うまく動かない。――痛み方が、おかしい。


「……ねぇ元くん、ちょっと」

「うん?」

「こんなときに悪いんだけどさ。保健室……行ってきて良い?」

「ん……」


 どうにか左手で元くんの袖を引っ張れば、彼はきょとんとした顔をした後。


「……あ」

「何その顔」


 慌てたように彼は、サッと周りを見渡した。


「転んだの、忘れてたでしょ」

「……忘れるだろそりゃ!」

「ひっどぉ!?」


 忘れられてたの、あたし!?


「佐田、おい! いたいたちょっと!」

「おー! なんすかね犬飼大明神!!」


 向こうでへらへら笑っていた秀ちゃんが、元くんの呼び声に反応して近づいてくる。


「いつの間に祀られてんだ俺、張っ倒すぞ」

「おーこわっ」

「それはともかくユキのことだけど!」


 元くんが怒鳴り返すような音量で言った。本番直後の演劇部とその有志は、たった今終わった解放感にやられてドンチャン騒ぎだ。


 ……まあ、そりゃあそうか。なんて右手をかばいながら思う。

 あとは文化祭の閉会式を待つだけだもん。実行委員からの閉会宣言を待って、表向きは解散。あとは個々の部活でどっかのファミレスやら焼肉屋さんに団体で予約を入れつつ、盛大に打ち上げ。


 ……かなり騒がしいこの様子では、勿論適正な人に許可も取れない。伝言だけ残してバックレるのが一番だとは思う。


「……保健室行くってよ」

「マジで!? ゆっきー先輩、怪我っすか! なに大丈夫!? 暗転の時どっかぶつけた!?」

「さっき転んでたろ」

「あ」


 ……ぽん、と秀ちゃんは手を叩いた。


「……ごめん、素で忘れてた!!」

「秀ちゃんまで!?」

「忘れるっしょ普通!」

「忘れるよな!?」


 いや、何で同志見つけちゃってんの元くん!?


「バカって英語でなんていうんだっけ」

「物を忘れるって意味なら『forgetful』」

「オー!!」

「「We are forgetful!!」」


 HAHAHA言いながら謎のノリでアメリカンコメディ風になり始めたので、あたしは話を戻すべく元くんの首根っこを掴んで下にグキッと言わせた。


「いっで!!」


 というか、何でこの2人いつも以上に意気投合してんの!?


「いや、だってあんな先輩、見たことなかったですもん!!」

「へ?」


 ……あんな先輩?


「津田さん、なんかした?」

「いやお前……おかしいだろ……」


 首をさすりながら元くんが呆れた表情で呟いた。


「……文脈的になんでそうなんの」

「ゆっきー先輩の話っすよー、ほらー、その、なんていうかー」


 秀ちゃんが言葉に困ったように手をくるくる回す。


「1回転んでからの猛攻っていうか、巻き返しっぷりというかー」

「うん……そーだな」


 ……なんかしたっけ。あたし。


「別の生き物みたいだったよなあれ。高校演劇で観れるなんかを跳び越えてた」

「……」

「……」


 いや、2人揃って無言になられても。

 って嘘でしょ、そんなヤバい演技した!?


「……マズったあたし?」

「「逆」」


 え?

 あ、あれ……


「もしかして……めっちゃ」


 がしっと元くんと秀ちゃんに肩を掴まれた。そして神妙な顔で。


「めっちゃよかった」

「感動した」


「え……?」


「……それだけは言える」

「逆に言うと他の語彙がない」

「なんもいえねえ」


 ……ねえそれ、どっかの水泳選手の名言だよね。


 そう思いながら左手でやんわり2人の腕を払った。――妙にあったかく感じた。

 嬉しくは正直、若干ある。でも――いや、感想文にしても情報量がまず少ないから。あと水泳選手より前のもなんか、どっかで聞いたから。


「いや、マジでヤバかったんだよゆっきー先輩ぃー……ってか、その感じさ。まさか覚えてないとかじゃないっすよね?」

「まあ、確かについさっきなのに、不思議とあんまし覚えてないっていうか……」

「怖っ、人体の不思議みたいな感じになってるよこの人。ゾーン入りすぎて記憶中枢がパンクしてんじゃねえか」


 本当に不思議な感覚だった。……自覚がないどころか、言われてみたらほとんど覚えてない。つい数分前のことなのに、何も。

 ああ……そうだね。何かすごいことができたとして、何も覚えてなかったら次に生かせない。きっとあたしって、そういう中途半端な女優さんなんだ……。


「で、話戻すとしてこれよ」


 元くんが自分の右肩を少しまわした。ああ、そっか、照明しながらずっと見てたんだもんね。どこで何をやったかぐらい、察しはつくよね。


「腕? ああ、腕が痛いの」

「うん……受身取った時、右腕かな? 痛めちゃったみたいで」

「大ごとの可能性は……ウン、あの転び方だとアレだわ」

「拭えないだろ?」

「拭えませんなあ……」


 秀ちゃんは少し息をつき、小さく笑って言った。


「……了解! ゆっきー先輩頑張ってましたもん、主役なしの挨拶はしまらねぇけど、まーどうにかしときますよっ!」


 お任せあれ! 胸を張る秀ちゃんはやっぱり頼もしかった。うん、やっぱいいリーダーになるよアレ。当人がどう思ってるかはともかくとして。……まあ、そこはあたしも同じか!


「じゃあ頼んだ!」

「おうおう、いったいった!」

「悪いな、保健室まで送ってくる」

「犬飼はすぐ戻れよ。どさくさ紛れに帰ったらアレだから」

「さすがにやんねえよ、変な噂経つだろーが」


 元くんはそう答え、あたしの手を引こうとして……


「あ、左手がいいか……って、右とか大丈夫か、利き手じゃん」

「お昼とかあーんしてくれたりして、あいたっ」

「すまん、手が滑った」


 ……左手どころか、肩を持って歩き出した。


「ひどい!」

「ひどくない」

「ひどいー」

「ひどくなーいー」


 で、保健室で先生に見てもらった結果はやはりというべきか、右腕の骨が中で砕けている可能性があるということだった。それを聞いた元くんは無言で、真っ先にあたしの頭を。


「いたっ、また殴った。何!?」

「…………。」


 ……ぱこん、と叩いた。さっきとは違う、ちょっと痛いそれだった。


「ひどいー」

「……ひどくない」


 すごく泣きそうな表情だったのが、妙に印象に残っていて。


「…………。」


 思いつめた表情だったのが、まだ残っていて。


「……行けよ、病院」

「元くん……」

「だってさー、彼もそう言ってるんだし、谷川さんも大人しく病院行きましょうか!」


 ほら、保健の先生に背中を押されて、彼の表情が見えなくなって。


「ほれほれほれ、腫れてるじゃーん。こんなになるまで動かしてたんだ? 無理してたんだよね、分かるよー」

「…………。」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ものだと思うし。痛いとか辛いとか、絶対言いたくないもんね!」


「…………。」


 ……元くんはきっと、そのまま学校へと取り残されるように残った。

 その後。彼がどういう気持ちで文化祭の真っ只中にいたのかは、わからない。


 彼もきっと――分かってなんて欲しくなかった。そう思う。


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