8.その後、午後。
……それから。
「ハイハイバック、オーライオーライ!」
あの、「メールしてくるな」という厳しい拒否宣言のあとの話。
昼の12時半……会場となる体育館に早めに集められた演劇部員と有志たちは舞台上にて、最終的な道具の配置を決めたり確認したり、背景や大道具だったりの簡易的なセットを組み立てたりと最後の調整を進めていた。
「そのままそのまま……あたたっ、もー、ちょい右……おーいいね、いいねその角度!」
大きな機材を運んできている女の子たち相手に、まるで実際の舞台監督のようなふんぞり返り具合の秀ちゃん。本来監督役は津田さんだけど、まあ来年のシミュレーションと思えば微笑ましいのかな、なーんて思ってた。
「佐田、油売ってないで仕事しろよ」
「うっせードカタ」
「ヒジカタだ」
……映研出身大道具、土方くんは疲れ切った顔で高台の端っこを切っている。うん、実際に置いてみたらイメージよりちょっと大きすぎたみたい。
「はーいぱちぱち! いー感じだそれでいこう! ところで君ら見ない顔だけど初有志? あ、1年生! いいねフレッシュ! 完熟パイナポー! 一応聞くけど演劇興味ない? おおぅやっぱ入ってる、入ってるよな残念! 何部? ああ漫研! いいよ漫研オレ買っちゃう、部誌買っちゃうって!」
「おい佐田……」
土方くんがチラチラ後ろを気にしながら秀ちゃんに声をかける。目線をぎゅいんと後ろに引いてみると……何か考え事をしながら黙々と作業している元くん。それもちょっと様子が……
「……谷川先輩助けてください……」
「どうしたヒッジ」
「……犬飼がなんかピリッピリしてるのに、佐田が空気をまるで読まない……」
「……中間管理職かー」
頑張ってほしいものだったりする。うん……適当に!
しかしこうしてみるとこの3人、部活が全員バラバラな割に妙な一体感があった。大方、「悪ノリ放題な2人」を抑える最後の砦が、「面倒見のいい土方くん」という感じだろうか。普段からつるんでいる仲なんだろう。
「なーあカノジョ~、どうせ可愛いからキミぃ、売り子さんでしょ~ぉ? ねえ売ってんだろ? どうせ明日からどばどば漫研でバラまいてんだろ? 何円!? 部誌とか同人誌とか観覧料とかめちゃくちゃ何円!?」
「……うん、スルーか。言っちゃ悪いが女の子笑顔でドン引いてるぞ」
「この場合正義だからズバズバ言っちゃって大丈夫と思うよ、土方くん」
「了解した谷川先輩……っていうか、めちゃくちゃ何円って聞き方おかしくないです?」
「うん、たまに日本語おかしいからこの子」
秀ちゃんが吼えた。
「死ぬほど何円!」
「死ぬほどときたか!」
「500円までなら何冊でも買っ」
「死ぬほどうるッせぇ!」
作業していた元くんが機嫌悪そうにようやく大声をあげた。
「ハローポチカイ!」
「ハロータコ彦! ……女子口説くならどっか他でやれ。あと津田先輩が舞台下で呼んでるから早く行け気が散る!」
……ああ、今更ピリピリの理由に気付いた。どうやら本番が近いという緊張感で凝り固まっているらしい。ダメだあれ、あたし以上にコチってる。
「マジ? 聞こえてなかったわー」
「聞く気がなかったの間違いでは」
土方くんがぼそりと呟く。ああ、うん――こちら側へようこそ。外野だったこの子であろうと、さすがに演劇部の内情分かってきたっぽいね。
「今更行ったらブチ殺されっかな?」
「知らん、俺に聞くな……」
「おおすっげぇ、今の見た土方? 今日の犬飼はいつも以上に眉間にシワ入ってるぞ。確かにもうちょいでゲネだもんな!」
「……ゲネでアガッてるわけじゃねえよ」
「あ、なるほど。今日だったな。犬飼でもさすがに緊張するか」
ゲネとはゲネプロ、要するに本番と完全に同じ状況下でやるリハーサルだ。本番を想定してやるので、勿論妙な失敗は許されない。
大道具係の土方くんであれば、これが終わったらもうほとんど仕事はないはずなのだけど……元くんの場合は照明係。あと1時間ちょっとぐらいもすれば、「最終調整」に入る手筈になっていた。
……つまりリハーサルも含めて、元くんにとっては大事な本番。
「うーりうりうりぃ~! 反応悪いから犬飼で遊び放題だぜぇ~?」
「おいちょ、何すんのお前……」
「いやぁ、力入ってると伸びないんだよ、人の皮って」
やめて秀ちゃん、今は正直、ほっぺたぐりぐりするのやめてあげて。
「ウィーン! 真面目モード通り越して緊張モードだ~っ!」
「お・れ・は! モード変形するロボか何かかッ!? ……いいからあっち行ってろ考えがまとまんねえ!」
元くんの毛が猫みたいに逆立ってきたんで、危険を察知した土方くんが秀ちゃんの首根っこを掴んだ。
「はーい佐田くんいいから津田先輩に怒られに行こうねー、犬飼怒ると怖いぞーう」
ずりずりと引き摺られながら秀ちゃんはブーたれる。
「えー、津田先輩に怒られるより犬飼に怒られた方が面白いー」
「面白いってなんだ……っ、よッ!」
「いって!」
「ざっまぁ!」
土方くんに段差のある舞台上から投げ落とされる秀ちゃんを見ながら、元くんが毒を吐いた。あたしは言う。
「というか今更いじらなくても。元くんいつも緊張しいだし、イベント事の前ってだいたいこんなもんでしょ?」
「ほほう、元々俺はイッパイイッパイになっては人に当たり散らす悪癖のある冷たい人間だってか、先輩さんよ?」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
もうその時点でトゲがあるので当たってるんだけど、とりあえずやんわり突っ込みを入れる。
「……わかってるさ、冗談だ。ホラ、タコ彦くんさっさと行け。単に怒られる前に用件聞きに行けばいーだけの話じゃねーの」
「えー……気が進まねーなぁもう」
「だああっ、こんなところにいた佐田くん!」
「なんでしょう……」
津田さんがようやく秀ちゃんを発見。ゲソッとした顔で秀ちゃんがこっちをみた。……うん、敬礼。絶対助けない。
「ここの台詞、ちょっと変えて刷り直してよ」
「えちょっ、この土壇場でオレに言うんすか?!」
「だってあなた演出担当でしょ!」
秀ちゃんを引っ張って離れていく津田さんの声と、クレーム処理のような秀ちゃんの会話。
「……いや別に最終確認なら受けますけど! そもそも脚本担当のもとやんはどうしたんですか、許可取りました? その言い回しにこだわりとかあったら悪いでしょ!?」
「ああ、1年の八幡くんだっけ? 彼なら『佐田先輩に一任しますから勘弁してください』って言って、お腹押さえてトイレに駆け込んだけど?」
「……じゃあ柏原先生は? 勝手に変えたらたぶん文句が止まりませんて……」
「柏原先生ならさっき許可もらったわよ!」
秀ちゃんと津田さんのやり取りを気持ち半分に聞きながら、ひたすら作業を続けるあたしたちの間に、久方ぶりの静寂が訪れた。
1分、2分、3分……と、そこに。
「よーーーーっす!! お前ら準備できてるかー!!」
また騒がしい人が現れたのを察したあたしは、反射的に元くんを見た。どんな反応をするか気になったのもある……しかし意外と元くんは冷静。というか、むしろさっきよりは落ち着いた様子でやすりの粉を掃き溜めていた。
え、何? まさか元くん、この人来るの、あらかじめ知ってた?
「……げ」
津田さんの珍しいリアクション。思わず噴き出す。……ああ、そっか。あんまり注意してみてたことなかったけど津田さんにも苦手な人はいたわけだ。
「げとは何だげとは、ヘ〜イ、みっしー!」
ぱんっ! 津田さんの背中が叩かれた音だろう、乾いた音。
「誰がみっしーですか……! 変なあだ名つけるのやめてください」
「美潮だからみっしーだろ! んじゃあ、みっしー、前から君が呼ばれてたつだみー! あと……そーね、般若! このいずれかにしよう、おれに呼ばれるならどーれだ?」
「どれも嫌です……」
元くんがぷしゅ、と噴き出した。
「入れ替わりに入学したから分かんねえけど……えー、あんなテンションだった?」
津田さんにうっとうしく絡む、元くんとよく似た背中。ただしもうちょっと神経質というか、こだわりが強いんだろうなと感じる振る舞い。
「……うちの兄貴」
「どうだかねえ、多分違うかな」
実際には、もうちょっとだけだけど、大人しかったと思う。
案の定、津田さん方面から「着実に面倒くさくなっている……!」という言葉が聞こえてきたので、津田さんには当時から「めんどくさくなる片鱗」が見えていたのかもしれない。
「……おー……ほー、ほー……? ははぁ、変わんないなぁ般若、調子乗っちゃってぇ」
周りを見渡しながらのお兄さんのしみじみとした声がまた、漫才コントのスタートのようなコミカルさで。
「乗ってません」
「乗ってるだろ多分。……そんなんじゃいつまで経ったところで、オカンの下から這い出せやしないだろうよ」
「なんですって?」
「何ですってもクソもねえだろうよ。君の性格だったり、周りを何となく見渡しただけで見えてくるもんもあるっての。……自分を認めてくれる人間集めるのはいいけどね……自分と同じ種類の人間で周囲を固めて、組織が成り立つと思ってんの?」
うわ、グッサリ来る。津田さんの本質が串刺しにされてたった今壊滅したのが見て取れた。
「……くっ」
「いや分かってんならいいんだよ、問題はこのぬるま湯から出ようとしてるかどうかなんだよお前」
……今思ったんだけど、もしかして津田さん、1年生の頃はまだ大人しかったのって……有志でお兄さんが参加してたから?
「般若……なるほど、能のお面か」
「そっち方面詳しくないけど、般若くらいならなんとか知ってる」
「あのお面、女性の顔なんだぜ」
「え、そうなの? おっさんかと思ってた」
「ああ、意味があるんだよ。感情やシチュエーションごとに面が変わるのが能楽の特徴だ。あれは『他人のことが羨ましくて仕方ない女性が、色恋で』……」
「センッッパーァァァァイ!!」
そのとき、秀ちゃんが元くんのお兄ちゃんにロケット砲のごとく突っ込んだのが見て取れた。……うん、かき消されたけどなんとなく分かった。
「いってえ! おう、落ち着けコウハーイ、様子見に来てやりましたよー」
土方くんが呟く。
「あの、『天狗になった津田先輩を全自動で凹ませましょう選手権大会 in 関東』みたいな人が犬飼兄か?」
「初見ながら、他人の兄貴をえらい言いようだな土方……」
「うん、09年度の卒業生。美術部だったんだけど、有志で大道具と小道具担当してたの。あのパネルとか作った人」
「あれを……」
先ほどまで組み立てていた移動式の背景パネルを見ながら土方くんが呟いた。岩と砂。あれた荒野をかなりのスケールで描いた大作だ。
「お? ユキちゃんそのパネルあれだろ、おれが最後の最後に描いたやつ」
「そうそう」
「懐かしいねぇ……ん? よく見たらここ直してあるな、誰だ?」
「ごっめーん、足引っかけて穴開けたのあたしー」
「おーまーえーかー! ……で、直したのは?」
ありゃ、聞きたかったのは壊した犯人じゃなかったようだ。そう思ってあたしは土方くんを見た。
土方くんが恐る恐る、自分を指でさす。
「マジか! ってことは何、君が今年の大道具? なんだ、えらい器用だな!? 近づかねえと全然違和感ないわ……なあ、そっち方面に進まねえの?」
「親が警察官なんで、そっち進もうかと」
「もったいないー!」
弟なのにずっとスルーされてる元くんはボソッと呟いた。
「家とはだいぶキャラが違うんだけど」
「あたし相手には大体あんな感じだよ、まあ、大学行ってから底抜けに明るくなったのは事実だねー」
「何、大学デビューにでも失敗したのあいつ?」
……いや、逆に成功したからこそのあの、うぇいうぇい感と言いますか。
「でも、般若もそうだしディミトリアスもそうだし、よくもまあ……そこまでネタが思いつくよね、皆」
「ん?」
ディミトリアス? と元くんが呟くのが分かった。
「そうだよ、舞台作品に例えるの、流行ってんの?」
大きく息を吐いたあたしは、少し喉の奥を開いて――こう呟いた。
「――もし彼がああ見えて、パックじゃなくてオベロンだったら。ハーミアに恋しているディミトリアスだったら」
元くんは目を丸くした。
「……もしかして。津田先輩の真似か、それ?」
「似てたでしょ?」
「いや、似てたけど。何。そんなことを……あの人、本当に俺がディミトリアスだって言った?」
元くんは少し意味ありげな顔で呟いた。
「言ってたけど。えっ、何かあんの、ディミトリアス?」
「元ネタは『夏の夜の夢』だろ?」
あれ、元くんも知ってる。そっか。確かこれ、古典だし映画にもなって……
「あれ、津田先輩……ちゃんとした劇団でやってんだよ、昔」
「え?」
つまり、映画版じゃなくて。
元くんは――津田さんの出ていた舞台版を見ていたと?
「……4年ぐらい前か。ほら、お母さんの実記さんいるだろ」
津田実記。――人気女優の、津田さんのお母さん。
「あの人と一緒に親子で出るって話題になって。DVDも出てるみたいでさ、兄貴か誰かが買ったのか、テレビ前にずっと置いてあって……見たことがあるんだ」
知らなかった。
だってそのときから4年前だ。高校3年生のときから――更に4年前。
14歳……その頃のあたしはまだ、舞台演劇に少しも興味はない。
「……その時の津田先輩な、ディミトリアス、振り向かなかったんだよ」
「振り向かなかった?」
「ヒロインの一人のヘレナ。最初はハーミアが好きだったはずのディミトリアスを苦節の末、自分に振り向かせて幸福を勝ち取るってオチだったよな」
元くんは目を細めた。
「ウチにあったDVD、特典でメイキング映像が入っててさ……当時中学生だった津田先輩は『ヘレナ』の役を熱望してて。……対抗馬があの実記さんだった」
元くんは言う。メイキング動画に入っていた、オーディションの風景。いかにしてそのキャストに決まったか……その流れ。
「親子対決だったんだよ。同じ役を、女優同士として母と子で取り合ってたんだ。……勿論多少大人びてるとはいえ、経験の浅い中学生がベテランをへし折って先に進めるわけがない。それでもあんな性格だ。津田先輩は「壁」に立ち向かったと」
壁。誰もが目を惹く天才女優。誰もが羨む……それこそ、柏原先生の人生観ですらガラリと変えてしまう、「才能の塊」。
舞台だけにとどまらず、映画やドラマ、ラジオでも活躍する高嶺の花。
「彼女がヘレナを勝ち取り、若手の2世・津田美潮がヘレナ役に落ちた理由として、舞台監督はこう言った。『あの子はまだ若い』……」
……ふと思い出した。
バスケ部の試合を前にして、彼女が言った言葉を。
――「パックだけ、一度も恋仲になる相手がいない。他のカップルを引っ掻き回すだけで終わってしまう」
――「例えていうなら、ああいうポジションの人かと思ってたの、犬飼くん。――「恋愛感情」なんていうものを持ってるところが思い浮かばなかったっていうのが正しいかしら」
あれは元くんだけを指した言葉ではなくて、自分を指していたのかもしれない。津田さんが役を勝ち取れなかった理由。お母さんより若いから。中学生だから。経験が浅いから――
「「……『恋心のなんたるかを知らないだろう』」」
「……?」
ハモった声を探してあたしは振り返った。
「……いや、衝撃だったよなー。あの見事な落っこち方」
犯人は、元くんのお兄さんだった。
「……落っこち方? まるで見てきたようにいうな、兄貴?」
「だって俺もあの場にいたもの。あのDVDの特典映像、カメラ回したの誰だと思ってんのお前?」
「えっ……あ、まさか」
「はぁい犬飼カズナミくん16歳ー! バイトでやりましたァー。楽しかったでーす!」
ピース! うぇえーい!
「…………。」
恐らくあたしと元くんの心は一つだっただろう。
ああ、そんなノリでやったんだ、あんた……と。
「……で、そこで実記さんと仲良くなってだよ?」
「いやいきなりテンション戻すなよ」
「『意外と近くに住んでんじゃん衝撃! おれ、ここの高校行ってんですよー』なんて軽口叩いてたら、影響を受けた実記さんがノリノリでおれの高校を娘の第2志望に押し込むなんて考えないじゃん」
「……お前、謎なんだよ兄貴……交友関係本当おかしいなと思ったら、一体何に参加してんだよ……」
「ダウンワークに高校生可で載ってたんだからしゃあねえじゃん?」
「載るなよ」
さすがにあたしも元くんのような口調で呟いた。……普通そういうのってもうちょっと専門性高い求人誌に載ってると思う。
「ともかくウチにDVDがあるのもそういうわけさね。記念にもろたァ!!」
「えっと……つまり、津田さんはヘレナができなかったんだね?」
「まあそうだな」
恋心。恋が分からない……恋をしないキャラクターは1人しかいない。
「……パック役?」
「ん?」
「もしかして実際には津田さん、パック役だった?」
「……!」
元くんが弾かれたようにスポット室を見た。体育館、舞台横にある小さな窓だ。
……何か、企んでいる顔。
「お、よくわかったねユキちゃん。そんな感じする?」
「……いや、津田さんならヘレナもできると思う」
憧れの男性、ディミトリアスが実際には違う女の子、ハーミアを好きでいて――影からいつもそれを見ているヘレナ。相手の子よりも数段可愛い自信があるのに、どうしても振り向いてもらえない、悲しさ、悔しさ。
お兄さんは少し笑って、頷いた。
「そーね、おれも出来たと思うよ?」
「え?」
「実際ヘレナ、巧かったよあの子。……ただ、相手が悪すぎたんだ」
「相手が……」
相手が、悪すぎた……。
あたしはようやくごくりと喉を鳴らした。どれだけ巧かったんだろう。
「違うな」
「ん?」
元くんはスポット室を見上げながら、呟いた。
「俺は、できなかったと思う。メイキングにも少しだけ出てたがあのヘレナ……確かに巧かったんだろうさ。でも、巧かっただけだ」
……本公演に出た『津田実記』と比較して。と元くんは呟いた。
「華がないんだよ。ヘレナをやるだけの」
……そこであたしは思い出した。津田さんにいつか言われたある一言。
演劇部に入った最初……あたしはずっと津田さんから目をつけられていた。事あるごとにとげとげしく噛みつかれたり、かと思えば厳しくダメ出しをされたり。あそこが悪い。ここが悪い。
「どうせ下手くそだからなあー」なんて笑うのが口癖になって……見かねたのかもしれない。津田さんに、ある日珍しく優しい口調で言われたんだ。
――確かにあなた、巧くないわよ。でもね。
――「あなたは巧いんじゃなくて、華があるのよ」
「……兄貴、カメラと言えばだよ」
「あ?」
「この辺さ、まだクワガタが出るんだよ」
「クワガタだぁ?」
胡散臭げにお兄さんは元くんをみた。「また面倒くさいこと言いだしたな」、そんな目で。
「まあ聞いてくれよ、兄貴……クワガタって夜行性だろ? 暗いところでも動画が撮れる。そんな便利アイテム、持ってません?」
「……ほーぉ……」
お兄さんは何かに気づいたらしい。あたしも何となく察した。
そうだ。上演中は……舞台上以外の電気は全て消灯される。お兄さんは珍しく真面目な表情で元くんを見た。何を撮るつもりだ、とでもいうように。
「……晩秋のクワガタ、ねえ?」
「頼むよ。やつら、事あるごとにウチの彼女を噛んでくるからさ。対策とかきっちりしたいわけ。防犯」
「防虫の間違いでなく?」
ニッ、と元くんは笑う。
「……そうともいうぜ。だって、俺と違って兄貴なら得意だろ、そういうの」
「……どういう意味かな、末っ子くん」
「だって、この学校に数年前、機械音痴の校長に頼まれて防犯カメラつけたの、兄貴だもんな?」
お兄さんは少しキョトンとした顔をして……次の瞬間、ニマッと笑った。
「――どこで知ったよ、そんなもん。しかしなるほどよっぽどだな? おれに頼るとは。天才の末っ子さん?」
「俺はただの秀才、つまりあんたと同じ凡才だよご長男? 好きなものに対する情熱では、あんたに負ける」
「……。わかった、あとで行く。問題のカメラ見せろ」
「おう、スポット室に置いてある」
「あの窓ね」
「助けてセンパぁぁぁーイ! また津田先輩がいじめるーぅぅ!」
遠くから秀ちゃんの叫び声が聞こえて、お兄さんはへらりと笑った。
「おう、佐田くん、ちょっと待ってろー」
「……何やるつもり?」
「それは手紙の主に聞けよ。ハーミアさん」
その場をふらふらと去っていくお兄さんを横目に、元くんは荒野のパネルを見上げながら呟いた。
「『夏の夜の夢』に例えるのなら……俺は「ハーミアに片思いのディミトリアス」じゃなくて、「最初からハーミアと両思い」の、ライサンダー派だ」
と、その時だった。
あたしの目の前に、布を吊り下げる用のテグスがコロコロと転がってきた。
「あれ、コレ誰の……? って、ああ……」
思わず拾ってふと見ると、柏原先生がかがんで舞台下の収納スペースを覗き込んでいるのが見えた。
……お尻の右ポケットが何やらパンパンで、ずれおち気味になっている。
たぶんそこから落ちたんだろう。
「あの、先生、テグス落ちましたけど」
「ん……? 谷川か。返してくれ」
そう言って先生はこちらを振り向きもせず手だけ出してきた。
あたしがテグスを握らせるとすぐにそれは引っ込み、先生は何も言わずパイプ椅子を床下からかきだしはじめる。
……元くんがこっそりと言った。
「……柏原先生っていつも思うんだが、持ちきれないモンは全部ケツ右ポケットにしまうっていう妙なクセがねぇか?」
「あー、今確かにパンパンだったけど……へぇ、いつもそうなんだ。よく見てるね」
「入学式とか舞台で並んで席に座る時も、大概肩が斜めってるからわかりやすいんだよな。あんだけ大量に押し込むぐらいだったら、他のポケットとか使って分散させりゃあ効率いいのにな」
ぷっと噴き出してしまった。……うん、確かに言えてる。
こっそり笑っていると、いつの間にかその場からいなくなっていた土方くんの声が聞こえた。
「おーい犬飼~、犬飼いるかー? パネル、出し忘れがあったみたいでまだこっちに1枚残ってんだけどー?」
舞台袖の方から呼ぶ声に、元くんは息をついて立ち上がる。
「やれやれ、まだ残ってたか。へいへい、今行きま……」
と言いながら舞台袖に向かって歩き出した時、つるりと元くんの足が不自然につんのめるのが見えた。
「……うおっ?!!」
ゴロドガッ! ドガスカガッシャン!!
「元くん!」
あまりに大きな音を立てて舞台袖へと転がり落ちた元くんに固まる周囲。
あたしは駆け寄ろうとしたが、駆け込んできた津田さんに思い切り先を越される。
「犬飼くん! 大丈夫!?」
「…………。」
元くんは頭でも打ったのか、顔をしかめながら後頭部をさする。
そして、何も言わず辺りを見回し、その目線はふとある1点へ固定された。元くんが転んだちょうどその床の方を見ている。
「犬飼くん?」
怪訝そうに聞く津田さんを元くんは一瞥すると、すぐに立ち上がった。
「……大丈夫ですよ、なんともありません」
「…………。」
遠くで、お兄さんが目を瞬かせたのが見えた。そして口が、少しだけ動く。
――“ああ、なるほど”。そう読み取れて。
「……おい、元。照明機材の調子が悪いんだったな?」
心配する言葉も吐かずに、開口一番嘘をついたのが分かった。……ああ、やっぱり。こういうところを見ていると思う。似ている。たぶんこの人も、昔は相当イタズラするほうだったに違いない。だってこんなにさらりと嘘をつける。それも……人の心に則った優しい嘘を。
「見てきてやるからあとで来い。機械はおれのほうが得意だろ!」
お兄さんが何かを仕掛けるのは、照明機材ではなく、明らかにカメラだ。
元くんは津田さんと目をあわさずに言う。
「……分かった、今やってるのが済んだら、そっち行く!」
「犬飼くん、保健室……」
「いいっす。準備があるんで!」
「…………そう」
津田さんはあっさりとその場を離れた。
そして元くんが転んだ辺りで少し手をつくと……先ほどのあの大きな音にも反応せず、ひたすらパイプ椅子を黙々と運んでいた柏原先生の所へと暗い顔で歩いていく。
一方、さっき思い切り転んだばかりというのに元くんはすぐに立ち上がった。
「おーい、土方! 早くこっちパネル渡せよー!」
「あ、ああ」
まるで何もなかったかのように振舞う元くんに、土方くんは戸惑いの表情を見せた。
「お前……今派手に転んだよな? 大丈夫か?」
「おう、俺も思わず血管ブチギレたかと思ったけど特になんともねぇわ! 心配どうもー」
「頭打ったんだろ? 津田先輩じゃねーけど、一応保健室行った方がよくね?」
そう言ったのはようやく駆けつけた秀ちゃんだ。
元くんは言う。
「いいって佐田。むしろお前が病院行けよ」
「ちょ、そこまで言う!?」
「そこまで言う」
「それ暗にオレが頭超絶おかしいとか、そーいう方向のこと言おうとしてねぇ?!」
「だってお前の頭タコで出来てんだろ? 年々タコに侵食されてんだろ?」
「なっ、ナンダッテー!!?」
元くんは秀ちゃんを脅かすようにガッと肩をひっ掴んで揺する。
「お前が! いつも好物の軟体動物の話題しかしないせいで!」
「いや演劇の話題だったりギャルゲーの話題も多いよ!?」
あたしが思わず突っ込むと……
「黙ってろ谷川先輩、俺は心配なんだよ!」
……うん、最近、元くんはなかなかあたしを下の名前で呼ばない。むしろ手紙の相手を刺激しないよう、名前一つでも避けているように思えた。
だから、他人の目があるところでは……名字で呼ぶ。
「佐田に寄生してるそのタコが、いつかこいつの体を乗っ取るんじゃねぇのかと!」
「や、やめろぉおおおお! いくらなんでもそれはないぃいい!!」
雰囲気に飲まれて段々ビビってきた秀ちゃんにあたしは「やれやれ」とため息をつき……
「むしろそれ秀ちゃんだったらそれ、内心幸せだったり?」
……いつも通り、秀ちゃんいじりの追い打ちをかけた。
「ゆっきー先輩ー!? なんでそうなるの! オレが好きなのは食べ物っ、別にタコ型火星人的なエイリアンにのっとられることじゃないの!」
「無ぅぅ駄だぁあああ!! お前はもう、前頭葉をタコに侵食されているぅううううう!!!」
「うわぁあああああああ!!? マージでぇぇえぇぇ!!!」
無駄に音程を揺らして揺さぶりをかける元くんに、最終的に秀ちゃんはノリ良く乗っかる。
……あたしはそれを見て、思いっきり笑った。
【(現時点での)キャラクター紹介】
・犬飼 カズナミ
呼び名は「兄貴」、「お兄さん」、「カズナミ先輩」等。
ユキの2個上の先輩。元の3個上の兄。
土方の先輩にあたる小道具・大道具担当。もともとは美術部。
「パッとしない兄」と「キレッキレの弟」という扱いを両親含めた周囲から受けるせいでちょっと屈折しており、弟への扱いは他と比べて超ドライ。スコーン! と秀でた活躍をしては目立つ弟が羨ましくて、弟が苦手としている絵や習字を黙々と極めるも、なかなか相手にされない。
そのせいで「もういい、おれはアキバ系になる……」という訳の分からないグレ方をした結果、佐田くんと出会って意気投合。
現在は同人誌を書くのにハマっているらしい。




