1.むかしばなし
――これは、「誰か」の胸に引っ掛かっていたお話。
あたしの趣味はコイだ。
いや……魚類の鯉じゃなくってね。
恋愛っていうでしょ? 恋愛の、れん、つまり「恋」よ。
こんなこというと笑われるのはわかってる。軽い女だと思われるのもわかってるけども。
だけど、昔からやめられないもんはやめられなかった。
どんなときだって、常に横に「気の置ける誰か」がいないと満足しないタチってやつなのだ。
それは結局のところ大概が異性だったし、向こうがあたしを気に入ってくれたし、好きになってくれた。
こっちはただ、その人に報いているだけなんだよね。
いつもどことなぁーく、歪な関係しか構築できないぶきっちょな女の子……寂しがりが服着て歩いてるぐらいの人間。それがあたしだ。
自分の何が持ち味で。何が得意なのか正直分かんない。興味もない。というか――自分の中には、興味を惹かれるものがほとんどない。なのに謎に気に入ってくれる人間。そばに置いてくれる人間。
空白しかないあたしの心を支えてくれるその人に、それなりの恩を返しているだけの話で。
だから、恋というより。それは惰性とか、結局のところ愛着とか。そういうのと変わらなかったかもしれない。
「気が置ける誰か」とかって言っても、殆ど「燃えるような恋」とか、「そいつじゃなきゃイヤだ」って言うのじゃなかったと思う。
あたしにとって『彼氏』って言うのは、きっと気の置ける男友達のちょいと先の延長線上で、「そういう関係になっても別に良いけど?」ってぐらいの、軽いポジションだった。
だから小学2年の頃にはもう既に彼氏をつくっていたし、もうちょっと良さそうな人がいたら乗り換えた。それも、古い方の人は不思議と、後腐れなくするっと別れてくれたのだ。
……大概はあたしをそういう人間だと理解してのことだったんだろうけど。
そう、あたしが惰性なら結局、向こうもだんだん惰性になっていくって寸法。便利だ。経歴が積み重なっていくだけで、後は全然気にならない。
で、基本そんなんだからかよくわかんないけど、あたしの周りには大体男友達ばっかりで、女友達なんてほとんどいない。うわべだけならいくらかいるけど、深い仲になんて全然ならない。あ、大学に上がってからかなー? 一人だけ仲の良い子がいたけど、たぶんそれくらい。うん。
そんな「恋多き女」やら、「遊び人」と言われるあたし、谷川ユキ。
尻軽女だとかビッチだとか言われてるのは結構人伝いに聞くけど、まあ反論はしない。っていうか、それのどこが悪いのやら。そういう生き方しかできないんだから仕方ないでしょ。
……まあ、それなりに楽しいよ。中身がすっからかんな尻軽女も。
そんなあたしにだって、意外に思われるかもしれない、かなり本気の恋が2つほどあったわけだしね。まったく中身がないわけじゃない。ちゃんとした恋心だって知ってはいる。
いや、ちゃんとしたって言えるのかは知らないけど。
……少なくとも、『燃えるような』が珍しく2つあったという方が、近いかもしんないけど。
そう、彼らって、あたしにとってはきっとさあ。
「気の置ける男友達」から一歩踏み出した、って感じのポジションではなかったんだろうね。
自分から強く、「そういう関係になりたい」って思わず思ってしまうような……そんな優しくて、人間味があって。まあ、しかも純粋な。そういう人たち。
まあ、両方語るとあたしが恥ずかしさで死んじゃうし? そこでとりおさえられてる「当人その1」のお兄さんはこれを聞いちゃあいないわけでもあるから。
……まあ、あの人の話だけして終わりましょう。元々そういう話だったわけだしねー。
ん、時永くん? なんか言いたげだけど文句ある?
え、「ない、続けて」?
うん了解。あと口の横にネギついてる。……。あっはっはそこまでする?
マジで? 「谷川さんなら普通にちゅーしてネギ吸いそう」? 何その勝手なイメージ。いや面白そうだけどさ。まあ、やらないから。――やったところでなびかないでしょ、君。
あっ、話続けろって? ごめーん。悪かった、悪かったってそんな顔しない!
……そうだね。
これは1つめの、すごく「ちゃんとした」恋物語。
* * * * *
確かその出会いは……あたしがまだ、制服着てた頃。
17歳、高校2年の春。
「新入部員の〜佐~田~く~ん、はじめての演劇部連絡網ですよーぅ!」
そう叫びちらしながら「ぱんぱんぱんばんぱん!!」と煩めに高速ノックしたのを未だに覚えてる。あとは間髪いれず『1-2』と書かれた教室の扉をスパーン!
……まあ、そんな感じに、思いっきり開け放ったわけで。
ノックの意味がないような気がしないでもない。でも、一応礼儀は果たした。多分ね。文句言われてもきっと「うっかり」って言っとけば許してくれる。世の中って意外とイージーモードだもん。
「佐田ならトイレですが」
……それを教えてくれたのは、前髪が長めに垂れた長身の男の子だった。
入学したての春だからかもしれない。
気崩すことなく制服をビシッと着こなした彼は、一見真面目そうな子である。
……ただ、よく見ると目つきが少し鋭い。どこかやんちゃで悪そうな雰囲気。
あ、この学年、荒れるな……?
何となく直感したあたしは頭の中で教職員に手を合わせつつ、返事を返した。
「そっかぁ! 間が悪かったねー、新入生歓迎会でもしよーって話だったんだけど」
「そりゃあ残念でしたね、演劇部のちょっと可愛い先輩どの」
おっと、『可愛い』だって。
「長ったらしい名称賜りましたよっと――――あたし、谷川ユキ、2年生! 大幅に名称が縮まる気がするんだけどどうよ、所属不明の後輩くん!!」
「ご丁寧にどうも、ユキ先輩」
そっけなさげな声色からは感情があんまり読み取れない。けど、読んでいたコミックスを鞄に投げ入れたところで何となく脈は感じ取った。――こっちと話をする気が見て取れたからだ。
「ってか何ー? この閑散とした教室」
――そうだ、この子以外には誰もいない。皆ドコに行ってるのかと。
「皆そろって、部活動体験でもやってんでしょうよ。校庭でもまだ勧誘パフォーマンスしてるし……」
あたしは窓からそっと校庭を見下ろす。
……確かに、サッカー部や野球部が競って新入生確保に勤しんでいる。そっか、演劇部は定員オーバー気味だから早々に切っちゃったけど、他んトコってまだやってんだぁ……そんなことを思いながら、あたしは目の前の男の子に問いかけた。
「このクラス、決めてない子そんな多いの?」
「決めてないやつ多いっすよー。部、同好会……全部、体験レッスンだけでもフルコンプしようと企んでるやつって意外と多いですから。なんかスタンプラリーみたいに」
「あ、確かに初期の方にいたわそういう輩。津田さんがことごとく追い返してたけど。っていうかそれ、入る気ないんじゃない?」
「そ、完全に冷やかしってやつっすね」
前髪をかきあげながら“フフン”と笑ったその子は、まるで陰口でも言うように口に手を当てて冗談めかし、こっそりと言った。
「上級生をからかうのが楽しい、アホな奴らです」
「へーえ」
そっか、やっぱこのクラス、はねっかえりが多いのか。
あたしはからかうように返す。
「……君も、そうだったりしてね?」
「いんや?」
にやりと笑った男の子は答える。
「俺は一応あいつらとは違うんで。バスケ部に普通に入りましたよ、つい昨日ね」
……多分この子は、他の子と違うことをしたがる子なんだろうな。
「ごく普通」がつまらない。誰もやらないことがしたい。面白いと思ったらすぐやっちゃうし、良いも悪いも自分の目で見定めたい。人から注意されたら頭を下げるよりも舌を出している。うん……多分、そんなイメージ。大人からは真っ先に嫌われるタイプの問題児だ。
「……面白い感じするね、キミ」
「何もしてねえのに面白がられたのは初めてっすけど、そりゃどうも?」
その時だった。
引き戸がいきなり音を立て、人が入ってくる。 ――ガラガラガラ!
「♪しょうごのろり! 脇腹がエロい!!」
……どこかで聞いたようなCMソングのメロディ。
「♪ひとづまぼいん! オレのよm……!?」
「……」
「……」
教室が静かなので誰もいないと踏んでいたに違いない。どう聞いても大きいお友達向けの恋愛シミュレーションに汚染された歌詞を、拳ぶん回して熱唱しながら入ってきた佐田くんはあたしの顔を見て瞬く間に固まった。
……そっかぁ……。いや、分かるよ? そういう子いるよね。
二次元に閉じこもってしまう何かと言いますか。三次元に相手されなかったからそっちに逃げたといいますか。もしくは話しかける勇気がなかったから、そっちに行っちゃったと言いますか……。
「……分かるよ?」
「分からないでください」
佐田くんがものすごく傷ついた声で返した。
「なんでこれから3年間お世話になる部活の先輩に、人妻がどうのとか口走らなきゃいけなかったんですか、オレは……!」
「いや、君が勝手に自爆したんだよ?」
あとあたし3年間もいないから。あと23か月で卒業だから。
そんなことを思っているとようやく私の横にいた「所属不明の後輩くん」は口を開いた。
呆然と信じられないような顔をして……
「……しょうごのろr」
「もう二度といわねぇよバカ!」
歌詞を繰り返せば食い気味の否定。というかさえぎり。
その瞬間。「所属不明の後輩くん」がにまーっと口元を歪ませ、指を上げた。
悪魔のような笑み。なんとなくあたしには、彼が何をしようとしているのか分かった。……何せ、あたしも似たようなことをしようと両手を目の前に持ってきたところだったからだ。
――うん。
こういう子は「からかう」と反応が大きいけど、その分スキンシップを取っておけば大丈夫。
フィーリングがあった、とでもいうのだろうか。
……あたしと彼は顔を見合わせ……
「はい、わん、つー」
「ワンツースリーいぇー!」
「「♪しょうごのろり! 脇腹がエロい!!」」
……あたしと男の子は手拍子と指パッチンでリズムをとりながらそろってはやしたて始めた。しかもこの子本気でいい発声だ。すごい響くし通りがいい。あたしも負けじと腹式で声を張り上げる。
「「ひとづまぼいん!」」
「ぴぎゃあああああやめてぇええええええ!!! 助けてええ何でもするからあああああ!!」
自体を把握した佐田くんが発狂するのは少し遅かった。でもこれだと隣の隣辺りまで響いてるだろう。ええ……あたしは悪くない。そしてこの男の子も悪くない。
どうせこのろくでもない歌詞を考えたのは目の前の自爆者だ。
「しょうごのろり!」
「脇腹がエロい!!」
「微妙にアレンジやめて! あと男女でパート分けしないで!」
「ひとづまぼいん!」「テッテッテレレー テッテッテレレー」
「2人で囲まないでッ! お願い犬飼かごめかごめしないで!! その出来の悪い替え歌で妙な儀式始めないでえええ!!!」
……そう、この時一緒にはやし立てていた彼の名前は、『犬飼 元』といった。
ええ。ええ。
ある意味最低な出会い方でした。
* * * * *
さてと。
お下劣マイムだか、かごめオンザデストロイだかはさておくとしまして。
この町の端っこにある偏差値の低い、寂れた……でもごく普通の高校に、毎日市の中心にある割と大きな町から、わざわざバスに揺られて登校してくるという元くんは、やはり変わった子だった。
思った通りのアマノジャクに、有り余る元気と体力。それにイタズラ好きの佐田くんが加わるから余計にタチが悪い。
鬼教師と怖がられている先生をわざとからかって怒らせてみたり、どこかの漫画にありそうなトラップで引き戸に黒板消しをセットしてみたり、また別の先生の問いにヘリウムガスで返答してみたりと色々やらかすその噂は、すぐに校内に広まっていった。
視聴覚室にテレビゲームを持ち込んでバカ騒ぎするのはさすがにやりすぎかとも思ったけれど、それをハラハラしながら見ているのも面白かった。
……そんなある日のこと。
前述のとおり、バスに揺られてやってくるはずの元くんが珍しく自転車で下校しているのを見かけたことがあった。
部活が終わった帰り道……あたしは元くんを見つけて手を振った。向こうもすぐ見つけて振り返す。
「元くん自転車ー?」
「ああ、うん。金欠なんだ!」
もう息を吸うように元くんと打ち解けたあたしが彼とそういう感じになるのは、最早当然の成り行きだ。
「彼女」を律儀に校門前で待っていた元くんは、自転車を押しながら問いに答える。
でもどことなーくある違和感。
「いつもと違うねぇ」
「……これか?」
元くんは気付いたように後ろに撫で付けていた前髪を指す。
いつもは普通に長めの前髪が前に垂れているというのに、今……彼のおでこは全開だ。ちょっと新鮮。
「……いつもと同じ感じで自転車乗るっしょ。すると前からの風圧で髪が目にこう、ズボっと」
「あっはは、わかるわかる」
「ぶっ刺さんですよねこれ。うっとーしくてしゃーないわけですよ」
未だに丁寧語はたまに入る。
でも、それも段階を踏んでいる感じで、心地はいい。
あたしは単に、目の前の一人の人間と仲良くなりたいだけなのだ。
「でもたった前髪数センチだろー、金使うのも自分で切るのも癪だな、と思って結局そのまま髪上げることに」
「なるほどなるほど?」
「で、ユキ先輩知ってのとーり、俺髪の毛、猛烈にカタいじゃん?」
「カタいねえ」
彼の髪質はあたしが知る老若男女……いや、女の子は少ないな……の様々な人間の中ですら、ダントツで1位を誇る硬さだった。
ふわふわ系でもなく、サラサラ系でもなく。なんならしっとり系でもない。
針金系だ。本当に針金並みの硬さ。
上から押さえつけたらすぐへっこんじゃうし、逆に立てて金髪にしたら某漫画を思い出してしまうぐらいに逆立った。
しかも触らなきゃいつまで経ってもそのままなので、よく変な髪型にしてイタズラしていたのだ。
……ええ、主にあたしが!
「スプレーとかワックスとか無くても撫で付けるだけでこうなンだよ」
「なんか可愛いよねー」
性格の割に背伸びしてる感じがする。いや、何より……
「ぷぷっ」
……『あれ』そっくり。
「“可愛い”ねぇ……そりゃあ、初めて聞く評価だ」
「言われないの?」
「可愛くねえ、は言われるな。周りの大人に」
「あとはお兄さんとか?」
からかいながら聞くと、向こうも少し笑う。
「ああ、思われてるかもな。1日5回ぐらい」
「言われてるじゃないんだ?」
「俺より大人しい文化系だもんあいつ。面と向かってなんて――なかなか言わないさ」
苦笑いしながらのその発言は、少し寂しそうだ。
「溜め込み型なんだよあれ。俺は良くも悪くも尖ってるから、褒められるか怒鳴られるかのどっちかだけどあいつ、目立たないから……」
「あ、分かる。元くん態度悪いけど頭はいいもんね。運動も勉強も通信簿になると途端に優等生になるタイプだ」
そう、元くんは器用だ。目上の人に対する態度とか、そういうのが抜群に悪いだけで紙面上のものは大抵すぐにコツを覚えて軽くこなしてしまう。学力的な面では本当にこの高校にいるのが不思議なレベルだった。……もうちょっと上の偏差値目指してもよかったのに。
「そう、だから家庭内だと俺と常に比較されてて良いも悪いも言われない。そこそこにいい成績とってて問題行動の一つも起こさないにもかかわらずだ。……そこにモヤモヤ感があるのは見ててなんとなく分かる」
「……よく見てるぅ」
「そりゃあ見るだろ。嫉妬されてる当人が言うこっちゃねえから黙っちゃあいるが。……俺だって正直向こうが羨ましいわ。兄貴はもうちょい自信を持つべきなんだよ。俺にないものを持ってんのは事実なんだから」
……こういうところ。いたずら好きでやりたい放題。自分のことしか考えてない、毒も吐く。
なのに喋ってみたら変に頭が切れるし、なんだかんだ人を褒めたり認めたり。ひねくれてるけど悪い子じゃない。そのギャップがいい。
「うん……絵巧いし」
「そう、絵巧いし」
「習字とか作文も賞とったことあるんだっけ? お兄ちゃん」
「俺がほぼ同時にマラソンで1位取ったからうやむやになったけども。でも絶対あっちのがすごいから」
……実は偶然ではあったのだけど、元くんのお兄さんとあたしは接点がある。
前年度、うちの演劇部を手伝いに来たことがあるのだ。
同じ高校の上級生。当時高3だった向こうのノリとしては「卒業前に思い出作りでもしとくかー」程度だったんだろうけど、「背景に絵がほしいから美術部で誰かいない?」と先代部長に声をかけられて参加したうちの1人だった。
そうして気がついたら頼まれたそれだけでなくて、小道具の作成まで器用にこなして去っていったのだ。それもちゃんと長く再利用ができる程度にはしっかりしたものを、たった3日か4日の短期間で。
厚紙製なのにそうは見えない剣や盾。マントや兜。そう考えるとなんか、えらく手先が器用な人だった記憶がある。目立たない性格だけど、元くんとはなんとなく背中を見上げた印象がそっくり。そんな人だ。
「……いやどっちもどっちでしょ。元くんは何やっても目立つエンターテイナー気質だし、お兄さんはちょっと大人しいクリエイター気質なだけじゃん」
「そうだよ。逆に言うと俺は、ああはなれないわけだ」
元くんは苦笑いした。
「俺も俺でああいう生き方に憧れるっていうか、そういうのがないわけじゃない。だから時々俺も羨ましいことがあるんだよ。縁の下の力持ちっていうか、目立たず影から誰かを支えるのも格好いいだろ」
……彼がそんなことを思っていたなんて、ちょっと意外で。
そのときあたしは目を丸くしたのだ。たぶん誰も知らないだろう。犬飼元は好きで目立っているのだと、皆思っていたのだろうし。
「所詮ないものねだりってやつだよ。向こうはこっちの目立つ部分に嫉妬してくるし、こっちは向こうの地味だけど重要なスキルに憧れる。仲が悪いわけじゃねえが円満なわけでもない。……だから可愛いなんて思っちゃいないさ」
若干複雑そうにだが、「にやっ」と笑う彼は……確かに相当人相が悪い。
笑顔の練習とかした方がいいんじゃない?
「というわけで、可愛さとは程遠い高校1年生がここに存在するわけですが」
「……笑顔が壊滅的なだけで中身と髪型は可愛いと思うよ、うん」
「ひでーな、笑って損した。……で、具体的にどういうところがそう思う理由になったのか聞きたいもんだな、彼女さんや?」
本気で可愛い要素ないぞ、俺。そういう彼に、あたしは普通に暴露した。
「いや、ウチ犬飼ってるから」
「は?」
今まさに撫でつけ直した前髪。……へろりと下に戻る「それ」。
「いや、その後れ毛?」
「へ? あ、ああ……これか」
最早癖のようにぴろーんとタレている前髪の一部。
「……前髪と一緒についていかなかった中途半端な子がなんとなく固まって見えてさ、ダックスとかピンシャーの垂れ耳っぽいのよ」
「はぁ。そいつはどうも……褒めてるわけ?」
「一応」
「ピンシャー?」
元くん、ダックスは知っててもピンシャーは知らなかったか。
「犬の種類」
「やっぱそれかよ」
「ちっさいドーベルマンみたいなやつ」
「ぜってえ家帰っても画像検索しねえわ」
家に兄貴のお古のパソコンあるけど。そう言いながら膨れている強面が思わずツボに入ってしまう。
ジャーマンピンシャーとかミニピンとか、めっちゃくちゃ可愛いのになあ。
あの子たち、街で見かけるのは大体立ち耳なんだけどたまに中折れくんがいて、あれがちょうど半端に根元が持ち上がった彼の前髪の一部とそっくりなのだ!
「犬派だもん、あたし! 好きなものに似てたら目で追っちゃうでしょ? ――苗字も苗字だしね!」
「……もしかして苗字で俺に惚れたとか言うんじゃないだろうな」
「だって良い苗字じゃん! 人目を惹く感じでっ、ワンちゃん可愛いし!」
「いや、否定しろよ。……と言いたいとこだが、もしかしてマジ? げえ……」
あたしは言う。
「ひっくるめー。ホントにワンコ系なところが好きー」
「そう言われんのも初めて……っていうか、正直やだな」
「え? 何で?」
「分かるだろ」
もう一度ため息をつきながら、彼は答える。
「ほら……小中で散々からかわれたというか、犬飼ってねぇじゃんってバカにされたというか……それを受けて犬自体もそんな好きじゃなくなったと言うか」
「えーそんなに嫌い? だって哺乳類だよ?」
「いや哺乳類もクソもねえよ!? 嫌なもんは嫌なの! べろべろ舐めてくるし吠えるし噛むし!」
むう、前に猫派だって聞いたけど、本当に犬が苦手だとは。
「え、大丈夫? 犬が嫌いとか熱あるんじゃない? ウチによってく?」
「何で病気みたいな扱いになるんだよ!」
「だってウチ、物心ついたときからワンコ2、3匹いるから犬嫌いの気持ちとか分かんないし! ドヤァ」
「多い! よりにもよって多頭買いかよ!?」
びびる元くんにあたしは言った。
「駄っ目だねぇ。犬嫌いな彼氏だとさー。将来ウチで一緒に暮らせないじゃーん」
「え。……将来なんてあんの、この薄っぺら感ある関係性。っていうか何俺、婿に行く側? 嫁さん貰う側じゃなくて?」
「だってこっちが行くと苗字変わるでしょー?」
「お、おう」
「名前は可愛いけどー……主導権握られたみたいで何か嫌だしー」
「何、そういう問題? ……つまり尻に敷きたいの? すでに座布団と化してる気がしますけど俺。というかさっき苗字に惹かれるって言ってたのはどこのど……っ」
「……必殺」
――今だ、と思って突撃した。
「突然のハグーううううう!!」
「ぐええええ!! い、いやいやいやいや!?」
とととっ。足がもつれて後ろに倒れる元くん。ガシャンと自転車が倒れる。
――おー、熱烈! これあたしが押し倒した格好だ!!
「ギリってしまってる、しまってるから首!」
「――御託はいいんだよ」
あたしは抱き着きながらしれっと囁いた。
「――お婿に来いよ――」
「なーんでそんなドスの聞いた声が出るんだよ、そういう美少女面で!! ってか公衆の、門前で抱きつっ、首絞まっ!」
あ、今力はいりすぎてたかもしれない。やばいやばい。
あたしが手を放すと、元くんはその場でげほげほと咳き込んだ。
「……あれえー、おかしいなあ」
そこまで締め付けてたかなあー。
「……おかしく、なかろうよ……?」
――ビビるわ。あとこのままやられるかと思ったわ。
元くんが冷や汗だらだらな感じで言うので、可愛らしく首を傾げる。
「サスペンス劇場ごっこする気とか、今のところはないんだぞっ?」
「――そっちじゃねえよそっちじゃ」
ため息をつきながら立ち上がる元くん。
しかし力加減を一瞬忘れたのは本当。今まであたしは軽いハグしかしたことがないにも関わらず、本気でぶちかます勢いだったのだ。これは――ひょっとするとあたし、近いうちに人を殺してしまうかもわからんねぇ。
「愛って怖い」
「うん、怖い。愛じゃなくてあんたが」
真顔で呟いたあたしの横で、マジな顔をして元くんが呟いた。いや本気でごめん。
「いやあ、愛の重さだよ今のは。だから愛が怖いんだよ」
「あんたの愛はシロナガスクジラかなんかかよ。スケールが違うよスケールが」
「そう?」
「そうだよ、なんかヤバいですよあんた」
深く傷ついた。……顔をする。ごめん「愛がヤバい」とか言われてちょっと嬉しいのは狂人じみてるよね。さすがに分かる。
「いやそれ、フリ。演技。わざとらしい」
「バレた?」
「バレるわ」
「なんにしても、あたしはなんとなく好きだなー。そういう感じに」
つっ、とあたしは指を跳ね上げた。
「前髪、上がってた方が」
「あー、はいはい……ゲホ。か、髪型の話だったっけな。そうですかい、めんどくさい。もう自転車やめるわ。明日には元に戻ってますよ」
「えー、つまんなーい」
――むくれちゃった。失敗。いや別にいいんだけど。これ、直す方法知ってるし。
苦笑いしながらあたしは息をついた。そうそう、ナメないでもらいたい。今までどれだけの男の子に寄生してきたと思ってんのさ。
「ふふん……?」
「フフンじゃねえよフフンじゃ」
いつだってそう。軽くひっついて、軽く別れる。
入口と出口が緩やかだっただけで、真ん中はそこそこに濃い。……そんな恋愛ばっかりだったんだから、こういうときの修復法はすぐに分かる。焦ることなんてない。
――ガシャコン、と元くんが倒れた自転車を持ち上げる音がした。
埃に塗れた、小さなため息。
「……なあ」
男の子は宿みたいなものだ。暖かいベッドとシャワーがあって、あたしに安らぎを与えてくれる。飽きたらまた旅に出ればいい。違う宿を探せばいい。
それまで、あたしは宿泊費を払い続けていればいいんだ。
だって。「ここに長くいたい」とは思っても、「定住したい」なんて――思ったことないんだから。
「……名前と外見につられたのか、本当に」
元くんは頭を抱えながら言った。……ああ、いいなあ。この【宿】は。
この子はやっぱり、面白い。
「ま、嘘だけどね?」
「…………。」
「そうじゃなくたって、あたしは元くんが大好きよ?」
「……具体的にどこが?」
おっと、宿泊費を要求してきたぞ。
――それをここで、あたしに言わせますかい、少年?
「上げきれないね! ぜーんぶだしっ!」
飛び切りのスマイルで。可愛さで。――君の全てを肯定しよう。
それが「谷川ユキ」の宿泊費だ。ここに泊めてとお願いする、唯一の手段だ。
……これでみんな、コロッと転がるんだもの。“まあいいか”。そんな気分になってくれる。
それできっと飽きたら手放して、あたしが違うところにふよふよと飛んで行って寄生しても、もう何も言わない。思わない。
未練も後腐れも、何一つ残らない。
だってあたしは――
「……よく言うよ、恥ずかしげもなくそういうことを」
彼は少しだけ赤くなりながら自転車にまたがり、言った。
「……ほら、乗ってけよ。送ってやるし」
――中身のない、自分だけの「個性」がない。
そんな、可愛いだけの女の子。
「え、でも元くん家って逆方向だしー、何かー、悪いかなってー」
「一昔前のギャルみたいに語尾伸ばすなよむず痒い。だーかーら、その『全部大好きだ』っつー彼が家まで送ってくっつってんだからしのごの言うなっての。自転車のが徒歩より断然早いだろ、あとデートがてらで一石二鳥だわ!」
そう言って元くんはぷいっと遠くを見た。……やっぱそうだ。この子かわいい。
そして気付いた。ちがう。質が。
「……あ」
いつも男の子に思う、「それ」とは違う。
安心感が、深かった。
手が触れるたび、安心する。不思議と、落ち着く。
この子はそうだ、他の宿とは少し違う。
きっと――違うんだ。この子は、あたしの中身に手が届く子だ。
「足りない何か」を、そっと埋めてくれる子だ。
「……っ、元くんたらカーワイー!」
「うるっせぇ!」
彼は自転車を漕ぎ出した。
「……俺も」
耳を過ぎる風の音に混じって、その声は小さく聞こえた。
「……好き、だと思うんだ。あんたのことが」
その時が、初めて彼にあたしを好きだといってもらえた瞬間だったと思う。……ほら、彼ってば照れ屋だから。それにアマノジャクだし。
不思議となんというか、ちょろいなー、とは思わなかった。いつもだったら若干思ってる。多分それは作業だからだろう。――あたし、避難場所を作る作業なら、慣れてるから。
だからこの子はただの「避難場所」じゃない。「宿」じゃない。
もうちょっと違う人。アタシの知らない何かなのだと、そこでようやく初めて思えた。
……褒めてんのよ?
ともかく人と一緒が嫌い。つまらない。問題児。個性的。
そんなアマノジャクな彼が唯一他の子と一緒のことをしていたのが思えば部活だった。
普段は何をしたって佐田くんと組んで、2人だけ何かやらかしていた。にもかかわらず……スポーツだけは、何でだかやたらと真面目にやっていたのはよく覚えてるし、ちょっとだけだけどトレーニングに付き合ってみたり、フォローもたくさんしたのは。うん、もちろん覚えてる。
こだわりがあるのかな。他では見かけないような練習もかなりしてて……次の春が来る頃になると、気付けば先輩連中を差し置いてリーダー格になってたりして。
そんでもってあたしは、毎回公式試合には必ず応援に行って、差し入れして……
ああ、思えば。今までで一番気合入ってたかも。
あたしにしてみれば、あの子が一番長く続いてる彼氏だったし……ね。
【(現時点での)キャラクター紹介】
・谷川 ユキ
周囲の呼び名は「谷川さん」、「ユキ(谷川)先輩」、「ゆっきー先輩」等。
高校生。犬飼元より1個上。
己のアイデンティティに悩む『客観性』と『主体性』に欠けた少女。
周りからは恋多き女だと思われており、自分でもそうだと思っている。演劇部に所属しているのは、「可愛いだけの女の子」であり、「何者にもなれない自分」にコンプレックスがあるから。




