11.過去と過去の鬩ぎあい・前
――「橘ーあああ!?」
――「うわびっくりした! なんですか!?」
――「なんですかじゃねえよ、人の本に落書きして返すな!」
大人げなく叫んで説話の研究室扉を全開にする。
それは確か昼休憩の時間だった。
後ろの方ではレモンティーを噴き出す寸前のような時永の顔が見えた。……似たような感じに橘が緑茶を噴き出しながら言う。
――「えっ、あれ犬飼先生の本だったんですか! 部室にあったので、てっきり部の備品かと」
――「俺のだよ!? 備品になら書いていいとでもー!?」
――「あいたたたたた! やめてください頭皮が! 頭皮が梅干し状に!」
* * * *
その全くクセのないストレートでねこっけな頭を、両側からグリグリと圧迫したところで、ハッと気がつく。
――少しさびれた、木製の天井。
どうやら頭がパンクしてうたた寝していたらしい。
ああ、こりゃ、数ヶ月前の記憶だ。……数ヶ月前。
――いや、違う!
ハッと気付いた。
――あるわけないだろうが! そんな会話!!
これはつい半日前まで身近だった「虚構の世界」の記憶だ。実際にはその頃、自分たちはまだ時永邸でぬくぬくニート生活をしていた。
「…………。」
立ち上がって、おそるおそる部屋を見回した。
昨日と同じ場所。ただ、俺が事実を覚えているか覚えていないかの違い。
……ひどく、すり切れた心地だった。
エピソードの記憶に差異があっても、その内装には変わりがない。
思わず喉が音を出す。滑らかな、ただひとつの言葉を。
「……ただいま」
目の前のその光景。
どう考えても、一人暮らしをしていた頃の自分の部屋そのものだ。
「そういや、リムトーキだっけか」
――『自らの見ている世界を、勝手に解釈して「そういうもの」だと認識することで、半無意識的に身の回りの世界を創っていく。構築していく』――
メティスの言葉を思い出した。気づけばあれと同じだ。
頭の中の想像が、単なる「認識」がこの空間をつくっている。
――そう、イツキと一緒に時永の連絡先を渋い顔で受け取ったあの後。すっかり夕飯時になるまでみっちりこの世界についての補足説明を受けた。
曰く、この世界の基盤はミコトからみた『元いた世界での記憶』がベースになって作られているのだと。そしてそれに混ざるように、イツキと俺の記憶が少しだけ影響して、絶妙なバランスで成り立っているのだと。
だから時折、その接合点が「おかしく」なっている。
ここ暫くのフラッシュバックや不快感はまさにそこに対して違和感を持ったり、既視感が起こったりしていた証なのだと。
俺たち自身が躍起になって全部「なかったこと」にしていた結果の不快感。ストレス。つまり、記憶を次々に思い出しては消去していたその名残。
……道理で最近、頭が疲れるわけだ。
しかしそれより何より、不気味なのがこの男だった。
この世界の時永。
一方的に説明するだけでなく、話の腰を折った質問もごく普通に受け付けるそれ。不気味なほど冷静に、テキパキと色々な物事に答えていくその男。
見れば見るほどそれそっくりの顔なのに、同じ名前なのに。振る舞いだけがやたらと、いや「異様なほど」違った。
その丁寧口調と涼しげな顔つきだけが同じだ。
相変わらず何を考えているのやら分からなかったが、分からなさの方向性がまた違う。―― 中身の普通すぎる人間が、体を張って巨大な隠し事をしている。
恐らくはそんなイメージだった。
いや、そもそもこいつは本当に「あの時永」だと言えるのか?
「――まあ、厳密にいうと違うでしょうね」
実際、それを疑問としてぶつけた際。ヤツはけろっとした顔で言った。
「僕自身の自覚はともかく……客観的な目線としては、『別人』とカウントしてもいいんじゃないでしょうか?」
「……自覚?」
「ええ、僕は確かにあなた方の姿を奪ったし、社会的な地位も奪った。そんな記憶を持ち合わせている。ですが先ほど言ったように僕は『ミコトが思い描いた時永 誠』だ。いわば虚構というか、偽物というか。人のふりをして動く発泡スチロール製のはりぼてが時永の記憶と自覚を持っていると言った方が正しいかと」
つまりこいつが「俺たちの知っている時永」であるなし以上に、同レベルの次元にいる人間と見做さなくても、別にいいと。
「……自分で言っててむなしくないか?」
「いや、結構むなしいですよ? でも実際そう思った方が都合はいいでしょう?」
実際この世界の住人にはあまり中身がありませんから。そう時永は首をすくめながらいう。
「きっとはりぼて扱いの方が、都合がいい。思い入れなんて無責任に込めるだけ損です。後でお互い、つらくなるのは目に見えているでしょう? ……いや、本気で僕ぐらいなものですよ? この世界に盾突く意思があるのは。何せミコトから見た僕への思い入れが半端ないので」
俺は正直、困惑しながら呟いた。
「ミコトの思い入れがあんたに意思を与えたと?」
「よっぽど現実の僕にガッカリしたらしい」
「……父親の正体が中二病拗らせた阿呆でガッカリしない女子中学生がいるかよ」
「いないですね、中二病拗らせた阿呆で」
「……やっぱ自分で言っててむなしくないか?」
「いやこれに関しては僕も思うんで」
――こいつが偽物だとしたら本物の「中二病の阿呆」の方は哀れにもほどがある。何せ娘はおろか偽物にすらバカにされているのだから。
いや、それはともかくとして。現実に戻ろう。
「……俺の部屋だよなあ」
人の記憶というのはここまで精巧な幻を創り出すものだろうか?
こんな光景が想像の産物だなんて思いづらい。
録画しっぱなしで気付けば積み上がってしまったDVDのタワーも。
くたびれて曲がったスーツのハンガーも。
古ぼけた引き戸。ふすま。家賃の安さと引き換えの、その古さ。
このリアリティのある光景全部が……頭の中の記憶をそのまま引っ張り出したものだなんて。
「……知恵熱かよ」
あんな賑やかな記憶。満たされはしなかったが楽しかった記憶を思い出した後だと、どうも頭が痛い。痛いと同時に現状が腹立たしくなってくる。
一人暮らしのアパート住まい。そんなごく普通の状況が。
そう……この感覚は多分、寂しいのだ。
「……やれやれ」
とりあえず暖房をつけた。今は少し肌寒い。が、そのうち暖かくなるに違いない。そのまま爆睡だ。晩飯なんぞ知るか、適当に朝からカップ麺でも食ってるわ。
……それからテレビに手を伸ばす。見たい番組があるわけじゃない。ただ、なんとなくBGM的に欲しかった。
「……重症だな」
別に毎回見ているわけでもない。だが、お馴染み感のある番組構成。「この世界」の記憶でよく見る流行りの面々、バラエティ番組の喧騒。それが、今は妙に心地良く感じて……
「……あれ」
聞き覚えのある声がした。VTRのナレーションがいつもの低い音とは違う。まさか改編期でマイナーチェンジでもしたんだろう……
「…………」
……か。
画面右下に表示されたのは「見覚えのある」名前だった。具体的に言うと13年は当然として、それ以上前。
自分がイツキの「見た目」と同じ歳の頃だから、プラス10……23年前。
慌てて目をそらす。そらした後……
「…………」
やっぱり、音は拾ってしまう。
やたら響きの良い、そのクセのない音を。
――確かその声を時永邸で改めて聴いたのは、ミコトがいなくなる少し前のことだった。最近ようやく聞くようになったラジオ媒体。
特に聞きたいものがあるわけでもなく、あっちにふらふらこっちにふらふら。ちょうど今のように手持ち無沙汰でBGMを探していたら聞こえてきたのだ。
この、耳なじみのいい高めのボイスが。
確か出会った当時。そいつはアニメやゲームにばっかり熱中していた、一般的には『重度のオタク』と呼ばれる層の、ちょっとノリがおかしな野郎だった。
記憶が確かなら結構ディープなアキバ系である。それも前時代的な。ただ、俺にだって実をいうと同じく『重度のオタク』層の兄貴がいたわけだ。
家に来たなら俺そっちのけで夜の10時までずっと兄貴とノンストップで話していくようなアレだった。
そして聞いてると俺までそういう方面に詳しくなってくる。……というわけで、付き合い方に困ることなんか殆どなければ、話題のさばき方も何となく理解していたのだ。知らないネタはドンスルー。知ってるネタは普通にのっかる。それで結局付き合い方に問題が生じることも殆ど無かった。
だからか、普段の会話でも特に熱のこもっていたのはそっち方面の話題だったし、思えば向こうが演劇部なんかに入ってたのも舞台とかドラマとかそういう方面よりも、まずはそういうアニメ系に興味があったからかもしれない。
ほらよく言うだろう、世の声優さんは大概演劇部か、放送部の出身だと。
それがまさかこんなところで名前を聞くとは思わなかったし、意外と変わらないその語り口調を耳にするなんて考えもしなかった。
本当にこの世界が時永などを覗いて基本ミコトの記憶を元につくられているというなら、この世界限定でなく実際そうなんだろう。
そういう仕事をしていることになる。
懐かしさがあると同時に、今は関係ないもの。
だが、何も言わずに。ミコトのいる前ですら、なんとなしに流し続けた。
……すげえだろミコト。こいつ、俺の高校時代の大親友だぞ。そう言いたいのを我慢しながら。
だって関係ない。
これはもう俺には関係ない、外の音だ。
時永がいなくなった際、イツキには「何がしたい?」と勢いで聞いた。
実際には分かっている。あのままあの姿だったなら、どこに行ったって何したって結局変わらない。
街中でこの声に偶然肩を叩かれたりは、もうしない。
「…………ああ」
天井から目をずらすと、壁に2つのピンでとめられた一枚の写真が目に入った。件のそいつとのツーショットだった。修学旅行での一枚。満足げな向こうの手にはタコ焼き。対してこっちの顔は半分呆れて半分怒って、カラの小銭入れをひっくり返している。
……ああ本気で思い出した。買い食いしすぎて所持金を使い果たした挙句こっちにまでたかりだしたあの、バカ面。
本当に細かく記憶を拾ってあるらしい。そうだ、確かにそこに貼った。
ええ貼りました。
ここに引っ越してきた初日。何となく目に入って、跡の付きづらいタイプの画鋲で。
おかげで回想シーンが続行だ。過去の話。現実の話。懐かしいクソガキ時代の話。そう、確か高校時代――掃除と称してホウキで死闘を繰り広げてとんでもなく怒られたりとか。
ただでさえパッとしない制服を更にダサくするにはどうすれば良いかを議論した挙句、普通に実践したりとか……いや制服ダサい計画に関しては案の定、校則違反で怒られるのは誰が見たって理解できたんだが。
あと、売店のメニューに親友の好物のタコ焼きをいれて欲しいとあの手この手で懇願して最終的に職員室全員が動いたりとか。……いや、売店にタコを入れるためじゃなくてどっちかっていうと俺たちの息の根を止めに来たんだけども。
あと、授業でそろそろ当てられると踏んだ日にはヘリウムガスを吸って変声で答えてみたりとか!
無許可で視聴覚室にテレビゲーム持ち込んでゲームしたりとか!
体育の長距離走の最中にぶっ倒れたらどうなるだろうってことで死んだフリしてたら、派手に救急車呼ばれたりとか!!
……死ぬほど怒られた挙句親の目から全ての感情が消えた瞬間を目撃したのは初めてでしたよね。
いや、普通に面白かった。人をおちょくるの。
……あー。
――「お前だってそんな出来のいい生徒じゃねえくせに、俺にばっかり責任押し付けるなよ。俺だって昔は悪かったし言いづらいんだよ、ああいうの」
「……ありゃあ、ちょっと悪いこと言ったけどなイツキ……」
イツキに対して当たり散らしたそれを今更ながら思い出し。呻く。
……もうなんか、仕方なくない? っていうか勘弁してくれない!!?
お前とは違う方面で問題児だったんだけども、このバカ高校生!!?
今更ながらあまりの黒歴史に本日何度目かの頭痛の波が襲ってきたが、それは隅に置いておく。
思えばこの写真の相手とも、本当に色々なバカを一緒にやってきたものだ。
勿論ずっと引っ付いているわけでもない。さすがに部活は違った。だがそれでも相手の所属してた演劇部の公演には毎回見に行ったし、自分のいたバスケ部の試合にはあいつが大概見に来ていた。
9割方あいつは応援団的なコスプレをした挙句、騒ぎすぎてつまみ出されていたが。まあそれはもう向こうの黒歴史なのでダメージは受けない。アホだ。あれはもう、相当にアホだ。
ともかくあれだけ一緒にバカやったにも関わらず、別れは本当にあっけなかったと今になって思う。
思えば、あの頃の自分たちは『いかにバカやるか』しか見えていなかったのだ。
“今”しかきっと見えていなかったのだろう。
若者らしく今を生きるのに精一杯で、未来も過去もわからなかったのかもしれない。
……対して、今の自分ったらどうだ。
ひどく無様に違いない。
まず、何をどう考えてもあさっての方向に考えすぎている。更にはこれ。未来の選択じゃなくて過去の選択をさせられるなんざ、きっと当時の自分からしてみればお笑い種だ。
少なくとも目の前のこいつなんかより、随分後ろをのろのろ歩いているような、そんなイメージしかつかない。
遠回りして、やりたいこともできることも何一つできていない。
目の前で流れ始めたバラエティのスタッフロール。そこにある、明らかな存在のしるし。
……人間社会からドロップアウトした俺とは明らかに異なる、その、確固たる証。
「この人間はここに生きている」、そう刻まれたかのようなそれ。
芸名でもなんでもない本名。
……この世界でも変わらないのだろう、その在り方。
……何となく悔しさを感じて、ふと思う。
ああ、そうか。過去も未来もわからなかったとは言ったが、なんだかんだいって漠然とは方向性を決めてたんだな。俺達は。だから悔しいのだ。
だから、俺はそのスタッフロールを眩しくて見れやしないのだ。
――「不思議だよなぁ」
――「何が」
――「演技ってのはほら、台詞をただ言うだけじゃ駄目だろ? 心とか魂をさ、いったいどうやってその台詞に込めるかが重要ポイントってわけよ。そうやって込めるモンがその役柄にあったもんじゃないとニセモノに見えちまうし」
――「へー」
――「この役ならこの場面でどうするか……どう思うか? 怒るか、泣くか、笑うか、驚くか……いわゆる、『心理状態』っての? それをいちいちその場でパッと考えきゃいけない。立体的に構築しなくっちゃいけない」
――「……」
――「めっちゃ難しい。生ダコ噛み千切るよりも」
やたら難しいことを言ってくるな、と当時の俺は思った。
というかなんで一々タコに例えるんだろうかこいつは。頭がタコに乗っ取られてるんじゃないだろうか。
そう思いながら紙パックの豆乳をくわえて茶々を入れたのを覚えている。
――「お前の単純明快なタコ頭じゃそりゃあな」
――「でもやってる側としちゃそこが一番面白いんだよ。考えてみれば、そうやって込めるモノしだいで役者は別人になれるんだよな。プロなんて、見た目は同じなのに明らかに中身が違うように見える」
ヤツはいちごオレを飲みつつ、結構真面目な顔で呟いた。
――「でもそれって何でなんだろーか? オレたちの持ってる「心」ってやつは何なんだろ。どういう理屈で喜怒哀楽を感じるんだろう。それをオレ、ここ最近ずっと考えてんだよね」
――「……普段好物のタコ焼きのことしか頭に無いその頭でか?」
――「うん、どうやったらタコ焼きの気持ちになれるかを必死で考え中だ」
――「無理だろ、年がら年中高温の鉄板で熱される役なんて」
――「そうだな、そのうちキレて店のおじさんと喧嘩して海に飛び込むよな」
――「……それ、どっかのたいやきだろ」
……まぁ泳げナントカくんは今関係ないし、どこか頭の隅にでも置いておくとしてだ。ははあ、なーんだ、そんなことに神経割いて悩んでんのかよ、と当時の俺は思ったわけである。
だって難しい言い回しをしちゃいるが、至極ありふれた考え事だ。
己は一体、どういう生き物なのか?
心って何? 何で俺たちは嬉しいんだ。怒るんだ。悲しいんだ。
どういうメカニズムで、何でこんなものを感じるようになった?
そんなこととっくの昔にぶち当たってた奴、きっとごまんと居るだろう。
それにそんなこと言われたら俺だって気になるじゃないか。
……そう思いつつ、その一言で何となく進路を決めたのだ。
大学進学と同時に心理学科に入って、ようやく人より真面目な態度になった。
大学行くよりも演技の勉強をしたいと言っていたあいつよりも早くその答えを見つけて、ギャフンと言わせてやりたかったんだ。
――さて、どういう理屈で、俺たちは喜怒哀楽を感じるんだろうな。
それをどや顔で説明したかったわけだが……案の定そんなカップラーメンより簡単に説明できるような原理がそこにあるわけがなかった。そらそうだ。でも一応の理屈は理解はできた。
だから――いつか、持って行くつもりではいたわけなのだが。
さて、どこで間違ったんだろうか?
結局、もうそいつに会うことはなかった。
俺があいつを発見したところで、声を一方的に聞いているだけ。向こうは雲の上の存在にまで上り詰めてしまったし、こっちは地面より下に落下中だ。
……そういえばあいつは、あれから答えを見つけられたのだろうか。
いや、きっと俺同様にはっきりした答えは見つけてはいないんだろう。
あいつは俺よりも数段バカだ。そう思っとかないとつらい。
でもこうやって夢を実現させるくらいの人間だというなら、その答えをきっと今でも探しているに違いない。あいつはまぁ、昔からそういう奴だ。
考えている暇があれば行動に移す、そんな奴だったからいつだってチャンスを逃さなかった。……ずっとうじうじ考えるタイプの俺とはえらい違いだ。
「…………。」
ふと、思う。……もしかしたら、俺は時永に記憶を取り戻してもらわなくても……あのまま、時永に『教えて』もらわなくても、やがては自力で記憶を取り戻してしまっていたかもしれないんじゃないだろうか。
あいつみたいに、学問に頼らず字面に頼らず。自力で答えを見つけに行く選択肢があったように。
まあ、今日の出来事が「駄目だった」とは言わない。
結果としてはここ最近の違和感の正体もわかったし、とにかくスッキリはした。
この世界に来た時から当たり前のように存在した偽りの過去でなく、消えていた過去が戻ってきたことも、複雑ではあったが嬉しかった。
そう、嬉しくはあったんだ。……だって、あの記憶は……
「…………。」
――「わあー! おにぎりパーティー!」
――「ふふっ、たまにはこういうのもいいでしょう?」
――「しゃけくださーい」
――「オレ、ツナマヨー! うわきったなっ。何してんのイヌカイ! すごい咳き込んでんだけど大丈夫?」
――「ちょっ……ええ馬越さん!? なんでこれワサビ大量に入ってるの!?」
――「ロシアンおにぎり……!?」
……宝物だったから。
かけがえのない何かだったから。
確かに、あんな事が起こらなければ3人とも接点は多少あれ、こうしてこの世界でのように「赤の他人」だったのだろう。
本来知るはずもなかった形の幸せがそこにあったのは間違いのない事実だ。
だけど、今となってはこんなもの、なかったほうがよかったのかもしれない。
……だって、その方が無視できる。
ため息をついて、もう一度寝そべる。目を閉じる。
……だって、知らなかったのならば、きっとこの偽物の世界を「偽物」と理解する日が来たところで、どうしようもなかった。
いや、そもそもこんなことにすら巻き込まれなかった。満足して、普通の人間ライフを生きていけるはずだった。
――「……道は2つです」
脳裏を、あの時永の静かな問いが掠めていった。
2つの道……『この世界での過去』を選んだ上でこれからを生きていくか、
【本当の過去】を選んだ上で生きていくか。
――「強制はしません。強制する権限がない。だから……選択権はあなた達2人にある」
ああ、確かにあいつは選択権をくれたのだろう。ひとつの道しか知らないなら、それは選択肢とは呼べない。だけど俺には……その2つの選択肢を知ったところでそれを天秤にかける勇気がないのだ。その天秤が揺れて揺れて、どっちも地につかないし上がらない。
ああ、なんて茶番劇だ。
そう呟きながらテレビに目を向けると、もう次の番組が始まろうとしていた。耳を傾けてもあの声は、もう聞こえない。
……。
2つの人生があって、2つの選択肢があって。……それをどちらにするかなんて、いきなり言われたって答えがでるわけがない。
……あのタコ野郎ならば、後先ろくに考えずに適当にアミダくじでもするだろうが自分の難儀な性格ではそうも行かないことはわかっている。
じゃあどうするんだ? とにかくどっちも容易に切り捨てられない。どっちの良さも俺は知っている。
少しの不安や悩みはあれど平凡で平和で、特に問題もなかったこの世界での記憶も。対して少しどころじゃない不安、悩み、コンプレックス、問題点のオンパレードで、きっとこれからも続いていくんだろうその繰り返し……だけど、どんなものにも代えられない大切なもの。感情。そして思い出の詰まった別の記憶も。
――俺は、きっと両方、握り込んだまま捨てられやしないのだ。
どっちを取っても後悔が残る。どっちを捨てても。切り裂いても。そしてこの世界で何度死んで、何度新しく巻き戻ったところで。
そこまで悩んで、ふとまったく同じ問題を抱えたはずだったあいつの顔が浮かぶ。……イツキは、何故あの言葉を言えたのか。
――「そんなことよりもアレ、どうしたいんですか時永先生!」
躊躇いがなかった。遠慮もなかった。俺がまず頼りにならないと知って、すぐに寄っかかる相手を切り替えた。
……自分に自信がない。だから、精神的に自立をしない。
こういう言い方をすると弱いやつに見える。実際ナイーブだ。でも引いた目で見据えれば、そういうやつの方が柔軟なのだ。
自分が率いるのではなくて、自分はついていく側。ついていくものを選べば方向転換も容易にできる。
……イツキがどういうやつかは、ずっと見てきて知っている。
どれかというとストレートで、純粋さがまだあって、すごく直感的な人間だ。理屈で考え込むと長いのだが、考えなければパッと物事を決められる。
俺とは真逆の性質。
思えばあのタコ野郎と少し似ている。好きなものに後先考えず手を突っ込むところとか。嫌なものからはとにかく泣いて逃げ回るところとか。
そうだな、あいつはただ、思っただけ。
――今はこれが「最善」だと。
この世界の日常にさよならすることよりも、前に進むことばかりを考えている。
出会った頃には確かに、一番失った日常に執着があるように見えた。
メティスのおかげで人の姿に戻って、足が動くことにはしゃいでいたあの姿も知っている。
でもきっとその前に……ミコトと出会ったときに、時永への憎悪が。傷つけられたその心が。癒されていたのだとしたら。
そして時永を倒したとき――あの暗い一言で。短いが強烈な恨み節で。
完全に、吐き切ったのだとしたら。
「――素直なんだよな、あいつ」
さっぱりとしている。熱しやすいが冷めやすい。皮肉を飛ばすこともある。劣等感からくだらない嘘をついたりもする。
……だが、それ以上に素直なのだ。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと誰よりも素直に言える。美徳がある。
これは言うことを聞いたほうがいいと判断すれば、とことんまで聞く。
その場で初めて見たものを深読みしない。「その場のもの」だけで咄嗟に判断できるし、評価できる。……一度それがいいと思ったら痛い目に遭うまでそれを好み続けるのだけがちと問題だが。
それでもだからこそ逆に――結局、大事なものを見失わない。
――イツキは、そんな人間だ。
そのとき、携帯電話の着信音が音を立てた。
画面を確認してみると発信者は、イツキ。
さっきからタイムリー続きだ。「噂をすれば」のオンパレード。
そういえばあの後、電話番号教えてもらったんだったな……そう思いながら、耳にあてる。
「もしもし」




