8.原点回帰
……目の前で景色が、色も鮮やかに過ぎ去っていく。
車の外の鬱蒼とした林。森林を割ってどこまでも続く、田舎じみた広めの道幅。
やはりその光景にはどこか見覚えがあって、それでも少し新鮮な気持ちが残っている。
車のエンジン音が微かに響いてはいるものの……これまでの道中、それ以外の物音はほとんどしなかった。
しんとした静寂。誰も何も話そうとしないまま、重い空気の中で……つい先ほど振り切った日常の残り香を感じながら、「植苗イツキ」はこの車が見覚えのある町並みからだんだんと遠ざかっていることだけをひしひしと感じていた。
……わかってはいたのだ。この先生の手をもう一度とってしまえば。
もう一度車に乗せられてしまえば、もう「後戻り」はできない。
横を見ると「犬飼先生」が腕を組み、じっと窓の外を見ている。
自分と同じように景色に対して思うところがあるのか……とイツキは思っていたのだが、よく見たら。
「……くかー……」
「って何寝てるんですかこの状況で?!」
「ぐがっ!?」
思わず大声で突っ込むとびっくりしたように、いきなりいびきをたてて彼は跳び起きた。
「……あー……いや、すまん。なんかこう、あったかいとすぐ眠くなるタチでな」
「ああ、暖房止めましょうか。ちょっとききすぎた気もしますし」
苦笑しながら空調を緩める時永はなんだか、意外なほどに自然体だった。
……考えてみればそうか、そろそろ9月も半ば。数日前まで蝉の舞っていた真夏の様相も気づけば見当たらなくなっている。徐々に、徐々に冷え込んできていた。
肌寒い日が増えているからこその暖房。でも、そこまでしなくともまだよかったらしい。確かに暖かいというか……逆に蒸している。
「……でも、なんか意外ですね」
「何がかな?」
「……車の運転とかしないようなイメージがなんとなくあって」
イツキが言うと、運転席の時永は前を見ながら頷く。
「最近はよくするよ。ちょっと前まではペーパーだったけど」
はい、風にあたってくださいねー。
窓を少し開けつつ、後ろの寝坊助に少しおどけたようにいうその様子。
「あ、どうも……」少しごにょっとした眠そうな声が聞こえたその前で、おどけた声の温度が少しだけ落ちる。
「ところで、何でそう思ったの?」
「え?」
……時永のまっすぐな目が一瞬、イツキに向く。
「――僕が、運転しないって」
その言葉でイツキは思い出す。
そうだ……確かに前、車に乗ってこの道を通った。それも時永先生と一緒に。
そのとき確かこの人は、運転席にはいなかった。変わりに誰か、別の人がいた気がする。
「そういや、車……」
すぐ横の寝ぼけた声が思いだしたように言った。
「車?」
イツキが聞き返すと、「犬飼元」は頷く。
「……車種が明らかに違う」
ああ、そういえば……
――学校のロータリーに大きな黒塗りの車が止まっている。車に詳しくはないオレでも、高級車であるとわかった。……恐る恐る、聞いてみる。
「あの……あれって、マイカーですか?」
「そうだね、自家用車だね」
――ソウデスカ、自家用車ナンデスネ。
そうだ、あの時……。
オレは確かに、そんな印象を受けた。
「はは、そうですね。……さすがにあれを運転する勇気はありませんよ、僕には」
そう言いながら時永がドライビンググローブで握るハンドルには……まあよくありがちな、ごく普通の日本車のロゴがくっきりとついている。
……思えば、明らかに前の車は外車であまり見ない感じだった。というか運転する勇気がないって……やっぱり別の人が前は運転してたのか。
イツキは息をつきながら思う。
なんだか、だんだん思い出すものがハッキリしてきているような感じだ。
デジャヴとはもう呼べないほどに情景が色濃く目に浮かぶ。
「まあね……これでも、出来る限り再現しようとしたんですよ。前の時一体何が起こったのか。一体『何』をあなた方が経験したのか」
「時永先生、なんかその言い方……あんた自身は他人事って風に感じられるんですが」
犬飼の怪訝そうな呟きに、時永は苦笑した。
「あれ、そう聞こえますか? ……まぁコレに関しては意味なんて、自由にとってくれて構いませんよ。どうせ……」
「どうせ?」
イツキが聞き返すと、時永は少し考え首を振った。
――そうだ。どうせ誰にも……
「まぁその話はおいて置きましょう。そろそろ着きますよ」
……誰にも、理解されようはずもない。理解を求めてもいけないのだ。
時永は息をつく。
そう、自分だけ抱えていればいい。
「時永先生?」
「ん、何だい」
「疲れてますか?」
「……。ああ、別に」
いつの間にか辺りには山道や畑が増えている。
時永は無言でハンドルを切った。
―― ―― ――
「ここが?」
標高が高いことが気温で何となくわかる。車から下ろされつつ……イツキたちは辺りを見渡した。目の前には見覚えのある建物が2つほど。
それは森に囲まれた中に、寂しげにぽつりと存在していた。
いわゆる、豪邸だ。
3階建ての真っ白な洋館。
まるで植物園のような、ガラス張りの巨大なドーム……
辺りを囲んだ森や、自然に任せたかのような広い草むら。
何か殺人事件でも起こって被害者がかなりの大声を上げたって、きっと絶対にお隣にすら悲鳴は届かない。
「――この家、見覚えあるでしょう?」
車をガレージに入れることもせず、無造作に停めたまま静かに聞く時永。
「……あぁ、確かにある」
犬飼の呟きにイツキは同意した。来たことはある。だけど、そこで起こったことが……まるで鍵をかけたように思い出せない。
「そりゃあ、あなた方にとっては思い出すのも嫌な記憶でしょうからね。僕にとっても、一番厄介な記憶です」
嫌な記憶? 途端に2人の脳裏に浮かぶ、言葉。
時永は口を開いた。
「……植苗くん、君は」
――「……君は、ドリュアスのことを知りたいって言ってたね?」
「!!」
その言葉が聞こえた直後、イツキの肺から空気が一気に押し出された。
「……犬飼先生」
時永はその瞬間、真似た。あのときの口ぶりを。あのときの……嘲った笑いを。
――「いや、思った以上になかなかお似合いですね」
……犬飼の足が数歩、後ろに退いた。一瞬思い出した言葉は、ダブって聞こえた言葉は。いったいいつ聞いたものなんだろう。
なぜここまで、鳥肌が立つ?
イツキはぐらっとよろけて、時永にサッと支えられた。
「……植苗くん、大丈夫」
ハッと気付く。……今まさに足の力が抜けかけていることに。
「……足、大丈夫だから。動かしていい」
「…………。」
「君は二足歩行する人間だ、動かないわけないだろ。落ち着いて」
いつの間にか横から支えられていて、イツキは過呼吸気味の自分を自覚した。……恐る恐る、親指に力を入れる。膝に、重心を乗せる。
「で……犬飼先生、あなたは姿勢が崩れてる」
「!」
「無意識ですか? 今、まるでお尻より後ろに重いものがあるみたいなバランスでしたけど」
冗談みたいな口調だが、口は笑っていない。
「……まったく、すみません。こちらもきついのですぐに終わらせたいんですが」
そう言いつつ、ようやく声が笑う。ぽたりとしずくが落ちる音がして、犬飼は顔を上げた。
「――自分でも思い出すのが嫌なんて都合のいい人間でしょう?」
苦笑いするその表情は、異様に晴れやかだった。
――大丈夫だと口では言いそうだ。しかしその額からは、玉のように汗が噴き出していた。次々と生まれて、ぽたりと落ちる水滴。
「ストレス反応」だと、その汗の理由を何となく理解する。頭ではすぐに理解できる。
だが、「何か」がおかしい。ひどい焦燥感と疑問が脳裏を横切る。
……何故この男は、そんなものにストレスを感じている?
「僕はね。……あなた方から見ても、“彼女”から見ても僕は唯一無二の悪者ですから」
……悪者。イツキはようやく足を自立させながら目を瞬かせた。
目の前の、穏やかなこの人が、悪者。唯一無二の悪。
「僕がいなければこんな事件が起こることも無かったし、今の植苗くん、犬飼先生も存在しなかった」
「いったい何の話ですか」
犬飼が怪訝そうな顔をして時永に聞く。
……ああ。そうか。何かが起こったんだ。ここで。
イツキは周りを見渡した。……時永先生、オレ、犬飼先生……誰もがトラウマになるほどの、何か、とてつもなく嫌なことが。
でも、例え嫌なものでも……その記憶があった頃の自分には、きっと大切なものだったんだろう。なぜかそう思った。そう、強く思えた。
「――時永、先生」
――ふるえた音を、抑えつけた。意味のない恐怖感を無理やり乗り越えた。
だってもう引き返せない。引き返す予定すらない。何も覚えてないオレにだって理解ができる。
何となく直感で、感じ取れるから。それは――きっと、「必要な記憶」だ。
大切なものなんだ。
「――あなたが腰を抜かしてでも。それでもオレは、先に行きます」
「……そう」
「思い出します。知りたいんです。自分が、ここに忘れたものを」
イツキは呟いた。
「だから教えてください、時永先生。……ここまで思いださせておいてほっぽり出すんだったら、それこそオレは先生を呪いますし祟りますから……!」
――何があったか。そんなもの今のオレは知らない。いや、忘れてる。
そのときのオレはこの人を、きっとこの上なく恨んでいるのかもしれない。だからこんなにこの人に対して、近づいてはいけないような気がするんだ。
だけど今この機会を失ったら、オレはその、「大切な何か」を……ずっと失くしたままだ。
それに何もかも忘れたらしいオレに、今、この人への恨みはない。
『怖い』という感情は確かにある。……でも、なんていうか、その感情はすっごくふわっふわで、まるで後付けみたいで。
だから、少なくとも今の自分はその感情に納得していない。
「……ね、犬飼先生?」
「……え? あ、あぁ」
同意を求めると、歯切れは悪いがなんとか返事が返ってきた。時永はそれを、分かっていたような顔をして眺める。……その返答を、分かっていたような顔をして、彼はもう一度頷いた。
「ああ――それもそうだ。じゃあ行こうか」
時永は目の前の洋館には向かわず、それをスルーして左側へと歩き出した。
「2人とも、その様子だともう一押しみたいだしね?」
そう言って示した先は、ガラス張りのドーム。透けて見える色は冬にもかかわらず緑……植物園のようなものらしい。すると脳裏に明らかな会話の一部がハッキリと浮かんだ。
それはかつて――何かと何かが、お互いの正体に思い至ったときのやり取り。
――「お前……植苗だよな?」
――「オレを知ってるってことは……学校の関係者?」
思わずイツキは犬飼を見た。――明らかだ。自分の中の何者かがそれを思い出している。記憶を失う前の何かが、それを再生している。
犬飼も同じことを考えたのか視線がぶつかる。この場所で自分たちは、いったい何をしていたのだろう。どんな状況で、どんな姿で? ……いや、きっとそれだけじゃない。
――思い出すのは、ちいさな女の子の声。
「あの声は……きみ、なの?」
ひょこっと顔を出した、その小さな子。
ここで――あの子と出会った。名前は? どんな子だった?
思い出せ、自分。
ドームの扉の前で、時永はポケットから鍵を取り出す。
「私は……ミコトっていうの。……あなたの名前は?」
……ミコト?
鍵がさしこみ、まわる。
――「やっぱり名字は時永、ね」
――「名前はミコトちゃん、か……そうだな、オレの名前はね」
いつか自分が少女に言ったらしい言葉。
「イツキっていうんだ。……意外とありそうな名前だろ?」
思い出した。そう、その場所は。訪れてはいけない場所。
いや。
……違う。出会った場所だ……
――「ほらほら……知りたいんだろう?」
脳裏で声がする。ブレーキがかかる。
嘲ったような声が、思考にブレーキをかけてくる。
――「それも、詳細にわかりやすく、だったっけね?」
「……ああ」
イツキは歯を食いしばりながら呟いた。
「……知りたいよ、今は、ものすごく」
それがいかに、パンドラの箱であろうと。
「思い出さなければよかった」、そう後悔することになるとしても。
それを無視して生きていくのは――
――「イツキの正体を知ったところで、私の中では何も変わらないよ。どんな格好してたってイツキはイツキだもん」
あの子の声がした。
それは、全部が露呈した後のこと。皆がいなくなった後に声をかけて、その返答。
――「だって、喋り方が変わるわけでもなければ、表情の作り方が変わるわけでもないでしょ? たぶん私、君がイツキっぽければ……」
そうだ。それを無視して生きていくのは。――オレっぽくない。
けろっとした顔をしてその子は言う。記憶の中で、その言葉を発する。
「――人だろうがその姿だろうが、好きなんだと思うよ?」
それはきっと崩れた人生設計を。自分自身ではコンプレックスにしか感じられない「その姿」を。――全部を、肯定した言葉だった。
友愛より同情より。ずっと多分一番欲しい言葉だった。その言葉がイツキを深い闇の底からすくったのだ。
特に深い意味合いなんてない。あの子にとってはきっと、息をするよりも自然にぽろっとこぼれた言葉で。だからこそ、こんなにも奥底にしまわれていた。
――忘れていただけだ。
組みあがっていく、記憶の欠片。
ああ。
ああ。
ああ……!
そう。……そうだったよな。
ここは、特別な場所。
あの絶望の後に、出会った希望があった場所……!
――「イツキって友達いるんだ」「そりゃいるって」
「で、どんな人? イツキみたいなの?」
「えっとね、オレより説教臭くて顔怖い奴」「なんだとコラァ!!」
ふざけたやり取りをした場所。
悩みも怒りも妬みもあるけれど、よく笑った場所。
――暗闇で見つけた、希望。
希望という名の、友達がいた場所。
全てを思い出したとき、ゆっくりと扉が開いた。
それと同時に。
「っ、イツキ!」
イヌカイの叫び声。
それと同時に、自分に向かって近づいてくる大きな何かが見えた。
――そのとき、ぱっと時永の足が動くのが分かって。それで。




