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【外伝】『君のことばかり思う』:前編

これは、ある一人の男の……「大切なもの」の話。



 ……()()()に、ふと思い出した。


 あの時の、車の外を降り続ける雪を。


「……どうした」

「…………。」


 後部座席に声を投げたあの日。

 上から注ぐ、白い一片。すがるように眺めていた子供はあの時、口数が異常に少なかった。……いや、思えばきっと、欠片も愛想がなかった。

 ぱさっとしたまつげ。子供にしては長い手足。テレビで人気の子役顔負けに可愛らしい顔つきは、残念ながら硬く口が結ばれて氷のよう……みたいな印象よりは、多分「小石」か何かに近い。


 熱くも冷たくもない。温度感もクソもない。何を考えているやらわからない。威圧感もない。

 だから――小石。


 対して横からは高い、鼻の上あたりを通るような……綺麗ではあるが、どうも妙にカチンとくる上機嫌な鼻歌が隣から聞こえてくる。

 流行りから微妙に外れた古い歌だが、選曲のセンスは悪くない。


 ああ、とため息をつく。

 ……先が全く、思いやられる。


「ねーねー! ねーねーねー!」

「ああークソが! ネーネー煩い!!」


 ……突然、まるで眠りから覚めたように鼻歌が止まった。

 何かを唐突に思いついたのだろう、ゴロゴロ転がりまわりそうな声。助手席からの駄々っ子のような呼びかけに、くわえていたタバコを座席中央の灰皿に思いっきり押し付けた。


「……運転中に絡むな、湊!」


 ムスッとしたおれの呼びかけには物ともせずに。

 座ったまま、助手席で軽くその「お姫様」とやらは跳ねた。


「途中でアウトレット寄りましょうよ!!」


 ……車が揺れる。

 タイヤの空気圧を気にしつつ、息を吐いた。

 口から思いっきり煙が押し出され、排気フィルターを汚す。

 車内だろうが閉所だろうが関係がない。煙かろうが何だろうが、どうだっていい。この間テレビで言ってやがった受動喫煙だったか? あれを知らないなんて言い切れるほど、世間知らずでもない。

 健康被害。ああわかっている、長生きするような予定もない。周囲の方が被害が大きい? ああ勝手に死んでろ腹が立つ。


 ……そのうちタバコなんて不健康な代物は、ゆっくりと文化を潰されて滅んでいくに違いない。そんなことをあの頃、取引先で冗談のように口にしたら笑われたが、一応確信は持てていた。


 が、どうせそのうち淘汰されるにしたって世間様は『喫煙者』の存在をまだ許しているわけだ。何せこの当時は1997年。新聞のコラムで見た成人男性の喫煙率は52パーセント。

 未だに2人に1人と髪の毛数本は吸ってる計算になる。


 だったら今のうちにプッカプカ吸ってやるわ、と目論んでいたのが当時のおれだった。


 ――大体、勝手な予測だ。いくら変な確信があったにせよ、今の世の中で非喫煙者なんぞ気にしてやる必要性は欠片もない。時代は先取りしすぎても出遅れてもただの笑われ者に過ぎない。

 経営者たるもの、今を読むべきだ。


 それにどうせおれという人間に面と向かって文句を言うやつなど、どこにもいやしない。誰も「時永 司」に興味があるわけじゃないのはもうみて分かる。

 当然だろう。興味、好奇、嫌悪。あったところで、役割としてのそれしか見えていない。


 口が悪いが、頭の切れる成金。金の扱いが死ぬほど巧いドル箱。その分邪険に扱ったら恐ろしいが、とても好意的に見れるような性格はしていない。

 ――つまるところ、結局その程度の存在でしかないわけだ。

おれという存在は。

 否。多分、人間ってやつは。……生き物は。


「子供服なら。……あれが来る前に買っただろうが?」


 ……まるで透明人間みたいなもんだ。所詮人間なんざ、都合のいいトコだけしか見てやしない。そして見てなかろうが、世界は普通に回っていく。バブルがどうだろうが株やら土地がどうだろうが、就職率がどうであろうが何にしてもだ。

 「多少の痛手はあってもクソどうでもいいわ」と言えるだけのことをやらかしてきていれば。豪勢なこの生活を成り立たせるためだけの「収入」さえあれば。

 才能があれば。切欠さえあったなら。――きっとおれのポジションなんざ誰だって、なんだって構わなかった! そういうことに違いない。


「え? だってあれっぽっちじゃ足りないじゃない。私の満足感が!」

「お前の満足感優先かよ」


 少しムッとしたように。

 同時に、キョトンとしたように。


「モデルが来たら、追加したくなるでしょ?」


 ……まるで当然だとでも言うかのように。意味が分からないというように、「時永家」の正統なる本来のご当主様は首をかしげる。

 そう、本当ならこいつが本体だ。おれはたまたま雇われただけ。ただの素材、パーツ。婿養子なんていう社会的なシステムで紐付けされた何か。

 ……こいつだってそうだ。身の回りなんざ見ちゃいねえ。


「……てめえにとってこいつは着せ替え人形か何かか?」


 顎でしゃくると、その女は言った。


「当たり前じゃない?」


 ……けろっとした答え方が返った。ああ、確かにこいつにとって身の回りの全ては「そういうもの」だったのかもしれない。

 物心ついたときから、ものであろうが人であろうが、自らを飾り立てるものにしか見えないのだ。嫌味ではなく、ごく自然に。


 ――今から思えばだが、あいつは恐らく「何不自由ない」という環境に、ある種のこだわりを持っていたんだろう。


 何せやつは生まれ持ってのセレブリティ――名家中の名家として昔っから名をはせている「時永家」、それも先代ご当主お気に入りの長女さまだ。

 わがまま放題のお人柄。

 人に媚びたりしない割に、一見した上っ面だけは少しいいお嬢様。

 マイペースと暴走気味の性格をこじらせた挙句姉妹総出で嫌われ、見放され、最後の最後まで可愛がっていた先代のジジイですらこの世を去った。

 金儲けの手段に事欠かない、人を金としか見ていない。そんなブラックなクズ人間に寄生して生きるしかなくなってしまった、哀れな「お姫様」。


 ……わがままだったこともあり、甘やかされたこともあり。息を吸うように人を使う根性が身についている。自らが主役だと信じ切っている。


 戯曲や映画の主人公のように、どうせ困っていたところで誰かが助けてくれる……そう信じて何もしない。ただ、欲しいものは欲しいと要求するだけ。

 自らつかみ取ろうとなんて考えもしない、放っておけば転落していくだけのクソみたいな女。

 ……だからこそ、おれのような金儲けにしか才のないクズが逆に、相性がよかったのかもしれない。


 人が言う学校を出て、人が羨むブランド品に袖を通し、人が言う「お金持ちで羨ましい旦那さま」を得て、人が子供はいいよと言えば子供を欲しがる。

 ……ものを主張する割に自分がない。中身が空洞だろうが構わない。

 周りが好きなもので固まっていればいい。自立なんてしようとも思わない。そんな浅はかで、馬鹿な女。そんな女にとって、こいつは。


「…………」


 ……この、後部座席で何も言わない「可愛くない子供」は。

 残念な話だが……間違いなく、ただの「玩具」だった。


 ただ、他のガキより少し見た目が可愛かったから。

 ただ、他のガキより大人しそうだったから。他のやつより手がかからなさそうだったから。

 ――だから今、ここにいる。

 荷物みたいにして持ち帰っているし、持ち帰られている。


 何も言わない話題の中心人物、荷物もほとんど持たずに施設から引き上げてきたばかりの「その子」は何を思っているのやら、ずっと黙ったまま窓の外を見ていた。


 呆れ返ったおれは言葉を投げる。――何も言わないそいつが気に入らなくて。

 絶対カチンだったりブチッだったりが頭の中で鳴るに違いないことを散々周囲で言われているにもかかわらず、何も反応を返さないそいつが……本当にむかついて。


「お前も何か言い返せ」

「……。」

「……何とか言えよ」

「…………。」

「おい」


 ――無視。

 窓の外をじいっと見たままの、それ。

 ……ああ、今からイライラする。一体湊は何でこんなのを選んだんだ、死ぬほど可愛くない。


「…………。」

「ねーえー」

「……ああ。クソが」


 舌が鳴る。褒められたもんじゃない癖が半分無意識に出た。

 否、つまり。半分は意識的に出た。

 なんて酷い車内環境だ。今どきの日雇い労働者共や低所得者層だってもうちょっとマシな家庭環境を築いているに違いない。


「……頭が痛い。うるせーのと静かなのとどっちかにしろ」

「はぁぁぁ!? なんでよ、私のどッこがうるさいっていうのォ!?」

「ギャンスカ言ってるそれがだってんだクソアマが!」


 本当に煩い。だが知っている。こいつを操縦するには感情的になってはいけない。今はまだ、「時永」のブランドは必要だ。

それも特にここ数年はいい感じなのだ。いずれはあの会社ごと社屋や商標を売っぱらうにしても、この状態から脱却すべきではない。


「……頼むから騒ぐな湊。気が散る」

「嫌、お姫様って言って」

「はいお姫様。まずお前は帰り道静かにしたら賞金5万円」

「やだ、10万がいい」

「じゃあ10万」

「えへへ、やるー! 欲しいバッグがあるのー!」

「よかったな。安物買いの銭失いでも何でもしてろ、おれは忙しいんだ。構ってられるか」

「お金さえくれれば構ってくれなくてもいいわよ」

「うるせえバカ娘。金の国に帰れ」


 ……よし、まずアホが黙った。

 というかもはやお笑いだ。

 「うるさい」という自覚があるからそういう反応になる。


「次は――ああ」


 ……名前、何だったか。ついさっき顔を合わしたばかりだから何もまだ馴染んでいない。まあ馴染ませるつもりすらなかったが。


「じゃあ不愛想なクソガキくん。次はてめえだ」

「…………」


 ぴくりとそいつは反応する。自分のことだとは分かっているようだ。


「お前はそうだな、喋った分だけ500円やるよ。――調整だ、口が多いやつには黙らせて、口数少ないのは多くする。なかなかいいアイデアだろーが」

「……」

「そう思わんか、お前」

「…………」

「ほら、欲しいだろう」


 くたびれた財布を懐から出し、ふらふらと振った。


「いくらガキだろーが、金に価値のあることぐらいは……分かるだろ」

「……」

「覚えとけ。この世には金だけだ。金だけしかない」


 どうせこいつは、道具だ。

 玩具で、人形で、そのポジションしか欲されない何かだ。おれと同じに中身なんてのぞき込まれない。中身をこぼそうとすら思わない。


 ――そう、思っていた。あの目を見るまでは。


「現金主義の輩ばかりだ。金チラつかせて動かない人間なんざ、ほとんどいない」

「…………はい」


 ちいさく、ようやく返事が聞こえる。

 深く考えなかったが今から思えば……そりゃあ、そうかと納得もする。

 こいつは聞いている。見てもいる。いとも簡単に施設のトップが「買収」されたところを。


 ――買収された鈴木主任だが、あいつは後悔するだろうか?

 あの時の決断を。一人の子供を賄賂と引き換えに差し出して、目の前の事柄から逃げたことを。


 予算削減で金回りのよくない中に突っ込まれていく、行き場を失った子供の群れ。特にこの不況で余計に増えた、「経済的事情」とやらのしわ寄せ。それを一気に解決するだけの大金と引き換えに、一人の子供を差し出したこと。


 ……まあ、言うまでもないか。あんな弱り方をしていた性格だ。

 十中八九、恐らく一生残る傷になるだろう。「なぜあんなことをした」と後悔するに違いないが、それも今のこのガキには関係ないことだ。

 だからあれはそう、あの時の返事は――子供ながらに「納得した」という意思表示だったのだ。

 それもいささか悪い意味で。


「お前の雑だろう言葉選びで」

「……」

「雑だろう一言で」

「……」

「文庫本1冊が、買える」

「……。」

「なかなかいいゲームだろうが。なあ――胸が躍らないか?」


 そっぽを向いたままの目が、少し細まった。


「つまりだ……ガキの一言、500円で買ってやるっていってんだよ、ホラ、なんか言え。何でもいい、話せ」

「……」

「いい加減、そうやって黙りこくった状態を見んのもこっちは飽きてる。お前ならわかるだろ、犬っころだってそうだろうが」

「…………」

「ガキは犬好きが多いが、動きに多少興味はそそられても寝っ転がってスッスカ寝出したらもう興味も持てない。餌すら忘れる」

「……はい」

「そういう生き物だよ、人間ってえのは。……少しはこっちを楽しませてくれたってバチは当たんないんじゃねーのか」


 愛嬌を振りまくぐらい、やってくれてもいいんじゃないかね。


「……」


 ……しかし、なんて扱いにくいやつなんだろう。

 しかしあれほどいた子供から誰でもないこいつを選んだのは、あのバカ娘だ。

 金を出してまで引き取った手前、今更文句をいうことはできない。


「おい、お前……」


 ふっ、と。そいつはこちらを見た。

 ただ、バックミラーに映った、真っ黒なその瞳。


「……あ」


 初めて気付いた。そいつは……


「…………。」


 とんでもなくひどい目をしていた。悲しさだったり。諦めだったり。ガキの頃の俺だってそんなすさんだ目はしなかったろう。


 気圧された。

 いや、違うかもしれない。あれは……魅了されたと言った方が正しいのか。


「……なあ、お前。トイレとか大丈夫か」

「…………。」


 気付けば、そう口に出していた。……その、中身を見るような一言を。

 覗き込もうとするような、気遣う一言を。


「……食いたいものは」

「…………。」

「……欲しい玩具は」


 とにかく真っ先に理解したのは――そいつの『目』には、何も映っていないということだった。

 視力とかの話ではない。興味がないのだ。

 心が真っ白で、何もない。子供らしい我侭もまったくない。

 どこか悟った雰囲気もありつつ、まるで大人しいとしか言いようのないその子供に、ふと思う。


 ……何が、そんなに。



 ああ。そうだ。



 そうだったよ。



 ――その疑問はその後、何度も何度もリフレインすることになるんだ。



 何がそんなに悲しいんだ、って。







 ――今でも時々、あいつとおれを比べてみることがあるんだ。

 あいつのあのときの「子供らしからぬ目」と、ガキの頃のおれの、「死んだ魚みたいな目」。

 一体、どっちがマシだったかってな……


「ねえ、このあいだ『母の日』だったでしょ? あっくんはプレゼントあげた?」

「あげた!」

「つーくんは?」

「…………。」


 今でも……ふとした瞬間に「聞こえる」ことがある。

 「見える」ことがある。「触れる」ことがある。

 あの日のことが、トゲみたいに引っかかって取れやしない。


 記憶の情景が目の前を過ぎていく。


 そこにいる、田舎の林道でくさくさと歩く薄汚れたシャツを着たくせっ毛のガキは、きっとおれだった「何か」に違いない。


 黙り込んで石を蹴る、あいつ同様に愛想もない……可愛くない小学生だ。

 朧げに思い出すその姿は今から思えば、あいつに少しだけ重なって見える。


「ほっときなよ。つーくん、あげるような性格してないでしょ」

「そうだね、お母さんと仲悪いんだもんね」


 記憶の中の小学生が、にししっと笑う。


「でも、つーくんのお母さんだって理由があるから怒ってるんだよ、きっと? うちのお母さん、理由なくいじめてきたりしないもん!」

「…………。」


 ……普通は、そうなんだろうな。今でも時々そう思う。


 思えば本当に、ロクな子供時代じゃなかった。

 ド田舎の、古びた大きな「歴史ある」屋敷。昔からの名家というやつだ。それも3兄弟の次男。半端な生まれ方だと最初から思っている。半端なポジションだったと。

 これが長男だったらまだ違ったかもしれない。これが、末っ子だとしたら……やはりまた、扱いは違ったかもしれない。

 何でもそこそこ有名な武将だったなんかの、直系の子孫だとかで……妙に外面と恰好を気にする家だった。世が世なら、というやつだろう。

 ……まぁ、家柄とやら同様そこそこ立派で古い屋敷こそ持ってはいたが、そこまで金があるわけじゃあない。名が売れているだけの、ごく普通の一般庶民。


 おれ単体が……大人になった今でこそ金持ちだのなんだのといわれているが、結局実家なんてそんなもんだ。


「あっくんは何したのー?」

「大したことしてねーけどさあー」


 顔も覚えていない「あっくん」が振り返る。


「おこづかい足りなかったからさあ、結局なんか買うとか、ぜんぜんできなかったんだー」

「じゃあ、どうしたの?」

「しかたねーから、紙飛行機折って入れといた!」


 だっせぇ!! あのときは何となくそう思ったような気がした。

 ――自分のことは棚に上げて。何もあげていない自分が、何だかちょっと、恥ずかしくって。


「それもただの飛行機じゃないぞ! この間トシちゃんから教えてもらった、ちょっとかっこいいやつ!」


 ――格好良かろーがガキの工作だろう。

 要らないと言われて結局、ゴミ箱に捨てられるのがオチだろうが。


「すごいね! あっくんのお母さん、どういってた!?」

「『何これ』って……」


 そうだよ。どうせ。


「捨てられ――」

「笑われた!」


「……え」


 びっくりした。

 ……笑うのか。ただの紙飛行機で。

 たかが紙を折ったぐらいのもので……他の家のお母さんは、笑顔を見せる。


「笑ってくれたんだ」

「よかったじゃん」

「……お母さんたち、私たちが笑ってくれたら何も要らないとかいうけどさあ」


 ……そんなもの、言われたことがない。そう口には出せなかった。だって、目の前のそいつらは違う何かに「飼われてる」んだ。


「私たちも要らないよねえ」

「…………。」

「あ、私、お花! お花買ってお母さんに渡したの!」

「定番だよねー」

「女って花好きなやつ多いよなー」

「……!」

「喜んでもらえた?」

「もらえたよー! 綺麗だねって」


 くせっ毛がピクリと震える。

 そうだそうだ、確か……そんな会話を聞いたのだったか。

 あのときはそう。


 少しだけ、魔がさした。


「あれ? いつの間にかつーくんいなくない?」

「本当だ」


 後ろから聞こえる、声。


「いいや、無視して帰ろう」

「寄り道ばっかりしてるからお母さんに嫌われるんだよ。私もたまに怒られるもん」

「怒られてばっかりだから嫌われちゃったのかな」

「懲りないもんねえ」

「ほっとけほっとけ」


 ……そうだ、どうせ友達なんていやしない。方向が同じだから一緒に帰らされているだけだ。

 だから誰も追っかけてこない。心配もしない。怒ったりすらしないんだ。


 勿論、それで構わない。だって、みんなおれのことなんか分かっちゃいないんだから。

 見てもいない。感じてもいない。だからおれをバカにする。

 ――きっとおれが悪いから、「悪い子」だから愛されないのだと。


 一人雑木林に分け入って、山の上の城址公園を目指した。

 あそこならたくさんあったはずだ。……野花が。白い、小さなボールみたいなアレが。

どうせ雑草だから勝手につんだって怒られやしない。そう思って必死になって、束になるまでかき集めた。


 小さくて地味な、あの白い野草を。


「母さん!」


 即席の花束。……まだあの時は「ありがとう」というつもりだった。

 嫌いなのに置いてくれてありがとう、なんて口からあまったるい黒砂糖が出そうな文句をだ。

 「家に置いてくれてありがとう」なんていうガキはいない。

 ――普通なら、「発生」すらしない。

 後で知ったことだが、おれだけ唯一、母親とは血がつながっていなかった。死んだ親父が半端に認知して引き取られた、「浮気相手の子」。

 きっとそれで、あたりが強かったのだと今ならわかる。


 ――とりあえず、母親がおれを嫌っていたのは最初から知っていた。

 嫌いなものと顔を合わせるのは気分が悪いであろうことも、子供ながらに理解していた。だから……あの時は。


「母さん、見て」

「捨てといで」


 間髪入れず言われた一言が、まるでナイフのようだった。

 小学校の帰り道につんだ『白詰草』が、パラっと地面に落ちた。


「……そんな金にもならないゴミ、置いておく価値もないだろう」


 要らない、と言われて。

 そう、と返した。


「……まったく、そんな汚い草で私を買収できるとでも思ったのかしらね。中身も外身もそろって、出来の悪い子どもだよ」


 つんできたのと同じだ。落ちたそれを真顔になって掻き集めた。素直に、言葉通りに捨てに行った。

 ……ただ、それだけのやりとりを……どうしてずっと覚えているんだろうな。

 傷ついたから?……違う。凹んだから?……もっと違う。


 おれはあのとき、何を思っただろう。

 すっかり折れた花束を抱えて、潰れた白い小さなボールをかかえて。


 一体、何を?


 あれから何年も経つのに、あのときの光景は、言葉は。

 どうして脳裏にこびりついている?





 そういえば……あとで誰かから聞いた話。白詰草は「幸運」を意味する花だったらしい。英語でいえばクローバーだ。きっと四つ葉のイメージだろう。

 見つけるのが難しい四つ葉のクローバー。だが、それは普通の三つ葉であろうと、人に手渡せば「幸運」を意味しているという。

 手渡した相手の幸運を祈る。そんな野花。


 ……ああ。イライラするほど似合わない。

 そうだな、おれらしくはなかろうよ。人の幸運なんてひとつも祈ったことはないんだから。少なくとも口に出しては。


 「くたばっちまえ」とかそういう意味の花でもあったなら、きっとおれにはそっちの方が似合っていたんだろう。

 あの時に白詰草を渡そうとした相手とは、最終的には顔を合わせるたびにそう言って罵り合う間柄になっていたんだから。気が合わなかった、反目しあった、蔑んで憎みあって、そうして何も言わなくなった。


 結局あの他人ババアがあの後、何度おれが手を差し出したところで……受け取ったのは、「現金」だけだった。



 あれはそう、中学の頃の話だ。

 近所のおっさんところの人手が足りないっていうから、サバ読んで高校生だと嘘をつき、こっそり働いたことがあった。それの1ヶ月目。

 ……手渡しでそれが渡されて、また魔がさした。思い出したからだ。


 「金にもならないもの」。

 白詰草のとき、そう言われたのを思い出したから。


 金になるものだったらいいのかよ。

 むしろ、本物の金だったらどうなんだよ、と。



「……あんた、今度は何をやらかした?」


 花束ではなく、金の束。五千円札を不気味そうにつまんで、だが一応、叩き落としたりしない様子にホッとした。


「……知り合いの工場、手伝ったんだ。そのお礼だって」

「……へえ、嘘はついてないだろうね?」


 ……少しだけとげとげしさが薄れた。

 ああ、そうさ。記憶の中のくせっ毛は笑う。お望み通りだろ、クソババア。

 “金にもならない汚い草で、買収できるか”。

 お前は昔、そう言ったんだぜ。


 そう、おれはその時始めて……人間を「買収」してやったんだ。


「……それでさ、美味いもんでも買ったら?」


 多分、あいつらなら喜ぶだろう。普通に可愛がられて育った兄貴なら。弟なら。……晩飯が豪華になったら、意味など分からずはしゃぎ回る。

 目の前のクソババアがそれを満足げに見る。

 そんな光景も何となく想像はつくから、口走った。


「……もらっとくよ」


 札束は懐に消えた。なるほど、と理解した。

 ……「人の気持ちは金で買える」。

 言葉なんていらない。気持ちなんていらない。通じたりなんかするわけがない。

 結局はそれでしか人の心は動かない。


 ……だから「何をしたらどれだけ金を稼げるか」というところに思考が行きつくのは多分、自然の摂理ってやつだったんだ。


 ああ、その後は金になると思えば何でもやったさ。

 人の復讐に加担したり、ヤクザの替え玉をやったり……だからこそ気がつけば、地元では有名になっていた。それも悪い方で。所謂悪名高いというやつだ。


「なぁなぁ、お前何組だった?」

「あ、うん1組」

「1組? もしかしてあの鉄砲玉の司がいるところじゃねえの?」


 そうだな。

 高校でもよく、陰口をたたかれたっけか。


「え……ハブられてんのがいたけどもしかしてそれ?」

「知らないのかお前。この区で名を轟かしてる有名なワルなんだよ」


 飯時に聞こえてきた噂だったか。すぐ近くに当人がいるとも知らずに、大きな声で盛り上がる同学年……


「ぜってえ近づくんじゃねえぞ、こえーからなあいつ。……なんでも小学校の時に道端歩いてたヤンキーに喧嘩売っただの、中学んときは暴走族とかヤクザに首突っ込んでただの」

「うんうん、エピソードに事欠かないから。絶対絡むな」

「な、何だその悪い噂バーゲンセール……変なクラス入っちゃったかな、俺」

「諦めろ、お前のクラスは生贄のクラスだよ!」


 ……そんな感じで地元で有名だった「鉄砲玉の司」。

 ヤクザやら不良共やらと金でのつながりが多かったから、金をもらえばどこにだって殴り込みに行ったから。

 そんな振る舞いがいつの間にか、そんな異名になっていたのを知ったのは高校1年の頃だった。

 訂正するのが面倒臭いので何も言わないのを良いことに、学年が変わるといつもこんな調子で噂されたが。

 ……一応、今更思い出してみると……中身は割と違うことが多かった。

 「ヤンキーに喧嘩を売った」のはコンビニにたまってる色彩豊かな御仁が小銭を落としたのを目撃し、親切にも指摘したところ何故か掴みかかられただけの話だ。


 ……確かに当時はおれも訛っていた。

 中国地方丸出しな言葉遣いをする隣家のジジイとは中学上がるちょっと前ぐらいから、割と頻繁に金の貸し借りをする仲になっていたし。休日なんかは競馬場やパチンコ屋に忍び込んでいたのでよく話した。

 だから、いつの間にか思いっきりそれが移っていたのだ。

 そしてそのせいで変な勘違いをされたらしい。

 どうやら「何やってんだお前、小銭落としたぞ」って方言が、当時のヤンキー言葉で曲解すると何故か「お前に喧嘩売っていい? 小銭落としたぞ」という意味にもなるらしい。

 東京弁に直すとこうなる。


 ――「てめえこんなところで何してんだあぁん? お金落としてますよー大丈夫ですかー?」と。


 こう表すと確かにふざけているが、逆に考えてみよう。……ヤクザ映画の見すぎではなかろうか。

 ちなみに当時のおれ実物は、確かこう言っている。


 ――「ワリャア何しとるんじゃあこんな所で、銭ぃ落っことしてぇ」


 その上訛りに訛った爺さんの真似をしていたせいで使っていた二人称の「ワリャア」って言い方も良くなかったと。

 ……これも一部の田舎限定で都市部に行くと「てめぇ」とか「キサマ」とかと同じ意味になる。

 つまりはなんだ、とっても上から目線だ。


 ……ああ、もういい。誤解されんのは慣れてるさ。


 あと、「ヤクザとお友達」はおれがいると何故かいつも殺伐とした雰囲気になる家族と風呂に入るのがどうしても嫌で、中学のときはじめて銭湯に行ったのがきっかけだ。


 何故か銃を持って一触即発の空気を作ってる暴力団幹部がいて、思わず「風呂にチャカ持ち込んでサバゲーする大人がどこにいんだよ」と呟いたところ、おれの不躾な物言いが逆に気に入られてコーヒー牛乳をおごってもらっただけなのだ。……まあ、殺されなくて助かったがあれで変な箔がついた。


 ああ、もういい。本当に慣れてるさ。


 バカにされたり誤解されたりけなされたり。いつものことだ。勝手に噂していればいい。勝手に持ち上げて、勝手に落としておくといい。

 おれはただ、それを放っておくだけだ。

 ついでに思い出せば、そんな妙な噂全盛期の高校時代……最寄のバス停でボコボコにされていた別の学校のいじめられっ子と鉢合わせしてしまったことがある。

 我ながら妙なタイミングに出くわしたもんで、「どうしたもんか?」と思っていたら、いじめっ子リーダーが勝手に震え上がって逃げていったので実質助けてしまった格好になったが。まあ、その時は珍しく感謝された。


 ……情報弱者っていうのはこれだから困る。何と誰を指してるのかっつーと両方だ。


 いじめ野郎どもはまず、おれを噂だけでこの辺の裏番みたいに思ってやがったのが阿呆だったし、助けてしまったほうのボンボンは……おれに向かってきょとんとした顔をして……次の瞬間、普通にお礼を言う根性がまず阿呆だった。

 ちっとは警戒しろボンボンが。わけのわからない噂が立ってるやつに普通に絡むな。


 ……まぁ、ついでに冗談で「お前よく見かけるし、小銭でもくれるんだったらまた偶然通りかかってやらんでもないぞ」と暗に「よく絡まれるんなら雇えよ」と言ったら黙りこくられたが。

 更には彼女らしい三つ編み娘が遅れて登場し、思いっきり黙って引っ叩かれたが。……もしかしたら新手のカツアゲと間違われたのかもしれない。


 ……そういえば、その三つ編み娘とはその後、ひょんなことから再会したんだったか。

 夏に入ってすぐ……ボンボンと出会ったバス停で、暑さをしのぎながらアイスをかじっていて、声をかけられたのだ。


「ねえ、あんたがこの間絡んでた、クマさんみたいな男の子、知らない?」

「は?」


 黒いセーラー服の三つ編み娘。見覚えのあるやつだとは思っていたが、思い出すのに時間がかかったのは覚えている。更にはまさか向こうから声をかけてくるとは思いもしなかった。


「……おれからは絡んじゃいねえが。もしや、あのボンボンか? あのちょっと丸い、人の良さそうな」

「そう、そのちょっと丸い、人の良さそうな。帽子の後ろにすっごい丁寧な字で自分の名前が書いてあるド丁寧なやつ。馬越慎治って」

「……名前までは見てねえわ」


 そう言いつつ目線を下におろしていくと……よくよく見れば。


「……白詰草」


 彼女の手首には、見覚えのある白いボールが数珠のように括り付けられていた。しかも無駄に2つも。

 花の名前を呟くや否や、三つ編み娘は慌てたようにそれを隠した。


「ちょ、何よ鉄砲玉!? 踵落としの栄子がこんな乙女なことしちゃ悪いってぇの?」

「んなことは一言も言ってねえだろうがよ。……っつかてめーも変なあだ名ついてるクチかよ、三つ編み不良セーラーさん……」


 「踵落としの栄子」はムッとした顔をした。


「いや、アンタにだけは絶対言われたくないんだけど? アタシの場合不良ってか、義賊みたいなもんよ」

「義賊?」

「どっちかっていうとアンタらみたいな絵に描いた不良ちゃんをボッコボコのぎったんぎったんに成敗する側ってこと」

「私刑万歳の偽善者かよ……おっと失礼。自称正義の味方かよ」


 他校にそんな面白いアホがいるとは知りもしなかったし、大して興味もなかったのだが。

 その時は何となく、暇だった。


「今どきの女子高生は訳の分からん商売すんな」

「何よ商売って」

「金つまれようがキツネにつままれようが、そんな役割はゴメンってことさ、おれだったら」


 目の前の回想……くせっ毛の高校生は、憂鬱そうな顔でアイスの棒を吐き捨てた。


「しかし可哀想な女だな。喧嘩ばっかするから変なあだ名つくんだろーが。アンタの嫌いな不良とひっくるめられて」

「……ぜんっぜん納得いかないけどね。あとその場に捨てるな。ゴミ箱。ほら」

「おれは納得しかしないな。そして細かいなお前は」


 近くのタバコ屋を指さされて渋々、レジ横のくず入れにアイス棒を投げ入れる。


「……で、そのクマさんみたいな彼氏くんがどーしたってんだ?」

「……あんた意外と素直ね。いや、彼氏くんなわけないでしょ。一応は幼馴染よ、幼馴染。ただ帰り道が同じだから……委員会で遅れるって言ってたから、待ち合わせ場所の公園で待ってたんだけど。なんかいつまで経っても来なくて」

「公園の花で腕輪作ってたと」

「うるさい」

「今日だけちょっと、乙女でメルヘンな栄子ちゃんだった、と」

「いやうるっさいわ!! くぉらっ」

「うお、怒った!」


 一瞬で振り上げた足が落っこちてきたので横に避けたが、振り返ったところでスカートの中身はジャージの短パンだった。……ああ、蹴り慣れっぷりが見て分かる。


「……いいでしょ花冠だのブレスレットだのいろいろ作ってても! 最終的にはたすき掛けまで作ってたわよ!」

「……別にそこまで白状しろとは言ってないが」


 ……まあ、確かに目の前の三つ編み少女には花遊びは似合わなかろう。どれかというと気が強くて、男勝りの正義感。花遊びのヒロインより、チャンバラヒーロー的な遊びが似合うのがこの類の女だ。


「ったくどいつもこいつも! アタシを見るや否やなんだってんじゃ!! 笑うか戦線布告するかどっちかにしろっての!」

「あん? 戦線布告だ?」

「そう! たまにいんのよ、アタシらをていのいい腕試しに使うバカな不良どもが!」


 そうそう、思い出した。この時はそうだ、現在進行形だ。

 はっはーあ……とおれが指をさす。


「で、今まさにその状態と」

「ぐっ……」

「で、花冠で爆笑したパシリの三下くんは、お前に何を言ったって?」

「……『お前の彼氏は預かったから紫苑(しおん)金属の廃工場に来い』って」


 ……いっそ清々しいほど捻りのない挑戦状じゃねえか。


「そりゃあアレだ、てめえのせいじゃねーかよ、踵落としちゃん」

「む……」

「てめえの喧嘩がバカっ強いから。あと、妬まれてるから、憎まれてるからだよ、正義の義賊」


 ちらっとでもその目を見れば、何となく中身は察せられる。大方こいつは目の前で「もめ事」があれば、必ず首を突っ込まざるを得ないタイプの人間だ。

 人の悪事は許せないし、許さない。困った人間も見捨てやしない。生粋の善人。身の程なんかわきまえたことすらない上、わきまえる必要性がないほど腕っぷしも強い。

 そんな類の……傍から見れば大馬鹿。


「今まで散々悪党を成敗してきた……そんで、不良学生は男女関係なく捻りつぶしてきたつわものだってか。その様子じゃ」

「…………。」

「喧嘩の強い女子なんて珍しいよ。それも口喧嘩じゃなくて殴り合い、格闘のそれだ。どれだけの我を通してきたらそうなるってんだ、お前。……手の形が人を殴り慣れてるやつのそれだよ、足もそうなんじゃねえの、踵落としの栄子ちゃん」


 さっと三つ編み娘が右手を隠した。ただ、その目は涼しいままだ。何を考えているやら分からない。


「で、呼び出してる場所が場所だ。広すぎる。多分相手は複数だぜ? 何人だろうが勝てば官軍負ければ賊軍、そう思うぐらいまで相手は頭に血が上っちまってんだ、何したっていいからあんたに勝ちたい、そう思ってんだよ。――健気な話じゃねえか。勝ったら箔がつくと思ってんだ、ちっさい不良のコミュニティの中で、だっせぇ箔が」

「……だっせぇ箔……そう、アンタ、そう考える人間なの? そんな立場にいて」

「立場だ? 単におれはおれのルールで生きてるだけだよ。外野が勝手にアレソレ言ってるだけでな」


 しかし、紫苑金属……廃工場……


「――悪くねーチョイスだな。おもしれぇ」


 その時、くせっ毛のガキはニヤリとした。あそこはかつておれが「手伝ってた」トコだ。

 資材が置きっ放しだろうが、一応中身は熟知している。


「……出血大サービスだ。時給、400円」

「……は?」

「雇われてやるよ。アンタが倒しきれないと思ったらな」

「……確かに相手はチンピラでしょうし、大人数だとは思うけど。まいったな、噂ってマジなのね」

「噂?」


 踵落としの栄子ちゃんは呟いた。


「『人の命は金で買える』……鉄砲玉の司はそう思ってる。なんでも金を渡せば解決してくれるし、恩を押し付けて金をせびることもある」

「……ほお、そういう意味の噂。で、それのどこが悪いってんだ?」

「アホの極みよ」


 真っ直ぐな目でこっちを見ながら罵倒された。

 ……何故そこまで言われにゃならんのかね。


「いや、別にいいけど。それぞれ、事情ってやつがあるでしょうし。あと今回は使える……わかった、乗った。相手が9人以上ならお金は払う」

「8人以下なら?」

「払わない」

「8人は倒せると?」

「……普通のチンピラだったらね」

「……わかったよ、様子見て8人だったら帰る」

「本当、不気味なぐらい物分かりのいいやつだわ……」


 呆れたように呟いた踵落としちゃんは、ふっと自分の手首を見たらしい。

 ……白いボール。


「……ねえ、鉄砲玉?」

「何だ」

「これ、すぐ白詰草だって言ったでしょ。意外と花好きなんだ?」


 呆れ、その直後に半分、からかうようにこちらを見た顔。なんてこった、結構余裕がありやがる。


「……誰がそんなメルヘンな趣味してんだよ」

「じゃあ、白詰草の花言葉知ってる?」

「知るかよ」

「そう、よかった」

「……よかった?」

「人に贈る花には大抵意味があんのよ。アンタからその意味、あいつに勝手にバラされたらなんか、腹立つでしょ?」


 ああ、あげるつもりだったのか。この花輪。あいつというのはあのボンボン……馬越くんのことだろう。もしかしてあれは男友達にからかい交じりに進呈するつもりで黙々と編んでいたのだろうか。

 この武骨な殴り拳で作っていたとすると、可愛いというよりは怖気が立つが。


「……意味?」

「白詰草の花言葉。いくつかあるんだけど……1個は『幸運』っていうの」


 ……そうだ。あの時だ。

 あの白いボールに……人に差し出した白詰草に、『幸運』という意味があるのだと知ったのは、あの「踵落としの栄子ちゃん」が最初だった。


「ただアタシは、あいつにラッキーがあるようにって祈ってただけ。アタシとつるんでるってだけでチンピラに攫われるぐらいだから、まあそこそこアンラッキーなやつだけど、それでもさ……」


 その子はふっと、明るく笑った。――綺麗な顔だった。


「……大切な、幼馴染なんだよね」



 ……その後のことは言うまでもない。

 無事に工場についたが、中身はなんと15人だった。地域の不良がそろい踏みだ。どれだけのゴタゴタに首を突っ込んだらああなるやら……。

 更には隣町のアレなやつらもいたが軽くのした挙句、ここが元々ヤクザの息のかかった工場で万が一、今すぐに持ち主が戻ってきたらどうなるかを懇々と説明してやると、大概は尻尾巻いて退散していった。



「……あ、すみません、どうも……お騒がせしてます」


 改めて顔を合わせたいじめられっ子の馬越くんは、ペコっと会釈した。相変わらず空気が読めないようで、困った顔をしつつ待っていたらしい。

 気が弱そうに見えて割ととんでもない図太さだ。怯えも何もしていない。

 というか、もしかしたらこういう状況に慣れ切ってしまっているのかもしれない。……お前はあれか、映画でよくある囚われの姫様か何かか。


 ……囚われのクマ。いや、違和感が半端ない。逆じゃねえか思いっきり。


 とりあえず廃工場近くの電話ボックスに直行し、帰宅が遅くなったことを報告している踵落としちゃんをよそに……おれはふと、出来心で聞いた。


「なあ、馬越くんよ」

「はい?」

「白詰草の花言葉って知ってるか」


 子グマみたいな体格をした高校生はきょとんとした顔をした後、緑の電話相手にペコペコしている踵落としちゃんの手首を見て、納得したように自分の手首を撫でた。

 「逃走者確保!」とさっきふざけながら手錠がわりにつけられた、少し潰れたお揃いの白ボールを撫で、暫く考えた末――ぷっ、となぜか噴き出した馬越少年は和やかに言う。


「まあ……その、いくつかあるんですけどね?」

「ああ」


 さっきも言っていた言い回しだ。幼馴染というだけあって変なところだけ似ている。ひどく落ち着いた、穏やかな喋り方だった。


「1つは『幸運』だって、栄子ちゃんが読んでた本に書いてありましたよ」

「それは聞いた。他には?」

「さあ……」


 馬越くんは大きく息を吐いて、ふふふ、と意味ありげに笑った。


「どうだったかな。……忘れちゃいましたね!」


 明らかに、その言葉は「嘘」だった。

 だって迷ったような雰囲気が微塵もない。答えを探すような頼りなさが全くない。おっとりとした口調ではあったが、あれは性格だ。……でも、しっかりした顔だった。

 とても穏やかで、優しい目つき。あんな顔を浮かべる人間もいるのか、と今でもふっと思う。

 あれはありふれたものではあるんだろう。噂には聞く。だがこの目で見たのはあの時、一度ぐらいしかない。


「……あ、ちょっと! アンタたちなんか変なこと喋ってなかった?」


 電話が終わったらしい踵落としちゃんが目をつりあげて帰ってくる。小銭入れがパッカリあいたままの二つ折り財布を見るに、十円玉を使い果たしたらしいことが何となく見て取れた。


「いえいえ……何も喋ってませんよ、ね? 司くん?」

「え?」


 にこ、とこちらに目配せするいじめられっ子に、なぜかみるみる真っ赤になる踵落としちゃん。


「……そ、そういえばアンタ! 鉄砲玉!」

「? へいへい」

「時給400円とか言ってたっけ、報酬よね。とりあえずちょっと待って。……今手元にないから、家に帰って貯金箱割ってくる」

「えっ……栄子ちゃんまたそんな訳の分からない約束を」


 ようやく驚いた顔をする馬越くんに、思わず笑う。

 ……ヤンキーにはビビらずに金額にはビビるのかよこいつ。


「……いや、いい。とっとけ。たった400円だ」

「え、でも……多分」


 公衆電話横。近くに見える公園の時計を彼女は指した。

 周囲はもうとっぷりと日が暮れて、あれから1時間半は経っている。馬越くんが呟いた。


「栄子ちゃんが工場に入ってきたところから換算すると、400と、200。……600円」

「いいって」


 不思議と、貰う気が失せたのは覚えている。

 ……あの馬越くんの顔を見たら、なんとなく場違いのような気がしたんだ。

 よく分からんがおれだって、空気ぐらいは読む。きっとあの瞬間、何かが起こったんだろう。この2人の間に……何か、きっと大切なものがつながった。


「……そう?」

「ああ、なんか気が抜けた」

「ふーん」


 ふ、と踵落としちゃんは何か思いついたように目をあげた。


「……ねえ、鉄砲玉。アンタ、これからもお金があったら何でもやるつもり?」

「まあそうだな」


 さっきは興が削げたので断ったが、根本的な考え方は変わらない。

 人の気持ちは金で買える。なら、集めるしかない。

 金を集めるということは「心」を集めるということだ。人を買収して、動かして、そうして生きていく術になる。

 金こそ全てだ。


 ……踵落としちゃんはニヤリと笑う。


「……じゃあ、きっとろくな死に方しないわね?」

「あの、栄子ちゃん?」


 とんでもなく苦笑いしながら馬越くんが割って入る。

 多分、喧嘩になると思ったに違いない。それもよくある流れのようだ、止める手が慣れている。


「司くんのことがあんまり気に入らないのはわかるけど、そういう言い方ってトラブルの元だからやめたほう、がッ」

「うるせえ」


 別にああ言われたからといって怒りはしない。見くびられては困るので馬越くんの首に軽く手刀を打った。

 ……踵落としちゃんだっておれが怒らないと踏んでの発言だったのだろう。冗談だと思ったらしく、ぶっ、と噴き出した。


「……今のはやられて正解じゃないの、しんちゃん」

「ひどいよ!?」


 ……まったく。


「覚悟がなってねえぞてめえ」

「か、覚悟?」

「そう。その子は正しいことしか言わねえ。その正しさが人を抉ることも確かにある。嫌味と間違われることも。そしてそれを知っている。知っていてわざとやっている、ひでえやつだ」


 そんなやつと長く一緒にいるぐらいだから。振り回される覚悟ぐらいあってしかるべきだろうが。


「その正しさ、ケチつけるぐらいなら別れろや。どうせなら全部言わせてから尻拭いしろ。……実際、言ってることは事実だよ。このままだとろくな死に方もしねえ。それは知ってる。事実だから怒らないのさ」


 ん、と踵落としちゃんは興味深げにこちらを見た。


「……おれにはおれの考え方があるように、この子にはこの子の考え方があるだろうが。気に入らねえもんは気に入らねえと主張して、何が悪い」

「……あ、なるほど」


 何かに納得したらしい踵落としちゃんは一言呟くと途端、何故かクスッと笑った。


「そうなんだってさ、しんちゃん。そういうやつよこいつ? 人を曲げられないっていう言い方してる時点で自分が曲がらないのよ」

「よく口が回るな」


 確かにこの言い草だとトラブルメーカーだろう。自分と同レベルに人を誤解させるやつを始めて見た。と言っても目の前のそれは確信犯だが。人を煽って、取り繕ったその下の人間性を観察しようとするタイプのひねくれ者だ。


「曲げられないんだもん。これ、あれだわ。何かとっても大きいことがないと変わらないわ」


 ……“何かとっても、大きいこと”。

 そんなもん起きようはずもないとおれはその時思っていたはずだ。

 だが、何を知っていたのやら、もしくは何を察したのやら。面白げに踵落としちゃんはペラペラと呟いた。


「例えばとてつもなく大切なものを見つけるとか。好きな人に出会うとか、子どもができるとか。……よくわかんないけどそういうやつ!」

「できてたまるか、ろくな人間生まれねえや!」


 あれ、そう? そう言ってけろっとした感じで踵落としちゃんは言う。


「でも、まあ……今回のこともあるし。アンタが死んだ時はいの一番に駆けつけてやるわよ」

「は?」

「アタシさ、アンタが言ったとおり正義バカなの。警官になるつもりだから」

「……こんなことになってまで懲りてないって?」


 ニヤッと踵落としちゃんは不敵に笑った。


「それこそ性分ってやつよ。確かにこっちも曲がんないの。不正もいじめも見たら叩きのめしたくなるのよね」

「……知ってるか」

「何よ」

「正義の反対は、別の正義だ」

「それが何か?」


 けろっとした明るい表情で三つ編み娘は至極、まともなことを言った。


「アタシはアタシの正義を貫くもの、正しいものでありたいと願う気持ちは本物だし、違うと言われたら滅びるだけよ」

「……やられる覚悟も持ってるってか」


 ――違うと言われる覚悟も持っている。反対意見も募集中。本気で自分が間違っているならば、いつか自分は裁かれる。

 彼女は、そんな人間だったらしい。


「そ。だからこんなわけのわからないことで懲りやしない。ともかく、アンタがこれからもし変な死に方したらよ? きっと真っ先にすっ飛んでってアンタの無念をはらすか、自業自得なら笑ってやる

わ。……アンタなんてどうせ変な刑事事件に巻き込まれて、なんか大量に血ぃ噴き出しながら死ぬのがオチよ」

「なんだそりゃ……」

「つまり、死ぬ間際にぐらいならお礼するって言ってんの」


 ハ、と高校生の頃のおれは呟いた。


「そりゃあ随分と遠い約束だな。しかしお前はあれか、あらかじめこの借りはこうして返すって決めとくタイプか」

「アンタの性格上、形のない貸しにしといたらろくなことにならないでしょ。悪事を見逃せとか証拠品でっち上げろとか」

「……あー……」


 確かに、そういう人間かもしれない。


「ま、少なくとも今言ったのは、600円の代わりになるんじゃない?」

「無念を晴らす、ってやつか?」

「そう、アンタが自業自得で死んだなら笑ってやる。……アンタのせいじゃなく死んだっぽいなら、原因見つけて墓前に突き出してやる」


 踵落としちゃんはそう言って、ひどく失礼な未来展望を押し付けた。


「アンタ友達いなさそうだから、死んだところで笑うやつも泣くやつもいないんじゃないかなと思うのよね。一人で死ぬよりはマシでしょう」

「……ああ、そうかよ」


 ひどく失礼だ。確かにそう思ったのだが、何故だろう。

 そのとき、なぜかホッとしたんだっけな。


「……好きにしろよ、正義バカ」


 だってあいつはちゃんとおれの中身を見ている、比較的珍しいタイプの人間だったのだから。


【(現時点での)キャラクター紹介】



・時永 司


 本編第1部での悪役、時永 誠の養父。戸籍上はミコトの祖父にあたる。

 「人の心は金で買える」が信条で養護施設から誠を引き取る際、渋る職員に大金を払った経緯を持つ。(→第1部「0.目覚めたものは神か悪魔か」)


 常に一歩引いて俯瞰する癖がある為か直感が妙に鋭く

 ・人の目を見れば心根がわかる

 ・2人に1人がタバコを吸う時代に「タバコは廃れる」と発言する

 ……等、ある種先見の明のようなものを持っている器用な変わり者。

 だが、幼少期の経験上誰かに接する際は斜に構えがち。それもあって結果的には「人を信用しない」=「逆に人に信頼されることがない」=「誤解されやすい」という性質を持っている。

 唯一他人から一目置かれているのは「彼に任せておけばお金を確実に増やす」ということぐらいだろうか。


 ……そんな彼にも意外なことに、一つだけ「好きなもの」があるのだが……

 本作はそれに絡めて、ある人間の「心」が壊れる瞬間を描くお話。

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