4.暗闇。
……ここは、どこだろう……?
どうしよう。
真っ暗だ。
――誰もいない、心細い、寒い、冷たい。
誰か、誰かいないの……?
馬越さん、イヌカイさん……ねぇ、イツキ。
誰か、誰か答えてよ……
私を1人にしないで……
「――なぁ、娘よ」
誰……?
聞きなれない声だ。
聞きようによっては自分より幼いかもしれない。
でも不思議と何百年、何千年と生きてきたような気もする、そんな少年の声。
「お前の望むものは、なんだ?」
私の……望むもの?
決まってる。
イツキと、イヌカイさんと、馬越さん。
3人と一緒の、静かで楽しい笑いのたえないいつもの日常。
「ははっ……呆れるな。反吐がでる」
その瞬間……少年の声が質量を持った。重量を持った。
そう思うのは、音が近づいてきたから? それともそれに……「気持ち」がこもっていたから?
「――それは、本当にそうなのか?」
……え?
「思い出してもみろ。お前は消える前の父親に対して、どう思った?」
どうって……私は……
――寂しかった。相手にしてもらえない事が悲しかった。
――父親を名乗るなら もう少し私のことも見てよ
――信じられない。こんな人だったなんて。
驚いた。
……ハッキリと、自分の思考が見えた。それも文字で、文章で見えたんだ。
その時の感情が、一瞬にして甦る。
「お前が覚えた感情は、数えてみると……いち、にい、さん……」
ゆったりと、少年の声は数えた。
……やがてその声は数ではなく、「中身」を読み始めて……。
「願望、失望、悲しみ、哀れみ……殊勝なことだ。お前は父親に対してこう思ったのではないか?」
紐解くように。ほどいて逆に、そのいとを組み合わせて編むように。
少年は口を開いたんだろう。
「……“可哀想”だと」
私はびっくりした。
……そうだ、確かにそう思っていた。あの人が……可哀想。
「そう……もし時を巻き戻せるなら。全てが変わる前の分岐点からやり直せたなら。そう願った。感じた。その僅かな夢物語に、思いをはせた」
そうだ。だって、私は見てしまった。
あの『赤い手帳』を。本棚の隙間に隠されていた「過去」を……読んでしまったんだ。
知らない物語がそこにはあった。私もイツキもイヌカイさんも。否……今では一人だけが知っている物語が……そこにはあった。
「父親に人としての愛を知って欲しいと……そう思ったのではないか?」
……そうだ。
確かに私は「心の底」で、そう思っていた。
――だって、あんなのってない。あんな悲惨な物語、あんなあっけない物語。どこにだって転がってるわけがない!
彼は私と同じだった。ただ、幸せに生きたかっただけだ。
知らないものを知って。
過去を乗り越えて。
それから、普通の幸せを手に入れたかっただけ……
「そして、愛を知った父親にはせめて子供らしく甘えたい。親というものを教えて欲しい。そう思ったのであろう?」
そう、めぐりめぐって、私は私自身の為にそれを望んでいた。
親というものを知らなかった。みんな知っているものを知らなかった。
……いつしか背伸びをすることが当たり前となってしまっていた自分。そんな自分が嫌だった。
そんな理想の父親と理想の関係で結ばれる自分を……つい、心の底でつくってしまっている自分がいた。
自分勝手だとはわかっていても、その心の動きは止められなかった。
「そしてお前は、真相を知った後……2人の友に対して、どう思った?」
――ただの木では絶対にないとわかってはいた
――まさかイツキが
――イヌカイも人間だったのだ。
――ごく普通の人間を、ただの妄想の再現のために
――怒りがふつふつと湧き上がってくる
――馬鹿にしないで! 人間は玩具じゃない
また、文字の嵐がやってきた。
しかし今度はそれだけではなかった。
……声が、聞こえたんだ。
――「……やっぱちょっとびびったろ」
――「うるさいな、俺だって好きでこんなおっかない顔してるわけじゃないんだぜ」
――「ミコト、ありがとな……嬉しかったよ」
イヌカイの、声。
――「イツキっていうんだ。……意外とありそうな名前だろ?」
――「えっとね、オレより説教臭くて顔怖いやつ」
――「心配してほしいだけの嘘だってことはわかるよなぁ、ミコト?」
イツキのつるを切られた時に本気でぽかんとした顔から、怒るまでの瞬間。
助けに来てくれたイヌカイの、父をじっと見据える真面目な顔。
幼い頃、イツキから自分に向けられたあの優しいまなざし。
……たくさんの情景が思い起こされた。脳裏に現れては消えていく。
「お前は、この2人にもやり直してもらいたいと思ったのではないか?」
……少年の荘厳な、力強い声が思考を誘導する。
「もしも時が巻き戻せるなら、父親が狂わなかった世界で……ごくごく普通の人間として、平穏に暮らして欲しかったのではないか?」
……そう、だ。
そうできるならどんなにいいだろう。
あの2人の苦しみを知らなかった自分の罪は、きっととても重い。
……何か秘密があるはずだと気づいていたのに、それを知ろうとしなかった自分。
それをきっと、心のどこかで責めていたんだ。
父親がああなってしまわなければ良かったのに。
自分が普通の子供のように過ごせたなら良かったのに。
イツキやイヌカイが、不要な苦しみを味わう事がなければ……それで良かったのに。
……そう思い始めると、不思議と自分の中から何かが生まれる感覚がしてきた。
大きな何かが絶えず、心の中から生まれて外へ出て行く。
「お前には、そんな世界をつくる事ができる。時間を巻き戻し、全てをやり直した世界を」
……できるの?
私は、その声に問うた。
――私に、本当にそんなことができるの?
誰も苦しまない、
誰も狂わない、
自分も満足する。
そんな世界を私がつくることができるの?
「できるとも」
声がそう答えたときだった。
「ミコト?」
また、遠くから声が響いた。
今度は聞き覚えがある……だけど、何か……違う。
とても、とても優しい声。
なんでかわからない。
だけど……それを聞いたとき、「ああ、よかった」と思った。
涙が溢れるような。
嬉しいような。
悲しいような。
切ないような。
そんな、感覚が、一瞬だけした。
「ミコト、遅刻するよ。いい加減起きなさい」
目覚まし時計の音も聞こえる。
……朝? そっか……そうなんだ。
これ。
ごく普通の、朝なんだ。
「……。鞄が出てるってことは、行く気があるんだろう?」
――すっと消え去る、違和感。
「……おとう、さん?」
目の前に、ぼんやりと見覚えのある人影が写る。
あぁ、そうだ。こんな意味の分からない“夢”を見てる場合じゃない……
目を覚ました私は、目をこすりながら言った。
「――おはよう、『お父さん』」
「……おはよう、ミコト」