3.冒険の序章は目の前に
――どこか懐かしい感覚がした。
何故だろう? 鈍いはずの腕の感覚が、ある。
足も、動く。
「おい、起きろ。……起きろ、イツキ!」
その聞きなれた声に目を開けた。
すぐ視界に入ったのは自分を見下ろすイヌカイの姿で……って、あれ?
「! ……えっ」
「……よぉ、ようやくお目覚めか」
目の前で柔らかく笑う、その顔。
人のものだ。十数年前に見たっきりの懐かしいものだった。
イツキは少し戸惑いの表情を浮かべ、自分の体をまじまじと見つめた挙句、掌を握ったり開いたりした後で……ようやく言葉を発した。
「あー……あー……モーニングコールどうも、『犬飼先生』」
「どういたしまして植苗クン、と」
どういうわけだか、両方とも普通の人間の頃の姿に戻っているようだった。しかもそれは、直近に来ていた服装……聖山学園の制服と、イヌカイに至っては足元がジャージだ。えっ。
「ジャージで出勤してたのこの人……」
「……バスケ部の朝練甘く見るなよ、着替えるのすら億劫になるぞ」
学校内でジャージはまだ分かるが、家からジャージはちょっと待ってほしい……そして多分、ニヤつきながら言う話じゃない!
いや、分かるけど。ニヤつきたいのは別件の話だと分からなくはないけど。
何せこの人普段が毛皮に覆われてるとはいえスッパだよ。人の体格と明らかに違うせいで何も着れないよ! っていうか!
「……どこを見てるか分かったぞお前……」
考えてみたら急所が隠れてるのは本当に奇跡的だったよ!?
――『いつまでもあの姿ではやりにくいと思ったので、勝手ながら処置を。こちら側でも大半の種族は人間ですから』――
「なるほど、あんたのおかげってわけね……」
辺りを見渡す。
見渡す限りの森……相変わらず声だけでメティスの姿はない。
――『残念ながら完全に元に戻すことは不可能ですが……ほら、体のどこかにベルトが巻いてありませんか?』――
「これのことか?」
イヌカイは首に巻いてあるベルトを少し鬱陶しそうに指差した。
犬の首輪みたいだ、とイツキは忍び笑いしそうになったが、後一歩のところで我慢する。……この人は怒ったときの対処が面倒臭いのだ。
ちなみにそういうイツキはというと、ベルトが右手首に巻いてあった。
――『そう、それです。そのベルトにはあなたたちをあの姿に固定している力を弱めるように細工をしてあるのです。だからそれをつけている限りあなたたちはその、人の姿でいられますが、高められていた能力もイヌカイの場合半分ほど、イツキの場合はまったく人間と大差なくなります』――
「っていうことは……逆を言えば、あの姿のままの能力を使いたいとき……イヌカイだと身体能力、オレだと自然治癒能力? ……を使いたい場合はこれを外せばいいと?」
――『その通り』――
「でも戻りたくないよなー……」
そう言うイヌカイの横で、イツキが硬直している。
「…………。」
「おーいイツキー?」
「……トラウーマってゆーのはぁー」
……イツキの口からえせ外国人のような発音が飛び出した。
「タイガーアンドホースのぉー、ハーフ・アンド・ダブゥーるゥー?」
「い、イツキぃぃぃ!!?」
イヌカイは目をむいた……駄目だ、遠くを見つめてなにやら意味不明なことを言い出した! しかも発音が以前職場にいた胡散臭い英会話教師みたいになってる!! やめろお前、ちょっと不気味だぞ!
「下半身がウマでー、上半身がトラー。どっちにしてもマッチョー」
「頭の中で変な動物作って現実逃避するなおい、やめなさい!」
「直視したら気が狂うタイプの都市伝説―、あだ名はゴリラー」
「……い・い・か・ら! もうお前は一生ベルト外さなくていいから戻ってこい!」
――『ま、まぁ、イヌカイの方は身体能力が半分といっても充分人間離れした数値ではあるし、イツキは……ちょっとあそこの石を取ってみてくれますか?』――
がくがくと揺さぶられていたイツキは名を呼ばれてハッと元に戻った。
というかこの人、キャラを作るのが面倒臭くなったんだろうか、だんだん砕けてきている。
イヌカイはため息をついて、代わりに返答した。
「あそこの石ってどこの石だよ」
――『ほら、そこの、倒木の前の……』――
「あ、あれか……って、でか……」
大き目のブラウン管テレビほどもある大きな石が、25メートルほど遠くにあった。
――『動かずに、ですよ?』――
「は?」
含み笑いをしたメティスの声に思わずイヌカイが耳を疑う。
イツキが首を振った。
「動かずにとれって、無茶言うなよ……つるが使えるなら取れ……えっ!?」
つるが使えるなら、と言った次の瞬間。
ベルトのない方……左腕に熱が走ったかと思うと、左腕が植物っぽいつるに変化していた。
「なっ……」
「ほー……」
イヌカイが感心したように言う。
――『そう、その姿でもつるが使えます。切られてもつるだけなら再生可能ですよ』――
しゅるる……とつるは伸び、遠くの石をいとも簡単に持ち上げた。
「……便利だな」
「便利って……何に使えるんだよこれ……」
イツキはげんなりした。あー……せっかく元に戻ったと思ったのに。
今度はイヌカイがふざけたように茶々を入れる。
「ああほら、起きようと思った時間より早く起きちまってだな、寝室から出たはいいんだが、目覚まし時計を止めるのを忘れて遠くで鳴り始めてあれれれれー……」
「……よくありがちなシチュエーションなのはわかるけどさ、あいにく目覚まし時計なんてオレたちには懐かしいだけの遠くの世界のアイテムだよ……」
「だっよなー!」
イツキとイヌカイは顔をあわせて苦笑した。
――『……意外にリラックスしていますね』――
「そうか?」
――『一応ここはあなたたちからすると“異世界”ということになるのですから、もう少し緊張したって……』
「緊張ったって……正直実感わかないんだよな」
イヌカイはへらりと笑って手を振った。
……空気を感じる。少しつめたい風を。抵抗感を。
「だってよく似た環境じゃねぇか。宇宙空間じゃあるまいし、普通に息できるし」
息できる空気があるから似た環境。
……ちょっと極論すぎるような気もするが、確かに外れちゃあいない。
「そうだなぁ……逆に異世界って言われた方がしっくりこないような感じもするかも」
イツキの同意まじりの言葉に、何か嫌な予感でも感じ取ったのか……メティスはおずおずと言いづらそうに言葉を返した。
――『あー……えっと。つまり、異世界という時点でハードルが上がっていた?』――
イヌカイは頷く。
――『……私たち、もしかしてとんでもなく変な生き物だと思われてませんか』――
「「思われてるよ?」」
イツキとイヌカイの声が完全にダブった。普段が普段なら「いや、お前にだけは絶対言われたくないわ!」と言われそうな2人組なのだが、仕方がない。
だって二人とも体が見た目だけでも戻っている分、気が大きくなっているわけで!
――『……い、一体……』――
がびーん。そんな残念な効果音が鳴りそうな感じに、メティスはよたっと声をぶれさせた。そして、若干引きつったようすで。
――『一体私たち、なんだと思われてるんですー!?』――
若干抑えめのシャウト!
「そりゃあ仕方ねーだろ、あんたの姿かたちも分からんのに!」
それこそ人からかけ離れた見た目だったり、それに準じて多機能の生物かもしれねえだろ、俺たちみたいに。イヌカイがそういうと少し納得する部分でもあったのか、メティスが少し黙り込んだのが分かった。
――『ちなみにですが、具体的に……声だけしか知らない私のような異世界人に対するイメージって、どういうふうに?』
「…………うーん」
「…………そうだねえー」
「……今のところ銀色の宇宙人的な?」
「スパゲッティ的な細長いモンスター」
――『うん……後者ちょっと待ってくださいね』
半分ぐらいは冗談らしく、目に見えて半笑いなイヌカイはまだいい。ただ、イツキの神妙な顔つきに見えて実は死ぬほどふざけている返答にメティスは困惑した。多分体が戻ったせいでテンションがまだおかしいのだろう。
――というかたまに崇められはしますけど、イタリアンパスタな見た目はしてないから!
――『……グレイとスパモン教ですね? ちなみにいうとそういう地球ネタ、ある程度通じますから私。からかっても微ダメージですよ、微ダメージ!』――
「あ、そうなんだ」
つまらんと言いたげなイツキにメティスは深くため息をつく。
――『……まあ、私含めた地球外生物の容姿はさておくとしてですね』――
「さておいちゃうんだ」
――『だってどうせすぐ遭遇しますから! ……誤解なんてすぐ解けるでしょう? とりあえずは気候とか環境とか文化の話に終始しましょう。確かにあなたたちの言うとおり、この世界もあの世界と、実はたいした違いはないのかもしれません』――
「でしょ?」
――『しかしこの世界にはですね。「この世界」ができたときから……あなたたちから見れば不思議に思うに違いないルールが当たり前のように数多く存在しているわけです!』――
「ほう」
思った以上に切り替えが早いこの世界での案内人に、イヌカイはニヤッとした。――ああ、だんだんと見切ってきた気がするぞ、この声の主の性格を。
「この世界特有のルールってことね」
――『そう、例えば「夢の意義」だったり、ここから見た「地球」の姿だったり』――
……彼女はもしかしたら、少し「臆病」なのかもしれない。
好奇心はある。だから野次馬根性もある。対岸での火事のような、ちょっと遠い騒動に首を突っ込むだけの無謀さも、正義感も。……だが。
イヌカイは何となく直感した。
なぜだろう、彼女は“失う”ことを極端に恐れる性格だと思えた。
目に見える範囲から、「不幸なもの」を取りこぼしたくない。失敗したくない。だから、常に冷静に――常に合理的にと己を律している。だからこそ少しだけ、精神的な仮面をかぶって生活している。そんな感じだ。だからこそこんなふざけたやり取りでもしなければ、なかなか仮面の下は覗けない。
――『この世界は』――
メティスは囁くように呟いた。
――『地球とは確かに似ています。否、似せています』――
「似せている?」
――『そう、だから文化の発展の仕方も違えば、人と人の関わり合い方も微妙に違います。果たしてあなたたちは、それに見事適応出来るのでしょうか?』――
「なるほどね」
……まあそうだろうな?
意地悪くニヤッと笑って言ったに違いないメティスの声に、イツキとイヌカイは少し笑う。
そういう“変な物事”はきっとどこの世界にもある。自分の世界ですら、
違和感のあるルールとかしきたりとか風習とかが時たまあったりするのだから。……そう思ったイヌカイは少し息をつくとこう言った。
「じゃあ、この世界にきたばかりの俺たちには、あんたが説明しなければならん事が山ほどあるわけだ?」
――『長い話になるに違いないありませんがね』――
「いくらだって聞くよ。それがミコトを救いだすことにつながるのであれば」
イツキはそういうと、持ち上げたままだった石を放り投げた。
「あ」
「ん、どした」
「石の下、ダンゴムシがいた」
「……え、ダンゴムシいんの、この世界」