7.神と人
「……あら。元気そうじゃないですか」
部屋の主はちらっと侵入者を見た。アポイントメントはない。
――というか、あるわけがない。
そんなもの、どうとでもなるのがこの相手だ。
そうして一見、興味もなさそうに……手元の資料に目をやる。
「執務中に倒れたと聞いて、ここまでやってきたというのに」
「……はあ。まったく誰だ、そんな情報を流したのは……」
メティスは苦笑いした。アルテミス姫のところにいるあの【甲冑の無口】が見ていたら、思わず二度見したに違いない。ここにいるのは王様と神。
「嫌ですね陛下? ――情報というのは、流れるものですよ?」
「違いない、空気のようなものだ。密閉は難しい」
言葉の応酬。一国のトップと女神の会話は存外穏やかだ。
何せ、メティスがアポなしで訪問している部屋の主はゼウス――コンセンテ国を統べる大陸一の穏健派だ。完璧主義だが他には押し付けない。【上に立つ者の威厳】こそ演出するものの、中身は真面目で細やか。本来、誰かに対して強気で接するのは苦手な部類だろう。
「で、そんなことをしていると怒られるのでは?」
――体調が悪いのでしょう?
メティスの問いかけにゼウス王は少しだけ、鼻をふんっと鳴らした。
そうして、普段の口調の丁寧さを取り戻す。……まあそう、誰も見てはいないと思うのだが。
「当然ですが、女神様。あなたの叱責なら幾らでも聞きましょう。――他は知りませんがね」
底意地の悪く。口角だけ上げた底知れぬ狸親父っぷり。
メティスは首をすくめるしかないわけだ。
素直すぎた昔を考えれば当然、「ああいえばこういう」も増えてくる。
「……逆に。子供ではないのだから、ねえ」
「あなたからみれば誰であれ、聞き分けのない若造だ」
頭上に氷をのせたままのゼウス王は、たとえベッドの上だとしても変わらない。どうやら【事務仕事】を延々、粛々とこなしているらしい。
「むくれた顔で開き直らないでくださいな、陛下。……ああ。脱字がありますが、それ」
「ご指摘は有難い。ですがお構いなく」
この男は猿芝居がうまい。そう育てたのはゼウスの母親ではあるのだが、一応メティスも噛んでいる。
威厳、威圧。そういう空気を言葉尻に出すのはお手の物だった。
生来もっていたはずの柔らかさを抑え、直向きな強情さを表に出してしまえば「ちょっと怖そうな王様」の出来上がりだ。
一見は強情に見えて折れやすい。意外と繊細、真面目、負けず嫌い。――その点は不思議と、後付けで縁を結んだアポロンと合致している。
「実は血縁でもあったのでは?」なんて、時折からかってやりたくなるものだが――そんなことを思いつつ、メティスは大きく息を吐いた。
やりたいといったらやる。結局のところ、彼はそういう人間だ。
だからこそ【この国】は保っている。
たとえ疾病を理由に、一時的に決定権が剥奪されていたとしても。
「……どうせ、ですよ」
メティスはゼウス王の手元の紙を一枚取り上げた。「嘆願書」……。
妹を助けてほしい、従兄弟を連れて行かないで、娘は悪くない、親を放っておいてほしい。
ほとんどすべて、『身内のイレギュラー』を気遣うものだ。勿論逆もある。
向かいの筋の人間がイレギュラーだ、裏手にイレギュラーが住んでいる、近くの岬にイレギュラーだらけのコロニーがある……。こちらは国に対する密告文。
つかまえてくれ。
怖くて仕方がない。
だってやつらは、生きているだけで【人の幸運】を横取りするのだろう?
そんな決めつけと不勉強。
国をほろぼす、転覆させると信じられてきた――彼らの排斥の結果。
「ゼウス。……ずっと調子が悪かったのに、隠し続けて厄介なことになったんでしょう」
駄目なものには駄目だと声を上げ、「傷つくものが減るかもしれない」、そんな可能性が目の前にあったのなら、余計に言葉の強さが増す。
反対勢力があったのなら、口八丁で巧い具合に押さえつける。相手が動くことのデメリットを、あの手この手で提示する。それが彼のやり方だ。
この国古来からある【独自の重要ポスト】。
政治にすら口を出す権限を持つ一族の末裔。――預言師。
そんなレトによる『イレギュラー排斥運動』。他人と在り方が違うというだけで牢にいれ、牢に入れたから安心だ、始末したから安心だと住民を煽る。
不安を盾に人々を、ついては自分をも動かそうとする歪んだ思想。
他にもいないか探せ。国に向かって告発しろ。
濾しとれ。濾過しろ。拷問せよ。
それが世界の浄化になる。
それと【対】になる、彼の在り方。
……いくら悪を濾しても善にはならない。不安を濾しても、楽にはならない。
それどころか『一時の疑い』を全て取り除いてしまっては、間違っていた際に取り返しがつかなくなるのは目に見えている。
――ゼウスが書いているのは、全て彼宛に来た手紙への返事だ。
家族を返せという手紙には心のこもった謝罪を、過去形で。
告発文には「それが何か悪いことをしたのか」という問いかけを、やはり過去形で。
「――隠さねばならん理由があるのですよ、女神様」
「バレたじゃないですか」
メティスはニヤリと笑う。
すべて、彼の手元にある紙は古い情報で――リアルタイムでの確認が必要なものが全てない。確かにこれらに向かって一つ一つ返答するのも職務の一つだろう。ただし全てが『たまっていた雑務』だ。つまるところ、今のこの国の動きはゼウスの意思ではない。
イレギュラー狩りも、来訪者狩りも、やはりレトの一存だった。
人間というものは時に複雑で、一つの物差しでは測れない。
なら――法があるだけ法に従え。適用できないのなら、それこそ多数決をとれ。
それがゼウスという王、本来の方針だ。
つまり現状はゼウスの手から【国の方針】が離れている。
「あなた、昔から体が弱いから。――病気で高熱を出したのをいいことに、レトが政務を引き継ぎ代理になった。最高責任者としての権限も横取り。まあ大方……そんなところね?」
苦笑いした王は首をすくめる。
……ゼウスはそもそもが、イレギュラー排斥に否定的な人間だ。
確かに、とメティスは横目で彼を見る。
このゼウスならば――ミコトやイツキたちを恐れず迎え、受け入れるだろう。
彼はそもそも【ちいさなこと】を恐れない人間だ。未知を未知として扱い、やられた時点でやり返す措置をとる。レトのように『やられる前にやれ』ではない。
未知の生き物を前に――地球風にいうのなら、エイリアンを前に、怯えたりはしない。
「ゼウス。預言師のレトはおそらく、クロノスの一派を全て消し飛ばす方針です。そうでしょう?」
「イレギュラー関連はどさくさ紛れのトバッチリとでも?」
「更にいうと異世界人が賞金首状態なのも、完全にとばっちりですね」
この王国がゼウスの管理下になければ、指名手配くらいはされてもおかしくないだろう。それくらいはメティスも考えていた。
神界人は地球の人間と比べ、見るからに保守的な性格だ。変化を嫌う。
だからイツキとイヌカイを転移させるときは、万が一人間たちの国家に露見しても良いようにコンセンテ国の領内を選んだし、ミコトを連れて帰ってくる際も領内に向かって出現調整をしたわけだが……。
「クロノスの息がかかってこの世界に来たのは事実ですが、彼らはただの巻き込まれ組です」
「でしょうね可哀想に」
メティスは腕輪をさする。――イツキたちのところに行かせたリオは一応合流ができたらしい。イヌカイに関しては「ほっといたほうが逆にいい」という勘が脳裏に浮かんだので、あえて泳がせることにした。
まあそもそもがちょっぴり無理そうだったが。リオにとって「森」は地の利が悪い。ミコトとイツキが外に出た時点でピックアップするのがせいぜい、関の山だ。
「私のところには良い情報担当がいますからね、一応ですが……動きは筒抜けです」
――「いぇえええい! 情報担当デェース!!」
と清潔感のない笑顔がふと頭に浮かんだ気はするが、それはさておき。コンセンテのゼウス王は風邪っぴきガラガラ声で書類を見ながら言った。
「いやあ、有難いですねえ。更にその成果を私が掠め取るわけだ」
「いえ、あげませんよ?」
その成果。リオが収集している城下と近隣集落の口コミの話だろう。
「勿論それなりのことはやりましょう。さて――何がお望みです?」
「今のところ、ほしいものは特に?」
「弱りましたね。……ああ。ところで暫く会ってはいませんが、元気にしてますか、あの少年は?」
メティスは呆れた顔で息を吐く。
「情報単体が買えないとわかれば、人ごと引き抜こうとするなんて」
「……背に腹はかえられぬ、というところですよ」
交渉にならないと分かれば話を変えたらしい。
今なお活躍中の『情報収集担当』に興味が行ったようだ。
「もうあれは少年ではないのですが……まあそう、元気すぎて困っているところかしら」
――あれと自動的に繋がっているはずの【地球の影】はもう少し、可愛げがあるのだが。
メティスは首をすくめる。
いや、どちらにしろ諦めが悪くて根が素直な性格なのは変わりがないか。両方とも。
「あれは落ち着きが微塵もない」
「好きではない、と?」
ゼウスは苦笑いする。
実際、彼からしても「珍しいタイプだな」とは思ったらしい。
「確かに、なんといいますか……女神が手を貸す人間としては、絶妙に気に入られにくい」
リオはあけすけだ。隠し事は上手いくせに、結局自分の言いたいことだけは一切上下を気にせず口から出す。
そうして相手が青筋を立てているのを冷静に分かりつつ、口八丁で押し通そうとする。
「しかしだとすると。なぜ、彼だったのでしょう?」
「何の話?」
「あなたは彼を選んだ。弟子。後継者。いや違うか……あくまで人間としてあなたは傍に彼をおいている」
リオと名乗る彼は、ふるまいや見た目の割にやっていることは大真面目だった。
そして性格の割に――出自がはっきりしている。
「あなたはそう――ここ二十年余り、彼一人としか手を組まない」
ゼウスは横目でメティスを見る。……初めて会ったときと変わらない見た目をした女神。
いつまでもかわらず美しいが、さりとて成長をしないわけでもないらしい。
否、成長というよりも――彼女は【変化】するのだ。
「彼……元々クロノスの下で働いていたんでしょう?」
「ええ、まあ」
ただ、まるで山の木々が色づくように。
誰かの挑戦や、それに伴う挫折を観察し――羨ましそうに寄り添って、少しずつ影響をされる。つど、その在り方を変えていく。これがこの女神の特徴だった。
弱者を手助けするもの。助言を与えるもの。
「あの自由気ままなクロノスに拾われて――使えないと判断されれば、結局命ごと見捨てられた。それが彼です」
「…………」
「たとえ森の中であれ、死体寸前の生ゴミをポイ捨てされるのはいただけませんとも」
「……やはり、あなたの方が好ましいですよ。私は」
ふっと笑ってゼウスは薬を喉に流し込む。
――黙って起きている分には別に良いが、喋っているとさすがにイガイガしてきて煩わしい。
「同じ神様でも、あなたの方には優しさがある」
「私はつめたいですよ。人の国の王様が知らないだけでね」
メティスは薬をひょいとつまんだ。
「何を?」
「――ちょっとした調整を。次に飲むときは倍ぐらい効いた気になります。気休めですが」
「ほら優しい」
メティスはイラッとした調子で錠剤を机に投げる。
「そもそも、あなたの父親が好ましいと思う人も、なかなかいないのではなくって?」
「そう言いながら、ヤツをなんだかんだ気にするでしょう、あなたは」
常に変わらず見えるメティス以上に、見た目の年齢はゼウスの方が上だ。だが、片方が見た目を追い越したところで互いに距離は縮まらない。
敬意があって親愛があり、それでも。
「……そんな感じに見えます?」
「みえますよ、とてもね」
それでも――人と、神だ。
決定的に強度が違う。
……そもそも、コンセンテの前王はクロノスだ。
ゼウスは彼の気まぐれの一環として生まれたにすぎない。生贄のように差し出された先々代の王女から、幾人もの人間が生まれた。
クロノスの所業で荒廃したコンセンテを継ごうとする王子は誰一人としておらず。
その中でたまたま、やる気があった――そのうちの一人。
「……私の知る女神は優しく、【いつも正しい】」
人と神の間にこそ生まれたが、神の能力は受け継がなかった彼。人より少しは大きくなったかもしれないが、その程度だ。母親と共に城に放置されていたゼウスにとって――彼女、メティスはなんだかんだで生きていくすべを教えてくれた家庭教師のようなものだった。クロノスの迷惑千万に呆れ果てていたのだろう。通常なら赤の他人だ。そこまでする義理はない。
ただ。
……それでも彼の背中を、メティスが押したのだ。
「人を嫌うというのは、好意の反対ではないですからね」
こだわるということだろう。そうゼウスは思う。
無関心にはなれない。
ただ、コンセンテという国を神から取り戻した時――クロノスは言った。
――――飽きたから、要らない。
それを聞いた瞬間、ふいにゼウスは相手を罵った。制止するメティスをよそに、とまらず。ぶちまけるかのように繰り返した。
誰もいない部屋で産婆もなしに生まれたこと。機嫌を損ねた兄が3人クロノスに殺されたこと。あとの兄や姉たちは全員心を病んだこと。メティスの手引きで初めて外に出た時の清々しさ。それでもあふれかえっていた貧しい暮らしの人々に、裕福そうな商人の底意地の悪さ。
早口で。相手を口汚く罵る自分自身にゼウス自身が驚いた。
クロノスはそれを見て、気分を害さなかった。
――――めずらしい、怒るときは怒るのだな。
そう言っただけだった。
「無関心にはなれない。……そういった意味では愛情なのです。きっとね」
メティスは少し驚いた後……呆れて、煩わしげに目を細めた。
いや、まあ――言動の端々から薄々分かってはいたのだが。
「縁ってやつは本当に」
「何か?」
「いえ、なんでも」
「――ああ。似たようなことを言っていた地球人でもいましたか?」
ゼウスはけろりと呟いた。メティスは悩まし気にこめかみを抑える。
「……あなたの影は今、子供でしたか。ゼウス」
「そうですね」
ゼウスは嘆願書への返事を書きながら、さらりと重たさをこぼした。
「私は娘のアルテミスと違って、地球の夢を見る――けれど彼女のように『見なかった時期』も経験している。影が一度死んで生まれ変わった、影の代替りがあったからです」
「……」
―― ―― ――
……ふと思い出すのは、今から約30年前の話。
「えっ、ゼウス……あなた地球の影とやりとりしてるの?」
まだ彼が若い頃、コンセンテの王位をクロノスから剥奪する少し前。――彼の部屋を訪れると今のように、紙の山があったのを思い出す。元々はノートのように冊子にとめられていたらしい、端が破けた紙の数々。
「……ええ、といっても先日……車の事故で死んでしまいましたが」
気落ちしたような声は、その紙の山を処分するつもりなのを物語っていた。
やりとりの中身に関しては勿論興味がない。それは個人のプライバシーだ。
……ただ、とメティスは首を傾げた。
ゼウス自身に、そこまで高い能力はない。本来、地球とのやりとりには【いくつかの高いハードル】がある。彼の父親であるクロノスのように力任せにハードルを破壊するのであれば話は別だが。まあ、そもそも非力なものであればハードルを超えるしかないわけだ。……なのにどうやって?
「向こうも夢でこちらを見ていたようなので、起きがけの日記帳に、文字のやり取りを」
「……」
「こういうの、珍しいことなのでしょう?」
一瞬、ポカンとしてしまった。
地球とのやりとりは本来、一方通行だ。
向こうが送信器を持っていて、こちらが受信器を持っている。
だが、もしかして――ゼウスの影は、たまたま受信器に近い形のものを最初から持っていたのではないか?
「それは……ええ、ご愁傷様。事故といってもこちらからの影響で殺したりしたのでない限り――自然な事故死ならば影はまた生まれるはずよ」
平静を装い、口を開く。
「リムトーキの出力も変わらない。あなたがイレギュラーになることはないと思うわ。暫く準備期間だから、夢は見ないだろうけれど」
「……」
ゼウスは何かに勘づいたように首をすくめた。
「……ええ。確かに、あなたのケースはだいぶ珍しい。送受信機能が向こうにもうないのは惜しいけど、恐らくあなたの中にログは残ってる……ちょっと何が起きていたか、あなたの魂を見せてもらっても構わない?」
そうくると思っていた、そういうように青年のゼウスはいう。
「地球とやりとりをしたいのですか?」
「ええ。うちの影の親も、車の事故でね」
―― ―― ――
「あの時――イレギュラーはこのような暗闇を見るのか、そう思いました」
くたびれた現在の病人が苦笑した。あの頃よりは声に張りがない。怒気もない。
どこにもぶつけられないような、理不尽への憤りがない。
「現実性のない、空想のような接合性のない夢なんて、普段はほとんど見ません。カルチャーショックを受けたのです」
「でしょうね。……逆にいうなら、レトはその経験が恐らくない」
代替わりを経験しない神界人は案外多い。人によっては病のタイミングも重なるので、同じくらいに命のサイクルがきたりもするわけで――だからこそ、当たり前だと思うのだ。
ゼウスは頷く。
「目を閉じて見える異世界なんてものは、あって当たり前のものではない。毎日見ていてはそれを忘れてしまう。――このようなつながり、あることが奇跡だ」
「ええ」
その感覚はよく分かる。――あの子がミコトを生んで、駆け抜けた人生。
「人一人の物語を、始めから終わりまで付き合うなんて重いにもほどがある。ずっと見るだけで……手も出せやしないのに」
「……。地球っていうのはアレね。うちの世界とは違って交通手段がある。乗り物が発達していて、交通事故なんて案外、色々なところで起こるものだからあの時は偶然の一致だと思っていたけれど」
よくよく考えてみれば、事故のタイミングが同じだった。メティスの影であったミコトの母親――その父親、つまり【ミコトの母方の祖父】はゼウスの影と同じ時期に、車の事故で命を落としている。
加えて、人の縁というのはうつるもの。
ゼウスの影と十中八九同じ人物だろう。
それはまあ――影同士の言動も似るはずだ。
「まあ、地球人も死ぬ時は死にますからね」
『車のスリップ事故』で影を失ったゼウスは、その後を駆け抜けるように生きた。失った半身の穴を埋めるように。
……あの時、クロノスに向かって爆発した憤りは自殺行為に近かった。クロノスの機嫌を損ねれば人体など、少しの衝撃で爆ぜる水風船と同じだ。
彼は友を喪ったばかりだった。要するに自棄だ。捨てるものがないのだから、恐れるものなどない。だから本音を口に出せた。クロノスはそれを、めずらしく最後まで聞くことになった。
……彼を恐れない人間はそもそもいない。そこに向かって真っ直ぐに怒りをぶつけてくるのだから、それはもう、新鮮だったに違いない。
あの日のクロノスの目の表情には、なぜか――共感がのっていたように感じた。
怒り。理不尽。愛憎。
「……ああして、神界人も死ぬ時は死ぬのですが」
「…………」
メティスはあの日のように――今度はゼウスの表情を観察する。
その言葉に浮かぶのは自嘲。その次に見えたそれは憂いだ。
ゼウスのように地球人と言葉のやりとりをしたことのある神界人は、そう多くはない。大概は勝手にこちらが向こうを観察して、共に大きくなり、衰えて、死んでいく。向こうには気づかれないまま終わっていく。
「――事故や、怪我、病の種類が違うだけ。そうでしょう」
こちらが飢えても。戦で傷ついても。向こうは暖かい部屋にいたりする。特に相手が日本に住むものなら尚更だ。
それでも終わりはやってくる。神界人とは違う、恵まれた――それでも格好の悪くてあっけのない。
「私は喪失を怖がりはしません。失われるものではあるのです」
死を忌避はしない。
そう、乗り越えたように振る舞う人の子を、メティスは横目で見やる。
「ただ、目に入るものを慈しみ、大切にする。それと喪失を怖がるのはまた別の話なのです」
「……ゼウス。あなた、もう一度聞くけれど今の自分に対してはどう思ってるの?」
メティスは丁寧語を外した。
たかが若い人間。30年前と同じ口調で問いかける。王様相手のそれではなく、あくまで人間個人としての問い。ゼウスもそれに答えて丁寧語を傍に置いた。
「……正直ね」
「ええ」
「情けないとは、思うんだ。女神様」
「でしょうね」
メティスの入ってきた方の扉を見る。
鍵がかかっていたはずのそれ。
――軟禁。おそらく外にいるであろう見張り番。それでも医師は近くに配置されているようだ。王を部屋に押し込めるなど、要はやんわりとしたクーデターと同じだ。
病なのには変わりがない。大方、利用のしがいがあるから生かされるのだろう。
「――無能な王はいつかこうなる。私自身が自分の父を糾弾したように」
少し笑って、最後の手紙をゼウスは書きあげる。一番最後が隠れイレギュラーの告発なのか、それとも嘆願なのかは不明だ。けれど彼は筆をおく。
……どんなものであれ、終わりはあるのだと。
責任も、誠実もあるのだと。そう胸を張って言うかのように。
女神は呆れわらって口を開いた。
「……諦めが良いような口ぶりね? ゼウス陛下」
「――逆転の目があれば、教えてほしいところですね。女神様」