??.小鴉の記憶〜③〜
……鴉の声が聞こえる。
―――――― ―――― ―― ―
―――――― ―――― ―― ―
ラトナの葬儀が終わって6時間。
遠くで光る月――つまり天然の灯に照らされた城の内部は、コントラストがクッキリと激しくなる。壁に彫られた『うっすらとした装飾』が、特定の光量やさしこむ角度によって姿を表すのだ。妙に凝っているそれは、先代王がいた頃の名残の一つだった。
「…………」
……先代のコンセンテ国の王、そして同時に在り方が『神』だったクロノスがこの国にもたらしたものはシンプルに『格差』だ。
技術格差。貧富の差。そして扱いの差。
『財のあるものしか手に入れることができなかった品物』。
『幸運の持ち主しか掴めないもの』……。
彼はひたすらにめずらしいもの、手間のかかったものを探していたらしい。気に入るものは様々だったが、それでも千か万にひとつくらい。
地域、個人、物体。彼はたくさんのものを見たがり、そのうちいくつかのものは手元に置きたがった。破格の謝礼と引き換えに。
もはや【査定】のようなものだ。――その行動自体に、結局大した理由があったわけではないらしい。ただ、何かを探す工程ではあるようだった。
今から思えば、それは【何かの苗木や果実】であったりだとか。
【何かの獣の古い血液】だったりだとか。
……きっと、後々違うものに繋がっていくのだが。
ともかく国の内側から【珍しい何か】を見続けたクロノスは――ある時突然、息子との問答の末に行方をふらりとくらました。
息子ゼウスは行方の分からない【種子】と【血液】以外全て返却、もしくは処分し、それらの痕跡を一掃することになる。
……それはある種の印象操作だった。
『以前の体制とは違うのだ』という演出、徹底した雰囲気作り。
権力と富を笠に着ない、強さを強さと受け取らない。弱さを弱さのままにしない。それがゼウスの治世だ。
クロノスがいる時の城というのは、もう少し絢爛で――いや、この数百倍は煌びやかであったという。すべて自分が楽しむためにだ。「神を楽しませるのは人の役目、わざわざそれが人の王になってやっているのだから、すべてを自分へ捧げるのが望ましい」。そんなスタイルで、そんな浪費で、国が維持できていたのは半ば奇跡のようなものだ。
当然のごとくそれらの痕跡は全てが取っ払われ、失われた。
その中でも唯一残っていたのが、あの中庭――ラトナと言葉を交わした、穏やかな日向。
「…………」
――衣擦れの音。
なんだか寝付くことができず、自分はこっそりと部屋を抜け出した。これくらいなら最近はちょくちょくやるようになっている。もう最低限の分別はついているだろうと判断されているのか、案外誰も小言は飛ばさない。
それでも足音を消し、息遣いを潜める。
真夜中の散歩というのは、ここ暫くはレアになりつつある『何者でもない自分』になれるひと時だった。闇に紛れ、王子らしい自分の殻を剥いでいく。――口調。勿体ぶった動き、形から入ったそれを一つ一つ、剥がしていく。
つい最近の記憶。彼女とすれ違った、会釈を交わした。そんな光景がふと頭に浮かんで……。
「……ラトナさん」
偲ぶとは違う。
たぶんもっと、ドロっとした感情だ。
――「あなた、私の弟に似ているわ」
病に倒れ、そのまま母国に帰ることもなかった妃は今、土の下。
彼女にできることはなかったのか。
夜風の中――どこか導かれるように。
いつかラトナと話した中庭に向かって足を運んでいく。
――「あなたは強いのね。あの子もそんな風に生きられるのかしら……」
あの子。あの姫のことだったんだろうか。
お手玉を持って笑うそれは母親に似て整った顔立ちだ。キメの細かい肌。朗らかな、それでいて少し頑固そうな。でも気力と体がまだ釣り合っていない。
……その場で思わず立ち止まる。
自らの考えにびっくりしてしまう。
あの子への視点。たった数時間前の自分を振り返り……ふと。
「……」
……思えば、可愛い、と思っていたのだ。
しかも子供に対するものではない。
きっと、もっと別な意味で。
「……ははっ、バッカじゃねえの」
渇いた笑いが出た。……これは、あれだろうか。イレギュラーや神相手によくありがちだという精神異常。書物では読んだものの――体感するのは初めてだ。
嫌わないでほしい、いじめないでほしいと相手が願うからこその魅了状態。
「……あんな幼い子に、恋心?」
同年代ですらない、幼児だ。
――危うく恋と錯覚する、好意の噴出。
いや、当人もコントロールできないのだろうが。その『強制的に好意を持たせる』という魅了を相手が親愛だと受け取るなら別に構わない。
ただ当然、歪んで受け取るものもいるはずだ。
たとえば容姿の似通った母親に『ある種の敬意』を持っていたのがトリガーになってしまった、自分のように。
「……げほっ、げほげほっ……」
……ふと、その音に気づく。
ちいさな咳。
中庭のどこかから聞こえる、弱々しい声。
「……誰かいるのか?」
今の咳は間違いなく近くから聞こえたものだ。中庭の中をよく見回してみると、シダの下に不自然な影がある。
「ああ」
噂をすれば。シダの葉をそっと持ち上げれば――昼間のあの意地っ張り姫が、小さく縮こまって座り込んでいた。
「……」
仮想体験と比較して「おそらくそうだ」と仮定はしたが。……少しだけ首を傾げる。恋というものは正直、あまりピンとこない。
おそらく「そういう心の流れ」をするものだというのは知っている。地球の夢では流れを追いかけ、一応理解した。年代は合わないものの、「視点の男」が何度か回想していたのだから、まあ追体験くらいはする。
……その地球人が、かつて演劇部の先輩に惹かれたその感覚も。諦めようとしたその葛藤も。他人に対する一喜一憂。ちらちらと見てしまう、ソワソワと落ち着かない。そんな感覚を。
ただ、今のそれと比較すると心の動きが弱い。所詮は付け焼き刃だ。
「……淡いな、この感覚は」
……そっか。
少しだけほっとする。
……やっぱり少し違う。
恋なんかじゃなかったんだ。きっと。それはそうだ。
「げほっ」
「ほら」
……さすがにこの幼さでは惹かれようがない。
少し安堵して声をかけた。
「そんな所に居るから風邪でも引いたのか? アルテミス姫」
苦しげにしていたちいさな姫はようやく、自分を見つけたのがいつもの見張りではないと気づいたらしい。少し驚いたように開いていた本を閉じて、隠すように抱え込んだ。
「……」
「……眠れないとか?」
拒絶されたら嫌だな。
そう思いつつ、自分はできるだけ優しく話しかけた。……今の空気を崩すと、何かが壊れそうだ。
……何が?
はたと気づく。
やはり少し動悸がしている。
「……部屋にいないと心配されてしまうぞ」
「ううん」
咳込みながら、彼女は口を開いた。
「だれも、しないとおもう」
「え?」
少し咳をして、彼女はぽつんと呟いた。
「いないほうがいい」
……ふと気づいた。
この子は、たぶん知っている。
「おへや、いないのが、いいの」
『お部屋』だけではない。この場所にいない方が良いのだと聞こえた気がした。
この国が、世界が、「異世界の夢を見るという当然の行為」をすることができない異分子を――イレギュラーを嫌っていることを。
ちゃんと、彼女は気づいている。
「……どこにも、いなくていい」
その目から涙がこぼれた。……多数派でない人間は淘汰される。人と違うというだけで恐怖される。嫌悪される。それは人の本能だ。
知らないもの、共感できないものほど忌み嫌われる。そうして『人の群れ』からいなくなるわけで。
「……姫?」
この世界の人の群れが『当たり前』のように知っているものを、この姫は知らない。
けれど――自分のように地球の影がいない。人生観や経験値を他の世界から得られない。そうであったとしても。
「――姫。アルテミス姫。あなたはとても、賢い人だ」
幼いが。経験はないが。それを上回って――人はここまで賢くなる。周りに合わせようと懸命に努力する。他人から投げかけられる目に、言葉に。傷つき想定し、必死に思考する。
膝を打つような感覚だった。考えてみれば当たり前のことなのに、不意にパズルのピースが揃う。
「だめなの!」
その子は膝を抱えたまま、口をふるわせた。
「わたしは、みんなじゃない。だれかとちがうから、なにもしらないから」
息を、吸った。
――深く吸って、自分の中の本音を探して。
「……あのねえ」
思わず素の口調が出る。
アホらしかった。――何をどう繕っても、この子の他には誰もいない。
膝をつき、横にどかりと座った。その子の頬を撫でる。
「……?」
「なあ姫様、俺なら『する』ってんだよ」
――地球人が、どこにもお手本がなくとも生きていけているように、彼女にもこちらの不安が分かる。
「する?」
「する。……心配を、するんだ」
その口調は我ながら、どこかの誰かにそっくりだった。家族でもないし友人でもない。だが、ずっとみていれば似るものだ。何せ自分には手本がいる。生まれた時から当たり前に地球を見てきた。地球の中心に、自分そっくりな年上の誰かを見てきた。
けれど、この子は自分の手本を知らないのだという。
知らないのに。だから、口が達者な以外、大人びたところなど何一つないというのに。まるごしの状態で息をしている。
「……口が悪いな、すまない」
「…………んっと」
少しびっくりした様子で。けれどその目はこちらをぶれずに見つめていた。
まるで、目の前の男の真価を確かめるように。
「姫、君は護身術はできるか?」
「ううん」
「知らないうちに、体に染み付いてないか?」
「ううん」
「――俺はな、ボールを目で追うくせはついてるぞ」
.
同年代の子供より、状況の把握が早い。それは『犬飼 元』という地球人が長らく球技をしていたからだ。それを、夜眠るごとに見ていたからだ。
主観と俯瞰と両方で物事を捉えるクセがついている。それは、同じく球技や部活動で人を率いることが多かったからだ。
……冷静に捉えておきながら主観で憤るし、暴れる時は暴れる。それはやっぱり。振り返れば、そこに『手本』があったからだ。
「かげの、おはなし?」
「そう、影だ。――俺には『こう動こう』っていうお手本がある。だから暗闇でもあまり怖くはない。不審な人間に囲まれても何をすればいいかは分かってる」
行動も感情表現も、『こうしたらこうなる』と分かっている。
「だから放置をされるわけだ。子供の俺が出歩いていたとして」
「……」
「ただ、あなたにはない。――それはきっと、俺たちがお手本にしている当の地球人と同じだ。少なくとも向こうなら【子供】が一人でいたら警察に補導される」
向こうには、自分のように妙にマセたガキはいない。一人もだ。
武器も携帯せずにのうのうと夜道を出歩いているのは、戦闘訓練もしていない人間が大半で――それは平和の証かもしれないのだが、それはこちら側からすると妙に歪んで見えた。
「けいさつ……」
「あー、見回りの兵士みたいなものだな。その子にとって身を守る術がないから、慌ててそこにやってくるんだ」
俺の影もおろおろしながら声をかけるだろうな。
「それと同じだ。向こうは弱者を守る社会。俺をそれを引きずるし――地球人の子供と大差ないものが、夜に出歩いていると少し怖い」
「……わたし?」
「そう」
……その子の背を少し抱く。
その体は冷え切っていて、息も少しだけ冷たかった。
「だからいない方が良いって、んなわけがねえんだよ」
「そう?」
たぶん、地球の彼ならば――今のアルテミス姫を見て、こういうに違いない。
「いいか、姫……存在に罪が付随することがあってはならない」
――生まれたことが悪いと誰が決めた?
「行動に、罪が付随するんだ。いつだって」
――生きることが正しくないと、誰がいった?
出生が人とは違っても。その子はほんの小さな子。
……ひゅう、と姫の喉から音が出る。
「妙な音がするな」
「……いきぐるしいの」
はたと気づく。――これがそもそも、彼女が外に出た原因だ。
体調が悪かった。外に出て、少しでも新鮮な空気を吸おうとした。それはきっとラトナが咳をする彼女を時々連れ出していたからだ。
「喘息持ちか」
アルテミスは他の王族と一緒に過ごすことを認められていない。許可されていない。それでも彼女をこっそりとこの城にひきいれて――星の下の中庭へつれていった。
真夜中のそれはアルテミスにとっても良い時間だったのかもしれないし、ラトナにとっても良い気晴らしになっただろう。
「……体調が悪いなら形だけでも寝ていれば良いだろう」
「もっとくるしくなるの」
「そうか、そうだな」
……手の中の絵本。かつて誰かが優しく読んでくれた、『遠いどこかの御伽話』を手にしていたとしても。彼女の心は埋まらない。
当然だ。……彼女がよく喋るのは『言葉』を知っているからだ。『手本』を知るこの世界の子に負けないほどに言葉をたくさん教えたのは、この城の中庭と真夜中のつめたさ。ラトナとの気晴らしの時間だった。
「よる……」
「――眠れといわれると、駄目になる?」
言葉を引き継げば、こくりと頷く。思えばそのか弱い感じはますます母親、ラトナに似ていた。ストレスも相俟っての発症だろうか。……このままでは親と同様……いや、そこまではいかないかもしれない。
「わたし、ゆめをみないから」
この子は能力が安定していない。幾らでも現実を捻じ曲げる。良い方にも悪い方にも。
「……ゆめをみなきゃって」
「見ようと思って見るものではないからな」
「あさ、がっかりする」
冷え切った体を抱き寄せた。自分からすれば、『夢』は勝手に見せつけられるものだ。
「落ち着くまで一緒に待ってやる」
「……にいさまはねむくないの?」
「大丈夫、眠くないさ」
「ほんとうに?」
その目が少し笑った。
今まで1人で退屈していたのだろう。
「……一人でよく頑張った」
「おかあさまのごほん、よもうとしたの」
「読めたか?」
「まだ」
その絵本を開く。だいぶ使い込まれていて、まるでひどく古いもののようだった。
「……文字の読み方は分かるかな」
「おしえてくれるっていってた」
あのね、と拙い声が耳打ちした。
「ひとがしぬと、ほしになるんだよ」
「……」
「おしえてもらうなら、さきに『ほしのことば』をおぼえなきゃ」
――それは、難儀だなあ。
可愛らしい発想に苦笑いして、一番最初の文字を指した。彼女が見上げる星の代わりに、少しなら教えてあげよう。
* * * *
それから数時間、ひたすら他愛もない話を繰り返す。毛布を持ってきて、彼女の体にかけてやってから――アルテミス姫が歌を歌うのが好きだと聞いて、ちいさく童謡を歌ったり。まだ習い始めたばっかりで下手糞だった楽器もとってきて伴奏をつけたり。
「母上に会いたいの?」
「うん」
時々、そういう話になる。
「でもね、とうさまにいわれたの。かあさまにあいたいっていっちゃいけないんだよって」
その子が言葉にすることは、何らかの形でどこかに影響してしまう恐れがある。けれど。
――「母ちゃん、次いつ帰ってくる?」
幼い日の、自分の一言をふと思い出した。後追いの激しい子供だった。――母親の帰りが思い通りにならなければ、泣きじゃくる子供だった。
――「甘えたことを言うんじゃない」
そう返ってきたことを、それに対して反発したことを。結局叱られに叱られたことを。滝のように思い出して。
「……言ってはいけない、のか」
ふと思う。抑圧とはそういうことだ。
いくら手本があったとしても、知識があって背伸びができたとしても、そうして大人のふりができたとしても。――結局、こちらだってただの子供だ。今の自分ですら10に満たない。姫に至っては、3つ。
言ってはいけない。
言ってはいけない。
それを言われ続けて――結局、自分の意思が自分で分からなくなる。それくらいの拙い精神性しか持っていない。
……ああ、なんだ。結局、そういう話になる。
「その気持ちは、分かるな……」
――俺と同じだったんだ、この子。
結局のところ。その日、その瞬間――俺は思い出してしまったのだ。
いくら縁を切ったとは言え、自分にとって母親はあの人しか居ないのだと。
自分にとってのラトナのイメージは多少なりとも変わった。でも、母親だとはどうしても認められないままこの世から居なくなってしまって。
だから尚更、実母のレトが恋しくなってしまう。
でもそう思うと同時に……毎回あの言葉をふと思い出した。
――「あなたは強いのね。あの子もそんな風に生きられるのかしら……」
“強い”と評された自分がいた。――自我が強い。自我を押し込める力も強い。我慢強い。それは果たして、善いことなのか?
自分を通して、ラトナは自分の娘に強くなれと願った。
そしてその娘が、今、自分の目の前に居る。
「……ああ」
……でも、自分にはあの時言えなかった言葉がある。本当は喉元まで出かけたが、やっぱり言えなかった。
ラトナとは正直、ずっと話すこともなかったし、あまり顔をあわせることもなかった。向こうも気まずかったのかもしれない。俺だって気まずかった。
それでも彼女は言ったのだ。よく知らないはずの自分を、「強い」と。
――あらためて、目の前のアルテミス姫を見る。
その顔にとてもよく残る面影。
……なぁ。結局さ。あの時言えなかったけど。
知らず知らずに握った拳が震える。気づけば心の中で深く懺悔していた。
……ラトナさん、俺、“強く”なんかないんだよ。
「……ねー?」
心配したような姫の言葉がふと耳に入る。
けれど、心の中の滝が止まらない。精神的な吐露が、泣き言が。己のすべてが止まらない。
「…………」
知ってるか。姫。ラトナさん。……夢の中にいる、地球の自分はとても自由なのに……俺は、たぶん……それを羨むしかできないやつなんだ。現状に凄く不満があるのに、あいつみたいに文句を言うことだって出来ないんだ。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫だ、すぐおさまる」
ねえ、わかる? あいつ……たぶん、すぐ文句を言うやつなんだ。
我侭で、怒りっぽくて。屁理屈で。
でもすごいやつなんだ。きっと、強いやつなんだ。
――だっていつだったか、あいつが誰かに話していたのを聞いたことがある。
……あいつには昔、恋人がいたんだって。その恋人は、ひどくいじめられていた。あいつのことが好きなやつがいて、そいつが恋人をいじめてたんだ。
あいつ、凄く怒ったんだ。その虐めてたやつと手を組んでた人は物凄く目上の人だったけど、負けなかったんだ。
おかげでちょっとその場所には居辛くなって、しかもその後その恋人とは結局別れちゃって。
だけど……その恋人を守ろうとしたこと、全然後悔してないんだってさ。
笑えるよな。あれ、たぶん真似できないんだ。俺には。
基盤は同じなのに。似てる部分があるのは自分で分かってるのに。あれには届かない。
ホント、凄いやつだよ。……何か理不尽なことがあったって、嫌なことがあったってずっと何も言わないで、現状打破もしないで我慢してるだけの俺とは、たぶん違うんだ……。
強いって言うのは、俺にとっては――あいつのことなんだよ。
「……なく?」
「ああ、すまない、泣きそうだ」
すっげーうらやましいんだ。
俺だってあいつみたいに強くなりたいんだ。なのに。
なのに。
「……姫」
ただ。ここで――踏ん張れるだけの、強さくらいは持ちたい。期待された分。俺しかいないのだと思われた分。
異分子の姫の代わりとして、この国の未来を託された分。
あなたに―――「強さ」を見出されただけの、気高さは持ちたい。
「なぁに?」
きょとん、とした顔に、自分は無理やり笑いかけた。
大丈夫。大丈夫。――ああ、もう少しだけ。
「なあアルテミス姫。――母上がいなくても寂しくならない方法、知りたい? 知りたいよな?」
強がってみよう。背伸びをしてみよう。大きく。大きく。大きく。
「うん、しりたい!」
「じゃあ、約束をしよう」
「やくそく?」
「ああ、約束。これが大事なんだ、いいか?」
――思い込め。貫け。胸を張れ。
「今日から君は、1人になっても絶対に泣かない。強いお姫様になるんだ」
泣いている俺が言う言葉ではない。
もっといえば、自らを偽る重荷を知っている、俺が言うことではない。
ただ。
「……じゃないと、俺が出てって引っ叩くぞ!」
……引っ叩く、のくだりはわざと大袈裟に言った。
実際はそんなことしたくもないしする勇気もない。けれど。
そこに、きっと異分子の姫が勇気を込められるのなら。
俺に進み続ける意味があるのなら。
――真面目な顔でこちらを見るアルテミス姫の口が、引き締まったのが分かった。
ああ。
ただ、それでいいんだ。
「……わかった」
アルテミス姫は小指を伸ばした。その手を取って小指を絡める。
……意地っ張り姫のことだ。こんな簡単な約束でもずっと守り通すだろう。
「ああ……いい子だ」
特異な生まれ方をしたアルテミス姫。
姫はきっとこれから、たくさん嫌な思いをするだろう。
苦しい思いもする。
……でもこの約束がきっと、彼女の石杖となってくれますように。
* * * *
その、帰りのこと。
「……アポロン」
「…………。」
聞き覚えのある声が背後から響いた。
……正直、懐かしい声だ。
「アポロン、何をしてたんだい?」
「……別に、何も」
そこに居たのは案の定レトだった。……昼間の葬儀には来なかったのに今頃城まで戻るとは。不躾以外の何者でもない。
そう、なんとなく……王の跡継ぎとしては思った。
あのまま来なかったら、仕事のために来なかったのだとまだ納得できたと言うのに。
「そうかい、それにしちゃあ誰に断りもなく随分と長居していたね。あの忌々しい姫君と」
“忌々しい”。その言葉は果たして仕事からきた言葉だろうか。
それとも、個人的な嫌味だろうか。
今となってはよくわからない。
イレギュラーに近づいてしまうと、その周りの未来が予測できなくなる。
その環境でまず困るのは確かに預言師だ。……しかしそれにしろ、よくよく考えて見ると、個人的な言葉が多く思い出された。
「あんな姫を産んだ王妃様が悪い」。
「あんな姫を産まなければこの国は安泰だったのに」。
仕事の話を聞くときには必ずと言って良いほどそんなことをぼやいていた母親の背中。あまりに……そう、息子にぼやくにしても、あまりに大人げない言葉。
そしてそれをすぐ鵜呑みにしていた幼い自分。
違和感を感じても何も言わなかった自分。
不意に。
そう、不意に。
……吐き気がした。
「……あんなものを視界に入れるなんて、呼気を吸うなんてどうかしているよ」
「……うん……」
「もうお前は王族の子なのだから、あんなものの前に姿を現してはいけない、あれさえこの世になければ平和だったんだ。安泰だったんだよこの国は。何も見えない。もう何も見えないんだ」
「……」
「人の目をふさいで誰が戦えるっていうんだい!」
――何かが、自分の中でカチリと音を立てる。それは剣の鯉口を切る音だったのか、それとも歯車が一段だけズレる音だったのかは分からない。
「……あれは国を亡ぼす逆賊だと何度言ったらわかるんだ、まだそうはなっていない? これからなるんだろう!」
「……母ちゃん……」
「ゼウスもお前も、誰もかれも危機感を持ってない……!」
周囲に無差別に――奇跡と驚きを振りまく存在。イレギュラー。
それは間接的に聞くのと直接的に触れるので、印象がガラリと違った。
……当たり前だ。いくら誰かの邪魔になったって、向こうは結局自分と同じに『生きている人間』だ。感情があり、心があり、こちらと同レベルの意識を持っている。
安泰? いってくれるじゃないか。
さぁ答えてくれ、レト預言師。運命からの言の葉を預かる【預言の一族】の長よ。
「まったく何が葬儀だ、アレを生んだ獣の葬儀に人間を呼ぶなというんだよ。ゼウス様もあれをみて気がおかしくなっちまってるんだ。あれは人のふりをした毒虫だ、そもそもあの場に連れてくる時点で」
「……なあ母ちゃん」
――それは誰にとっての安泰なんだ?
あなたのみている国か? それとも人か?
邪魔ならば悪く言っていいと? 邪魔ならば、闇に葬っても構わないと?
……同じ、この国に住まう一個人を?
俺はあの姫を邪魔だなんて思わないよ。……だから、こうも思うんだ。
それは、預言師にとって邪魔なだけなのではないか?
「そもそもだ、たえきれない。この世界にあれが存在しているという時点で耐えきれない。ゼウスが悪いのだ。この世からすべてを消せというだけで事が収まる。分かるだろうアポロン。お前ならこの――」
「レト」
説教から転じたぼやき、恨み節をさえぎって自分は語気を強めた。
「――その辺にしないか、預言師レト」
「……」
レトは驚いたように黙る。
「私は今、立場的にはゼウスの息子だ。貴女の息子ではない」
「……なにを」
「黙れと言っている」
驚くほどすらすらと言葉が出た。
驚くほど……自分の口調が、冷たかった。
「実の子のように振舞うなと言ったのは聞き間違えか? アルテミス姫と接触したのはこの国の第一王子として、関係する者、1人1人と親睦を深めたいと思っただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
……自分でもここまでよそよそしい物言いをしたのは生まれて初めてだった。
心の底がぷちんと切れたように痛む。
でも、それがきっと正解なんだ。この人にとっての正解ではないのだが。
これは、きっと――自分にとっての「正解」の未来なのだから。
「レト。……次の王になるのが確実とは言え、私も所詮、元を辿れば余所者だ」
落ち着いた口調の反論。……自分の思う、『強い』カタチ。
「少しでも馴染んでおきたいと思うのは、至極当たり前のことだと思うが。……近づいて良いか悪いかくらいは自分で決めるさ」
押し込める。子供の自分を押し込める。
――あまったれたガキを。ひどく拙い自意識を。「その通りだね母ちゃん」と言いたいそれを。
疎まれてもいい。嫌われてもいい。
それが、あの美しく健気な母娘を守ることにつながるのなら。
「……」
皮肉を込めて笑った。
……自分とて、母親の能力は少しばかり受け継いでいる。
だから未来の見えない不安さはわかっているつもりだった。
確かに彼女の周りに居るとそこら辺の感覚が麻痺してしまい、まったくわからなくなる。
……でも、それがいまさら。何だというのだろう?
本来、人間と言うのは未来がまったく見えなくてもなんとかやっていけるはずなのだ。現にそんな能力のない人間なんてゴロゴロといるし、夢の中の世界なんて100%の人間がそうだろう。
なのに不安に思うことはないのは、それが当たり前だからだ。
……この人は単に、怖がっているだけ。
灯りを洞窟の中で落っことした人間みたいに慌てふためていているだけ。なんだかそう思えてしまうことが馬鹿馬鹿しく……少し、切なかった。
「……俺はここに来るまでさ。ずっとあんたの言うことが一番正しいって、ずっと思ってきた。いい未来が見えているのなら、そこに向かって突き進んだ方がいい。見えていないなら、その原因を突き止めた方がいい。それはたぶん、正しいことだ」
突き止めるまでで止めるのが正解だ。――見えていないには、見えていないだけの原因がある。理由や動機がある。
「良いトコしか見えてなかったから、本当のことを自分で見ようとなんてちっとも思っちゃいなかった。あんたが最高の母ちゃんだって思ってたし、まあ、尊敬してたんだ……」
その動機を、理由を――『わけもわからず』にただ排除する。
思考を止めて、相手を人だと思わないよう、心に目隠しをして。
……その目隠しは結局、未来を見ないのと変わりがない。
それだとおそらくいつかはじけるのだ。不満の芽が摘み切れなくなっていく。罪悪感の芽で、自分たちがおかしくなっていく。
そうして世界は。
ちりっ、と脳裏で火花が散った。
――更新される、一瞬の光景。
自分に流れる血が見せた、遠くの未来。
そうして世界は――――滅びると思われる。
「俺はあんたと離れて、はじめて、自分で見て、聞いて、考えることを覚えた。……だからレト、これからあんたの指図は悪いけど素直に受けられないよ。それでいいよな?」
レトは暫くあっけに取られていたが、段々と怒りがこみ上げてくるようだった。
当たり前だ。今まで言いなりだった息子がいきなり生意気になったのだし。
唯一自分の不安を、憤りを黙って共感してくれていた。
愚痴も文句も呪詛ですら聞いていた息子が……それを、明確に否定したのだ。
動揺だってするだろう。困惑するだろう。
それは彼女から見ると「想定外の裏切り」だ。
自分の腹から生んだはずの、自分と同じ生き物だったはずの。
「自らを肯定するだけだと思っていた生き物」が……
自分で、母親とは別の正義を得た。
「く、口が悪い子だね! ……いったい誰に向かってそんな口叩いて……」
「そんな口とは、王子が護衛に向かって無駄口を叩いている。……そんなところか?」
ぐっ、とレトは口を結んだ。
……そうだ、途中で気づいたこれも言っておこう。
「そうそう、1つ忠告しておく」
「?」
「国王の為に未来を見、預言を与え、安心させる役目である預言師が、何を隠し持っている?」
「っ!!」
「安心材料を作るはずの預言師が姫を殺そうと付け狙う。……それも、なかなかにおかしな話だと思うがどうだろうか」
そう言いながら俺は指で右手を指した。
ぎくっとした顔でレトは不自然に膨らんだ右裾を押さえる。
……たぶんそこには刃物か何かが隠されているはずだ。
「気づかれないとでも思ってたのか? それとも、私が今まで同様、その思想とともに肯定するとでも?」
……まったくこの人は、息子を何の為に鍛えたんだ。
「まぁ、今更……。貴様のことなどどうとも思わんので勝手だが」
「…………。」
レトは何も言わなかった。
「俺は俺の……自分の正しいと思う道を行くことに決めた。別にあんたが間違ってるとは言わない。ただ、少しだけ俺と目指すものが違う。それだけの話だ」
……そうだろ、【自分】? 強いって、そういうことなんだろう?
俺は言うことを言ってその場を立ち去った。自分を育てた母親にようやく、さよならを言った。
そうしてひとりで歩き出す。
……ああ、とうとう来てしまった。やってしまった。
先ほど自室でこれを見た時から、コレが怖かった。
この、ひとりで踏みしめる床が、空気が怖かった。
中庭でアルテミス姫に出会う前。すすり泣くあの子の肩を抱く前に、俺にはこれがみえていた。不安で、口の周りががちがちで。
ただ、納得してしまう。
こうはなるまいと思っていたのだが、そうなるはずだった。どうあがいたところで……俺はたぶん、レトとどこかで線を引く。
でも、強くなりたかった。嫌なことを嫌と言える。
違うと思うことを違うと言える。
そんな自分になりたかったけれど、なれなかったのは。
……この空気が怖かったからなんだ。
「……終わっちまったな」
もう、どうでも良いや。
そうなんとなく、悲しい気分になりながら思う。
あの人は……視野が狭い。
レトという母親には、昔から白黒ハッキリつけすぎるきらいがある。
きっと臆病なんだ。身を守るために不安要素をひとつひとつ、ぶちぶちと潰していく。不安要素だけじゃない。本当は放っておいて良いはずのものまで……『わからない』から、恐怖する。
畏怖する。遠ざける。消そうとする。
そうして自分を。周囲を不必要に縛り、真実を見えなくしてしまう。
そんな母親を自分は自ら捨てるという道を選んだ。
……でも、自分はそのとき“小さな自由”を得た。そんな気がする。
「……あと、は……」
――また未来が見えた。
遠い未来の、争いの果て。荒れ果てた大地。人っ子一人いない中で歩く、斧槍を持った傭兵。
それから少し時間軸が近くなって。
「……難儀だな、俺は」
剣を持った少女が映る。――遠くに見える、大柄な獣の姿も。
「……この記憶も、すぐに忘れていくなんて」