??.小鴉の記憶〜②〜
……遠くから、鴉の声が聞こえる。
―――――― ―――― ―― ―
―――――― ―――― ―― ―
「……この子が」
「ええ」
「レトに似ているな」
大広間で偉そうな声がする。
大きな窓もない、天井の高いそれは――自分にはまるで牢獄に見えた。
反響する音が、静かに一つ一つ消えていく。
城につくなり、笑みを浮かべて出迎えたのはこの国の王だ。未来視で幾度もみた、書類上の父親。
「……利発そうな少年だ。はじめまして」
何故、自分はここにいるんだろう。そう、今更ながら思った。
――不気味に生暖かい手袋越しの手で、額の汗を少し拭われる。
『確定された事象』とはいえ、思えば世継ぎが欲しいなんて簡単に言ってくれる。
正確には適格者がいたはずなのだが――それは、満足にこの国の王として務めを果たせない不適切な姫だったらしい。
君主の世界において、明確な男女格差などありはしないのだが――『矢面に立つなら男児が良い。情に訴えるなら女児がいい』。そう言われるのは確かだった。
女児の後継――つまり同情というのは、ある程度財政が豊かな時にされるからこそ、力を発揮するものだ。「こんなに豊かな国だとしても、君主に一つは欠点がある」。そう思わせるのならば、きっと儚げで非力で、健気なイメージの女児がいい。
この国にとって今欲しいのは同情ではなく、壁だ。何を言われようと膝を折らない鈍感な人材で、なおかつ血の気が多い人間が求められているのは感じ取った。
……だからこそ余計に、本来の後継が不適合だったのだ。元々そこに座るはずだった人間は小さな姫君で、尚且つとんでもない欠陥をかかえていた。
――だと、しても。
目を合わせず、そっぽを向いて黙っていると、「こらっ」と慌てて何かいいかけるような母親の声。
「いや、レト、いい。……この子が悪いわけじゃない」
態度で見せた【不満】をその男は受け止める。
これが『これからの生活』を壊した人間なんだと思うと、素直に挨拶をする気にはなれなかった。
玉座を立ち上がるそれは、意外と細い足だ。……大柄で威圧感があるように見えたが。結局のところ、着膨れしていたのだと今更気づく。
「……」
「ああ、何かみたな?」
ふと脳裏を過ぎたのはいつか目にするだろう彼の素だった。当人はそもそも華奢な体格で、風邪をよくひく。よく響く声も、大きく見せている体も、見せかけの雰囲気にすぎない。
「アルテが生まれる前……レトが言い出した時はまさかと思ったがな。確かに、あの子がこの国を率いていくには、時代がまだ追い付かんだろうね」
つかつかと歩み寄った王はじっと俺を見る。
アルテ――アルテミスという姫のことだろうか。『不適合の姫』の名だ。けれど、その姫のことは自分の未来視ではうまく視ることができない。
レトも忌々しげに黙り込むので、細かいことは分からなかった。
……その子はレト曰く、忌むべき存在だという話。
――この国を継いではいけないもの、忌むべき子。レトはそれしか口にしない。
「……なぁ、なかなか聡明そうな子じゃないか」
そう言ってゼウスは少し悲しげに笑い、横で静かに佇んでいた女性に言った。
なんでだろう。
今でもよくわからない。
ただ、そこでようやく自分は顔をあげたのだ。
そこには……国王の妻、ラトナがいた。
母がよく口にしていた名で、なんでも以前、国の存亡にかかわるような大事件を起こしてしまったのだと聞いた覚えがある。
“あの女のせいでこの国の未来が安定しない”。
そう、語るのも嫌な様子だった母の表情に「悪い人なんだ」と幼い自分はなんとなく刷り込まれてしまっていたのだけれど。
亜麻色の髪。
透き通った藍色の丸い目。
どこか儚げで清純な様子の美女。
自分の想像した悪人とは、正直まったく異なる美しい容姿だった。
それが第一印象。愁いをおびたその顔は、それでも優しく微笑み……頷いた。
「ええ」
その愁いの意味を理解するには……きっとその頃の自分にはまだ早かったのだと、今になって思う。
* * * *
その数日後の話。
宮殿内でラトナを見かけたとき、思わず立ち止まった。
子供らしくむくれた態度をとるのも、だんだん疲れてきたタイミングだ。
彼女は小さな筆を持ち、宮殿の中庭で日に当たりながら一生懸命何かを手紙にしたためている様子だった。
「……こんにちは」
彼女は自分に気がつくと、ゆっくりと微笑んでこう言った。
言葉に困ってただ会釈を返すと彼女は小さく言う。
「ごめんなさいね、私のせいで」
「……え?」
想像もしていなかった言葉に自分は戸惑った。
彼女は薄く笑う。
「なんでもないわ。聞き流して」
「…………。」
なんだか不思議な人だと思った。
それと同時にこちらもまた、不思議な気持ちになる。
……あれだけ母ちゃんが嫌っていた人が、俺の隣で優しそうに笑っている。
彼女はふと、呟くように言った。
「あなた、私の弟に似ているわ」
ラトナの出身地は確か、山脈を挟んで隣の強国だ。
名をモーラ国と言い、かつてはこのコンセンテと同じ国だったという。ただ大昔、山脈に住まう大神たちの扱いを巡って敵対したのだ。モーラとは現在も山嶺を挟み、未だに緊張関係が続いている。
ラトナはいわば外交の駒。人質や生贄のようなもので――この国に嫁いできてからというもの、里帰りは未だにできていない。
「眉間に皺が寄ってるわよ」
「…………」
つかつかと歩み寄り、鼻をつん、と押される。
「小さいのにそんなに背伸びできるのね」
俺はようやく口を開く。
「背伸び?」
「レトと離れて……お母さんと離れて寂しいんじゃないの?」
答えに迷った。
ここに来るまでは寂しいはずだと。そう、思っていたのだけれど。
「……母と思うな、そうレトに言いつけられましたから」
「ああ。そう、同じね。私と」
母のことは今でも大好きだった。
ただ、その母が嫌いだと言っていた人を自分は嫌いとは思えずにいる。
母を通してでしか見ていなかった世界が、まるで今の自分には、フワフワと漂う幻のように思えた。
何が正しいのか、間違っているのかが分からない。
「……あなたは強いのね」
「強いですか」
「ええ、とっても」
その笑い顔。不思議なことに――ふと脳裏によぎったのは【地球の自分】の記憶だった。リアルタイムで見たわけではなかった気がするが……回想でも垣間見たことがあるのかもしれない。あの自由な男が、たった二度だけ話した女性。
――「私。おっかなびっくりやってたら何故だかみんながついてきてくれて。何年やってようが変わらないの。気付けばここまで来ちゃった」
彼女は確か――ひとつ上の先輩の母親。職業は『役者』だっただろうか?
ああ、とようやく気づく。
ラトナは彼女と雰囲気が似ている。
顔つき、声の色。
そして生き方の――癖。
「……あなたは、どこの世界でもそうなのですか?」
「え?」
「いえ、聞き流してください」
自分で自分を強いとは思わない。むしろ逆だ。
養子に出されることが内心嫌だったにも関わらず、何も抵抗しなかった。本当の気持ちも、むくれて初対面で挨拶をしなかったぐらいのレベルしか出さなかった。
そう思うと、勝手気ままに人生を選択していく『もうひとつの可能性』……影が頭を過ぎる。
あれがたぶん、本来――人として『正しい』のだ。
こちらの神界の俺は、さほど訓練できているわけではないにせよ、一瞬後ぐらいの近い未来をなんとなく漠然と予測できるぐらいにはレトの血を引いている。
親戚には『未来』がわかる人間ばかりで、出会い頭にハッキリと自分の「正しい道」というものを断定されていた。
でも地球には、そもそもこんな異能力を持つ人間はほぼ実在しない。
向こうの自分には『未来』なんて見えていない。だからこそだ。
自分の人生を自分で決める『勇気』が、未来なんて知ったこっちゃない『無謀さ』が、向こう側の自分にはある。
ここにはない。自分には存在しない。
ただ勇気が無いだけなのだ。
ただ、見えている道以外を歩くのが怖いだけなのだ。
「――でもこれ、ひどい話よね」
目の前のラトナは笑った。
「たった一人の子供に責任を押し付けて、たった一人の子供にリカバーさせようとして」
「……」
「あの子も、あなたみたいに強く生きられるかしら……」
「強い」と言う言葉に反論することがまた出来なかった。
でも、それよりまずその後の言葉が気になった。「あの子」とは、姫のことだろうか。
不適合の姫。欠陥品。
外に出してはならない、恥ずべきもの。
彼女は寂しげに微笑んだ。
「……そのうち、何か式典の時にでも会えるわ」
「はぁ」
「仲良くしてあげてね。あの子、体も意思もすごく弱いの。心配になっちゃうくらい」
壊れそうなほど細い指が、手紙を封筒にしまう。
……その時のそんななんでもない光景が、ただなんとなく目に焼きついて。
そして同じようにか細い言葉が、やけに耳に残った。
「……あの子が気を強く持てるように。あなたも応援してあげてくれないかしら。がんばれって」
* * * *
それから間もなく、実の母親レトと正式に離縁してすぐのこと。
城中総動員で、新しい母親……ラトナの葬儀が行われた。
死因は病死……ただそれだけしかわかっていない。
「……痩せ細っていらしたから……」
「いじめたヤツが悪いんでしょう、いじめたヤツが」
「他人事みたいに言わないでよね、あなただってモーラの余所者がいい気味だって……」
参列者のヒソヒソ話が耳に入る。いや、よく見てみると侍女だった。――そうか、あまりに外部からの参列者がいないので、給仕服を着てきてこないように言われたのか。いわゆるサクラだ。
「あらアポロン様、やだじっと見て」
「お飲み物をお持ちしましょうか?」
誰もその人を弔わない。
誰も、彼女の中身を見ていない。
「……結構だ」
王子というだけでゴマ擦り放題の侍女たちに吐き捨てる。――そもそも、陰口を叩く時点で目に見える。自分だって。それからレトだって。こいつらのストレス解消の捌け口になっているに違いない。
そうだ。
ラトナは結局、自分たちと似た立場の女だったのだと今更気づいた。
……周囲に流されてここまできた。誰かのために、請われてやってきた。
もう知っている。濁されなくなった。
彼女の娘が。王の第一子が。
今、どんな扱いを受けているのかを。
「――ああ。聞こえていますか、ラトナさん」
思わず口からこぼれてしまう。
……これからの国の未来を担うはずの、大切な跡継ぎのはずだった姫。
「……死んだら、楽になりましたか?」
それが、未来を狂わせるイレギュラーだったという事実は、彼女にとって重すぎたのだ。
――「ごめんなさいね」
あの時の謝罪はもしかしたら、無関係の母子が離されたことに責任を感じての言葉だったのかもしれない。たとえばそう。
――「あなた、私の弟に似ているわ」
モーラ国で恐らく笑って暮らしていた、王子と姫のように。
「……」
「どうされましたアポロン様」
先ほどとは違う男の給仕が声をかけてくる。
「……。ため息ぐらい誰でもつくさ」
「ははあ」
訳知り顔でグラスを手に持った給仕は口を開く。
「確かにつまらんでしょうな、よく知りもしない女の葬式など」
「……ああ」
政に関してなら些細なことでも「未来」を見て安全確認をするコンセンテ国。
その国で、レトたち『預言師』の見た未来を狂わせたのは確かに彼女の生んだ子供だっただろう。未来を狂わせた責任と言うものは、レトから見ると確かに存在した。
それはいくら周りが気を使おうとも責任となって、彼女の肩に重くのしかかっていたのかもしれない。
「全くだ、つまらない」
そう、今なら分かるのだ。
自分という『外部の養子』を、あの王が迎え入れなければならなかったわけを。
「成程」
「どうかしたか?」
「いえ、思ったよりだいぶイイヤッ……失礼『正しい』お方だなと」
「ああー。……クビになるぞ貴様」
――いや分かるのだが。
目を逸らす。
確かに【ほんの1ヶ月前まで平民扱いだった子供】にクソ丁寧な言葉で話しかけるとか、やってられないって人も多いだろう。だからこそ、誠心誠意クソガキと思われようと、TPOを弁えた尊大な口調にしているのだが。
……可愛がられるようなキャラで行くと全員、見事に砕けてしまいそうなので。
「そしてあなたの嘘も『正しい』。ただ言葉と表情が合っていない。嘘をつくならもう少し練習をされませんと」
「……余計なお世話だ、ありがとう」
隣のテーブルがドッと湧く。
……人の生き死にというものは、政治の場では『発表会』と変わりがない。
それは一応、考え方としては理解している。
聞こえるのは雑談。笑い声。酒の匂い。悼む場というよりはパーティーだ。
「……給仕」
「なんでしょう」
瞬間的に、何かの光景が脳裏をよぎった。
「……お前、彼女と似たような境遇の知り合いが?」
少しギョッとした表情で――ああしかし、少し後には合点がいって。
「ソレを生んだ、家族がいました」
「……そうか。失礼した」
「殴り殺されたもので」
過去形だった理由を彼は呟く。
「ただ、可愛い子でした」
「……」
酒を飲み干した彼が、すっからかんのグラスを戻そうとこちらから目を外す。
瞬間――どこからか、幼い声が響いた。
「あっ」
すぐ後ろだ。そう思って振り向くと、ちょうど自分の目の前までお手玉が飛んできたところだった。――少し驚いたが取り損ねはせず、難なく受け止める。
手の中に収まった柔らかい布は、いかにも女の子が好きそうな柄のそれ。
給仕の彼は苦笑いして、足早にそこを去った。
重ねたくはないのだろう。記憶の中の『村民全員に甚振り殺された姪っ子』と。
手元のフワッとしたお手玉を見る。
……こういうことは昔から多々あった。後ろから何かが投げつけられるのだ。多くの場合はレトからの抜き打ち瞬発力テストだったのだが、たぶん今回は違う。
今日は母親が来ている様子もないし、実際まったく顔をあわせていない。
「ありがとー!」
小さな女の子がトコトコと駆けてきて自分に手を伸ばした。
「……どういたしまして」
さしだした右手から、少し戸惑い気味の表情で『お手玉』を掴みあげたのは、小さな女の子だった。可愛らしいワンピースドレスに、ヤグルマギクによく似た花飾り。
見た目はかなり幼い。まだ3歳にもなっていなさそうな容姿なのに、その割にとてもしっかりした受け答えをしていた。
「こらこら、まだアルテには早いんじゃないか」
そう言って後ろから苦笑しながら追いかけるようにやってきたのはあの王だった。
子煩悩のへたれた顔。この頃にはもう、『偉そうな』の冠はつかなくなっている。なんだかんだ接していて、すぐに分かったせいだ。
……この人もこの人で悪意はない。ただの苦労人だ。
バラエティ豊かな周囲に振り回されるだけの国のトップ。
正体はただの、『格好をつけているだけのおじさん』。
「できるっ!」
女の子は自分の手渡したお手玉を手に取ると、ムッとした表情で王――ゼウスに向き直った。
「とうさまみたいにできるっ!」
どうやらかなりの意地っ張りらしい。
『あの子』……ラトナの言葉がリフレインする。
「えっと、父上」
「紹介が遅れたな。ラトナと私の実の娘だ。名前はアルテミス」
苦笑いしながらゼウスが口を開く。
「一文字ずつ石を転がして音を決めたのだがね――あとで調べれば地球の、月の女神の名前らしい」
多角形の石をサイコロのように転がすあれか、と以前レトに見られつつ勉強した項目に思い至る。
この世界ではポピュラーな名づけ方だ。
勿論、地球のように言葉の意味を考えて名づけすることもあるのだが――それだと言葉の意味に縛られてしまい易い。
地球人より運が良い――つまり『リムトーキ』の影響力が強い神界人では、名づけ親の願いが人を縛ってしまう。
要するに『完全に名前通り』の人生を辿るようになってしまうことが多いのだ。
勿論、改名や通り名の変更で済ませれば特に問題ないのだが、特に幼少期の名前なんて自分の意に沿ったものであることは少ないわけで……結局、子供に対して愛があればあるほどに「サイコロによるランダム決定」を選ぶ率が高くなる。「どうとでも読み解ける文字列になるように」。
ただ、それが結局【特定のもの】を指す言葉になってしまうこともあるのだが。
このアルテミス姫とか。
あと、自分の名前――アポロンとか。
そしてその偶然に頼る石転がしは王族も割と頻繁にやる。勿論最初に知った時は「いや、王様がスゴロクみたいな決め方してんじゃねえよ」と思ったものだが、王族の系譜を見ていると奇妙な響きの人間はほとんどいなかった。
……まあ、サイコロ振ってるのが大体辺境のメティスとかいう女神だものな……。
「この子はわけあって、私たちと暮らせない子だ」
「……わけとは?」
分かりきった話だが。当人から聞きたくて、そう聞き返した時だった。
「……?」
その場の空気に違和感を感じる。
それまでなんとなく読み取れていた人々の行動が予想外なものになっていることに気づく。
「……何だ?」
今までにまったく、覚えのない感触。
帽子を風に飛ばしてしまう、窓の側で談笑していた大臣。転んでしまうどこかの豪族の子供。
目に映るその全てが、あまりにも突飛に思えたその一瞬。
「気がついたか?」
ゼウスの言葉でハッと我にかえる。自分はなんとも言えず首をかしげた。何かがおかしい……それはわかる。だが、何が起こっているのかまではわからない。
「……違和感はあったか」
「……はい」
それなら頷く事が出来る。何をどう言ったらいいか分からないが――予想外だった。もしかしたらあれが通常の感じ方なのかもしれない。
「なるほど、さすがレトの子だ」
「ですが今は赤の他人です」
“たとえ一切その気になっていなくても、口先だけでも良いから言え”。レト自身から言われたとおりに、素直に言う。
それに今は、なんとなく自分も母親を疑問に思う気持ちがあった。
「そうだな」
ゼウスはそう言って深く息をつく。自分はとりあえず答えた。
「……でも、お褒めに預かり光栄です」
実の親をそれほど高く評価されていることに関しては別に悪い気はしなかった。アルテミス姫を撫でながらゼウスは言う。
「イレギュラーは知っているか?」
「運命を乱すもの。異分子、異端者と、か……」
おっと。……咳払いする。
「レトはそう教えました」
「その通り」
ゼウスがそう言って、撫でていた手を止めアルテミス姫を見た。姫は不思議そうに首をかしげている。
その純粋無垢な反応が、とても愛らしく思え……なんとなくホッとした。
同じ生き物だ。同じ赤い血を持ち、同じ喜怒哀楽を持つ。
「その、アルテミス姫がイレギュラーだと言うのですか?」
その後流れたのは、一瞬の重苦しい静寂だった。
スッと静まり返った式場内に、皆の笑い声は聞こえない。
「……そうだ」
「……ですか」
「しかし、それだけの話だよ」
ゼウスはアルテミス姫を抱き上げる。
「この子は、生きている」
……その子の髪が揺れた。
揺れ方にまた奇妙な違和感を感じる。
「生きようとして、己の幸運を使っている」
リムトーキは生きようとする意思の力だ。幸せに生きる未来、思い通りの結果を手繰り寄せるための引力のようなもの。それが場を乱すほど強い人物で、かつ自力での制御ができず、そして――地球の夢を見ない神界人を、イレギュラーと呼ぶ。
夢を見ないということは、どういうことか。
恐らくその『視点』を担当していた地球人は死亡している。
それも急死したか、不慮の事故といったパターンが多い。
地球人にも少量のリムトーキは備わっているので、その残ったリムトーキがどこにいくのかといえば……夢を辿って、魂を同じくした神界人に辿り着く。
「無意識につむじ風を起こしている」
つまり、こう解釈できる。
――イレギュラーは、地球人から『生きる力』を奪って生まれたのだと。
だから通常よりも持つ力が大きく、複数人の運と運でつりあっていた天秤を――要するに、『均衡のとれていた環境』をかき乱す。
たった一人の、それも『盗人』にとって都合のいいことが起きる世界。均衡の中にほんの少しだけ発生する流れを読み解く能力――つまり『未来予知』の能力がある人間がいたとして、それを無力化するほど、個人の気分のままにコロコロと流れが変わる世界。
ただ、その盗人は盗もうとして盗んだのではない。
生きていただけだ。そう――生きているだけで、自動的に力を盗んでしまったのだ。
「……」
兄弟か双子のように生まれたのが、地球と神界だ。
同じように空気があり、水があり。森があって人がいて――それらは寸分違わず、おそらくは同じ魂を持っている。
神界にユリが一本咲けば、同じユリが地球にも咲くのだ。まるで双方がバックアップをとりあっているように。
けれど時折片方の動きが悪くなることがある。死亡したり、脳や精神的な病に侵されたり――勿論大概は問題がない。輪廻転生ですぐに次の命が生まれ、そうしてまた『生き残ろうとする意思』が生まれる。
リムトーキがピッタリとそこに収まるのだ。
しかしなんらかのキッカケで生まれなかった場合……生き残っている方。つまり片方の世界に幸運値、つまりリムトーキ容量の大きいイレギュラーが発生する。幸運を制御できない個体が、生まれてくる。
「イレギュラーであるというだけで人と区別するのはおかしい話だ。だって、生まれてきただけだろう」
それが生まれただけで、この世界では迫害される。
他の人間の人生をかき乱すからだ。
「今日この日ですら、この子を連れてくるのにほとほと疲れてしまった。……母親の葬儀すら出れないなんて、おかしな話だろう?」
ゼウスはだいぶ冷静で、温厚で――恐らくだが、【夢】からものをよく学び、地球人に感化された発言をする人物だ。
そう、あらためて思う。表面的なそれにとらわれず、物事を俯瞰して見る人物だということだろう。
神界人は目に見えない力を重要視するし、自身の力の及ばないものはすぐに諦める。場に流され、細かいことは気にしない。頑張らない。そんな性質を持つ神界人を束ねる一国の主としては――――
「……父上は【王様】らしくありませんね」
「ああ、形から入るお前の方が【王子様】らしいだろうな」
軽く笑い、さらりとからかわれたのがわかった。
ラトナの言っていたのはこれだ。大人たちにはこの拙さはバレている。
言葉遣いを変えたのも、それが素ではないのもバレている。
それが背伸びなのも。それが本意ではないのも。
「アポロン。――私もアルテもお前も、選んでその生き方をしたわけではない。望んでそうなったわけでもない」
……まあ、確かに地球人目線だとおかしい。
生まれることは、祝福されるべきこと。たとえどんな障害を負っていようとも。誰に迷惑をかけようとも。
「……そこに、そう生まれただけにすぎないのだ」
地球人はそもそもリムトーキを知らない。
魔力や霊力、超能力と言い表すことはあっても、それは夢物語に近い概念だ。
神界の常識とは違うところで生きている。
そもそも、神界でいうところの神や預言者の見る『未来』というのは、確定されていない1つの可能性でしかない。
確率的には殆ど確定されたようなものだが、それを押しのける力というのもまた存在するもの。
自分は思う。
――それが完璧に確定されたものではないのなら、イレギュラーでなくてもそれは無くなり得る未来なのではないか?
しかし、母親はこうも言っていたのを思い出す。
――『未来が1つしか見えないのなら、その予想し得る未来に必ず導いた方が安全だ。そうして導くのも預言者の役目なのだよ』
「……父上?」
「何だ?」
「アルテミス姫を葬儀に出席させるなと言ったのは……レトですか?」
「代表格はな」
なるほど、だから来なかったか。
傍から見ればまるで駄々っ子のような対応にも思えるが……まぁ仕事を考えれば一番の良策だろう。
接触がしづらいのだ。
未来を見据える預言者のスキルに、イレギュラーの介入など、極力あってはならない。
「実の母親の動向が気になるか?」
「いえ、言いそうなことだと」
「なるほど」
「ねーぇ」
その時、アルテミス姫が不機嫌そうにあくびをし、小さく言うのが聞こえた。
「――よくわからないおはなし、まだぁ?」
いや、ぶっちゃけ忘れていた。
そりゃあそういう感覚だろうし、そういうこともいうだろう。
いうだろうが。
「……っぷ」
今の、タイミングは予想外だ。
空気をぶち壊すような発言に自分は思わず口を押さえた。
いくら血のつながったお姫さまとはいえ、一国の王様の話をまったく聞かずにぶった切る人物はこの国にはきっとなかなかいないはずだ。
わからなくてもとりあえずわかった振りをする人も多いだろう。特に、彼女のしっかりした口ぶりなら。けれど。
「くぶっ……」
駄目だ、我慢できない。
「く……あはははははははっ!!」
その何にも捕われない自由さに思わず大笑いしてしまった。――だって、言い方が雑なのだ! 更にいえば本当に、予想だにできなかったのだ!
この瞬間、大概のことには【身構えていた】ことに今更気づいた。
大体のことなら頭の隅で、パターンとして予想していたことに気づいた。無意識だったらしい。
そうか、預言師の血筋だものな。しかも一番力の強い女の息子だものな、俺は。
「――予想外というのは、存外。ぷ、くくく! 楽しいですね、父上!」
城に来てからというもの、『アポロンという跳ね返り王子』があまり笑うようなことがなかったからか、ゼウスは少し驚いた様子でこちらを見ていた。
けれど。
「……お前らしいな」
少し、つられたように彼は笑う。
互いに似たもの同士の背伸びをした父子は、その瞬間。
「ふっ」
「くぷっ」
「?? ……とうさま?」
正しいと思って「素」を出した。
―――――― ―――― ―― ―
―――――― ―――― ―― ―