【小話】はじまりの再会。・後
* * * *
明らかにヤバい音がした。
「……あの、犬飼先生……?」
……オレ、つまり【イツキだった何か】にだって、きっとそう。
いや、おそらく。
ヒト並みに困惑する権利は、あるわけで。
「! ふぁふッ」
トテン、と首を傾げてその目がフッとこちらを見たかと思いきや――その視線はグイッと下に向いて。
「ゥゥゥゥわふ――――――!!」
――カサカサカサカサ!!
「え」
そこにいたのは虫だった。家庭内によく出現する、あの黒くてカサカサしたヤツ。そう、あれってさ、意外と雑木林とかにもいたりして――その結果。
「パゥフッ!」
「うわ」
だむっ、と大きな音を立てて後ろ足が跳ねる。――後ろ足? えっ、待って。さっきからそんな形だったっけ!?
犬飼先生が四つ足のまま、目にも止まらぬ速さで視界から消えたかと思ったら――ドガン、ガタン! と重い音が数発。
「ガルル! ガルルるる!!」
「え、ええ……?」
どうやら音からして、瞬く間に肉球パンチで踏み潰し「虫」を惨殺。更に咥えてブルンブルンぶん回し、「いえええい褒めて飼い主ー!」とばかりにダッシュで持ってくるらしい。――えっ、何、猫の狩猟?
「――ばぅ!!」
ぐちゃ、と死体が目の前に放り出された。
「えええ……?」
いやいや何これ。黒くてテカテカのペッチャンコ死体を誇らしげに持ってこられても。っていうか。
「ぷるるるるるるっ」
いや待って。死体置いてどこへ!? ちょい待っ……。
「ああああ!? 絶対オレにやらないでねそれ!?」
流れるように向かい側の木に向かってマーキングしはじめたそれにようやく理解した。……これ、犬飼先生というよりただの犬だ! 人間感が微塵もない!
「ヴェ!!!!」
――しかもユキ姉ちゃん宅のヤツより数段やんちゃなバカ犬だこれ! いや落ち着いて。待って、やることやったらノンストップでダッシュしてこないで!?
「わあああ!?」
ぼす!! ――特大モフモフがオレにのしかかった。が、意外とブレーキはかけてくれたようで。
「いや、あの……。待て」
「ゥオン!」
「落ち着いて、伏せ」
「ペョン!!」
想定したような衝撃はないのだけれど。その代わり、思いっきりその……ベロンッベロン舐められているわけで。
それも顔面だ。頬ばかりを。
「ペロペロすんな、って、ば……いや、しないでくださ……ああああ! もうっ!」
犬にとって『舌で舐める』のはスキンシップだ。挨拶や自己表現の一種だと昔聞いたことがある。ただ狼は知らない。でもこの人懐っこさ、警戒心の少ない感じ。この振る舞いはやっぱり飼い犬にしか見えない。
ああ――ただ。
「……あ」
ただ、その舌が――よく考えると思いっきり。
「……まさか、さっきから……」
――――涙を、拭っているのは、確かで。
「あ、あ、ぅ」
思わずおしころした声が出てしまう。
ぺろぺろと冷たい舌が頬を拭う。体の芯から体温が下がっているらしい。
夕方の風で寒くなって、なのに帰らずそこにいる。
「ぐ、すっ」
そこに、普通にいるのが分かる。――振る舞いが変わったのみで、行動原理が変わらないのが分かる。
同じなんだ。
くだらないことを喋るのも、舐めるのも。
心配されているにすぎない。落ち着きなく構われているにすぎない。
さっきまでガンガンに止まらなかった、そのお喋りと同等の数。根本を同じくする不安、同情、憐憫――――オレが、泣いていると認識して、どうにかしようとしてるのは、確か、で……。
「……やめ、て、欲しいん、だけど……!」
気づいた。目を逸らそうとしていた事実に、ようやく、今更――はじめて。
「あ、ああ……もう、ホント、やだ……っ」
泣き言とか、いうだけ惨めになる。
込み上げてくるだけで、吐き出す先がないのに!
「う、あ――――かえり、たい…………」
口からこぼしてしまう。
せっかく踏み固めた何かが――今更誰とも会いたくない、話したくない、信じたくない、心を閉ざそうとした、何かが。
くずれていく。かたちを、なくしていく。
「いや、だ……! いえに、かえりたい……!」
この人が来なければ、また一つも言葉を発することなく、空を見上げてため息をついていた。夜は寒さに震えていたし、誰もいないのが当たり前だった。そう、当たり前だったんだ。
……周りを見渡しても、そこには『生き物』がいない。
言葉の通じる何かはいなかった。
迷い込んだ蠅が、蟻が、蜂が、言葉を解するわけもない。
だから、泣き言を口にしたって無駄だった。なのに。なのに――この「犬」は、いまさらに言葉を解している。
「よこに、なって、ねたい……」
いまさらに本音が出てきてしまう。何を言っても分からなさげな「犬」に向かって出てしまう。それでも今の今まで言葉を交わしていたその人に。それでも強がって口をきいていた、平静を装うとしていた、そんな相手に。
「あったかい、ばしょで、あ、あああ――かぞくと、いっしょに……!」
――今は言葉を発さない。
だからこそ、愚痴を。泣き言を、言いたくなる。
お喋りだったくせして、言葉は口から出てこない。それでも耳がこちらを向いている。
口から出なくても、言われた言葉を【理解】しているからこそ、そのモフモフは動かない。逃げもしない。黙って涙を拭い続けている。
「それが、かなわないなら、もう……しにたい……」
――震えた声で、しぼりだす。
それで、どうなるっていうんだ。
そう思うのに。
「いますぐ、ここから、いなくなりたい」
しゃくりあげながら、涙と一緒にぶちまける。
「なのに」
その犬の耳が動く。
こちらにも聞こえてしまう。
――この体は生きようとしている。
「なのに」
足が水を吸い上げている。指先が、光をもとめている。
「なの、に」
……死にたくないのだ。そう、気づいてしまう。心は本当に死ぬ寸前なのに。この人が――手を、前足を。
不器用に差し伸べたのだと気づく。
「なんで、こう……!」
嗚咽する。
はっきりとした言葉が出なくて――ひどく、グッシャグシャに鼻水を出して泣いてしまう。
手放したかったのに。
――心の中身も、からだも、ぜんぶ、なくしたかったのに。
「わあ――あああ、あああああっ……」
そのモフモフにすがりついて泣き喚いてしまう。前も後ろもわからないまま、頭すっからかんにしたままで。
* * * *
「…………は」
――気が、ついた。
我を忘れている間の記憶というのは、残念ながらある。ばりっばりだ。その場ではコントロール不可なだけで、履歴の理解はできる。
――我に返った瞬間、全身攣ったようなヤバい痛みがバッキバキにやってくる。更には思わず唾が気管に入って……
「げッはげはげはっ……げほっ……ごふごふっ!」
ひんやりしたそれは、甘い朝露の匂いは――朝方の空気だ。
脳裏に自動再生のそれ。
――大の大人がその辺でマーキングしてるそれとか、ペロペロしてたら腹に抱きつかれて、突然わあわあ泣かれたとか。
「……ァァァァア……ぁああああああ!」
息をしてほしいのだが、俺の精神。瀕死の重症にならないで勝手に。
ちゃんともう手は動く。前足ではなく手の機能を取り戻したそれが、己の頭をグシャグシャガリガリと掻いていく。
「んっだああああああああ!!!!」
――この植苗くん、やっぱ相当ストレス溜め込んでたとか! 相当にねちねちぐちぐちしてたとか! ああ、言われた言葉とか……!
そういうのを、思い出す。
「……お、おお……おお、まあ、うん……! ど、同情は、するけども……!」
まあそれもそうだろうねお前!? 時永にこっぴどく裏切られてんだろうし!? 人間不信が極まってるような精神状態だったり、ショックが大きいときってのは確かに小動物見たり、犬猫と触れ合わせたり――俗にいうアニマルセラピーがかなりの確率で有効ではあるんだが!
アニマルセラピー? ああいや、確かにね? そういうことになりますねえ?
つまり今、俺が――アニマル犬飼さんなんだよねえええええええ!?
「んぅ……」
寝てる。
植苗くんめ……完ッ全に、寝ている。
「ってか、この子、うう、いつまで俺に抱きついてんだ……っ!」
「……ん、んん、すぴぃ……ふにゅ……」
腹部にどう考えても植物性の蔓がグルグル巻きになっている。これが手の代わりだとすると、完全に抱きつかれながら寝落ちした体勢だった。俺の体毛にモッスリ埋もれた顔面がもごもご呟く。
「うへへぇ、フカフカぁ……。ぐひゅ……」
「うぐええええ!! ――いやいやいやちょっと!? お休み中のところ誠に申し訳ないんだが、寝ぼけて締め上げんな! 食い込む! 食い込むんだわ色々と!」
今のところ毛皮こえて地肌にチクチク枝がブッ刺さっている――いや食い込んでるのはそこまで痛くないのだが。当然ながら居心地良くもない。あと男の子に抱き枕にされて喜ぶ趣味はない。割とガチで。
「がるるるるるるるるる!!」
「……」
「がるるるるるる……がる、がるるるるるるるる!!」
『初めてここまで喉鳴らしたわ』ってほど鳴らしまくる。サッカー観戦のブブゼラ並だ。ええ怒ってます。すんません俺、寝起きに威嚇してます植苗くん。
「………………」
……いや起きないっすねお前!! 更にいうなら直立したまま泣き疲れて寝てるのねこいつ!? ハア!? 「横になって寝たい」とかそりゃ切実になるってか、腹が植物の蔓でグルグル巻きになったまま何時間過ぎてんの俺!? もしかして巻き添えかね? 要ッらねえよ!
「トイレも行けねえからそのうち漏らすんですが!! えええい、オシッコされたくねえんだろうが!! 離してちょっと!」
「! ふうぇ――。……はひ!? もらしゅの!?」
突然ドン引きした声が聞こえた。うーんこの寝ぼけ感マックス野郎め! おはよう植苗この野郎!!
* * * *
「あああああごめんなさいお疲れ様ですごめんなさいお疲れ様ですごめおつごめんなさい! えっと――――死にます!!」
「死ぬな、生き返れ」
そして謝罪で労いをサンドすんな。
「いやまあ、『熟睡できた』なら何よりではあるんだが……普段ちゃんと寝てんのかお前。直立不動で」
「そういわれてみると、久しぶりに寝た気がするっていうか。その」
植苗がしっかりぐるっと空気を『エア抱っこ』した。
「モフッとしててこう、スヤスヤ、フカフカでした……」
「へええええそりゃよーござんしたねえええええええ」
「……えっと、むくれてます?」
――むくれるだろ! 変なトコが気に入られてんだし!
思わず俺は地面に頭突きをかました。
ってかあの状態も割と他人からみると役に立つっていうか、抱き枕としての素養はあるようで? へえ? ああああ畜生、いっっっらねえよ、そんなクソみてえな需要!
「ま、まあ……その……何だ……寝ボケるくらいは可愛いもんだろ。俺なんてああなってるときはだな。その場のノリが100パーセントっつーか、思考力が大幅に低下してるというか……ああ、時永にハメられた時もそうだったし」
頭を抱えながら口に出せば、植苗がへらりと笑った。
「普段の性格考えてると、犬飼先生から思考回路とったら何も残らないんだけど……」
「そりゃ、褒めてんのか貶してんのかどっちなんだ」
「けなしてる」
いきなり敬語もなくからかうように言った植苗に、俺は息を吐く。それから少し噴き出した。――ああハイハイ。調子乗ってやがる。
「何ひくひく笑ってんの先生」
「いや、ね……元気そうで何よりだわ、と」
調子なんて、別に乗るぐらいでいいんだよ。特に今は。
「……さすがに一夜明けたし、騒ぎすぎて腹も減った。俺はぼちぼち戻るかな」
死にたい、なんていうくらい。
ああ――どうということもない。
誰にも寄りかかれないよりはマシだ。
何もない。殺風景なこの場所で、遭難しているようなものなんだから。
そう思いつつ、一旦寝に帰ろうと手を振った瞬間。――その枝先が、がくんとしおれるように折れ曲がる。
「ああうん、どうした」
ぐい、と瞬間的に巻きついてきたその蔓を見る。背中の毛を引っ張られ、素直にこちらも立ち止まった。
正直もう既に慣れてきた、そいつの感情表現。
人らしい喜怒哀楽。しかしそこから動けない【木の妖精】。
それでもそいつは歯を食いしばる。
目に、意思が灯っている。
……なら、俺だってヤケになってはいられない。
そこに俺より弱い誰かがいるのだ。誰より弱いのに、立ち続ける高校生がいるのだ。
「……あの」
「何だ」
声を、かける。
……一人でそこに立ち続けた高校3年生に。
「もう、来ないとか……ないですよね……?」
「ないわ」
即答する。
震える声から感じ取れたのは、心の底からの不安だった。それを俺が拭わなくてどうするのか。舌であれ、手であれ――その水滴を、弾き飛ばさなくてどうするのか。
「クソ眼鏡に邪魔されようが来るよ。何度でも」
「ホントに?」
「じゃないとお前、退屈で死ぬだろ?」
……どうせ長い付き合いになる。
このまま野垂れ死ぬにしろ。このまま、何年経つにしろ。
「また飯食って、ちゃんと寝たらここに来てやる。約束だ」
ここにいるのは、俺だけだ。
この植苗だけだし、獣と木が一匹ずつだけだ。
あの呼吸音が少しだけ頭によぎる。でも。それは――きっと『もうどうにもならない何か』だろうと、頭のどこかの本能で分かる。
この植苗は違う。呼吸だけしているわけじゃない。心が死んでいるわけでもない。
生きているんだ。
……俺がせめて、『生かしていかなければ』、いけないんだ。
「……じゃあな。俺はもう先生じゃないからさ、今度は」
さあ、今更だ。
無駄なものは取っ払え。
「友達として、喋ろうぜ――なあ、イツキ」
下の名前であえて呼ぶ。もっと調子にのればいい。
馴れ馴れしく接しよう、頼りないズボラな大人を演じよう――幸い俺には【出来のいい手本】が過去にいて、それに対して年下がどう接するかなんて、知りすぎるほど知っている。
「しっかりしなきゃ」と思わせよう。他の生き方を、それから行動を。それとなく模索させて……生きる気力を上げていこう。
無茶はさせない。ああそれから――もう少しだけ、楽をさせよう。
死にたいなんて言わせてたまるか。
これ以上、「消えてなくなりたい」なんざ――ああいうヤツに、あんな顔で言わせる世界がどうかしているんだ。
……頭きたんだよ。
だって、こいつにはまだ――――未来があるんだ。
目を瞑り、つるを振り払って地下通路に帰る。
あの息遣いを抜けて、棚の林を越え、床下収納の蓋を開き……。
「……っあ、おい、馬越さんだっけか」
せかせかとコンクリ部屋に帰りついた瞬間、ふと目に入るのはいつもの飯だった。
待ち受けていたようにほかほかのお粥だ。よくよく考えたら今までのメニューも大体がお粥か雑炊で、俺が頻繁にゲロるのを意識していたことがわかる。
……いや、マジか。
前後関係に気づかんかったわ。
気力死にすぎてて。
「……俺の無断外出、見て見ぬふりしたろ、あんた」
ノックもせずに、扉の向こうに声をかける。
格子の向こう、ゆらりと気配が立ち上がったのが分かった。
「……いえ、何のことです?」
返事が返る。ちゃんと言葉を交わしたのは初めてだ。
扉の向こう――その声は存外柔らかく【嘘】をつく。
「ずっとそこにいたでしょう、貴方は」
「なるほど? ……あ」
手に持っていたお椀が数秒で空になったことに気づく。
……普段なら途中で胃が痛くなったり、気持ちが悪くなるはずだ。
それをぺろりと食ってしまっていた。
腹は確かに減っていた。ただ食事を欲したり、おいしいと思ったのは――恐らく。
「すまん」
「どうしました」
……よく考えればの話だが、久々だった。
「おかわりあるか?」
「……胃がびっくりしますよ?」