10.さいごの夢
――まず見えたのは、白い光だった。
黄色い、薄曇りの夕焼け空。
鳥籠の如くひび割れた、光の線。
「……――……――」
誰かさんの小さい息の音。
……聞こえる地鳴り。
遠くで、何かが崩れ落ちる音。
《その視界》に入るのは、どこかの屋上だ。
――建物の中に入るための扉。
そこに背中を預けた「彼」は、ふっと気づいたようにこちらを見上げた。
「……あ」
視点が、少ししゃがみ込む。
そこでわたしは気づいた。
――『ああ、これが最後の夢なんだ』。
「……ああ」
口角が上がる。いつも通りに。
ぐしゃっと口がわらって、その目がこちらにあう。
「……遅かったね?」
彼が左手で握り締めていたのは、もうボロボロになったわたしの日記帳。妙に汗が染み込んだ、ふにゃふにゃのページ。
よくみれば、誠くんの体はズタボロだった。少しずつ足の先から光の粒に包まれて――まるで、拡散するように消えていく。
「――君と似たようなものかな、これは」
……痛みがなかったんだっけ?
そんなことをくすくす言いながら。
「これで、良いんだよね?」
日記を持った、その左手が緩む。
ちらり、とその目がこちらを見た。
……間違っていないか。僕のしたことは正しかったか。
そう言いたげに。
『……――』
といっても……正しいかどうかなんて、正直一切分からなかった。
きっと今までのわたしは、誠くんの道中全てを見られたわけではない。
「……ああ、だろうねえ」
だって断片的にしか、この夢は過去に届かない。届いていない。更にいえば時系列はめちゃくちゃで、そして。
『――――。』
この声は、きっと未来に届かない。
納得したように誠くんは頷く。
「いるのは分かるけど、さすがにね」
――視界が首を傾げる。
へらりと笑って誠くんは息を吐いた。
「まあ、意外と大したことじゃないさ。そう思うよ僕は」
『……――』
「君がそこにいると気付いただけで儲け物だ。……君が言いそうなことはすべて分かる。それでいい」
『――……』
「……それで、いいんだ」
誠くんの髪が揺れた。
……ひどくつめたい、冬の突風。
木の葉を巻き上げた木枯らしが、ぴゅーぴゅーと屋上を吹き抜けていく。ヒビの入ったカットグラスみたいな空に、光が少し渦を巻いた。
「……そう、だなあ……。心残りが一つあるとしたら」
言葉とは裏腹に薄く笑った口元。
「結局、たくさん許されないことをしたし……むくいも受けた」
『…………』
「そんな僕だけど。でも、今のうちに聞いて欲しい」
うん、聞いてあげるよ。
……いくらでも聞いてあげる。
だってそのために、あなたはここで待っていた。
「――――僕はずっと、誰も守れなかった」
ぎゅ、と左手が拳をつくる。
君が『わたしのついさっき』に、くちにできなかったこと。――右手くんがいたとき、足の指しか動かなかったとき。
……わたしに、何か言おうとした。
そんな気配がした。
これだ、とわたしはあのとき思った。誠くんは幾度もメティスの話し出すところを察知している。その声が聞こえていないのにも関わらず。
たぶん、こういう感覚だったんだ。
……言えなかったこと。互いにまあ、いっぱいありそうなものだけど。
結論、わたしの言いたかったことは、あなたに全部伝わっていそうだ。
その手にある日記が証拠。
あなたはわたしがいつか、「夢」を見るのを待っていた。
――だったら今、わたしに語れていないのはあなたの方だ。
未来の夢――【誰かの視点】をジャックした夢を、わたしは見ている。
メティスがかばって、痛みもなく気絶して、獣に咀嚼される最後の時間。
瞬間的に、わたしはきっと眠りに落ちた。
その可能性があることに、あなたは全てをかけただろう。
わたしがいつか【日記に書けない夢】を見ることに、あなたは期待をかけていた。
……だからあなたはそんなぼろぼろの状態で、誰もいないここで、命が尽きるギリギリまで待ち続けたのだ。
なぜならここは、人のいる場所ではない。生存できる環境でもない。
終わった場所なんだ。
ここは、ミコトが復活させた誠くんの終わる場所。
あなたが歩いた最終地点。
「……好きなひと。好きな子。好きな仕事。好きな趣味。……自分の心の中だってそうだ。手を伸ばしても、握り込めずに消えていった」
『――』
「自分の親の愛情だとか……声だとか、言葉だとか。見て見ぬ振りを、いっぱいしてきたさ。……その……理解が、うまく、できなくて」
つっかえつっかえになるそれは珍しかった。――それでも知っている。彼は元々、そういう人。誰かに想いを伝えるのが、とても苦手な人。
「愛してくれた人もいたのに。愛する人も、いたのに。――きっとその思いもぐちゃぐちゃにした」
視界が頷く。
「……ひどいやつだ」
視界が頷く。……いやそこは頷かなくていい。視界の人。
「だけど、だけどね。……今しがた……たった1つだけ、守れたものがあるんだ」
それが何なのか。なんとなく察しがついたわたしは思わず苦笑いして。――ああそうか。だからか。
だから、違うんだ。
「守れたんだよ」
あの時言おうとしたものと、何かが。
当初――あの時の誠くんはたぶん、謝ろうとしていた。
でも、今は。
……その口がにまりと笑う。
「守れたものがある。一つだけ。今となっては過去しかない僕に、唯一……残してくれた未来への扉だ」
その声が弾む。わたしの笑いに応えるように――ワクワクとドキドキと、希望を持って。
「……それが、あの子なんだ」
白く輝きながら落ちてくる空。
それはまるで、彼が好きな雪の欠片のようで……でも決して冷たくはなくて。
「ちゃんと先に続いていく、確かな道だ。暗闇の中で、唯一光ってる小さな星。穏やかで温かな光……それが、僕にとってのミコトだった」
あの日、指を握ってくれたちいさな赤ちゃんは、彼を幾度も救ってくれた。
導くように、そっと癒してくれた。
――ぽとり。光がひとつ落ちてくる。
雨のように、雪のように、花弁のように。
誠くんの頬に落ちたそれは、僅かな熱を発して消えたようだった。
「……ミコトにね、持っていたものを渡せたよ」
ああ、それは報告だ。
謝るでもなく泣くでもなく、彼は報告をした。己の成したことを喜んで、誇って――わたしに、伝えてきた。
「ありがとうを、たくさん言えたよ!」
……そうだろうね。
「上手く言えないんだけどね、僕の抱えていたそれは――ちっぽけにみえるけど、大事なものなんだ」
……そう、だねえ……。
「悔いがない、といったら――確かに嘘になるけど、それをはじめて僕は守り通せた。ちゃんと前に、先に、持っていけたんだよ」
己の意地を。意思を。希望を。そして……あなたと2人で遺した全てのものを。
あなたはちゃんと渡そうとした。次の誰かに。
「それでもう、僕は充分だってようやく思えたんだ」
……うん、頑張ったね。
「頑張ったかな?」
大丈夫。
いっぱい、頑張った。
「だと、いいね」
誠くんはまるでわたしの声が聞こえたかのように頷いた。
――だっていっぱいいっぱい、悩んできたでしょう。あなたは頑張り屋さんだから。
「…………。」
誰よりも本当は強くて、弱くて、いっぱい矛盾してて。それでもあなたは……
「……“最後にきっと”」
合ってるだろ、とその目がこちらを見る。――そう。たぶん、君の言いたいことは。
「”ひとつだけでも、正しいことをしたんだと信じてる”」
思わず笑えば、相手もちいさくふきだした。――ひどい会話だ。一方通行と一方通行なのに、『だいたいそんな感じ』で通じるおかしさがそこにある。
だいたい、誠くんはいつも察しがいいのだ。メティスがなんか喋ってたら黙ったり、わたしにしか聞こえてないそれの通訳を一拍置いて要求してきたり。
本当に察しが良くて、それでいて馬鹿だ。
今更。本当に今更――ちゃんと心の底から笑うなんて。
謝るのでなく、許しを乞うのでもなく。ただ喜びを報告してきた。
わたしとその嬉しさを、きちんと分け合おうとしてきた。
それが、今更おかしくて。……嬉しくて。おもしろくて。
「……。疲れたでしょう」
すると、別の声が聞こえた。誠くんはわたしの左前を見る。
そう、その声は、びっくりするほどすぐ近く。
ひくひくと笑っていた誠くんは、ちょっとだけ目をこすった。
「ええ、それはもう」
……疲れたなんてレベルじゃあ、ないと思うのだけど。
「目を閉じなさい。そろそろミコトの加護も切れる頃よ」
じわりと赤い液体が流れ出たのは背中の方。
ああ、そっか。――お別れだ。
「あなたの役目は終わったの」
「……。そうだね」
一呼吸おいて、誠くんは空を見た。
名残惜しそうに。
いくつも走る流星。その向こうにある黄色をみながら、誠くんは静かに目を閉じる。
「…………ああ。もう、楽しかった」
――そうかな?
「ねえ、君は?」
――……それはわたしも。
にやりと笑った口が、目の前でほどける。
ごとりと音が聞こえた。
「――――ねえ美郷さん、君と話せて、よかったよ」
――……そうだね。
その顔はもう見えない。視界は悪くなって――それでも最後に、あなたの声がした。
「ありがとう。最後まで。……おつかれさま」