9.本当のあなたへ、決別を。
「ミコト!」
「わっ!?」
――ばふっ!
勢いよく音を立てたのはミコトのブレザー。
「よっ……かっっっったああああー! 心ッ配したぁぁぁ! ねえ大丈夫!? どっか痛いとこない!? 転んだりしてない!?」
「えっ、えっと、イツキ……その……!」
『音だけ聞こえている状態』はそれだけ、ヒヤヒヤしたのかもしれない。
抱きついたままミコトの顔面やら腕やらをムニムニベタベタ触るイツキに「欧米かよ」とイヌカイは苦笑いした。
……まあ、どちらも歳の割に幼い分、見た目だけみると微笑ましいが。
「いっ、いきなりっ、ハグはびっくりするよ……!?」
「えー、ミコトはよくやるじゃん」
「私ここ2、3年してないよ!?」
――えー!?
イツキはふざけたように口を開く。
「ウっソだー! オレをフツーに言葉喋る木だと思って去年辺りしてたー!」
「し、しし、してないもん!」
……珍しい、あのミコトが真っ赤になっている!
イヌカイは思わず二度見をした。
というか、照れてるの自体が珍しい。
「……。えー」
――ぼふっ。
「イツキ!?」
真っ赤にさせた張本人のイツキも一瞬我にかえったようで。
「……耳の横から、『タンポポ的な何か』が複数咲いてるぞ、お前……」
「え、何これだっさ」
イヌカイは半笑いになった。
――なにこいつ。左腕がつるに変わるのみならず、何?
「だっさの一言ですますな。……いやいやむしりとるな。捨てるな。今の何だオイ!?」
「ははは……今更抱きついたのが恥ずかしくなったんじゃないですかね。あんなことになってるのは初めて見ましたが」
足元の方から弱々しく聞こえた声。
『けっ』とイヌカイはミコトを一旦スルーして時永に向き直る。
「で、そこでしゃがみ込んでるおめえは何、一人で立ち上がれない感じの重篤患者?」
「いや、なんでそうなるんですか、あいたっ」
――グイッ。
「! あだだだだ」
「こんなんで喋れるとかどんな神経してんだよ」
「ゴムまりみたいな人に言われたくありませんね!?」
「憎まれ口を叩けるなら充分だな」
右腕をひっぱったイヌカイは呆れた様子でイツキを呼びつける。
「おいセクハラ男子、左側持て」
「誰がセクハラだよ!?」
ボフッと咲いたのは、今度は牡丹とイエローサルタン。花の品種に気づいた時永は咽せた。
「いや別にいいから。犬飼先生だけでだいじょ……だっだだだだ! 気をつけてくださいよ、変に衝撃受けたら胴体へし折れそうなんで!」
すぐにサルタンが枯れ落ちたイツキは苦笑いした。
『あだだだ!』だけで済む状況ではないのはすぐ分かる。血は不自然に凝固していて流れてこないが、そう――大穴が開いている。背中に。
『生きているのがそもそも不自然』。
そういう大きな空洞が、ぽっかりと。
「……ゴーレムの光弾か」
息を吐く。時永の右肩を首の後ろに背負いつつ――イヌカイはゆっくりと立ち上がった。揺れる重心。ぐらつく体。
「痛い割には、思ったより落ち着いてるじゃねえの」
「……そうですね」
肩を貸してもらった格好になる時永は苦笑いだ。
――実際、体がぐらつく程度なのは事実なのかもしれない。
「意外と見た目ほどじゃないと思いますよ。時々……その、しびれた足を触られた程度に、ピリピリするくらいでしょうか」
「……怖くもないと」
「ああ……もう、特には」
イヌカイはふと、あの車の中を思い出した。パルテノからの帰り道――意識を失ったミコトと一緒に放り込んだ後部座席。うなされている際のうわごと。助手席のイツキと無言で目を見合わせた、その時の光景。
「……光弾がそもそも、小さかったのが幸いでした。ちぎれなくてすんだ」
「いやもう、ほぼちぎれてんだろーが!」
――『触れるもの全て』に傷をつける。
そう佐田がゴーレムのことを表現していたのを、ふと少しだけ思い出す。
――裂傷をつけ、焼き焦がし、使用不能にする。
「背中っつーか、肋骨とかどうなってんだコレ」
「知りませんよ」
さらりと返してくる返事。……腕の一部に当たっているはずの「そこ」には、何かに触れた感覚がなかった。
背中のど真ん中。えぐられたような穴が開いて、そこから先の中身がごそっと消失している。
「……」
そもそも体の中に巨大な空洞ができて息をしているのがおかしい。
「――……――……」
「ハッ、余裕だったんじゃないのかね」
イヌカイは苦笑いした。
「ちょっとでも動いたら息切れしてんじゃねえか」
「……は、はは……それはもう、張りぼての、偽物の肉体、なので」
「んー、ばかやろ」
「あいて」
ぱこん、と小突かれる側頭部。
「……ぷっ」
隣から妙な息の音が聞こえた。
イヌカイとイツキは半笑いで横目をよこす。
――……ああ、うん。
けらけらと笑うそれを見る。
そう、今ふきだしたのはミコトだった。
――……そりゃあ涙も引っ込むよなあ。こんな漫才みたいな会話聞いてると。
「ミコト」
「……うん」
イツキが声をかければ――ミコトは目を瞬き、頷いた。
「いこう」
取手に手をかける。
屋上へ向かう扉を開けて、外へ。
* * * *
「……ミコト、見てごらん」
空にはいくつもの亀裂が走っていた。
屋上の上――時永が目をぱちくりして声を上げる。
亀裂は白く輝き、少しずつ少しずつ、欠片になって崩れていく。
「――けっ、なんだよ」
イヌカイは目を細めて、小さく呟いた。
「マジで『この世の終わり』じゃねえか」
――非日常だった。今までの見慣れた光景が嘘になる。見慣れない光に包まれていく。
あらためて見渡すのは、ひび割れた世界。
有限の空。遠くまで行けなくなり、偽物になってしまった宇宙の灯。
「…………。」
長いような短いような期間、自分たちはここにいたのだ。
確かに。確実に。自分たちも、ここの住人も、全力でここに生きていた。
「……」
イツキは階段を振り向く。
『何か』がいた痕跡。荒れた床。散らかった廊下。いくつもの足跡。
「イヌカイ、ユキ姉ちゃんは?」
「まだいると思いたいがな」
イヌカイは道中会ってきたそれを思い返しながら呟いた。……引きずっていた足。
「もう、会わないだろうよ」
「……佐田さんも?」
「ああ。あいつはエタった」
「何、未完なの!?」
イツキはガバリとまた道中を振り向いた。
そういえばなんかヤバい叫び声が途中で聞こえた気がする。何をいっているのかさっぱりだったが!
「何、世界が終わったら人生未完に終わるの!?」
「そっちじゃない。あいつはエターナルフォースブリザードで死んだ」
「なんで!?」
エタるといえば未完に終わったノベル作品の意だったが、そっちではなかったらしい。
――というか何が起こったのアレ!? ギャグなの!? 一人だけ終わり方ギャグなの!?
「……まあ、その……死因が中二病なら本望でしょう」
「ハハハハ、そうだな、【死ぬ役柄】には慣れてるだろうし」
「いや決めつけだよそれは!?」
小指と繋がった『モヤシの根』との接続をいい加減切りながら、イツキが呆れて突っ込んだ。
その手前に『光の欠片』が落ちてくる。ゆっくりと舞うように、ちりのように。
「……」
ミコトは黙ってそれをてのひらにのせる。手の上で弾けて消える光。構築した空間データ。上空3万メートルの空の破片。
「ミコト」
時永の呼び声に、彼女は振り向く。……ミコトがじっくりと作った世界の欠片。自分の中の力の何割をそこに割いただろう。
「……おいで」
ミコトが体を向けるより先。一歩、彼は足を踏み出した。
1人で満足に歩けないほど衰弱したそれを、イヌカイが横から少しだけバランスをとる。
……重みはまだあった。
それでも――それが少しずつ、軽くなっていくのを感じ取る。
ほんの少しずつではあるのだけれど。
「お前も、分解されてんだな」
イヌカイは小さく呟く。
――この空と同じように、少しずつ分解されていく。
「……。谷川さんもそうでしたか?」
「お前よりはだいぶゆっくりだよ」
「人が死ぬのは一瞬じゃありませんからね」
ミコトがすがるように、そのシャツを掴んだ。
「お父さん」
「……君にもできないことはある」
神界でいうところの神は、地球でいえば超能力者に相当する【歩く災害】だ。願うのみで人を殺し、思考のみで国を滅ぼす。「ミコトはその上位種のようなものだ」と、日記の中でメティスは言った。
神のやることには違和感が生じる。ミコトのやることは完璧すぎて違和感を生じない。
それでもきっと、万能ではない。
「……君は『そっくりな誰か』を作ることはできる。誰かの記憶をベースに、痕跡をベースに。でも失われた命そのものを呼び戻すことは難しいし、たぶんこの先もできない。……君は僕の一部を、かろうじて繋ぎ止めている」
世界を丸ごとつくるような女の子でさえ、命の有無は決められない。
「――ねえミコト。僕は、何度も君に助けてもらえたね」
かろうじてクロノスに張り付いていた、眠る人格の一欠片。
日記の最後の日、叩き壊された魂の欠片――それが自分だったと自覚したのは、この世界ができた始まりの日だった。
ゴーレムとの戦闘で失敗した際の死に戻りもそうだ。何度だって【その日の朝】に戻っていたのは、ミコトが引き起こした【謎の現象】に過ぎない。彼女にいちいち拾い上げられたようなものだった。
『死ぬのが怖い』――それは嘘ではない。
けれど、ミコトがちゃんと守ってくれる。
そういう甘えがあったから、どうにか足掻き続けられた。
「僕、は……」
時永は重い口を静かに開く。
「……君とこうして会えて、話せたことが本当に嬉しかった。感謝してるんだ」
「……そんなこといわないでよ」
「ミコト」
時永はミコトと目線を合わせながらしっかりと口をひらいた。
「僕が死ぬみたいだと思うかい?」
「……」
「実際死ぬし、僕は死んでいるんだよ」
ミコトは不安げに見返した。
「……君が此処を創る、随分と前に」
「……」
それは時永の知っている現実だったし、ミコトの知っている事実だ。
目をそむけ続けた、真実だ。
「……それでも」
ミコトは口を開く。納得できないものを見るように。時永は首を振った。
「今更だね」
その子の前髪をそっと梳く。
この世界でミコトと過ごした日々とまったく変わらない――優しい表情で。
「もうこの世界も終わるし、僕にはもう帰るところなんてない」
「…………」
「帰るところは過ぎ去ってしまった。……大きくなった君が忘れた、15年前に」
「16年」
ミコトはポツリとつぶやいた。
「ん?」
「……たぶん……16年前になったよ。この4ヶ月で」
震えた声だった。
泣くのを我慢した、妙にか細い声だった。
「……。そうだね」
時永は今更気づいたように口を開く。
「……時間、ちゃんと、流れてたね」
そのまま暫く、時永はミコトから目を外し――地平線を見た。
遠くの空を光が落ちる。流星のように、空が落ちていく。
「……犬飼先生、もう良いですよ、降ろして」
「もういいのか?」
組まれたままの肩。……ひとりで立っていられない、足。
「ええ、もういいんです」
イヌカイはため息をついて、ゆっくりとしゃがみこんだ。
腕をとり、彼を地面におろすと……案の定ぐらりと体が揺れる。
「なあ」
「なんです?」
……その上半身を抱える。
この時永に記憶を思い起こさせられて。
トラウマを思い出して。相手が妙に気に入らない理由を知った。
不思議なものだった。
一見何も害のない性格のこの男が、自分の人生をとんでもなく悪い方向に変えたのだとついさっきまでは思い出せなかったのに。
だというのに自分は、覚えていなくてもこいつを気に入らなかった。
……でも、この世界の彼と接して。
少しずつ少しずつ、この世界での彼を知った。
「……」
壁に押し付けるように時永をもたれかけ、立ち上がったイヌカイの表情は固かった。
……「苦手なものこそ、知るべきだ」。
未だにイヌカイはそう思う。
たとえそれで痛い目にあったとして『その思考が、行動が、まるっきしダメだった』――そんなわけがないのだ。
心の底からあふれ出る敵意、苦手意識を飲み込んで、「彼」とこの数ヶ月を共に過ごした。
普通に触れ合った。笑い合った。
まるで仲間のように無駄話をし、ゴーレムを倒せばハイタッチするぐらいに明るく振る舞って。
だが、彼には何となくわかっていたようだった。
この抑え込んだ怒りを。やり場のない感覚を。
……彼は多くを語らない。
こちらを見る時には後ろめたい罪悪感すら見えるその表情で、それでも逃げずに自分たちに相対していた。
――少しだけ思った。
『あの時飲みに行こうと誘ったのが、話しかけていたのが、この時永だったなら』?
「まあ――なんというか」
「はい」
その目がこちらを向く。
……別に、赦したわけじゃない。そう思う。
初めて自分の尾を見たときの痛みは。怒りは。どこにもいけないと思い至ったときの、あの喪失感は――惨めな気持ちは、ちっとも忘れちゃいない。
だが。最終的に。
「無茶しやがって」
こいつの感情は分からない。イヌカイは拳を握る。
……分からないし、やっぱり分かりたくもない。
「駆けつけてみてビックリだ。既に死に掛けてる」
「すみません」
「ちょっとは俺達の気持ちも考えろ」
「……すみません」
「なあ、時永先生」
怒鳴りつけたくなったのは2度目だった。いや、正確にいえば数え切れないほどあるのだが――それでも、このレベルの衝動はおそらく2度目。
「たとえ、俺がお前をゆるせなくても――俺達って、仲間だろ」
ぼそっと呟いたその時、イヌカイは見た。
……その表情を。
「この暫くを、一緒に過ごした仲間だっただろうが。俺達」
「…………」
「そもそも勝手に死に急ぐな。勝手に致命傷負うな」
――分かっている。このアホ面を見るのはこれが最後だ。だからこそ、本気で怒ってやろう。
それが届くか届かないかは重要ではなく、やりたいからやるのだ。
「もう遅いが、そうなる前にだ……俺とかイツキとかミコトの顔を、ちゃんと全部思い浮かべたかよ、お前」
「……すい、ません」
時永の、とんでもなく「きょとん」とした顔。
それからいつも通り、苦笑いした顔。
「……何ででしょうね。思い浮かべちゃいました」
今度はこっちが驚く番だ。イヌカイはそう思う。
――だってこいつ、いつも滅茶苦茶なんだ。自分のことなんて顧みたことがないぐらい。……だが。
「……ハ。ハハハッ。いいよ。この数ヶ月で散々知ってんよ」
――それでもいい。悪くはない。
そう、イヌカイは思う。
『相手も人間だった』、それだけだ。いくら嫌いなやつと同じ顔をしてようと、この世界の人間だろうと。
……ここで、一人で寂しくのたれ死んでしまおうと。それだけなんだ。
「お前がそういう馬鹿な人だって、知ってんだよ。……それでも決めたことはだな、絶対曲げやしねえんだ」
「……」
「なあ、そこがあんたの美徳だろう」
――確かにこの世界の人間ってのは、こいつが語るように意思のない張りぼてだったかもしれない。
そう、イヌカイは思う。谷川も佐田もそうだった。自分の意思こそちゃんとあったわけだが、結果的には全部が仕組まれていた。
生まれて、育って――モデルがいて。それでどこからがノープランなのか、ちっとも分からない。
『中にちゃんと魂が入ってるか』だとか、『心が入ってるか』なんて見えやしないし分からないのだ。
でも、だとして――否、たとえそうでも。
「――この世界でのあんたは、いい友達だったよ。時永先生」
「そうですか?」
「まあ、確かに俺はお前って人間が大っ嫌いだ。恨みも憎みもするさ。でもちゃんとあんたは努めを果たしたろう」
真似はできない。そう思う。
自分が同じ状況に放り込まれたら――そう思うと、同じことをできるなんて思わないのだ。
「やりたいこと、ちゃんとやりきったじゃないか。そこは尊敬するし、つるんでて結構楽しかったさ」
「……ああそうかい」
時永が珍しく丁寧語をとった。
……イツキ相手ならよくやるが、イヌカイ相手には初めてだ。
「確かに僕もだ。君といてちっとも飽きなかったさ。面白かったよ」
「腹立つなお前。――本当、世話がかかる1個上だよ」
「君、年下みたいな振る舞いしたことひとつもないだろ。大体いつもタメ口じゃないか」
時永は笑う。痛そうに。……背中はさほど痛くないに違いない。ただ、さすがに流れ出している『目に見えないもの』は止めようがなかった。
「へーえほーう! 何、そういうこと言っちゃう!? ――そりゃ悪いね時永さんよ。今後出会ったところでそんな振る舞いする気なんざ、きっとサラッサラ起こらねーわ!」
「ああ、だろうね……っていうかね、今後なんかあってたまるかよ、犬飼くん。僕もう消えるんだぜ?」
何かで塞ごうにも、命にあいた穴が大きすぎる。ここまで来てしまえば早いか遅いかのどちらかだろう。
――ここの世界と紐づいている体は、もうきっと使い物にならない。
かといって外の世界に、この体の代わりになるものなどないのだ。それはもう、もう一人の自分が持っていってしまった。――どこか遠くの、奈落の底へ。
「……植苗くんはなんかないのかな。今更、嫌だったこととか、恨み節とか」
「ありますよ」
たぶん、死ぬほどある。
イツキは苦笑いして、イヌカイ譲りのハイタッチをしようと少しだけ手を挙げた。
「でもそれは、たぶん、違う時永先生に」
視界に映るのは投げ出した足だった。寒くもなさそうなのにふるえた体。
校舎への扉に寄りかかる、死に体。
「今更いうのもなんですが――オレ、あの時永先生のこと、これから先ずっと嫌いだと思います」
「……ああ、そうかい?」
「自分のことばっかりだし、ミコトのことまったく考えてないし、周り巻き込むし」
それは主にあの時永のことだったし、この世界でも、きっとある意味ではそうだった。
「でも一生懸命で……努力家で、それを表に見せない、そういうところがありました」
あの時永が、イツキと同じく『物語』を好きでいたのは事実だろう。
好きなものに邁進していたのは事実だろうし、それを教えるのに長けていたのも事実だろうし。その魅力を教えるために、労力を割いていたのも事実だった。まるで何かに駆り立てられるように。
「オレが思うに――それは、割と好きです」
この世界の時永も同じくだ。「そこまでやる意味」が分からないほどに駆り立てられているし、言語化できないほどに愛着を持って動き続けていた。
愛を持って紡ぎあげた「それ」の手を、ちゃんとひっぱりあげたのだ。
「いまだにそれは輝いて見える」
「……」
たぶん、16年は昔の物語。……【自分達がつくった物語】の手を、ぎゅっと握りしめて。
「遠くの、『手にとれない何か』のようにみえる」
その物語の語り手がここで終わるのだとすれば、そのバトンは自分が引きつごう。選手交代だ。橘が「背の低い生意気な誰か」の物語を追い続けてここまで来たように。
――『本当に「なんでもできる大人」になりたいなら、それに憧れているのなら……それを、いつか聞ける人になろう!』
いつかラーメン屋のカウンターから聞こえた明るい声をふと思い出す。
子供の頃に聞いた音。――確か当時アルバイトだった谷川と仲良さげに話していた、名前も知らない大学生。
相手の顔も覚えていない。
けれど――長らく人生の指標になっている、いつかの思い出。
「だから――オレもたぶん、それを目指して生きていくんだと思います」
「……」
「希少な何か。手に入らない強烈な光。勿論挫折することもあるし、きっと目移りすることもある――だからいつまでかは分かりません」
――うん。話をきいて、そのまま。『それ』がどこにあるか分かるまで、追いかけてみるんだ。
イツキは苦笑いしつつ、あの日の大学生に気軽で気ままな答えを返す。
遠くの光り輝く何かを見て、「そういう生き物になりたい」と思った、あの時の自分の気持ちを嘘にしないために。
「でも途中まではまかせてよ時永先生。ミコトのことも、いろんなことも」
「……」
「先生?」
彼は少し呆然とした後、やがてくすりと笑った。
「……結構、そのひとのことを覚えてたんだな、君は」
「?」
「いや、なんとなく考えてたことがわかった気がしてね」
イツキのそれは相変わらず、頼りなさげな言葉なのだけど。
逆にいえば責任感にあふれた言葉だった。
『いつまでかは分からない』。
それはミコトの今後のことだ、当然だろう。この4ヶ月見てきているからこそ納得する。……いつまで一緒かは分からない。喧嘩別れするかもしれないし、ミコトが何かの事情で離れていくかもしれない。
結局イツキだって『時永の頼まれごと』に縛られる理由はないのだ。
それはそうだ。未来のことなんて誰にも分からない。
時永は口を開く。
「それでも君は、ミコトが好きだ」
「……」
「犬飼先生が好きだし、きっと『僕の生き方』が好きだった」
その在り方に納得はいかない。共感もしない。それでも。
「色々なものを好きになり、嫌いになり、心動かされる君だからこそ――数日でも何ヶ月でも、何年でもいい。僕は君に、あの子を任せることに躊躇いはないよ」
「そうですか」
「……だからね、『ここだ』と思える場所まで、一緒に行ってあげてくれないかな」
膝を抱えて時永は見上げた。
黄昏の空、流星の下――2つの足で立って歩いている木の妖精を。
「この子――僕とちょっと似てて、不器用なんだ」
「ちょっとどころの騒ぎじゃないんじゃない?」
「……すっごく似てるならそれはそれで、心配だろう?」
時永の言葉に笑いながら――イツキは少し笑って、中途半端に挙げていた手を変える。
パーではなく、グー。
「……犬飼先生とは違う路線で来たね」
「こういうの、一度くらいやってみたくありませんでした?」
だいたい、ゴーレムの攻撃から何度も守ってもらえたのは事実だ。裏では怪我もいくつかしていたのだとは思う。でも、彼は痛がる様子を一切見せなかったし、何でもないことのようにそれをするものだから――感謝の言葉なんて今更出てこない。けれど。
「これ、漫画でしか見たことないよ」
「オレもです」
時永が猫の手のように軽く拳をつくる。そして、ノックをするように互いに叩いた。
* * * *
「……はあ」
深いため息だ。
つい先ほどまで波も立てず、まるで鏡のような反射を見せていた器の中の液体。
それは不意に大きな波を起こすと、ただの液体になった。水鏡のように映ったミコトたちの顔が消え始める。
――波が出て、ぼやけて。
――「……今回はあなたの負けね、プレイヤーさん」――
ああ、『ミコトの世界』との接続が切れた。
苦々しげなクロノスの耳元――皮肉をこめた口調でメティスが囁きかける。
まあ、囁きかけると言っても声のみなのだが。
――「そもそも、時永くんがあの世界を構成する全ての基盤なのよ。お忘れだったようだけど」――
「忘れてはいない。ただ、あそこで盾になるとは考えなかっただけだ」
そこまで大事か、とクロノスは息を吐く。
そもそも人間風情に『ミコトの価値』を測れるわけもないのだ。
ならば、自分の体を優先するのが普通だろう。自分の生存の方を望む。
……別の個体がどうなろうと、知ったことではなかろうに。
――「なるほど、忘れたのではなく『理解ができなかった』のね」――
「する価値もなかろうよ」
あれはただの判断ミスだ。そうクロノスは思いこむことにした。
自分のものではなく、時永の判断ミス――あれは思っていた以上に知能が悪い。
自分はただ、賢すぎてそれを知らなかっただけの話だった。
――「けれど結局、あなたはミスした。……大元のそれを傷つけてしまえば終わる。当然でしょう?」――
ミコトはあの時永を中心に、【全て】を紐づけてあの世界を創った。イツキも言っていたが、彼はさながら主人公だ。……機関部の時永に致命傷を与えた時点でもう、クロノスにできることはない。
――「あなたの手足。あの子たちの言うところの【ゴーレム】を稼働させる中心核が時永くんの一部だったことがそもそもマズってたのよ。なんでも壊してしまうもの」――
時永が温め続けた『なんでも壊す』の概念は、それなりに強力なものだ。
人間関係。物理関係。生命維持。
そこに修復不能な傷を負わせれば、あとはステージの崩壊を待つのみになってしまう。
――「あれでやられたらミコト以外には修復できないし、そのミコトは管理権限を奪った谷川ちゃんとあなたのせいで、世界ごとリセットができない」――
「ふん……」
――「……今日の失敗を、『なかったこと』にできないのよ」――
時永の体の崩壊がゆっくりなのは、ミコトの力が作用しているだけだ。彼に向かって『死んでほしくない』と思った。
目の前で死んでほしくない、苦しんでほしくない、痛がってほしくない。全てが適切に作用した結果、それでも止められない。
ゆっくりではあっても、死んでいくのだ。
――「勿論『その瞬間』を直視してしまった観測者が自分を含めて何人もいる上、あの世界の管理権限があなたに取り上げられてしまったものだから、夢オチにもできない」――
「……」
――「……結局ミコトはあなたとの繋がりを放り投げて、その分のエネルギーを彼につなげている。急速に空が落ちてるのは、宇宙が畳まれているのはそのせいよ。ミコトはあの世界と引き換えに、せめて世界が崩れる最後まで、彼を生かそうとしている」――
――ねえ、あなたのせいではなくって?
そう、メティスの言葉がクロノスを刺した。
――「何をしたかったのか知らないけれど、あの世界が欲しかったのでしょう?」――
「……遊び過ぎた。それだけだ」
――「何、負け惜しみ?」――
「いや………感心しているのだよ。無力な筈の駒がよくそこまで出来るものだと」
大方、あれはミコトが望んだのだろう。
時永が優先順位を間違えれば、自分は助かる。自分だけは助かるのだ。
確かにそうすれば筋が通る。
「確かに、我の読みが足りなかったのは認めよう」
上着を羽織ると彼は言う。
「甘く見ていたようだな。確かにミコト嬢は桁違いだ、神じゃあない。あれは……」
【創造主】らしくもなければ神でもない性質だ。そう、クロノスは思った。あれは、神というには大きい存在で……しかし、小さくあろうとするものだ。
最初の想定からして、ミコトがこの世の理をいろいろな意味で「越えている」生き物なのは変わらない。
その気になればひとつの惑星を……いや、宇宙を越え、並行世界を越え、全ての事象を一度に「見る」ことができる視野を持っているのに、人に育てられたからと人の視野で物事を見ようとする。その視野を、大切にしようとする。
あれは多分、一度人の生を全うしなければ本来の生き物に戻ることはないだろう。
荷物を手に取り、部屋の戸に歩を進めるクロノスにメティスは問う。
――「あら、どこに行くの?」――
「ゲームは休憩だ。今回は我も事を急ぎすぎたらしい」
――「……諦めてないって事ね」――
「ああ」
……クロノスは言う。
「諦めてなるものか。今回の件でやはりそう思った。この盤にもならないようなくだらない世界を終わらせるためにも、何より高等な世界を創造するその為にも……そして」
クロノスは部屋を見渡し、静かに告げる。
「――お前ともう一度、暮らすためにも」
――「……。何それ、くだらないわね」――
「何とでも言うが良い」
――我が認めたのはお前と、ミコト嬢のみなのだ。
クロノスは鼻を鳴らすと、黙ってその場所を後にした。ガラガラと崩れる古代遺跡。――ひとりでになくなっていく、人の痕跡。
そこには塵すら残らない。
……人間の残した歴史。
『無価値なもの』など、残るわけがないのだ。
* * * *
空間がぱきりと剥がれて地面が浮かぶ。そろそろ物理法則も危うくなったらしい。
ミコトは拳を握りしめた。
「ミコト、大丈夫。自信持とう」
「……う……」
「ほら泣かない。なんなら僕は君と一緒だ」
ずっと隣にいると思っていい。
気休めにでも時永がそんなことをいえば。
「……うそつき」
「……それ言われると耳が痛いな」
絞り出すようにミコトは口を開く。
「……本音なんて一度も言わないくせに」
「たまには言ってるだろ、失礼な」
時永の声は異様に明るい。
ミコトは次の瞬間、ハッとして顔をあげた。
「ミコト?」
「……なんでもない」
見間違いかもしれない……だが、時永の足に。体に。
「?」
一瞬、細い糸のようなものが絡まっていたように見えたのだ。
しかし確認する間もなく、それはすぐほどけて宙に消えてしまった。
「さぁ、外に出ることを考えて。もうここに居座る必要は無いだろう?」
「……。ごめんなさい」
「謝るとかいいから。ほら」
時永が急かすようにミコトに触れた瞬間――すぅっと音もなく、大きく開かれた扉が現れる。
屋上の端、校庭側に向かっての大きな扉。
「おっ、すげえ」
「言われてすぐできるもんなんだね」
ミコトはうん、と頷いて……唇を噛みながら時永を見た。
「……今まで、本当にありがとうございました」
「もう、そそのかされないね?」
「……」
「自分で正しいと思うことを、出来るね?」
時永は言い聞かせるように言った。
「……過ぎた事を必要以上に振り返らず、今と未来を中心に見て生きていけるね?」
「………うん」
ミコトは頷く。曖昧に。
……自信はない。
あるわけがない。それでも。
「できるよ、皆がいるから。……1人じゃないから」
「ならいいさ」
時永は満足げに笑い、それから……何でもない風に目を閉じて、付け足すみたいに言った。
「最後にひとつ、いいかな」
「何?」
「これはきっとすごく大切なことだ」
時永は言う。
「ミコト、『君の知ってる僕』がどういうかなんて知らないけれど」
「うん」
「少なくとも僕は、君が大好きだった」
――君のお母さんも言っただろう、それを君は目にしたんだろう。
なら、納得してほしいんだ。
君は……望まれて、生まれてきた。
「……だから。……多分、少しきついことを言う。どうしても言わせてほしい」
もう誰もいない、真っ白な世界で言葉が響く。
彼の口は明るくて、軽やかだった。
「ねえ、ミコト」
――本当はずっと言いたかったその言葉を、君へ。
「お父さんと呼んでくれて。――あのとき、大好きだって言ってくれて、ありがとう」
――「っ……すきですっ」
子供らしい声がする。記憶の底で。
この空が割れる前……
ある時、ある場所の、なんでもない日。
友達との帰り道、『大嫌い』だと言いたくて。でも一番いってみたかった言葉を向こうに投げかけた――そんな、何も知らない少女の声がする。
――「大っ、好きっ、ですっ!」
あれは、彼の夢が叶った瞬間で――それから、私の夢が叶った時間。
もう戻れないのだ。夢はもう、叶えられたのだ。
叶った夢はおぼろげになる。
見続けることはできない。
薄れるしかない。
「……っ!」
全てを理解したミコトは恐らく頷いた。
時永はあえてそれを見ず、彼女が動くのを待った。
……暫く、待った。
「……。行こ?」
その声はやがて――震えるのを止める。
大きく息を吐き、イツキとイヌカイに向け、静かに口を開いた。
「もういいの?」
「うん」
涙を拭い、扉を見る。
睨みつける。
彼が「きついこと」といったのは、ミコトがせっかく固め始めた決意が鈍るからだろう。時永にとってもそれは「痛い」言葉だった。
でも、どうしても言いたかったに違いない。
だってミコトは「その言葉」を望んだ。
「……」
ずっとつながっていた『見えない糸』を手放す。
――もういい。要らない。
そう聞こえた気がした。
――だって僕は既に幸せだ。
とっくの昔に君は、僕の夢を叶えてくれただろう。
たくさんの喜びをくれただろう。
だってミコトは、ほかならぬ自分の父親を「幸せ」にしたかったのだ。イツキを、イヌカイを、もうちょっとだけ幸せにしたかった。
それがまるごと、要らなかったのだというのなら。
「…………。」
涙をもう一度拭う。
ここは優しい世界だ。……ミコトがそうであれと願った。
――確かにそう。ここに居たら、辛くなる。
もう、前に向けなくなっちゃう。
だから……
だから。
ミコトはもう振り返らなかった。……扉の向こうに踏み出した。
しっかりとその足を……現実へと向ける。
「……さようなら」
この平和な世界に、今生の別れを告げて。……震えた言葉は、世界に残った。