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8.かかえ続けたもの


 ……手放してはいけないものだと思っていた。

 せっかく創り上げたんだから、私が守らなければいけないんだ。

 この平穏を。この正解を。今度こそ。



  ――「   (ミコト)



 大好きな、()()の感触。

 それが忘れた「穴」を、少しずつ補完していく。

 「何か」を忘れているのは、なんとなくもう理解していて。それでも。


 それでも、忘れ続けた。



  ――「……     (初めまして)     (ミコトちゃん)



 私の手を握る、大きな指の向こう。

 記憶にあいた穴の向こう。

 ……私が知っているのは、こちらを見てくれない【  (ちち)】の後ろ姿だった。



  ――「…………。」



 袖を引っ張っても、足に抱きついても。

 その人は少し静止してから私を引き剥がして、それから迷惑そうに距離をとる。たぶんあれは困惑だ。私が一人でいるときは目で追うくせに、私が近づいてきたら逃げるように歩く。


 それが本意でなかったかもしれない。数冊の【  (にっき)】の中身からそれに気付いてしまった。知ってしまったことで、私の中身がガラガラと崩れ去った。


 ――……私も、だ。


「……っ、はあっ……はあっ」


 真実から逃げる。


 逃げる。

 逃げる。

 逃げる。


  ……()()()


 ……()()()()()


「あ、ああ……っ」


 バランスを崩して、つんのめりそうになる。足がもつれて、死にそうになる。【なんだかよくわからない生き物】に殴りつけられそうになるのを――光で消滅させられそうになるのを、投げつけられた何かで怪我しそうになるのを。


 どうにか『偶然』回避しながら、ひたすらに逃げる。


 【()()()()()()()()()ー】。


 とっくの昔に『普通の人』ならいなくなっている。そう頭の中で誰かが嗤うのがうっすらと分かった。


 【()()()()()()()()()()()()()】。


 気づいている。私が何か、特別な人だと思われていること。自覚はないけれど――自覚せずに、小さい頃に忘れてしまっているのだろうけれど。


 ――ドゴーン!!


「ひっ!」


 轟音。――耳を覆う。目を瞑る。先ほどから学校中に響いている音。それは無表情の人間たちとともに集まってきた【なんだかよく分からない生き物】が私に向かって何かを投げつけてきている音だった。


 光る何か。

 それから、いろいろなもの。

 鞄、カッター、教科書、消しゴム。


 それでも人間のほうはなんだかゾンビみたいで、ふらふらしている。飛んできたものの飛距離もそんなにない。だけど。



「――――もう、やだ……」



 泣きたい。足がふらふらで、そろそろ休みたい。覚めない夢を見ているようで、消耗が激しい。精神面がガリガリと削れていく。体力などもう、殆ど、残ってはいないのに。


 ――まあ。


 ――そっか。


 それで、いいのかもしれない。


 だって。



「――――()()()()()()!」

「!」


 その時聞こえたのは、信じられないほど大きな声だった。怒った声。

 脳裏によぎる何か。

 私を振り払う()()とは違う、穏やかな()()


「――――()()!!」


 気迫。絶叫。

 ……穏やかだけど。温かみはあるけれど。それでも、ぴりっとした。


 私を、遠くから【叱る】声。


「『はしれ』って言ってるんだ!!」


 その機構は本来、もうどこにもない。

 彼にはない、失われた何かだ。

 それでも絞り出すように――なかったものを、生み出すように。

 ……今まで聞いたことのない、怒った声だ。

 驚いてその顔を見上げた。それは――肩で息をしながら、階段の最上段で。


「っ、こっちへ、早く!」


 必死に叫ぶ。手を伸ばす。

 そう、外――屋上への扉の前で。


 思わず泣きながら走る。そうだ。そうだ、しっかりしなきゃ。きっとあれが起こってしまう。


 幾度も夢でみた。お父さんと一緒に夢でみた。

 途中で私は、()()()()()()――――


「う、あ……っ」


 ――それでも。()()()()()。今はひどく温かい、包み込むような。


 階段の最上段――ぬくい左手に、ぬくもりのある空気に引っ張り上げられる。

 お父さんは安心したように私を抱きとめた後……ふっと()()()()を見た。




   *   *   *   *




「……何、してるんだ!」


 ――「それ」を見た瞬間、思わず口を開いていた。夢を繰り返して、繰り返して、繰り返して。


「走れ!!」


 口の中がつまる。それでも叫ぶ。

 ――早く、早く早く早く。

 手を伸ばせ!


「『はしれ』って言ってるんだ!」


 眼下にみえるミコトの手。もつれた足。よろけたそれを引っ張り上げる。あとはそう、屋上へ続くどん詰まりから扉をあけて――外に出れば。


 シミュレーションだけならいくらでもした。悪夢。水中のようなはっきりしない視界、ゆらぎ。それは『確定しない未来の事象』だと、誰かが日記に書いていた気がする。


 ……ミコトの背後をふとみる。


 近づく魔の手。あの『ちいさな黒いゴーレム』が、喉から光を吐き出す直前だ。

 ……きっと間に合わない。いや、違う。何かあるはずだ。


「――――っ」


 あの夢には意味がある。

 未来の夢には、意味がある。


 ――誰かが残した意味が、ちゃんと。



(……ミコト)



 その手がお腹に触れた。

 お腹。

 思い出すのはやはり、あの悪夢だった。

 ……刺された腹。あの日、自分が刺した場所。――あの日の右手に残る、抉った感覚。


 ……その瞬間。


『まってろ』


 ふと、頭によぎった光景がある。

 脳裏をあの声が、熱量と厚みのある声が、よぎっていく。



(……え?)



 あの、遠い日の。

 みえない猛獣の――グレイブフィールの透明な胃袋。そこで、本当にちいさな、消え入りそうな声がする。


『――待ってろ、今』


 あの、続き。

 あの時の、血塗れの養父の口の動き。

 何と言っているか、分からなかったそれ。


『つ』

『れ』

『て』

『っ』

『て』

『や』

『る』。


 口から、それがこぼれた気がした。

 ……なぜか今分かった。

 今更。本気で、今更――あの人が、何を言っていたか。

 解った気がしたのだ。


『――お前の、生まれた場所に、連れてってやる』


 ハッとした。

 ……考えている暇はない。

 頭の中がクリアだ。ああ、全部。理解した。



(――()()()()()()()



 納得したかは分からない。

 ただ、自分のやることを――理解した。



(……()()()()、ミコト)



 手を伸ばす。――彼女が届く前に。彼女の背に、光が届く、その前に。



(……君の、()()()()()()()()()()()()()()!)



 ……叫ぶ。いままでつみあげた全てをかなぐり捨てて。

 ミコトをしっかりと抱き寄せた。

 そう、くるりと足を滑らせて一段下に立つ。


 かんがえない。感じることもない。


 ただその子のため――――その子の、()()()()()()()


 体は後ろに。それでもまっすぐと前を見る。

 逃げない。目を逸らさない。

 それだけを心に詰め、挑むように足を踏み下す。


 ひるむな。行け。

 ……あの頃の自分を。同じ目をした誰かを。ああ、全力で守りきれ!



「…………――――――!!」



 その切先が。

 ミコトのせっかく創った『体』に触れる。


 僕の幻想。

 代わりのない、スペアのない。

 僕という命を稼働させるための、外側。


 ――……これでいいですか?


 思わず口角を上げながら、虚空に問いかける。

 あの日に刺した誰かが後ろで、口を開いた気がした。


『……上等だ』




   *   *   *   *




 ――ザクッ!



「!」


 刺さるように吸い込まれる、その一撃。

 ……私は見た。よせばいいのに。


「おとう、さん」


 感じとり、理解してしまう。

 吐き出される空気。一瞬、止まる鼓動。

 冷える体。


「っ……!」

「お、お父さん!」


 抉るような一撃が、お腹ではなくて背中で止まる。――よろけるように崩れ落ちる。

 その一瞬がまるでスローモーションのように見えた。


 彼が夢で見たその最後は、いつもそう。

 『未来予測の夢』を突然はずれてしまう。予知夢を外れてから遠のいて、突然――幻想上の【誰か】に刺されて終わる。


 ()()()()()()()()()

 私とさほど背格好の変わらない、一人の少年。

 あれはきっと、お父さん自身だ。


「ッ……がふッ」


 ――ジュ、と何かが燃え尽きる音がして、足がもつれる。


「……お父さん、お父さん!?」


 子供の頃、表に出さずにしまっていた自分の気持ち。

 勝手に他人に壁を作って本音を言わないのに、そのくせひとには理解されないと愚痴って、挙句の果てに憎悪を募らせている。

 でもこのお父さんは、他人に『それ』を向けるのを途中から拒んだ。


 身勝手だと気づいたからだった。



「…………。ぐ、ぅ……」



 人の心なんて、そんな簡単に分かるわけがない。勝手に自分が「見下されている」だとか、「嫌われている」と思い込むなんてきっと、横暴にも程がある。


 ……その行き場のない憎悪を自分に向けた。その方が楽だと気づいたから。


 そう。

 楽だったから、頭の中で【自分】を刺し続けた。


「ッ……い、いや、大丈夫。まだ……生きてる」

「お父さん、何言って……!?」


 なぜ私はそれを知っているんだろう。

 そろりと抱かれたまま、目を下ろす。

 肩の上から、背中が赤く染まっているのを――ずるずると見下ろして。それから。


「……い、たい、な……けっ、こう……」


 苦笑いしたような声と一緒に、胸ポケットから冊子が落ちた。


 ぼろぼろの手帳。


 赤い、手帳型の。


 ああ――日記帳だ。

 ……日記帳?

 何で日記帳だってわかるんだろう。

 まるで私はそれを、みたことがあるみたいだ。


 ……そうだ。知っている。

 ハッと顔を上げた。


 私はそれを。


「…………読ん、だ、ことが」


 ようやく思い出す、それを見つけた場所。

 見つけたときの自分の状況。


 自分の家で、私はそれを持ち上げた。

 埃をかぶったそれ。

 そのとき。その少し前。

 その数か月前。その……何年も前。

 ……あの家で、確実に起こった出来事を私は知っている。

 その出来事を通じて出会った人たちを、私は知っている。


 そして。







「………あっ」






 ……この世界を私が創造した理由を、()()


 ()()()()()



「……――――」



 ぱり。


 卵の殻が割れるような音がした。

 辺り一帯に集結していた人間たちの目が見開かれ、消えていく。さらりと、乾燥した空気が持ち去っていく。


 あのゴーレムも、あの蜜柑色の爪をした先輩も。ハーフアップの生徒会長も――全部空気に溶けるように、白い粒子となって消滅していく。


「……そう、だったん、だ……」


 ……本当なら、そこに誰がいたのか。

 馬越さんがいたこと。イツキに出会ったこと、イヌカイに出会ったこと。あの時、怒りを感じたこと。……あの、父親を拒絶したこと。


 声が聞こえる。


「……ケガは、ないかな、ミコト」


 ふっと気づく。記憶の『つめたさ』とは違う声が、左手が――私をだきしめて、そのまま私の後頭部を優しくつかんでいた。


「…………ケガ、してないよ」


 ――流れ込んでくる。

 今までの虚構が遠のいていく。


 ……幾つもの思いが、もどってくる。




   *   *   *   *




 ……人というのは、いつもそうだ。


 僕はその子を抱きしめながら、ふとそう思った。

 いつも、人間たちは誉めそやす。

 『誰かのために』と頑張れる人を。

 けれど同時にこうもいう、それは結局『正しくないのだ』と。


 『ただのエゴだ、自己満足だ。結局嘘吐いて『自分のためにやってるだけじゃないか』……なんて。


 けれど僕は思うのだ。

 この子をみてきて、思うのだ。


「……ねえ、ミコト」


 ひとつの終点をめがけて突っ走った。その頑張りに、優しさに――正しさもクソもあるだろうかと。


「……君は、僕で何をしたかったのかな」

「……」


 ぼろぼろとこぼれる涙。

 泣きじゃくるその子の頬を拭う。


「……思ったより優しかった僕と、何をしたかったのかな」


 その子の涙が落ちるたび、欠落していく。

 僕の中身が、少しずつミコトのもとへもどっていく。


「前にも聞いたね。君は、平気だった?」

「…………っ、あ、あぁっ……あああああっ」


 ()()()()()()()()――おちていく。


「君の歩くその道に、誰もいなくて。出会っていたはずの誰かさんが、とっても遠くで」


 ……大丈夫。今まで何度も返そうとしたけれど。それをあの子は拒み続けたのだけど。このミコトはもう『それ』を拒まない。拒めるわけがない。


 だってもう、元には戻らない。


「……それが正しいものだと信じて、間違いだったと全てを忘れて」


 流れていく。見えないものが、ゆるやかに流れ落ちていく。

 この子が欲しかったのは『僕が幸せだった世界』。

 そして『自分が幸せだった世界』だ。

 ……それがもう、緩やかに実現できなくなっていく。


「ぁ、あ……! へいき、じゃ、なか、った……!」

「……そっか。そうだね」


 よく言った。よく向き合った。そういってやりたくても、その手は僕を跳ね除ける。

 ……それに関しては褒められたくないのだ。そうなんとなく理解した。この子の小さなプライドだ。


「……ミコト」


 泣き声が大きくなる。


「こっち向いて、ミコト」

「……」


 泣きすぎだ。そう苦笑してしまって。

 ああ、でも――よく考えたら君は。


「ミコト」


 思い出すのはちいさな頃。

 赤ちゃんなのにほとんど声をあげなかった、君の姿。


「……ははは、本当に泣きすぎだ。今までの分、全部……」


 不機嫌にはなっても、イタズラを怒られても。

 そして粗相をしたところで。それから【あの僕】に、はじめて無視をされたところで……この子は僕の前では泣かなかった。


 寂しげな顔だけして、涙は落ちても、微塵も泣き声を出さなかった。


「君、空気を読むからなあ……」


 それが、ようやく一歩踏み出した。

 僕の前で君は……初めてちゃんと、声をあげて泣いたんだね。


「ミコト。君が泣いたって変わらないぞ」

「わ、あああ……うわぁぁぁ……」

「それでもこの世界は。君が考えついた『お話』は――僕にとって、とても素敵な場所だった」


 ここが僕の終着点。

 僕の紡いだ人生の――物語の全てが終わる場所。


()()()は、素敵だったと言わせてほしい」


 長い数ヶ月だった。

 長い、長いあがきだった。


「……君の描いた夢は、きらきらと眩しかった」


 悩んだこともある、悔やんだこともある。本当にこれでいいのか。この子を苦しませるだけではないか、この子を傷つけるのではないか。


 色々思った。色々考えて……でも、それでも僕はこれを選んだ。

 この子をかばって死ぬことを。

 この子に「真実」を見せることを……僕にはない、明日を見せることを。


「…………ああ、なるほど」


 ふいに目を閉じて、ようやく見つけた。

 目を逸らし続けていたから、見つからなかっただけだ。


「これは、君の仕業か」


 ミコトに全部返しても、残っていたものがある。

 この世界のはじまりに、受け取らなかったもの。それは何でもない光景だった。


「……君は……あのときの、ミコトは」


 おぼえている。初めてこの世界で顔を合わせたとき、ミコトから流れてくる記憶しか知らなかったとき。



  ――『私はこの世界を構築し終わった後、この世界の上から姿を消すつもりです』



 最初、彼女は自分を【ゴミ箱フォルダ(僕のきおくのなか)】に入れていた。

 なんなら、その人間らしい感情を全部『オフって』いた。

 考えてみるとそりゃあそうだろう。だって、クロノスが元々欲していたのはミコトという容れ物だ。それがいなくなれば、そもそもこういうことは起こらない。



  ――「……それは、嫌だな」


  ――『嫌?』



 不思議そうに首を傾げた彼女は、感情がないのに愛らしかった。

 無表情なのに、無機質なのに。



  ――「だって、そんなことしたら……彼女(おかあさん)と僕が一生懸命残そうとしたものがなくなってしまうってことだろう?」


  ――『……』


  ――「犬飼先生や植苗くんだって、もちろん嫌だって言うと思うよ? 仲が良かったっていう過去が全部帳消しだ」



 起きてしまったことは、それはもうひどいことだった。

 嫌なことばっかりだったろうけど。それでも彼女の記憶が言っている。

 記憶に残る笑い声が、きこえる鼓動が言っている。



  ――「彼らが君と過ごした過去はそこまで泥にまみれたものじゃない」


  ――『……』


  ――「ミコト、君はその支えを、彼らから剥ぎ取ってしまうつもりかい?」



 その時のミコトは目を丸くして。それから、困ったように『感情』を見せた。

 一度捨てたものを拾い集めて。ながめて、それから。



  ――『……あー、もう、ひどいなぁ』



 苦笑いして、そうぽつりとつぶやいた。

 ……あの時、ミコトは自分という存在を作り直したのだと思う。

 人としての感情をかき集めて、偽物の記憶を詰めて、それから。

 そう……その過程できっと、もうひとつ。しれっと()()()ものがある。


「……本当はあのとき、これを、くれようとしたのか」


 本来、『残そうとした』もの。

 美郷さんと僕が、そのあとに残そうとしたもの。

 ……子供の頃に撮ったたくさんの写真を、ミコトはきっと知らない。

 それでも、僕がミコトの写真を収めようとカメラを持って常に一緒にいたことは日記帳にも書かれている。

 ……彼女が赤ん坊のころに、一緒に見ていたもの。

 見るはずだったもの。


「僕がここで、本来の地球のことを全部忘れても生きていけるように――今まで【あるはず】だったそれを、たくさん空想して」


 玄関先に生えたよもぎの葉っぱ。山の向こうに見える花火大会。庭で集めた枯れ葉と焼き芋に、一緒につくる雪だるま。手を繋いだ先の――少しずつ成長する、小さな女の子。


「……。その『気持ち』が、一番嬉しい」


 その光景がたとえ本物でなかったとしても、その子と過ごした日常が確かにそこにあった。空想でも想像でも、浸れる記憶を作ってくれた。


「ああ――いいんだ、もういい」


 それでも終わりはやってくる。

 まやかしに、夢に、夜に――必ず朝はやってくる。


「十分、きみは、僕にくれただろう」

「……」

「ひとが、ごく当たり前に感じる幸せを。……愛情を。あったかい何かを」

「…………」

「――君は、ちゃんと僕に、教えてくれた」


 その子は与えたいと願った。

 恵まれなかった誰かに、手を差し伸べようと思った。

 噛みしめるように、飲み干すように。


 ミコトはふう、と息を吐く。


「………………あのね」


 その声は、とても震えていて。


「……何かな」


 血でぐちゃぐちゃの僕の背中を、握りしめて。


「……お母さんの日記……」

「勝手に持ってきちゃって、悪かったね」


 僕は苦笑した。


「でもいいだろ? ちょっとだけでも一緒にいたかったんだ」


 ミコトは似たような顔を返した。

 自分でいうのも何だが、よく似ている。


「あのね、それ、お父さんがいなくなって、すぐあとに見つけたんだ」

「うん」


 うまく手が伸ばせない。そんな僕の代わりにミコトが拾い上げた日記帳は、灰色の砂埃をかぶっていた。

 表紙の端は破けていて、くたくた。……それでもその下は赤いことを感じさせる色だ。血の色。あたたかな生物の色。それから地面の色。


「本棚の下で埃を被ってた……私の名前をお母さんが決めたきっかけの、あの本に隠すみたいにして」


 ミコトは言った。


「ごめんなさい」

「うん」

「ずっと、知らなかった……」


 ミコトは両手の拳を握った。


「……お父さんは、ずっとあんな人だと思ってて」

「無理もないな」


 いや、本当に無理もない。だって誰が覚えていられるだろう。

 生まれて一年も満たない。そんな頃の記憶だなんて。


「私、見つけるのが遅すぎたのかな」

「……」

「本当のこと、早く知ってたら。もっと早くにお母さんの日記を読んでたら、あんな別れ方しなくてすんだのかな?」

「いや……」


 それは、ひどく難しい問いだったのだけど。


「……そうでは、ないと思う」


 かつて、“自分”が起こした事件。父親を、そして母親を手にかけたその感触。

 ミコトの母親を、大好きなあの人を殺したあの瞬間。

 ……自分が自分でなくなってからのこと。


 馬越さんを、植苗くんを、犬飼先生を、苦しめた。

 ミコトから見た光景。ミコトの憤り。

 ……ミコトの悲しみ。

 孤独。


「……あれでよかったんだ。僕自身はそう思うよ」

「……本当に?」

「うん」


 今、ここにいる自分。それはあの時に、ミコトたちが対峙していた“時永”とはまた違った存在だ。個人としてミコトに愛情を感じるし、離れることに寂しさも感じる。……だから。

 だからこそ、つとめて、つとめて笑顔で、ミコトに心の底で語りかける。


 ――そう思うよ。

 君がクロノスの中から見つけてくれた、『時永 誠の魂の欠片』としては。


 神界の住人である『クロノス』にそそのかされたミコト。

 母親の日記帳を通してしか知らなかった『狂っていなかった父親の存在』を欲した時、たまたま見つけたモノ。

 クロノスの接触によって壊れた【魂の欠片】が飛び散り、その当のクロノスが知らないまま――クロノスの側にくっついていた存在。それが僕だ。

 ……ミコトがまた赤子の時に立派に“父親”として接していた、『時永』と同じ意識。


「あのままにしていたら、もっと被害は拡大していた……植苗くんや犬飼先生、馬越さんの取った行動は最善だったんだ」

「……でも」


 その時、声が聞こえた。


「おーい!」

「2人とも、無事かー!?」


 植苗くんたちの声が、遠くから聞こえる。

 ふっと笑って僕は言った。


「答えてあげてよ。待ってるんだ、2人とも……ずっとずっと、待ってたんだ」

「……。ねえ、お父さん」


 嬉しいような悲しいような、複雑な顔で彼らの声を聞きながらミコトは言った。


「うん?」

「……幸せだった?」

「……うん」


 僕は頷く。しっかりと。


「すごく、楽しかった」


 ミコトは少し笑い、また溢れてきた涙を手で拭った。

 やがて頷いて立ち上がると、遠くに見える2人に嬉しそうに手を振る。


 ……ああ、よし。


 ようやくホッと胸を撫で下ろす。

 ――よかった。

 これで大丈夫。大丈夫なんだ。


「……ははっ」


 いけないと思いつつ、なんだか欲が出てきてしまう。

 ああ、できればなぁ……こんな楽しそうに笑うミコトと、植苗くんと犬飼先生を、ずっと見ていたいと思うのに……


「まったく……欲深いなぁ、僕は」


 僕は『久しぶりにちゃんとはしゃぐミコトたち』を邪魔しないよう、聞こえないように……ぽつりと呟いた。


 そうしているあいだにも。

 からだの中が砕けていく。


 ――ばらばらに、バラバラに、くだけていく。

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