7.ひとのぶんまで
……幼い頃に見た景色というのは、どうしてこう、鮮明に覚えているんだろう。
目の前の【倒れた人】を見ながらふと思う。
……一度は忘れたくせに。
都合よく「なかった」ことにしたくせに。
どうしてあの人自身に記憶を突かれたら蓋が開いて、戻れなくなったんだろう。
……何って。
オレが――『聖山学園を目指す前の植苗イツキ』が、昔に見たテレビ番組の話だ。
* * * *
SNSで話題になったという授業風景の隠し撮り。
机のすぐわき辺りに固定されたカメラで撮られたそれ。
「こんな先生なら許せる! in 聖山」というひねりのないタイトルと共に拡散された隠し撮りのムービー。ついにはテレビ取材を受ける羽目になった彼。
――それを偶然見ていた小学生。それが幼い頃のオレだ。
他がおぼろげになったとして、あの時のことはまだまだハッキリ覚えている。
一度世間に注目されてからというもの、彼はずっと目を惹く存在だった。
テレビや動画に出れば出るほど――「なぜか」面白さを増していく。
それが時永という男だった。
いや「なぜか」。今なら分かる。
一応彼も「努力」はしていたのだと。人知れず、しれっとネタは作っていたはずなのだ。ウケは狙っていたはずだった。
一歩引いてみたら、それがよく分かる。
なりふり構わない今の、「この世界の時永」を見ていたからこそようやく分かったのかもしれない。
……彼はただ、巧妙に舞台裏を隠していただけなのだと。
語っている内容自体は少し難しいことのはずだ。
なのにスラスラと分かりやすく、それも楽しげに――超古典文学の時代背景だったり、細かな意味だったりを解説するそれ。
いともたやすくみえた。簡単に、スマートに。
それでもどこかが腑に落ちた。
スッとして、なんだか――妙に生き生きしていた。
……きっと好きなのだと思った。
彼は今、自分が接しているものが――昔の人の積み重ねが、愛と憎しみと希望にあふれたそれが。
誰かが遺した物語が、好きでしょうがない。
まっすぐと『好きなもの』に接していた。そんな気がしたのだと思う。『好きなもの』に常に憧れて。手の届かないものを慈しんで、自分なりに愛をそそいで。
それを、大事なものだと抱き締めている。
……そんな気が、すごくした。
それも一人で、ずっと――ずっと。
愛のある人だと思った。希望にあふれた、そんな毎日に見えた。そんな姿に惹かれたし、あれが人の在るべき到達点だとすら思った。あれだけ何かに囚われてみたいと思った。
キラキラ輝いて見えた。
勝手に自分に嫌気がさした。
「対してお前はなんなんだ」って。
「どうせ誰に影響を与えることもなく、誰かに羨まれるわけでもなく生きていくんだろう!」――誰かにそう、頭ごなしに言われてしまったみたいに。
このままではきっと何者にもなれない。
そう、あの日の小学生は思った。
……流されやすい。熱しやすく、冷めやすい。
たぶんあれに憧れたのは、そんな自分へのコンプレックスの裏返しだ。
何度も「なぜ」と己に言葉を重ねた。
根っこに足元を固められて、あそこに立ちすくんだままのあの日から。
ミコトに出会ったあの日から。
そうしてもう一度、改めて様子の違う「時永先生」に出会った今の今まで、深く、深く。
――なんであの時のオレは、あの人に憧れた?
他の人間同様、整った容姿に?
いや、全然違う。
そこに惹かれたわけでもないのは事実だ。
けれど、手に届きそうにないものがそこにあったのはわかる。
……羨ましかったんだ、誰にも負けないその魅力が。
ブレそうにない。いや今なら分かる……「話を聞きそうにない」、そんな意志の強さが。
「……植苗くん?」
この世界で、ふっとそれを思い出した瞬間の話だ。
目の前にいた【かつてのクラスメイト】は、手を差し出しながら聞いてきた。
――まるであの番組内で、段差に躓いたリポーターに手を差し伸べたあの時永と同じに。
「大丈夫? ケガはない?」
差し出した右手が――なんだか、ダブってみえて。
* * * *
「……昔ね、クラスメイトに」
以前、ミコトと話した直後の話。
図書室近くの廊下――ミコトから逃げるように走り出してすぐ、見覚えのある誰かにぶつかった。
つんのめって転ぶ自分の体。ぶつかったことにまずは怒りもせず、彼女は手を差し伸べる。
「――ある、男の子がいたの」
……そのひとを直視したのは、きっとはじめてだった。
13年前の記憶。
少しだけ薄れた【それ】に一応、記憶はされている。だけど、名前を聞くまでは思い出すことさえなかったクラスの一人。
「ふふっ。背丈が小さくて、ちょっと生意気で。いつもちょろちょろしてて」
この世界に展開された「ミコトの記憶」を経由して――クラスメイトでなく、【ミコトのクラスの先生】の形になった人。
……「ああなりたい」。
かつて自分がそう思っていたものがそこにあった。形を持って存在している、そんな気がした。
「時永先生みたいになりたい」だとか、「説話の先生になりたい」だとか。
……よくよく考えたら、イヌカイだってそうだったろう、この【橘さん】の正体に気付いたとき、きっと同じ気持ちだったはずだ。
彼女がおさまっていたのはバスケ部だったし、説話の先生だった。
「……」
椅子取りゲームの勝者が彼女だった。自分たちはただ、弾き出されただけだった。
あのとき、目の前で……「制服じゃない姿」の、ちょっと大人びたかつてのクラスメイトが口を開くのを見るまでは。
「……その子、なんでか知らないけど、説話がめちゃくちゃ好きでさー」
……ミコトのことだから、もしかしたら気づいていた可能性がある。13年前に高校生だった『イツキ』のかつての姿を、この人は知っていたかもしれないと。
だって彼女は隠しもしないはずだ。
この学校の高等部出身だとは丸わかりなはずで、そしてちょっとでも考えたなら、想像がつく。
……13年前に高校生だった「イツキ」と、今年31の担任の先生が、似たような歳の生まれだと。
同じ学年にいたかもしれない。
同じクラスだったかもしれない。
ミコトはいつか、彼女に聞いたのだろうか。彼女の覚えている男子高校生、植苗イツキのへなちょこっぷりを。
「……っていうか、あの子、当時の説話の先生が好きだったっていうほうが正しいのかな?」
――苦笑いしながらそう言った彼女は、なぜいきなりこっちをつかまえてそんな話をし出したんだろう。
「いつもその後ろについて歩いてるような……あー、心理学とかは苦手だったみたいで犬飼先生がたまに頭抱えてたんだけどね」
――13年前の昔話。
なんとなく遠いような、近いような。いややはり遠い。そんないつのことだか分からない話を。
「そんな子が春の終わりあたりかな、突然いなくなって。いなくなる原因も思い当たらなくって。ただ、調べていったらどうも……」
「……どうも?」
――思わず、聞き返した。
「……うん、素人目に見たって怪しい人が出てきてね。それが」
「それが?」
「――その子の懐いてた、説話の先生だったの」
……思わず黙ってその言葉を受け止めた。
それがきっと、彼女から見た「植苗イツキ」だ。
つまりこのクラスメイトは、ある日のミコトと同じに疑問を持った。
探りを入れようとして、足を踏み出した。
「……でもその説話の先生も、手放しで疑えるような人でもなかった。確かにちょっと性格に影があったりするよ? でも、証拠がなかったんだ」
橘さんは少し笑って、呟く。
「『その子』は確かにその日、説話の先生と会っていたみたい。私だって、放課後に鞄を掴んで慌てたように走っていく彼を教室から見たのが最後だし、ペンを落としていったのも見てた」
「ペン?」
「うん、クリップ付の、こういうやつ」
……ジャケットの胸ポケットから、橘さんはクリップを外してみせる。
クリップに留まった赤い甲虫。テントウムシをデフォルメしたみたいなマスコット。――うっすら覚えている気がする。これは……
「……もしかして実物じゃない?」
「うん、そう。実物だね」
頷いた橘さんは、見覚えのある気がするペンを大事そうにポケットに戻した。大切なものをしまうようなそれに、違和感が発生する。
「……一応あのとき呼び止めたんだけど、すっごく慌ててた。ぜんぜん聞いてなかったみたい。だから……」
いつか返そうと思ったんだけど、さすがにこれだけ時間が経つと持ってるだけだよね!
……なんて、笑い事でもないそれを笑いながら、彼女は言う。
「でもね、おかしいんだ」
「おかしい?」
「その説話の先生、駅まで『彼』を送っていったって言い張るんだけど」
「……うん」
「その道中を、誰にも見られていないみたいで」
……そりゃあ、そうだろうな。
苦笑いする。
だってあの人はあの日、オレを返さなかった。
家に。家族に。帰り道に。
「確かにあの人、遠くの方から通ってきてる」
橘さんは首の後ろを少し掻いた。
「……何度か行ってみたことあるけど、ぶっちゃけ田舎だよ」
『誰も助けに来ない』と絶望したことを思い出した。
固められていく足を見ながら。時永の後姿を見ながら。
――いや、なんで。
思わず噴き出す。
――なんのために行ったのそれ? もしかしてオレを探しに行ったとか? わざわざ? ハッ、バカじゃないの?
思わず脱力する。
違う。本当はいた。いたんだ。――助けには来てた。死に物狂いで探してた人間が、少なくとも。
……少なくとも。
――「なあ、イツキ」
おぼえている。ミコトの創ったこの世界でのある日。
たまたま父さんが家にいて――朝、途中まで送ってくれるとかいうからあまえて。助手席でぼけっとしていたら脈絡もなく、声をかけられた。
――「何」
――「どっか行くなよ」
なんとなく、分かる。
ここはミコトの世界。あのミコトのことだから、それはきっと意味のある一言だった。
……聖山学園まで車で30分もない道中。
少し長い信号待ち。
それでもオレも……そろそろ慣れたもので。
――「ははっ……突然なにさ。子離れしなよ」
――「……」
――「あずさもいるし、好きなところに行くよ、オレは」
――「……だろうなあ」
――「ああー、でもさ」
慣れているとはいえ、きもちは悪い。
その人を――なんというか、寂しそうな顔にさせるのは。
――「心配しなくても、ご飯ぐらいは人並みに食べてると思うよ」
――「……そうかあ?」
――「ほら、父さんがお腹すいたタイミングなら、オレはだいたいお腹すいてるし」
あれは、正解の返しだったろうか?
今でも分からない。この世界の親に対して――「本物のそれ」かも分からない何かに対して、その他に何が言えただろう。
それでも分かる。この発言は、そういうことだ。
……ミコトはたぶん知っている。
嘘をつくのがへたくそだから、せめて口をつぐんだこともあったのかもしれない。
たとえばそう。『オレによく似た顔つきの誰かが、血眼になって誰かを探していたのを見た』だとか。それもきっと――オレがいなくなって、何年か経った後。
ミコトが、オレを【時永の被害者】だと気づいた後。
声もかけられて。
けれど、他でもないオレを困らせてしまうだけだと感じた彼女は黙って、みなかったふりをして。
だから――辿りつかなかった彼らはきっと、探しつづけた。
いなくなった後の【そこにいて当たり前だった誰か】を。
見つかってどうなる、どうする――考えていることなど、きっといまさら何もない。
けれどその先を考えないまま。どこかぽっかりとあいた穴を。あの頃の欠落を埋めるように。
「……時永先生の最寄り駅はね」
そうやって、【オレの記憶】と同じように目の前の橘さんは苦笑いする。
「たまにしか駅員さんもいないから、無人駅に近い」
「…………」
「でも、バスであっても乗用車であっても、駅までの途中で必ず、大きな街道を通るの。先生含めて『彼』が誰にも見られてないのって、明らかにおかしいでしょう?」
「…………うん」
曖昧に頷く。
「あ、ちなみにこの『見られてない』っていうの、おまわりさん情報ね! すごいでしょ!」
……聴取されようとして、逆にしれっと食い下がる図がなんとなく思い浮かんだ。苦笑いする。
これ以上なく。そう、何もいうことができないまま。
「聞き取りのときにちょっと話してくれて、ラッキーでした!」
――いやだから、なんで!
心の中で思わず繰り返して、でも口からうまく出てこない。
疑問を捻り出す。
それでも言葉が出てこない。
言いたいことはたくさんある。「何をオレにこだわっているのか」とか。そう――そこまでされるようなことはしていない。親ならばまだ分かる。妹からならば、まだ分かる。
…………。なんで、そこまで。
「だって、思ったんだもん!」
心の中のぼやきを悟ったのか。いや、何も考えてない偶然なのか。とにかく答えるように彼女はいう。
「そのまま声をあげたって何も動かないんじゃないかって!」
「……」
「あの人、イケメンが長じてテレビに露出するぐらいのタレント先生だし! 人気者だし。みんなあの人に幻想をいだいてるし!」
…………。うん。
「逆に――逆に、私が変なんだよね。あんまり持ち上げたりしないのって私だけだし。誰にだっていい面があるのと同じように、悪い面もある。そう思うから!」
『手放しで誉めたりするのは何か違うかなって』。
――彼女はそう苦笑して、ぽろりと言葉を零した。
「おかしいんだ、私。……ともかく諦めの悪かった私は、その先生のことを知りたくて……あとを追った」
「あとを?」
「うん。つまりストーキングの意味合いじゃなくて……なぞった。その経歴を調べたいと思ったから」
「経歴」
それを聞いたとき、少しホッとした。
よかった、直接的な意味でなくて。
……でなければきっと彼女は。
頭にグレイブフィールのそれが浮かんだ。『失敗作』からできた、肉塊。
「……危険な事はしてないよ。大丈夫。うん、経歴……流れが知りたかった。分からないものは、経験してでも理解したかった。……だから同じ学校に行ったの」
ハッとする。
――ああ、本当にイヌカイみたいなこと言うんだな、この人。
――『よく分からないから知りたい、そう思ってな。あいつを誘ったんだ。お酒の席に』
……分からないもの。
「同じ大学に進学して、同じ学科に通って、噂はまだ残ってたのもあったし同じ教授の授業を取った。だから同じように説話を教えられるベースができた。それで、同じようなタイミングで聖山学園に戻ってきた」
……それはそれで。
思わずため息をついた。
「オレたちと同じじゃないか」、そう宙を仰ぐ。だってそれはそれで「途方もない話」だ。この人もある意味では、時永に振り回された一人ということになる。
だってそうだろう。
彼女の夢は確か学校の先生。
それはなんとなく覚えているだけだけど、これだけは絶対に分かる。
あの子、説話に関しては良くも悪くもない成績で、好きでやってる印象でもない。説話なんて教える気は毛頭なかったはずだ。更には恐らく志望校まで変えているとくる。
「……それで」
頭を抱えながら呟いた。
「……それで、その先生のことはわかった?」
「何も」
カラッとした笑い顔でミコトの知っているらしき『橘先生』は言う。
「いや、笑っちゃうぐらい無駄足だったなー! ……同期生だったらしい卒業生にもあったけど、思い出話のそれはごく普通に、楽しそうな大学生に思えた」
「……どんな感じに?」
それは、ちょっと聞いてみたい。
「少しだけとっつきづらくて、でも強く出たら断れない感じで。仲のいい女の子になりふり構わずアタックしに行ったり、あんな顔して行きつけの安いラーメン屋さんがあったり」
「行きつけのラーメン屋さん」
あそこだろうか。
いや、そうに決まっている……。
「お酒で酔っ払って前後不覚になったり、大型犬に追っかけられてぎゃーぎゃー泣いてたり、本当に普通の人。……拍子抜けしちゃうぐらい」
クスッと笑って、続きを言う。
「『時永先生』っぽさがないの」
「……変だなぁ」
あっけらかんと名前言っちゃったし! 今まで伏せた意味は!?
そう、思わず笑ってしまって。
……でも、なるほど。確かにああもなる。
前の時永なら想像がつかない光景だけれど、今の時永先生なら想像がつく。
もしこの言葉を以前ミコトが聞いていたのなら、思い描いたに違いない。
きっと、あんな時永を。
「……それ、今の時永先生っぽさはあるんじゃないの」
「え? あっ、そーだね。おかしいな、普通に時永先生っぽいや」
「それで、時永先生はともかくだよ、橘先生?」
オレは『橘先生』に呟いた。
「……その、説話が好きな男の子のことは、わかったのかな?」
「うーん」
ちらりとこちらを探るように、彼女はオレを見る。
「わからなかったなぁー、悔しいことに?」
「……悔しいんだ?」
「うん、多分ね。悔しかったんだと思うんだ、私」
「……なんでそこまで?」
ようやく口をついて出る。
はじめの質問の一端。――どうしてそこまで。なぜ、オレを追いかけたのか。
ペンを返そうとして?
いなくなった疑問を解消しようとして?
「さあ」
彼女は他人事のように呟く。
「……誰も教えてくれなかったから、じゃないかな」
「なるほど」
「そしてそれは多分『知らなかった』からなんだよね」
「……うん」
橘さんは息を吐く。仕方のないものを見るように、語るように。
「……だって植苗くん。ひどい話だと思わない? 人が当たり前みたいに次の日からいなくなってて、いなくなった理由を誰も知らない」
「……」
「そうしてすぐにみんな、あの子のことを忘れていく」
そう。それが普通だと思う。
だからこそ時々、自分ですら想像してしまう。本当はオレなんて、最初からいなかったんじゃないか……。
「でもね。嫌でしょ、そんなの」
「え」
つい、と差し込まれるような一言が入る。
「私だったら嫌だよ。どこかで助けを求めてるかもしれないのに。何かに巻き込まれたのは間違いないんだから、そこに『気持ちの落し物』は絶対あるのに」
……目がかち合う。視線がぶつかる。以前は記憶にも残らなかった、直視すらも難しかったそれが「淡い色」をまとって見えた気がした。
「橘先生」
その色に対して、あえてその「敬称」を使う。そしてその直後、軽く後悔した。……今の発言は、そんな「重いもの」を背負わせた責任からの半端な逃げだ。
自分の知っているクラスメイトの橘さんとは違う人間、そう思いたいが為の。
……ああ、ただの「逃げ」だ。
でも、だからこそ。もう一度。
「……それは、君の」
クラスメイトに対しての言葉を使う。……そう、そんなものをしょいこむ必要なんてない。だって彼女はただ、オレとかつて「同じクラス」にいただけなんだから。
「……君だけの持ってた、13年間だったんだろ?」
イヌカイには一応、全部聞いている。
彼女が今、バスケ部の後任をしていること。この世界ではイヌカイがちょっと前に押し付けちゃったこと。
思っていた以上にめんどくさい性格をしていること。
……ああ、たまたまバスケ部の後任になった。『椅子取りゲームの勝者』。今の今まではそう思っていた。
偶然とはいえオレのいるかもしれなかったポジションに今いるだけで。今、この学校で時永の代わりに説話を教えているだけで。
……そう、それは逆に、まるで関係者全員の穴を埋めるかのような。
人の抜けた穴を、自分自身の存在だけであえて保持しているかのような。
「……うん」
……違う。勝者? そんなわけはない。
保持? そんな生半可なものじゃない。
きっと守ってるんだ。ただ一度感じただけの、些細な違和感を。
「…………」
思わずちいさな憤りを感じた。
同時に、些細な……そう、些細な喜びを感じた。
誰も見てやしないと思っていた。
忘れてるんだと。あんな地味な、チビの高校生なんか覚えてないと。
ただ、向こうは……この同級生の女の子は、きっと『覚えている』んだろう。
これからもずっと違和感をかかえて。
そんな人生を、半生を。
人生の半分を、いやきっとこれから先も!
おくる必要はあったのか。
過ごす必要があるっていうのか!
普通に生きてたらオレたちと交わらないこの先を、これからも。……この一般人の、ごく普通の女子生徒だったはずの先生は!
「……ええ、うん」
穏やかな肯定が、2度も3度も。まるでオレが幾度も質問したような錯覚を受ける。それだけ、疑問だらけな顔をしていたんだろう。
それらすべて、真っ正面から受け止めるみたいに――どこか嬉しそうに、彼女は言った。
「……私の、人生だ」
その重さを、オレは知らない。
――あの後、本物の聖山学園には戻っていないから。ここは虚構の世界で、ミコトとオレたちの記憶から作られた、嘘と現実の入り混じった場所だから。
いきなり語りだしたこの橘さんも、この会話内容も。きっとミコトの持っている「橘先生」の印象だろう。
本来ならきっとこれを聞いたのはミコトだった。その記憶が半端に再生されているだけだ。
「……私の、人生だからね。勿論『人の分まで』なんて綺麗事は、絶対言わないよ」
中身は重たいが、同時に羽根のように軽い。……そんな一言だった。
軽々しく口に出せるほど、すらすらと口から出るほど。彼女はそれを糧に、礎に……今の時代まで生きてきたのかもしれない。
「……でもね植苗くん。記憶の風化だとか、そんなもの以前に『飽きたから忘れる』。そんなことしたくなかったんだよ」
ぼそりと彼女はいう。
「そんな人もいたね、に違和感があっただけ。そんな人がいたよ、にしたかっただけ」
……だから納得いかなかった。
「なかったことにしたくはなかった」。
彼女にとってはそれだけ。
「私自身が納得いかなかったから、そうやって生きてきた。私自身の時間を消費した」
橘さんはチラッと時計を見ると、言った。
「……これはきっと、それだけの話」
「……」
「なんか、変な話しちゃったな。ごめん」
「…………。」
「話を聞いてくれてありがとう」
「あの」
オレは声をかけた。
その、元クラスメイトの女性教員に。
「何?」
「もし、『彼』が……説話の好きな、ちょこちょこした彼が、生きててさ」
もしもの話。ああ、極端な喩え話だ。
「……戻ってきたら、どうすんの?」
「……」
彼女は振り返って、少し笑う。
「……分からないな今更。でも……その私は、ちゃんと嬉しいんだろうね」
そんな彼女が。
目の前に、倒れていた。
* * * *
「…………。」
倒れたそれ。踏み潰されたそれ。
押し倒されて、それでも必死に暴れたのだろうと察しがつく。……いたるところに血が滲んでいて、ぐちゃっとした衣服。頭上に人差し指が伸ばされて動かなくなった右手に、爪に残る衣服の切れ端や、当人のものでないだろう、別の血の跡。
……誰かの手か、もしくは足を引っ張らなければ、そんな痕跡はつかないと思った。
「…………。」
それをめがけてしゃがみこむ。
一応、これまでの道中でなんとなく理解していた。
……あの『時永先生』を先に行かせた先で、一体何が起こったのか。
荒れた廊下の惨状。床に落ちたプリントについた、無数の足跡。
大勢の人間に踏み荒らされた廊下。
……きっと最初は前に飛び出して。倒れてなお、下から足を掴んで。転倒させて。それを幾人も、幾度も、何度でも。
きっとそうして、最後には力尽きた。
「…………。」
……彼女は「本物」ではない。
そう勿論、頭では理解している。
――たぶんミコトを守って、そうして『こときれた』。
人の死体を見たのは初めてだった。
だが不思議と……触るのは、怖くなかった。
「……」
……ふと気付く。
彼女の左手。胸に置かれたてのひらの下から、ちいさな紙切れがこぼれかけている。
そっと手を伸ばし紙切れを取り上げると、クリップ付のペンで紙切れが留められているのにオレは気付いた。
……ペンを取り、紙を広げると書かれている短いワード。口から滑り落ちるように読み上げてしまう。
「……『植苗くん、あとは』」
その、中途半端な走り書き。
いきをとめる。……最後まで書かれなかったそれだが、こんなもの、全部書いたも同然だ。
「イツキ!」
……オレを見かけて、慌てて止まる。
そんな靴の滑る音とイヌカイの声。
ポケットの中でぐしゃりと音を立てた紙切れとペンの感触を感じながら、ゆっくりと立ち上がる。
「随分探したわ! なんだ、こんなところで座り込ん……」
フッとその口がつぐまれる。横たわった女性教職員。……見覚えのある後ろ髪の跳ね方。
「うん」
こめかみを抑え、心の中で補足する。あの中途半端な走り書きを。
……『植苗くん、あとは、頼む』……。
「そうか」
……イヌカイは少し目を伏せ、意外にあっさりと言う。
「――おい、行くぞ」
どちらが先ということもない。ただ、迷わず同じ方向に足を出す。
「――助かった。ここで『お前ら』と合流出来なかったら、どこに行くべきか、全然わからんところだった」
「……うん」
「なぁ」
イヌカイが静かに呟いた。
「イツキ。……橘のことだが」
「何?」
「……体育が苦手って言ってたのは、覚えてるか?」
「……うん。特に球技が苦手だったんだっけ」
遠い昔。朧げの先。
「未だにあれだけは、覚えてるよ」
回想が、幻聴を奏でる。跳ねたボールの落下音。
「……高等部から入ってきたばっかりの橘さんに、授業最初のドッジボールでうっかり顔面にこう、アタックかけちゃってさ」
「……だよなぁ」
横から、絞り出すような声が聞こえた。
「……苦手だなんだ言いながら、しっかり肉体言語使ってんじゃねえか、なあ」
橘さんの右手は――最後の力を振り絞って。
「……なあ、橘先生」
イヌカイの歩いてきた職員室方向。
オレの歩いてきた体育館、理科室方向。
ミコトのいた地下の図書室方向。
――それらをつなぐ『階段の上』を、その指は、まっすぐ指していた。
「……。行こう、イヌカイ」
「だな」
息を整える音が重なる。
……指の先。階段の方角をそっと見上げて。