6.後悔へ、さよならを
――足音。
教室前とは材質の違う、硬い床。
そこをカンカン靴音を立てて走っていたイヌカイは、ふと気づいたように立ち止まる。
廊下の向こう――10mほど前方で、谷川が「こっちこっち!」と手を上げたのが見えた。
「よーぅ!」
――カン。
少し迷うも、足をそちらに向ける。
よくよく考えれば佐田もここにいたのだから、谷川もあとからひっついてきたに決まっていた。
「ねえねえ、秀ちゃんはー?」
「……」
イヌカイは目を泳がせる。
「……あいつは」
「うん、あいつは?」
――地味に弱る。そもそもの話だ。何の目的でここにいるのか分からない敵方のそれに、どう返せばいいのやら。
「えっと――中二病が発症した。右腕から」
「右腕から!?」
スッ、とイヌカイは大きく息を吸った。
……我慢しよう。気まずげな顔はしない。
「佐田はな。――今頃、きっと仰向けに転がりつつ」
だが本来、正直いって『一番会いたくなかった』のがこの女だ。
……いつだってそうだ。
この世界に来て、記憶を取り戻して、一番。
そう、できることなら。
……いちばん、会いたくない人。
――『……っ、元くんたらカーワイー!』
――『……好き、だと思うんだ。あんたのことが』
あの時の自分の幼い声が……耳に、届く気がして。
「……土埃でいっぱいの汚ねえ空を見上げながら。……えー、クサクサしながら」
そいつを見ると――あの頃から、どこか「中身が変わっている」のがよく分かった。
その手を離し、見送った。
文化祭に誘って、断られて、河原で彼女の背中を見た、その時の自分から。
自転車の後ろに乗せて遠くへ漕いだ、その地点から。
遠く、とおく。かけ離れている。
見た目が人間でも、『体の中』のどこかが違う。
拭い切れない変質した肉体。引っ張られて変化する意識。
……その状態で、【その人】の前に出たくはない。できることなら。
「……あー、ヤケクソ起こしてだな! 『エターナルフォースブリザード! 相手は死ぬぅ!』とか、訳のわからんことを叫んでんだろうよ!」
過去の自分が、ヒトだった頃の思い出が。
もしかしたら、この世界の彼女と『会話する』ことで、どこか塗りつぶされるようで怖かったのかもしれない。
「……ぷ。……くく。ぅうっはははは!」
谷川は爆笑した。
「んははは! なるほど、意味分からん! ……まあ了解了解、あとで行ってあげよう!」
「……なあ、谷川先輩」
佐田が襲いかかってきた理由は、きっとこちらを止めるため。あれがたぶん最後のチャンスだった。
時永たちを今逃せば、ミコトを潰すことができなくなる。――最悪、なんやかんやでミコトが正気に戻ってしまうかもしれない。
「……お前は俺を止めないのかね、佐田みたいに」
――谷川が、こちらの歩みを止めようとしない。
むしろこちらをそのまま観察している様子なのが、逆に居心地悪くてしょうがない。
何をしているのだろう。
ミコトが正気に戻ったところで……「この世界はあり得ない」と自覚したところで。
谷川や佐田たちが、泡のように弾けない保証はないのに。
「……だってあんただって、消えたくないだろう?」
「ないねえ」
――まあ、同じではある。
イヌカイは苦笑いする。
……こちらだってそうだ。
『今のまま』の自分が生きるために。
ミコトを覚えている、「あの現実を覚えている自分たち」が、ミコトと生き残るために。
『この世界全て』を敵に回したのが、時永をふくめた自分たちなのだとしたら。
「……いや、消えたく、なかったんだけどさ。でも仕方なくない?」
分かるような気もしてしまうのだ。
……佐田や谷川もきっとそう。
佐田は主役のあの子と、谷川は恐らく――劇団の音響や小道具や演出や、受付のスタッフたちと。
『明日も一緒に笑える平穏』がほしくて、別の世界から来た異物に――こちらに、ゆっくりと牙を剥いた。
「……仕方なかったか?」
「なかったね!」
「嘘こけよ」
あの佐田にも守りたいものがあったのは見てとれた。
守るべきものは常に背後にあって――今まで積み上げてきた『結果』なり、『過程』なり、そこにやってきた『新人』なり。
それらを丸ごとひっくるめて守るためには、こちらに負けられないと、あの目が言っていた。
なのにあいつの場合――情報の刷り込みが強すぎたのだろう。クロノスは彼に舞台裏を見せてしまった。
ここが作り物だと、佐田は本能で理解してしまった。
「……なあ先輩。あいつ、弱そうに見えてクソ強かったんだわ」
それでも、彼は舞台に立ち続けた。
「秀ちゃん?」
「そう、圧倒されるほど――ストロングハートだった」
彼には結局、積み重ねたものが偽物に見えたし――それに守る価値があるのか、揺らいでしまったのだけれど。
『犬飼 元』と敵対したくないという気持ちもまさってしまったのだけれど。
その、揺れが。鼓動が、うなりが。
この上なく好ましかった。
馬鹿なヤツだとイヌカイは思う。
だからあんな下手な説得に回ったのだと腑に落ちる。
多少暴力的な手段を使ったとしても、最後までこちらと対話しようとする姿勢だった。
そこに。
――きっと、彼自身が『育ててきたもの』が見えた。
「……なあ、あんたはどうなんだ」
自分の知っているヤンチャな佐田よりも、随分甘ったれた道中だった。
繊細な言葉の数々だった。
それでもまあ……らしいといえば、らしい。
佐田は今も昔も馬鹿なのだ。たとえそれがここにいる、『犬飼 元』から流入した感情の残滓の影響だったのだとしても。
「……」
「……あんたはどうなんだよ、谷川ユキ」
佐田を見ていてうっすら分かるくらいだ。
きっと彼女も「記憶の影響」は受けている。
本来の谷川ではないのだが、ここの世界では本物の谷川なのだ。
たとえミコトがここ暫く、そしてついこの間――思いつきでつくったような世界がここだったのだとしても。
「……」
創り出されてからの数ヶ月間に、およそ何万年の月日が凝縮されている。きっと浦島太郎のように『時間の流れ』が違ったのだ。外側からみれば一瞬でも、この世界から見れば遠い昔のお話。
人の世が確立してから――創られてから何千年と時が過ぎている。
自分で育ててきた確かな心があり、その上で上書きをされるように影響を受けている。
クロノスの影響から、元彼であるイヌカイの影響から……きっと、時永の影響まで。
「…………いやあ、あたし、秀ちゃんみたいに『本物の元くん』のことは止めないよ?」
「そうか?」
記憶からできた谷川はぺろりと舌を出す。
……イヌカイの知っている本物よろしく、いたずらっぽく。
「君のその『衝動』を、『暴走』だと定義するのであれば、止めるのかもだ?」
……『帰りたい』という感情。
イツキやミコトが当たり前にいる世界に、ちゃんと帰りたい。かえしてあげたい。
……それは、言われてみれば確かに「シンプルな衝動」だった。
「でも、そもそもさあ。……逆にあたしが止められたんだし。イッちゃんに」
「はあ?」
「ホ〜ラ、キミの好きなドラマだのアニメだのでよくあるでしょ〜?」
彼女はニヤリと口を開く。
「何考えてるかよく分かんないやつの『何考えてるかわかんねーけど暴走する様』をとりあえず止める回」
「……。何を暴走したんだ何を」
イヌカイは呆れ返ったように言う。その脳内で紫色の人造人間が暴走し始めたわけだが――それは放っておこう。
谷川が言いたいのはきっとあれだ、『無口でミステリアスなヒロインが特に何も説明せずに問題行動を起こす』類のラブコメあるあるだろう。
「それでさー、結局よく分かんないまんま、ピターッと止まって通常営業に戻るんだけど」
「あー……」
「周囲は『よく分かんねえやつだな』で苦笑いして『でもそれがあいつだ』で終わるやつ。それが今のあたし」
「今からやろうとしてんのそれ? 軽く傍迷惑なんだが?」
「ハッ、すまんね元くん」
谷川は誰かさんそっくりに、悪ノリ放題な顔をして。
「――もう、おもっっっきしやり終えたんだわ!」
「人生全部やり切ったみたいなイキイキした顔すんな!?」
「元くん譲りの不器用な貧乏くじ。時永くん譲りの割り切りのいい性格。――いや、影響されてる我ながら思うけど、もうちょっと素直になりなよ2人とも!」
「いや、最初ッから『素直さ』のカケラもねえお前に言われたかァねえんだよ!? 誰が不器用だってんだ誰が!」
谷川は小馬鹿にしたようにため息をつく。
「……ええー?? だーから、こんな暴走した人造人間ができんのよ?」
「人造人間とかいうな。うんたらゲリオンかよ」
「いいねうんたらゲリオン、しゃくれそう! ――ゲンキデスカ?」
「しゃくれんな顎! というかもうちょっと考えながら喋りませんお前!?」
イヌカイの全力ツッコミに谷川はまた爆笑した。
――本気で楽しいとばかりに。
「だあっははははは! ――いやいや、君の高校時代こんなんだからね元くん? 言ってることそのまま返すわ!」
「俺そこまで頭悪かった!?」
思わず叫び返す。――いやいやいや。完全に自覚ないんだが! えっ何!? 俺そこまでヤバい高校生してましたァ!?
「まあまあ。うん。あたしも悪いから頭」
「自分でいうなってんだよ!?」
「それよりほらぁ」
谷川はふと思い出したように、ピカピカ発光しているスマートフォンを取り出した。
「見てよ秀ちゃんの携帯。さっきから預かってたんだけどさあ――ピッカピカしてるから中覗いたら! ぷくくっ、リコちゃんったら、よっぽど秀ちゃんに懐いてたのか、連続ドラマ決まったって真っ先に連絡いれてやんの!」
「……うっわ」
「スゴいよね、あたし達とやったあれがお芝居初めてだったのに!」
……なるほど、とイヌカイは思う。
佐田が、守ろうとしたもの。
パスを打ち込まなくとも、通知に出る件名。佐田が気にかけていた主役の子が打ち込んだであろうメールの一通が、冒頭と一緒にキラキラ輝いている。
「……そうか……」
ようやく息を吐く。
……とりあえず、谷川の方を見る。
通知を眺めて笑うそれは――ひどく、幸せそうで。
「……そうか、そうだな」
もうこちらに向けている感情は何もない。敵意もないのは分かった気がした。
その肩に手を置こうとして、口を開く。
「あのな、ユ」
「ゥウ――ォオオオオオオオオオオ――――!!!!」
「……あ゛?」
突然背後から聞こえる雄叫び。
思わず振り返ろうとして――……
「オレの右腕が最後に疼く! エターナル・フォース・ブリザードぉ!」
「「え」」
「相手は死っ」
――ピカッ!
「……えっ、うそん。マジでなんか出……ウワァァァァァ!!」
閃光の瞬間、耳をつんざくような瓦礫の音が声をかき消した。
「……。尋常じゃねえくらい外壁が崩れる音がしたんだが」
「したね」
「本気でやるやついんの?」
「いたね」
暫く沈黙した。
――あの。
「……」
「……」
――誰が、やれと?
「いや、冗談だったんだが。意外とあいつ、馬鹿だったりしない?」
聞こえていたのだろうか、あの苦し紛れの呟きが――沈黙が怖いから言い出しただけの妄言が? いや、ありえない。聞こえているわけがない。
右腕がバッキバキになっている状態でその発想に至るのまでは、まあ――百歩譲って分かるとしよう。
心が折れた後のヤケクソで『波動拳』をぶちかますヤツがどこにいる。いったいあいつは何をやっているのか。
「まあ、その、何」
谷川はため息をついた。
「秀ちゃんがアホなのは最初からっしょ」
「……忘れてたわ」
「ふッ」
「……ふはっ」
思わず、今度は谷川と同レベルに噴き出す。ミコトがピンチな今、何が起こってもおかしくないのがこの世界だ。そりゃあおふざけで放った必殺技とか、普通に具現化してもおかしくない。
「……」
顔を見合わせ、肩を震わせた。
あの頃のように含みなしに笑い出した。そうだ。途端に色々と馬鹿馬鹿しくなる。
――あいつがいると締まらない。
ああ、本当に。昔から一つも変わらない!
「――っつか、あれだよ!?」
ヒィヒィ笑いながらイヌカイは口を開いた。
「俺も人のこと言えねえが、谷川先輩もやけにボロボロだな!」
「えー今更、ホントに人のこと言うそれぇ?」
「ぐぇ! ――いや、イカンって。いきなり他人の顔拭くな!」
「はっははは!!」
緊張感のかけらもない最中で、いきなり首ごと取り押さえられて顔面をズイズイと拭われた。
――えっと、何これタオル? 何?
苦笑いしつつされるがままになる。
彼女がボロボロな理由はイツキか時永だろう。――表面的に差異はないが、よくみたら足を少し引きずっているし、明らかに顔が少し疲れている。一度何か、強烈なすったもんだがあったに違いない。
「だって、元くんの顔、泥とか埃とかついてんの! 上から手当てするわけにはいくまい!?」
「は? ――え、何? もしかして救急箱持ってらっしゃる!?」
ガチャンと音がした。見ると保健室からの無断拝借だろう。見覚えのある箱が転がっている。
「マジかよ――いやいやしみる。やめろ痛い。マジで皮膚表面だけなんだわ俺、かッてぇの!」
「ムリムリ。滅多に怪我しない類のワンちゃんが切り傷擦り傷だらけになってるんだし、これくらいやらせろし! うり!」
ジュ、とアルコール綿がひりついた。
――あ、これあれだ。
イヌカイはふと気づく。
――俺がそもそも人間時代、消毒液にパンパカ頼ってたせいで、ここ十ウン年で爆発的に普及した湿潤療法の概念ないんだ、こいつ!
「しょ――消毒より先に、水での洗浄だろうがッ」
「ふーんだ! あたしがどーせべっちゃべちゃなんだからいいんですぅ! ――あ、消毒アルコールが嫌ならナメナメしとこうか? 唾で」
「やめろや!?」
ぴと、と水滴が落ちる。――あ、これ、俺の汗じゃなくて、こいつが濡れてんのか。
「まあ唾液の消毒効果はさておいて……どうせここから道中長いんだろーし、それくらいやらせなさいな。うりゃ!」
「……」
――ペチャ!
脱脂綿につけすぎだ。
ともかく捲し立てるようなそれに、思わず首根っこを掴み、目を合わせる。谷川の表情は少し不機嫌で……。
――ああ、珍しい。
イヌカイは困ったように眉を寄せた。
他人に見せない表情だ。彼女は上機嫌なフリをよくしてしまう。だから、つかみどころがないと勘違いされる。
「……おい」
「何」
「やるなら痛くないようにやってくれると有難いね、美女さんよ」
ぺた、とガーゼがはりついた瞬間、谷川は目を見開いた。
「なんだよ」
「……」
「ああ、おいこっち見ろ。……お前ね。人にぐいぐい来ておきながら、途中で何やら恥ずかしくなって目を逸らすの、いい加減やめなさいや。昔からだが」
「ん、そうだった? ――だははは! それはお互い様ではっ」
「……噛み付くぞこの野郎?」
「野郎じゃねーし」
自前だろうハンドタオルと、保健室の消毒液の匂い。……昔のあれをふと思い出す。右腕を折った谷川を連れて、体育館のドンチャン騒ぎを抜けた日のことを。
「……。イツキは?」
「あたしが喧嘩ふっかけて、逆に返り討ちにされてきたトコ。まだ遠く行ってないんじゃない?」
「あっそう……何、イツキにボコボコにされた結果がそのべっちゃべちゃ?」
「うん、そのべっちゃべちゃ」
これまた珍しい話だ。――イツキはそもそも腕っ節が強くない。佐田に勝ったのですら不思議な話だったのだけれど。だから『返り討ちにあった』というそれが、とても不思議なのだけど。
「……負けたにしては、清々しい顔してんな、あんた」
それでも不思議と納得できた。――複雑な感情だった。なんだか冷たく言おうとして失敗したような。よくわからないどっちつかずの対応に谷川は苦笑して、少し息を吐く。
「イッちゃんからの伝言。先いっとくって」
「おう」
「……それから、声、かけた理由ね」
「ああ」
足を引きずった美女が、覗き込むように上を見た。
至近距離、キスでもしそうな近さで――イヌカイの方を見上げる。
「お礼、言おうと思って」
「お礼……?」
「秀ちゃんはあなたたちのこと、もしかしたら呪ってたかもしれないよ」
「……ああ」
「行き場のない憤りとか、恐怖とか、あったかもしれないよ」
イヌカイは頷く。
それはそうだろう、あそこまで追い詰められたのだから。そもそも、何もしないままこの世から消え去るのは嫌なはずだ。
「ああ」
「でもあたしさ……この世界の事実を知って、秀ちゃんみたいには、思わなかったんだよね」
「ん?」
「むしろね、『生まれてきてよかった』って、思ったんだ」
――よかった?
谷川は微笑む。……そう、なんだか『照れくさそう』に。
「あたしはイッちゃんと、元くんの記憶から生まれて……貴方の記憶から、生まれ出ることが出来て……幸せな記憶をもらえて、ずっと、それを支えに生きてきたんだって思ったの」
「…………。」
イヌカイは少しだけ目を閉じる。
……あの日の出来事を思い返すように。
――『そっかぁ! 間が悪かったねー、新入生歓迎会でもしよーって話だったんだけど』
――『そりゃあ残念でしたね、演劇部のちょっと可愛い先輩どの』
春の教室。
佐田を呼びに来た、放課後の演劇部員。
「……高校で元くんと出会って、同じように高校で元くんと別れてから、たぶん何度も辛いことあったよ。もちろん、それはこの虚構の世界の記憶だけど」
「……。ああ」
遠い記憶を辿る。
感情をたどる。糸をたぐる。
思えばずいぶん痛くて不恰好なカップルだった。――あれで付き合ってるなんて、正直言えるかどうかも分からない。
「でも、その度にあたしは元くんとの日々を思い出した。あんな幸せなことがあったんだ、今からでもそれはある筈だって、どんなにどん底でも頑張れた。ずっとそれが支えだった」
――この世界では、そうだったのか。
「だから、良かったんだと思う。……無駄では、なかったんだ。あなたがあたしを思い出したこと。こういう中身ができるまで、細かく考えてくれたこと」
――思い出されるのはやっぱり、高校の時だった。
帰り道に二人で眺めた河原。水面。反射する雲。オレンジ色の夕焼け。
「あなたがそれを覚えてて、あたしに記憶をくれて、よかった。……いっぱい前向きな人生が送れたよ。ありがとう」
「……。なんスか、それ」
イヌカイは苦笑した。
「ろくでもない過去だぞ」
「……まー、そーだね?」
谷川は少しふざけたようにいう。
「ともすれば、本当にろくでもない記憶。でも元くんも嫌いじゃない記憶なんでしょう? だからあたしもキライになれない」
「……結局さぁ」
「何?」
高校時代の思い出なんて、案外そんなものだ。甘酸っぱいだとかしょっぱいだとか苦いだとか、そういうものではない。
カサブタのようにたまに剥がれる『痛いもの』。
「……なぁ先輩? クロノスと俺たち側、結局、あんた、どっちの味方だったんです?」
「どっちも」
ケロッと軽く谷川は呟く。
「あたしには『キミといた幸せの絶頂の記憶』、そしてそれが崩れた経験がある。秀ちゃんにはなかった。だから彼は虚像だった過去に執着し、あたしは2度目だからすんなり受け入れられた。……それだけの話だよ」
「……」
「あたしには積み上げてきたものが崩れる瞬間に生まれるものも直視できるし、それを大切だと思える」
「たとえ崩れるのが自分自身でもか」
「……同じことだよ」
カタン、と救急箱の取手が音を立てる。
「それに、『あたし』がきっとこの世界から消えても……谷川ユキはずっと消えないから。本物のユキも、あなたが覚えているユキもね」
「……そか」
イヌカイは大きく息を吐いた。
……この『谷川ユキ』が清々しい顔をしている理由がようやくわかったからだ。
「なら、さ……ユキ」
ずんずんとイヌカイは谷川の前まで歩み寄り、手を軽くあげた。
谷川は少し呆れたように笑い、背伸びをして手を伸ばす。
学生時代……付き合っていた当初、2人にとっては日課となっていたそれ。
――ぱんっ。
軽く、手を叩いた音が鳴る。
「……やった感触、変わんねえな」
「当たり前っしょ?」
「そうだな」
元々スポーツを好んでプレーする彼だが、最初はチームメイトに向かって健闘を称える意味でしていたそれを、「羨ましい」といった女の子がいた。少し呆れつつその子にもするようになったそれが、いつの間にやら健闘を称え合う意味から親愛を込めての意味に変わるのに時間は殆ど、一週間もかからなかった。
いまやイツキとよく交わすそれ。ここに来てからは、時永の手の感触も混ざるようになったのだけれど。
イヌカイの些細なこだわりを生み出したその「記憶」が、目の前で……花の咲くような笑みを浮かべた。
「……迷わないでね」
手を下ろした谷川は呟く。
「もし元くんが地球に帰るときが来ても……あたしはきっと、こんな風に気軽に喋れる関係じゃなくなってるかもしれない」
「……ん」
「だけどその世界のあたしはきっと、元くんのこと、忘れてない」
「ん」
「こうやって毎日、ハイタッチをしてた頃のことも……今の元くんみたいに、きっと大切に思ってる。だから安心して。未練なんて持たないで、前を向いて……ちゃんと生きて」
――今更、気づく。
「……わかってるさ」
谷川が先ほどから少し引きずっている足。
「……谷川先輩あんた、自分が息をしてる一番最後の日にそれをいうつもりだったろ」
「バレた?」
「……9月頭から、12月末の今日にかけて」
出会った日。ラーメン屋のトイレ前。その後の舞台照明の打ち合わせ。時永相手と喋る冷たい声。
「……その一言を、わざわざ言いにきたんだな。4ヶ月かけて」
約4ヶ月――それは、イヌカイが記憶を取り戻してからの、実際の時間。彼女をふと思い出し、高校時代を思い描いてからの数ヶ月。
「んー、あたしとしてはアレよアレ。一生分かけてって感じ?」
「ははッ、俺からしたら夏の終わりからの4ヶ月しか生きてねえからな、あんた」
「でも大変だったんだよ? 神様に背かないように色々動くの」
ミコトを目覚めさせたのは、クロノスの益にもなる話だったが、同時にこの物語を手っ取り早く終わらせる唯一の鍵だった。どちらの益にもなる。だからクロノスは見逃した。けれど。
「……素直に言ってくれりゃよかったんだ」
何かきっと、背くことがあったのだ。
たとえばそう、イツキを追撃しなかっただとか、時永を追いかけなかっただとか。
……だから、足から存在が消えかけている。
「……だって元くんさあ。秀ちゃんにはほだされかけても、あたしには絶対ほだされないでしょ?」
苦笑いして、谷川は口を開く。
「だから敵側にいたほうがよかったんだよ。その方がいい。イッちゃんを連れて、ミコトちゃんを連れて――あの子たちに両脇固められながら、へたくそに笑って」
「……」
「『お日様の当たる外』に出た方が、キミらしい」
イヌカイは頷いた。
ひどく納得した様子で。
――谷川は振り返る。
「ねえ、悪役、うまくできてた?」
「ああ、とても」
その手を掴む。湿気た手の感触は、高校の頃とあまり変わりがない。
それでも……そう。変わったところがあるとするならば。
「ありがとな」
「……」
「俺も、お前がいてよかったよ」
あの日にやめたはずの演技が、また、とても巧くなっていた。
谷川は息を吐き、柔く握り返す。
「……元くん。あたしさ」
遠い記憶。いつかの自転車。
あの日の言葉をひっぱるわけではないけれど。
「……好きだったと思うんだ、あなたのことが」
離れる腕の感触。痺れるような足の痛み……
それでも彼女は後ろ姿を見る。
「……すすめ、元くん」
「ああ。じゃあまたな。ユキ」
――帆船で遭難したようなもんだよ。
また風は吹く。帆を張れば戻れる。
たとえ失った時間は戻らなくても。
彼女は不敵に笑った。ゆらりと片足が虚空に溶ける。
でも、彼女もまた進むのだ。
外へ。佐田の待つ――日の当たる、冬の玄関へ。
「さよなら、またね」
たとえあと数分の命であろうとも。
――口角を上げながら、泣きもしないで。