5.シリウスとカノープス
……右腕を刺すような、筋肉痛。
もしくは急激な成長痛。記憶はある。
記録もある。
けれど、その刺すような痛みを知っているのは、又聞きのようなものだ。
「……なあ、犬飼」
佐田はとぎれとぎれに口を開く。
「オレは、今まで、ずっと生きてるって感じがしてた。毎日が、生き生きしてた」
「……」
とてもちいさい涙声だった。
普段の堂々とした様子はかけらもない。
「頑張って生きてた。頑張って今の場所に来た。仕事貰って、認めてもらって、頑張ってお金ためて、頑張っていろんな人から応援してもらって」
「……」
イヌカイはしゃがみこみ、視線を合わせた。
……『聞いている』。そのポーズだ。
「……オレはさ、要するに恵まれてたんだと、今更気づいたんだ」
ひとりごちるそれは震えていた。
不安を堪えた、抑え込んだ。『自分の中の何者か』と闘うような、苦しみもがく声だった。
「好き勝手に生きてたって、困ったことなんか何ひとつ無くて。たまに少し悩んだって誰かが励ましてくれて、ずっと色々なものを積み重ねて乗り越えてきて……成功したりして。それに誇りを持って」
「ああ」
「それが全部、この世界の真実を知って始めて……その、ぶっ壊されたような、気持ちだった……」
今まで、何食わぬ表情で生きてきた記憶はある。自覚もある。
高校時代。親友と語らったあの日から――否、あの日に向けて、頑張ってきたのだ。
――『オレたちの持ってる「心」ってやつは何なんだろ。どういう理屈で喜怒哀楽を感じるんだろう。それをオレ、ここ最近ずっと考えてんだよね』
幼い声が、耳の奥で聞こえる。
高校生の頃のそれが。何も知らないそれが。
――『……普段好物のタコ焼きのことしか頭に無い、その頭でか?』
謎かけのようなそれ。
あの時の犬飼の表情と言ったら――それはもう、何かを企んでいる様子だった。
きっと互いに企んだのだ。
あの日の答えを、探しに出たのだ。あてもなく。
あの『ろくでもない高校時代』を終えて、大学なり専門なり、次のどこかに進んだあの日から。
だけどそれは、実はついこの間ミコトたちによって創られたもので――本当は違う。
この世界はそうやって数ヶ月前。音もなく静かに始まっていた。
「……クロノスって名乗る声がさ、ある日話しかけてきた」
――夜中。しんと静まり返った自室の中。
うとうとしていた布団の中で、ハッキリともしない耳元の――夢のように朧げな少年の声。
それが次の瞬間、佐田の中の時間軸に忘れ難い『しるし』をつけた。
それはこのイヌカイが記憶を取り戻し、己の高校時代を浸るように思い返したあの日の話だ。
突然頭がハッキリと覚醒した瞬間、佐田は事態を否応なしに把握した。
「……異物みたいな実感はない。よく馴染むんだ。それでもギャップがあってさ、思わず暫く仕事を休んだ。そんな精神状態じゃない」
――『お前は選ばれたのだよ!』
話しかけてきた何者かはそういってせせら笑い、彼が偽物である自覚と一緒に、外の世界で起こった出来事を何もかも置いていった。
誰かの記憶だ。いや逆かもしれない。
まるですっかり忘れていたことをぽんと思い出したみたいな感覚。何にせよ、それを初めて知るという実感はまったく無かった。
「…………」
「堪えがたいものだ。そこから明日に進むのが怖くて仕方がない。未来に向けて、目標に向けて――自分で決めてきたはずの全てが仕組まれていて、オレは誰かが敷いたレールの上を、歩いているだけだった!」
「……」
この世界の基になった【外の世界】。
そこから無理やり組み込まれた、『犬飼 元』という人間。
自分の過去。その記憶の中の友人。
「……オレの知っている、何もかも。それが全て設定上のもんなんだって、そう考えたら、底なし沼みたいに怖くなった。まるでオレの存在だったり、周囲の人たち全ての人格が……生き生きと自分で積み上げてきたものが。目の前でがらがらとくずれて、否定されたみたいだった」
それが嫉妬なのか自嘲なのかはもう分からない。
創られた自分と、そうでない高校の時の友人。
――違いは何だ? あの時何が起こっていた?
そもそも何も起こっていなかった?
あれは。あったはずの出来事であって、本当はないのか?
モヤモヤを抱える。
気がつけばがむしゃらに動いていた。
『悔しいなら努力すればいい』。そう考えるのが本物だった。本物がそうなのだから、最初は前向きに頑張ろうとした。
そう、自分らしく。
本物がいるのなら、本物とか偽物だとか、そういう比較対象をなくしてしまえばいい。
ミコトをこの世界から締め出せばいい。
イツキを倒せばいい。
そして時永を……
「そこで『待てよ』と思った……」
佐田は口角を上げた。
「そうだな。違和感がある。オレはお前と同じで、『自分のメンタルケア』はする方だったよ。――でも、それは誰の感情だ?」
憎い。気づけばそう思った。――憎い。憎い、憎い。あの時永が憎い。いっそ殺してやりたい。
『記憶』を辿れば分かる。それは明らかに、イヌカイ由来の衝動だ。彼が持っていた、押し込んでいた。遠い記憶の奥底に。
「なあ犬飼……ききたいんだけど、オレさ、人を殺したいだとか、誰かを必死になって憎み続けたりとか、そういう人間だったか?」
疑問は膨れ上がる。
ちがう。本物はそんなことを考えない。
本物は――本物とは何だ?
「佐田秀彦は、誰かの真似をする人間だったか?」
「――……」
「自分でやりたいことを探して、やりたいことをやって。超えなければならないものがあれば、甘えたことを言わず自分の手で対処する。――そんなところが、【犬飼 元】は気に入ってたんだろう?」
……自他の境目が分からなくなってきた。けれど、佐田は走り続けた。しっかりした自己がない。戻ってこれるベースがない。けれど。彼には演じることができた。本物の佐田秀彦を。
「……よく、色々演じられたな」
イヌカイの言葉は固かった。しかし口の端は上がる。分かりづらいが、誉めているのだ。
今なら分かる。明らかなうつ状態だ。だんだん明るさを失ったのは分かる――持ち前の明るさと言われたそれが虚構になったのが、その話し方からとてもよく分かる。
「……ああ。そりゃ、お前が、尊敬してくれたからだ。プロ意識ってやつさ。お前がイメージした佐田くんの」
他ならぬイヌカイがそう思い込んでいたから。
「こいつは、やるときはやるやつだ。だから大丈夫だ」と。
……それでも限界はある。
ショックは消えない。積み重ねたそれらが今まさに崩れ落ちてくる。その事実に耐えられない。
「……オレは、今更……ずっと頭がグルグルしてたんだ。ノイローゼみたいに離れなかった。何をやっても誰かの手の上で。かつ、爪痕を残せないんじゃないかと。誰かを『あっ』と言わせることが。楽しませることがもう、できないんじゃないかと」
仕事をしても、裏が見えるようになった。
人形と話しているような実感が消えなかった。
無駄なことをしているように思えて、不安だった。
何にどれだけ心血を注いでも――全部、心の奥底に空いた穴に、飲み込まれていくようだった。
誰かが創った理想の箱庭。
誰かが造った成功の道。
誰かが作った……
「頭から、離れない。――オレは自力で、何も成していなかったんじゃないかと」
高校の時にした話題がいつでも、頭を掠めて消えていく。
思い出しては、消えて。
思い出しては、消えて。
「……聞こえるんだよ、あの日の自分の言葉が」
幼い声が、耳の奥で聞こえる。
高校生の頃のそれが。何も知らないそれが。
根拠のない自信と、冒険心と【向こう見ず】なエネルギーに満ち溢れた、遠い記憶の会話が。
「人の、心。……心なんて分からない。理屈で説明できるものじゃない」
佐田の言ったそれは、奇しくもこのイヌカイの結論と同じだ。
時永にいつだか言い放ったそれ。『理屈でどーこうじゃねぇのさ!』……。
「……他人の心どころか、自分のだってそうなんだ」
苦笑いした佐田は頭を振る。
……よく分からない、フワフワしたもの。
「だからせめて、次にお前に会うまでは、自分の心をちゃんと作ろうとしたんだけども。……何も。そう、何も積み重ねられてなかったんだなと思ったら……怖くなって。足元が、なくなったようで」
暗闇の中で彷徨うようだった。トンネルの出口が見つからない。
それでも――ひとつだけ、はっきりしていることはある。
「嫌だった」
理想は心の片隅から消えなかった。
「……『本音を言うならば、平穏に生きたかった』」
それも元を辿ればイヌカイの気持ちかもしれない。
けれど、佐田のものだった。
「『こういうクソみたいなことに巻き込まれるのなんて、まっぴらごめんだった』」
イヌカイは少し目をふせる。
――その言葉に重なるのは、13年前。
「『こんなに悩むくらいだったらいっそ生まれなかったほうが良かった』って思ったさ」
時永邸から見上げた、遠くの星。
寒い日の夜――それをぽかんと所在なさげに見上げる、獣の背中。
「オレを生み出したお前の記憶が憎たらしくてたまんなかった」
「違う」
黙って聞いていた『あの日の獣』は静かに、怒りを持って呟いた。
「……佐田、それは違う」
「どこが」
――嘲笑う様な、スッカラカンの声。
考えることをもう放棄した、無様な負け犬のそれ。イヌカイは耳をすます。
鼻水を垂らして震えたそれを、もう随分前から知っている。
それは。
――それは、あの日の自分だ。
「あのな犬飼! ――実際マジで言いたかったんだけど、最初からお前がオレを全部覚えてなかったら、こんなこと知らずにすんだんだ!」
――ああ、やっぱり人のせいにしている。
「あんなクソ神に選ばれずにすんだ! 覚えてるとしても棒人間みたいにいい加減だったら除外されてた!」
――自分から、何かをしようなんて思わない。
もう疲れてるし、踏ん張る気力もない。
それでも。
ああそれでも、【文句】を言うことはできるのだ。
前に、進みたいのに。
進んでないのに。
「お前が外のオレを覚えてなけりゃ、こんな苦しいことなんて無かったんだっ!」
「だ、から……」
……やれることをしよう。
現実を飲み込んで、それでも自分の信じたいものを信じ続けよう。
多くの人が持っているその気概を。
「…………ああ、違うって言ってんだろーが!」
――イヌカイはようやく口を開く。そう、その気概を見失っていたのが、あの日の夜だった。
あの時、星を黙って見上げていた記憶が形を変えたのが今の佐田なのかもしれない。思えば高校の時分から、威勢の良さだけが売りなのにも関わらず。先に進む覚悟も精神論も、どっかにいっていた。
「……だって、お前なりにフツーに、生きてきたんじゃねえかよ!」
あの時の自分を叱りつけるように、イヌカイは大声でまくしたてた。
そうだ。
この世界にはカバーストーリーがある。
普通に生きてきた。平穏に生きてきた。まさか世界が作られたのが数ヶ月前だなんて知りもしない、とても精巧なカバーストーリーが。
その胸元を掴む。――あの時の自分から出来ているそいつに、そいつの目線から、やらねばならなかったことを叩き込む。
「なあ――よく考えてもみろってんだよ。お前がさっきから否定してるのは何だ」
「……へ?」
「今お前が一生懸命否定してるのは、何だって聞いてんだ!」
――今、佐田が否定していたもの。
「何のこたぁない、お前自身じゃないか!!」
「…………」
「お前が自分の存在を、『最初から居なかった方がよかった』って言ってんじゃねぇか!」
手が震える。
佐田を立たせたそれが、イヌカイの左手が震えている。
「お前、自分が好きか!?」
「…………」
「今までこの世界で成功してきた、頑張ったお前が、好きなんじゃねぇのか!?」
――さぞかし、頑張ったんだろうさ。
喉が鳴る。ぐるぐると。
……思い出すのは、ラジオの声だった。
――あの日、あの場所。そこまでくるのに。きっと色々なことがあったんだろう。
それに誇りを持てと人は言う。誇りを持つべきだ。プライドを持つべきだ。
そうイヌカイだって考える。
けれど、その経歴に誇りを持とうにも――その土台が、霞のように消えていくのだとしたら。
「……お前はクロノスに否定されたんじゃねえ、クロノスの話を聞いた、お前がお前の、今までの道順を否定してるんだろうが!!」
思わず吐き出す。今までの自分を否定してきたのはイヌカイも同じだ。
「こんなに苦しいなら、つらいなら」――そう思ったことは幾度もある。
何かを諦めたことだって、きっと数えきれないほどだ。
……まあ、そもそも忘れてしまったのだが。生きていく上で、何を諦めたのかすら。
「……なあ佐田、お前が否定してんのは、俺じゃない」
その『忘れたもの』が何だったのかは分からないし、興味もない。
佐田のいうように、ごく普通に生きていくことだったのかもしれない。
それとも、次の週末にレンタルで趣味の映画を借りにいくことだったのか。些細なことだったのは、きっと確かなのだけれど。
「……お前が今までの生活に不自由を感じてなかったことなんて、こちとら知ったこっちゃないさ! だけどな、いくらショック受けたって肝心なこと見失っちゃおしまいなんだよ!」
この佐田が忘れているものは、たぶん違う気がした。
些細なものではない。もっと大事なものだ。
佐田は何かに気づき、目の前のイヌカイを見上げた。――声のトーンが下がる。まるで自分に言うように。言い聞かせるように。
辛く、暗いイヌカイのそれ。
「……お前は何がしたいんだ。それを見失って結局パニクってんじゃねえのか、それで人にやつあたって、余計わけわかんなくなってんじゃねえのか!」
――それは、あの日の。
――「お前は! 名実共に! オレの悪ふざけ仲間だ!」
――「それは! 認めるけど! 山内にはもう怒られたくないんだわ俺!」
どうあがいても偽物にしか思えなくて切り捨ててしまった、あの記憶のそれと同じだった。
……谷川もいなくなり、だいぶ経った高校3年。修学旅行先での出来事。
悪ノリのすぎる相手のために声を荒げて、ストップをかける親友のそれ。
その表情に、佐田は少し笑った。……確かにそうかもしれない。
今更だった。
今更気付いたのだ。
――ああ、そうだな犬飼。
オレもお前も、何も整理なんてついてない。
「その記憶は本物だよ、佐田。……ミコトが、俺がそう創ったっていうんなら尚更言ってやる!」
「……」
「俺は神様じゃなければ仏様でもない。ただの人の心を持った違う何かだ! ――それに創られたってんなら尚更だよ『佐田秀彦』! お前が否定しない限り、お前の中に生きるその記憶は本物のはずなんだよ!」
ミコトがそう作ったのだ。命には命を、心をきちんと付随させたのだ。ならそれは【本物】と言ってもいい。存在が何かのコピーであったとしても。
「人によって見えてるものが違うなんてのは、案外よくある話じゃねえか……! お前がそう信じる限り、張りぼてなんかじゃ決してないはずだ!」
イヌカイは吼えるように呻いた。
「……俺がこの世界で見てきたお前の感情は、何だった? 跳ね上がってたその実力もだぞ! ――お前のキャラクターは本気で気持ち悪かったし、本気で泣けたわ! 分かるかお前!? 忖度なしだぞこの感想!」
情緒があるというのは、そういうことだ。
心がある。魂がこもっている。……喜怒哀楽を刺激する。
作り物であれ、偽物であれ、それを本物に変えていく。
――『演技ってのはほら、台詞をただ言うだけじゃ駄目だろ?』
――『心とか魂をさ、いったいどうやってその台詞に込めるかが重要ポイントってわけよ。そうやって込めるモンがその役柄にあったもんじゃないとニセモノに見えちまうし』
高校時代の佐田が言っていた。
……ちゃんとイヌカイの記憶に残っている。
それが、佐田の演技なのだ。
初めて見たときから変わらない、ただ一つのやり方。
そこに【本物】を込めていく。
あたたかい息を、鼓動を、自分の命を――ひどくまっすぐに。
「あの台詞回しは神がかってた! ……あの感動は何だった? それに本気で心を動かされた俺はどうしたらいい? なあ俺の感情は何なんだよ。偽物か?」
「……」
「おもいっきし本物だってんだよ。そうだろ。……ああ、確かに俺にとってはお前の生きてきた道は別の世界の話かもしれんさ。だとしたら、お前のアイデンティティを守れるのはお前だけだ。――世界でたった1人、お前だけなんだよ」
その場にへたりと膝を突く。
……おかしいことに力が入らない。
「そうだろう、もう一人の佐田秀彦。……俺の知らないこの世界の、たった一人の本物!」
――ああ、そうか。
佐田は苦笑した。
――認めちまったんだな、オレ。
佐田はイヌカイを見上げた。――虚構かも知れないあの記憶。
13年前。オーディションに落ちた日。
……あの頃見上げた、遠くの一等星。
「……バカじゃねえの。茹でダコみてえな頭しやがって」
イヌカイは見下ろしながら呟く。絶対的な真実なんてものはこの世にはない。多くの人が思い込んだ出来事が通説となり、それが揺るぎの無いものになった時、歴史の中ではそれが“真実”として扱われるのだ。……たとえそれが事実ではなかったとしても。
「持たされた情報が受け入れられないなら、お前は今まで通り、自分の記憶を信じればよかったんだよ、佐田……それを俺は止めもしないし笑いもしないさ。それがお前の決めた道なんだ、だったらとやかくいう筋合いねえだろーよ」
そして同様に。
「俺がこの世界を終わらせるのも、俺が必死に考え抜いて決めた、たった1つの道なんだ。……悪いが、ここから先に行かせてもらう。それが、俺のお前に見せれる唯一の答えだ」
佐田は苦笑いしつつ目を閉じた。――砂利の音がする。走り回った結果、ぼろぼろになった服についた砂埃。
それがはたかれて、音が通り過ぎていく。
「……お前がもしこの世界を本当に偽物にしたくないなら、今のうちだ。俺を力づくでも止めてみせろよ。何度だって蹴っ飛ばしてやる」
「なあ『イヌカイ』」
足音は一度だけ立ち止まる。振り返ったらしい。――その瞬間、うっすらと聞こえたのは、外に出ているわけもない爪が地面にぶつかる小さな音だった。
「……その足で?」
「ああ、この足で」
目を開けても、それは見慣れた『犬飼 元』の、人間の背中なのだけど。
「ははあ。なるほど。……そりゃ勝てねーな」
呟けば、遠くの一等星はハハッと笑ったらしい。こちらも笑い返した。
駆けていく。爪の音が、地面を踏み締めた後ろ足の音が。
――――オレを置いて、ずっと遠くへ。