4.記憶のルーツ
理科室前の廊下から、水浸しにすること約……そう、50メートル。
「いっててて!」
……備品がぬれてぐしょぐしょになった体育倉庫。
跳び箱に頭をぶつけながら、足を引きずった谷川はようやく息を吐く。
「……イッちゃん、割と容赦ないじゃん……」
幾度も「水」の腕とぶつかって、そのつどイツキの攻め方は苛烈さを増した。――背丈の小さな男子高校生。その長いつるの先は、水に触れるたびに脈を打つ。意外にも冷静さのある息の奥から聞こえるのは、地面を叩くような力強い鼓動だった。
「……先に喧嘩を売ってきたのはそっちだろ、怒らせようとして」
――ひた、ひた。
水を含んだ足音が、谷川の耳に聞こえてくる。
当然、普通の生徒のような『上履き』の音ではなかった。履き替える間もなくゴーレムから逃げてきた、べっちゃべちゃのスニーカーの音。
「……ははは、ウン、これはまいった」
ゴーレムの腕は谷川の手の内で形になろうとしてもすぐにぐにゃりと霧散する。……谷川に適合したゴーレムの原料、【水】を大量に失った挙句のエネルギー切れだ。パルテノのときの佐田と同じに、ひどく消耗している。
前髪の張り付くそれを拭い、目の前にやってきたイツキはぼそりと呟いた。
「――あのさ。遅かれ早かれ、だったんだろ?」
ブレザーをゆっくりと脱ぎ捨てる。――ぺしゃりと音を立てて落ちた袖の下には『メティスがつけたベルト』があった。
長らく目視もできなかった、元の姿に変身解除するためのスイッチ。
……恐らくこの世界にイツキたちが迷い込んだとき、ミコトは何も言わず、そのスイッチを隠したに違いない。
きっと「人のフリ」をしてほしかったからだ。
「……なんていうかさ。ほうっておいても、あの人たちは消滅してた」
それを見ながらイツキはぼそりと呟く。
「ミコトが夢から覚めた時に」
「そーだねえ」
「ミコトが覚めるキッカケはたぶん、どうあがいたって時永先生が作る。……だってあの人、一番の中心だろ。この世界と、この騒動の」
そう。
ミコトを除けば俄然、時永がトップになる。
『この世界に一番の影響力を持つ人間』といえば、彼が思い浮かぶほどだ。
「……あの状態のミコトに意見できるのは、時永先生だけ」
いつか見かけたミコトの様子を思い出す。
遠目で、この学校のカラッとした廊下で――時永と楽しそうに話していたあの少女の姿を。
「彼女の心を一番動かせるのは、ミコトがその目に映した、主人公だけだ」
端役がどれだけ喚いても、結末は変わらない。ここはきっとそういう世界だったし――きっと偶然、そういう出来方をしたのだろう。
「……そういうの、なんていうか……実をいうと前から気づいてたんだよね。オレはそれに手を貸して、だから」
谷川が水というエネルギー源として吸収した、『この世界の一般人』。
この人たちがずーっと、普通に生きていた。過ごしていたのだとしたら。これは恐らくとんでもない【大虐殺】だ。そう今更、イツキは思う。
「ミコトは、その。夢見がちではあるけれど、同時にすごく現実的な子なんだってオレは思うわけで」
……ミコトは一応、生き物としてこの世界の『張りぼて』たちを構成した。
触れられる、話せる。喧嘩もできる。
けれどこの人たちは――ミコトが「都合のいい夢」を見ているから存在できる。
「……夢は見る、空想はする。でも『こんなのありえない』と思ったら、さめるのがとても早い」
その夢を『ありえない』と思わずに、たまたま数ヶ月も見続けた。勿論クロノスの手によってではあったのだけど、半ば自発的に。自覚的に。
「長い時間をかけて、リアリティのある夢の世界をつくっていったのがミコトだ。まるでちいさな子が大量の鉄道模型やドールハウスを与えられた時みたいに、瞬く間に大きな街ができた」
妹が時折、幼い頃の玩具でこっそり遊ぶさまを思い出す。
「海ができたし山もできた。人の営みが完成した。高い水準の文化もある。だからこの世界の人たちはいきいきとしていた。――なんだかんだで愛着がわいたんじゃないのかな、ミコト」
厚紙の山。絵に描いた海。自分のお下がりも含めて大量のミニカーや線路、人の家。それがみるみる組み上がっていくのを見るのがイツキは好きだった。
見覚えのある人形なり、ブロックなりも混ざり込んだ懐かしい光景。
勿論、自分ではもう使わないのだけど。
「……思い入れがこもると、設定が積み重なる」
イヌカイがある日頭に浮かべた、佐田や谷川と同じように。
「最初はただのプログラムだった動きに、思考に、理屈がついてくる。――その手に持ってる人形には家族がいて、猫を飼っていて、家の外壁にはツバメの巣がはりついている」
それを繰り返すうち――いつかそれは、シミュレーションの域を超える。
「それは生き物と変わりなくなるんだ。それがきっとユキ姉ちゃんだったし、佐田さんだったし、橘さんだった。父さんや母さんや、妹たちでもあった」
ミコトの作ったベースに彼女の愛着や設定が張り付いて、イヌカイやイツキの思い入れも継ぎ足して。……それがこの世界にいた生き物だ。
ちゃんと息をしていたし、自覚的に明日に向かっていた。
「オレがそんな女の子を起こす手助けをするっていうのは。手を貸すっていうのは同時に――ある日、殺すってことなんだよ。何の理由もなく。突然オレのエゴで」
ミコトを夢の世界から引き揚げるというのは、そういうことだ。
「その人たちの明日を、殺すってことなんだ。たぶん」
夢はもう、紡がれない。連続しない。
咲き誇らないし、種も蒔かれない。
「……うん」
「まあ――間接的にだけど、オレはこの世界の植苗一家を殺すことになってたし、そのつもりではあった」
谷川は苦笑いしながら、大きく息を吐いた。――仕方のないものを見るように。まるでイヌカイが、佐田にふと言葉をかける直前のように。
「そう……だからイッちゃんは、皆に優しく接したんだよね!」
少し前に、パルテノでイツキはわざわざ佐田に駆け寄った。色紙を手渡し、記憶の元になったイヌカイに対してのような気安さで、タメ口を叩く。
――「佐田さん。自分の記憶を大事にしない人間なんて、いると思う?」
「それはきっと嘘偽りのない言葉だったし、だから秀ちゃんにも響いたんじゃないかなって」
佐田にもそうだった。
勿論クラスメイトにだってそうだ。
――「もしかして、植苗くんって最近あたしらより先生とかの方が仲いい感じ? この間、時永先生とデコボコトリオになってんの見たんだけど」
――「はははは! 何か変な組み合わせだよな。先生二人に小動物一人!」
――「誰が小動物だよユータロー……」
……それは愛情があったからだ。慈しみがあったからだ。
リスペクトが、あったからだ。
イツキは自分の左腕――普段の5~6倍は縦横に膨らんだつるを見下ろした。
もはや長い水風船のようなそれ。
そう、イツキは逆に谷川から取り返した。……植物らしく、吸収したのだ。触れれば記録の漏れる、かつて見慣れた生命を構成していた【水分】を。
「イッちゃんキミさあ。あんだけあたし達と仲良くしときながら、ズルくない? 目の前のそれが【自分の思い出が作り上げた家庭像】だって、ちゃんと割り切ってたんだね?」
「……」
イツキは黙ってつるの先を切り離す。刃物は使わない。ただ、落葉樹がその葉っぱをゆっくりと切り離すように――地面に大きくバウンドして転がる、長い長い水風船。
「その上でイッちゃんは妹ちゃんのお世話をした。……お父さんに文句言ったし、不器用なお母さんを黙って手伝ったんだ! 前と同じに、忘れかけたそれを懐かしみながら!」
戦闘中、水に触れる都度聴こえたのは日常会話だった。……妹がやたらにこちらを呼ぶ声。父親に毎度のごとく横取りされた朝食の一品。母親のダラダラした愚痴。
――あー、ほっとけほっとけ。あいつなら一人だろうが意外と伸び伸びしてるんだろうよ!
なぜだか覚えのない、母方の祖父の言葉。これはもしかして、イツキが一人で残ることを案じた誰かへの返答だろうか。
「確かに、ずるいとは思う」
イツキは俯いたまま、ぽつりと呟く。
腕が切れたところで実害はない。また伸ばせばいいのだから。
それでもブクブクに水を含んだ、『自分の体の一部だったもの』を見ながら――彼は重い口を開いた。
「それでもさ。割り切っているつもりであったとして……きっと嫌だったんだ。『この世界の植苗イツキ』の家族が、オレのワガママと引き換えに消えていくのが」
「だろうねえ」
時永に投げた先程の一言。
「それであなたは幸せですか」。
イツキが望んだ幸せは、もうここにはない。
「ミコトを全力で叩き起こして、我に返ったミコトと先に進むために、必要最低限の犠牲を払う。さよならって切り捨ててさ」
……それができれば一番シンプルだった。
時永だって警笛を鳴らしていた。
――この世界に遺していくもの。そこに命はない、意思のないはりぼてだと思えばいい。
それが一番、楽な結論だと。
「『ここから出たらでいい、死ぬほど後悔しよう』。正直オレ、そう思ってたんだよね」
「うん」
「オレはイヌカイと同じで、それを『意思のない張りぼて』だとは思えない。思えなかったし、思いたくもなかったよ」
久しぶりに出会った妹は相変わらずだった。深くものを考えないし、サンダルは左右間違えるし、落ち着きがない。
――「きっと張りぼて扱いの方が、都合がいい。思い入れなんて無責任に込めるだけ損です。後でお互い、つらくなるのは目に見えているでしょう?」
「……時永先生の言葉は嬉しいけど。頭ではそう、分かってるんだけど」
それでも、その子が笑うと少し――幸せな気分になった。
「そこにユキ姉ちゃんが突然やってきてさ。前触れもなく突然――いきなり首を突っ込んだ」
昔から掴みどころのない人。ラーメン屋で知り合った、ちょっと綺麗な年上の女の人。それでも遊んでくれて、構ってくれて、可愛がってくれるお姉さん。――ミステリアスな正直者。それが谷川に対する印象だった。ずっと昔から変わらない、けれど全く害意のない、悪意のない存在。
「……だってさあ、イッちゃん」
谷川は不敵に笑う。
「こうするとシンプルになるっしょ。ぜーんぶ、『ユキ姉ちゃん』のせいにできる。……そうだよね?」
それはやっぱり「意思のないはりぼて」ではなかった。中身は見えづらくても、本心を口にすることは少なかろうと――ちゃんと中身の詰まった、意思のある生き物。
イツキは気まずい様子で目を逸らす。
「ミコトちゃんを取り戻すために、イッちゃんはここにやってきた」
谷川の声には慈しみがのっている。
「キミっていう男の子はね。好きな子ひとり、元の世界に戻してあげるために――はるばる、やってきたんだよ」
それと一緒に、何か強いものがほんのりと感じ取れた。
「ミコトちゃんを正気に戻せば。そう、夢からあの子が目覚めれば――たちまちこの世界のあたしたちは、きっと消えてしまうでしょう?」
「……うん」
「『そんな夢を見たな』って、最初のうちは思い出してくれるかもしれないけれど。そのうちあったことすら朧気になってしまう」
「……」
「あったことすら分からない。実在があやふや。なのに不思議だよね? それをイッちゃんが『自分が殺した』ってみなすんだ」
【谷川ユキ】は、どこまでいっても思い出の産物だ。
イツキが懐いたのは『人がいい』ように見えたからだったし、イヌカイがいい思い出にしていたのは、彼女が『優しい人』だと思ったからだ。
「あたし、どれかっていうと不真面目だからさ!」
ふふん、と笑って彼女は言う。
「賭け事とかゲームは割と好きだよ? でもそういう形でサバイバルゲームに勝ったって、そもそもあんま嬉しくないんだ!」
「…………」
「やっぱりどんなお話だって、生き残った誰かがハッピーにならないと、死んだ誰かも救われない!」
ひとのいい、優しい人間が極まるとどうなるか?
――イツキは苦笑いしながら思う。
『きっと冷徹になる』のだ。誰よりも残酷なことを、ほんの少しの覚悟と勇気さえあれば、些細な躊躇でできてしまう。
「イッちゃんが人を殺すより前、あたしが先に殺しちゃったほうが色々いい。悪者はこっちが引き受ける! そうしたらイッちゃんはなんの躊躇もなく、この世界を置いていける。きっとどこまででも!」
イツキは思いっきり息を吐いた。
苦笑いして――それから、また、息をついて。
「……ユキ姉ちゃん、あとでイヌカイから、思いっきり怒られればいいと思う……」
「怒ってくれるかなあ? あー……でも言われるかも! ――きっとあとから君が、あたしの思い出話をしたときに!」
ケロッと笑って谷川はいう。
……思い出話。いなくなる前提の会話だ。
そう、きっとこの谷川は。
「――――ま、それでいいんだ、あたしは」
……こうなることを、きっと最初から知っていたに違いない。
「なー植苗くん。……あれだよ、あれ」
わざとだろう。
時永の呼び方、イヌカイの口癖。
聞き覚えのあるフレーズに、イツキは少し顔を上げた。
「あたし、半分は元くんで出来てるから。人のためなら顔の怖ーい悪役になっても構わないってところは、割と似てんだぜ?」
柔らかな白い手が、イツキの額をそっと撫でる。
――その足元にきらりと。
『小さな水滴』が、こっそり落ちた。
* * * *
……遠くに聞こえる、水の跳ねる音。壁にあの光弾が直撃する音。まるで文化祭の最終日に花火でもあがっていて、その喧騒が嫌で……まるで隠れるように裏手に走ってきたような。
「――……――……――……」
ぜえぜえと息を吐きながら――走ってきた時永はふっと気付いた。
廊下、職員室方向と図書室、教室棟、昇降口を結ぶ十字路の真ん中。「それ」は擦り切れたぼろきれのように横たわっている。
「……どっち、行った?」
とにかく平静を装って、そう言葉をかける。
ショッキングな絵面ではあるが、それに反応してはいけない。
抗え。心を動かされるな。
……この世界の人間を張りぼてだと思え。
だってここの人たちは――ミコトが眠っているのが前提で、生きていられるのだから!
早鐘を打つ。胸が鳴る。……同情しない。慌てない。
この世界の人々は、ミコトが起きればいなくなる。霧が晴れるように、雪がとけるように。
ミコトが想像で創った世界なんてそんなものだ。夢の中の事象。そんなところに気持ちを残して何になるというのか。
「……橘さん、橘さん。まだ喋れるかい?」
少し遅れて届くミコトの主観的な記憶から、彼女がミコトを庇って負傷したのは分かっていた。
……2度目だ。彼女が盾にされるのは。
ああ、それに対しては感謝しよう。この世界の住人にしてはとても珍しいことに、彼女はクロノスの指示に歯向かってくれた。本来なら、抗うことも難しいはずなのに。
時永は転がるそれを、できるだけ無感情に覗き込んだ。
ぼろきれとしか見えない何かではあったが、「それ」は僅かに息をしていた。
……ぴくりと動く。
大量の人間やゴーレムに踏み潰された彼女は問いに答えるように、ふるえた血だらけの手を伸ばした。
その手には皮膚片がはりついていたし、髪の毛のようなものも見える。
――つかんだりひっかいたりして、妨害していたのか。自分が正面から押し倒された後も。
頷き、しゃがみこむ。……この状態で片腕を伸ばしているのはきっときつい。
せめて、と時永はまっすぐ伸ばされた手を戻そうと手首をつかんだ。
……“待って”
口が動いたのに気付き、そちらを見る。
“――――そのままに、しておいて”
きっとこの状態で、まともに声になんてなるわけもない。だが不思議と、ハッキリ「言っていること」が分かった。
――ああ、そうか。
この子、本来ならミコトの担任の先生だものな。
「……わかった」
ゆっくりと手を放す。そう――時永自身と並んで、ミコトと一番繋がりの深い「この世界の人間」。
作り物、はりぼて。
そりゃあ、見えない糸も繋がるはずだ。
言葉も分かる。
本物の「橘先生」は、ミコトにとって「学校」の象徴だった。
イツキやイヌカイと過ごす家の中とは違う、また別にあったもう一つの日常。
そこにいつでも、明るい音、優しい色を重ねていたのが彼女だ。
ミコトがイツキやイヌカイに懐きながら。唯一の肉親から得られなかった愛情を彼らに肩代わりさせながら、すくすくと育っていくその道程。
そんな状況で【苦手な父親】のいる学校に行くのを嫌がらなかったのは、彼女がいたからだろうなと想像はつく。
イヌカイにとって「捨てていった過去の象徴」が佐田であるように。
イツキにとって、「幼い頃の思い出の象徴」が谷川であるように。
彼女もミコトの記憶から生まれた、「意思を持つはりぼて」。
時永はふと彼女の逆側の手を見た。
……右手側。ちいさな紙切れとペンが手の先に転がっていた。思い入れのあるものかもしれない。それをしっかりと胸の上で握らせて、立ち上がる。
“……ねえ、先生”
生徒の頃の感覚が強いのかもしれない。いつもと違う呼び方をされた気をして。
「――――何だい」
ひたすらに色ののらない返事をした。
橘の口が動く。
ふふっ、と勝ち誇ったように。
“……絶対、今の方が”
ハッとしてぼろきれを見た。
その――「橘さん」を見た。
彼女はそう。いまさら笑いかけた。
終生の敵に。どうにも好きになれなかった、人気者の先生に。
“大人として、断ッ然、かっこいいと思います!”
ぼろぼろに、笑いながらいう。音としては聞こえなかったそれ。
ただ、感じた意味はある。
……以前、言われた一言をふっと思い出した。
――「なんか見てて微笑ましくなるじゃないですか。ミコトちゃんもいい子だし、時永先生は一生懸命仕事して、家でも手を抜かずに一人で子育てしてるし。残暑もまだまだな季節に鍋焼きうどん作っちゃうけど!」
……。
……。
……この、子は。
「……」
“時永先生?”
「……なんでもないよ」
少し笑い――時永はその子が「この世界の自分」でなく「以前の自分」を覚えていたことにようやく気付きながら、立ち上がる。
……脳裏によぎる、ミコトの記憶。
――『橘先生、私のことを最初から下の名前で呼びますよね?』
――『ん? ああ、そうだっけ?』
現実。つまり本物の彼女は以前……まだ【以前の時永】が生きてその辺を闊歩していた頃に、今の十字路でカラッと笑って答えたことがある。
――『だって、あまりに名字と印象違うから。あの人、カッコつけてるだけでカッコよくないじゃん?』
初めてその記憶を閲覧したとき、思わず噴き出したのを覚えている。
――ああ、よく見てるなあ!
当のミコトも目を丸くした後、怒るでもなく、困るでもなく。
そう、少し声をあげて笑って。
――『そんなこと言う人、初めて見ました』
――『ああー、前も言われたわー』
ニヤニヤしながらその橘は、とても聞き覚えのある口真似をして。
――『当時のバスケ部の先生にね。「お前、女子の中で絶滅危惧種だぞー?」……』
……あのときは、感心した。
だって彼女、少し気付いていた節がある。
「あの時永先生」が、満足に子育てできるわけがない。
むしろ遠ざけているのではないか、傷付けているのではないか。
そのくせ。
――『……それで」
記憶の視点が切り替わる。今度はミコト目線ではなく、クロノスの記憶だ。
先程の続き。そう、そのくせ――「それ」をずっと見ているのではないか?
【本物の橘】はその後、ミコトを先に行かせた次に、スッと【時永】の視線を遮るようにこちらを見た。
――「立ち聞きなんて感心しませんよ、時永先生」
怒っているわけではない。ただ、抑えたテンションでとんでくる橘の注意。その視点に立っている【時永】の喉が震える。
――「なんのことかな? 偶然ですよ、橘先生」
――偶然なわけがあるものか。
『この世界の時永』は息を吐く。
傍目から見ていれば分かる。嫌というほどだ。
あれは、自分から見に行っている。
【橘】はじっと【時永】の顔を見つめた。
値踏みするように――それから、ミコトの代わりに不満をぶつけるように。
――「だって彼女……あなたに気付いてるから、満足に父親の悪口も言えないんですよ?」
あの子の生活。行動。仕草。性格。性質。
それらを一挙一動、注意深く。
そのくせ粘着質というより、いやに空虚な様子で遠くから見ているのが【この視点】だった。
クロノスに創られた、もう一人の【時永 誠】。
人の好意を読み取れない。
……愛情を、親愛を、空白としか読み解けない、悪の権化。外道の象徴。
ミコトの「小学校時代の学校行事」には参加しなかったくせに。
聖山学園に上がって、中等部のそれにもだ。
けれど、廊下ですれ違った際……その背中を少し見て、暫く目で追いかけた。足も動いた。
距離をとって、「話しかけるな」という顔だけして。
まるで監視するかのように、かといえばどこか不安がるように。
そうして時折、不思議そうに首を傾げていた気色の悪い眼鏡の男がこのカメラワークの主だ。
時永はふと思う。
――あの生き物に、ミコトの気持ちが理解できるわけもない。
ミコトはとにかく、とても献身的だった。
学校だろうと家だろうと、父親が『うっとおしいから話しかけるな』といえば話しかけなかった。『まとわりつくな』といえばそれをやめた。
ひとつひとつ手を離していくように、彼女は父親に構うのをやめたのだけど……それでも目が合う瞬間だけは、いつでも表情を変えた。
ハッとして。
それから、なんとなく安心した表情をして。
橘の言葉は間違いでもある。
――あの子の中に、「父親への悪口」という概念はない。
少なくとも当時はなかった。グレイブフィールに追いかけられつつ、ミコトがイヌカイの悪口に同意したあの日までは。
――『……イヌカイさんの言う通り、「クソ眼鏡」だと思ってるよ、今は!』
あの言葉には焦燥がのっていた。
僅かな葛藤。息苦しさ。ショックと捻くれと、憤り。
そういう不満はずっとあったはずなのに、あの子は自分を直視しなかった。
この世界における、人の死と同じだ。……見なければ無いものと同じ。
不満や悲しみがあっても、それを面と向かって言わない。
大人しくて、恥ずかしがり屋で――とても、引っ込み思案な女の子。
そんな性格になったのは「彼に見られている」から。
話しかけられることはなくても。逆に、こちらから話しかけることはほとんどなくても。そうやって見られていることに「ちょっとは愛情を向けてくれているのではないか」と期待するからだった。
希望を持っていた。
儚い、それでも力強く、はてのない希望を。
目があった瞬間の、明らかにホッとした表情。
その意味が、彼にはよく分からなかったらしい。
同時に――分からないのに、あの【時永】は目で追い続けたのだ。
その、ぽっかりと人の形にあいた空白を。
見知った暗闇にポッカリ開いた、真っ白な人の形を。
彼女のその表情は、きっと愛情と憧れがないまぜになったものだ。嫌われたくない。好かれたい。振り向いてほしい。それは、彼が求めてやまないくせに、感じ取れない【好意】の証。
――「大っ、好きっ、ですっ!」
この世界に来て、ある程度すぐ。
学校帰りの彼女は思い切って、こちらに向かって大きな声で口を開いた。
……恥ずかしげに、けれど、とても元気な声で。
「一度言ってみたかった」と彼女は言った。
「大好き」だとも「大嫌い」だとも長らく言えなかった、答えを出せなかったそれに。
あのとき、ようやくミコトの真意に気付いた。
……この世界に来て、「何も知らない一般人」になったミコトが言ったあの言葉は、多分日記を見たのが根底にあったからだ。
かつて日記にあった、自分の父親のそれに共感した。それを大事に持って、盗んで、自分の夢にしてしまった。
――「僕の夢は、血の繋がった誰かに、好きだと言ってもらうことだったんだ」
ただ。……きっと多分。
ミコトにとっては、それ以上に。
……彼女が、言いたかったからだ。
「あの子が僕を――」
『この世界の時永』は呟く。
橘が指した階段を一歩一歩、疲れ切った足で登り始めながら。
「かつて、苦手だった僕を。『好き』になりたかったからだ……」
それが、あのミコトがここに閉じこもってまで見たかった夢だったのだとしたら。
「……だから、僕は」
責任をとらなければ。
安寧をくれた、夢を叶えた――その心を、恩を返すために。
息を切らして足をひらく。
踏み込み、加速する。
――ああ、なるほど。
時永は今更、ようやく悟る。
――たぶん、ミコトじゃない。
あの「橘先生」を創ったのは、僕だ。
「……ははっ、まさか」
――きっとミコト以上に、僕の思い入れだ。
あの【時永 誠】にたてついた一般人。
彼に幾度も苦言を呈した。何度もミコトのために噛みついたのに、時永邸にも呼ばれなかった、なんの事件にも巻き込まれなかった、ただの人間。
――だってそうだろう。あの学校にいた橘さんは、ミコトに親切だった。
教育者としてとてもまっすぐで、純粋だった。
ミコトが大きくなれたのは彼女のおかげだ。
家にいた「イヌカイさん」とならんで、きっと僕の憧れだった!
目が、迷う。――遥か後方に遠ざかる、ぼろきれじみたそれ。
けれどやめる。振り向けなかったし、振り向きたくもない。
だってなんだか。彼女のいだいてくれた幻想をこれ以上壊したくなくて。
「……」
――ねえ橘先生。こんなヤツが、カッコいいわけないじゃないか?
最後の最後にそういってしまえばよかったのだけれど。
結局、あと一歩で涙が出てしまいそうで。
どうしようもなくて。
「……はは。ダメだな、僕は。泣いてばかりだ」




