1.その世界、さいごの朝
つめたい朝の空気。
澄んだ山の稜線に、人っ子一人いない校舎と、自分の足音。
……鳥の声すら聞こえない、不気味な静けさ。
――コンコンコン。
「……失礼します」
「いらっしゃい。どうしたの植苗くん。忘れ物?」
イツキが職員室の戸を叩いて挨拶すれば、中にいたのは橘だった。
どうも15分前までバスケ部が体育館を使っていたらしいのは、表の黒板に書いてあったので分かる。冬休み真っ只中とはいえ、バスケ部は元気に活動しているようだ。
いかにも重そうなケトルがストーブにのっているのを見るに、もしかしたらちょっとしたコーヒーブレイクのつもりだったのかもしれない。
「……あの、忘れ物じゃなくて、家が変わったんで住所の変更を」
「だあああクソさっびぃ!! 何だこりゃ、休みなのにきて損した!」
背後から歯をガタガタ鳴らしたイヌカイがぬっと顔を出す。橘は苦笑いした。
「なんかあったの?」
「急な親の転勤で。でもオレはこっちに残るから、近いじいちゃんの家に」
「なるほど。今の時期に大変だね。引っ越しかあ……ちょっとまって」
ストーブをずらし、橘が誕生日席の書類の山をどかした。
「おい、なに探してんだ」
「教頭先生のハンコ」
「いいの、勝手に使って?」
呆れたようにイツキは丁寧語を外した。
「いいよいいよ、休み明けに言っとくから。……よしきた」
トン、と引き出しを閉めた音。
重苦しい、割と大きめのスタンプが手に握られているのを見ながらイヌカイが言う。
「わりぃな。俺はさすがにそういう事務処理はできねえだろうから」
「……特別科ってそういうとこ、違うんだ」
「『教師』じゃなくて、『講師』って呼び分けをするからね、校内でも。……同じ教員ではあるんだけど、枠が違うんだよ」
橘がゴソゴソと手続きの書類を机に出す。
「……橘、今説話の担当だけど、最初雇われたのは国語の枠だっていうしな」
「ですです。だからたぶんこういうのも、ギリギリセーフかと。というか犬飼先生、植苗くんちの転勤とか、もしかして早めに知ってたんです?」
はいこれ書いて、とイツキにペンが差し出される。……見覚えのある、マスコットつきのペンだ。
「まあそりゃ、学外でもよくつるむからな。今日連れてきたのもついでだ。この後だって色々あるさ。な?」
「えっ? ……ああ、うん、まあ」
「えー! いいなあー、やっぱ私も仲間に入れてもらえばよかった。楽しそうじゃないです?」
橘の言葉に、イツキとイヌカイはふっと顔を見合わせた。
加害者と被害者が仲良く漫才してる不思議な集まりだなんて言えるはずもなければ、学校帰りに鉱石でできた無機質モンスターと鬼ごっこするのが日常の光景だなんて、ライトノベルの読みすぎなことを言えるわけがない。
「……おいおい、俺らの集まりっていいトコあれよ? 野郎どもの愚痴吐き場だぞ」
「いいじゃないですか、野郎どもの愚痴吐き場」
橘のあっけらかんとした呟きに、イツキは苦笑いしながらペンを握る。
「それとも何、人に言えないことでも話してたんですかー?」
「そりゃあ愚痴っていったらアレだよ。大っぴらに話せるもんじゃねえだろ」
「そっか」
「大体ね橘? 時永先生と植苗と俺の珍獣謎トリオに挟まれて、お前、何喋んのよ?」
「うーん、世間話とか?」
「それどこでもできんだろ」
「はい」
イヌカイの呆れたような声を聞きながら、イツキは新住所を書きあげた。
「っていうか、珍獣は犬飼先生だけでしょ。犬飼先生だし、ワンコ」
「はー? 植苗も珍獣だろ。葉緑素入ってっけど。植苗クン」
「誰にも通じないこと言ってると、高枝鋏で切るよ。……耳の毛」
……橘はクスクス笑いながら、ゆっくりとハンコを押した。
「はい、おしまい。……気をつけて帰ってね、2人とも」
* * * *
「じゃあ、本返してくるね」
「ああ、行ってらっしゃい」
『12月30日』。ミコトの言った日付の表示されたカーナビの時計。
それを見つつ――時永はゆっくりと車のドアを閉めた。校門近くの駐車場でミコトと別れた時永は、つかつかと校舎の正面玄関に向かって歩き始める。
「……おい、何俺をダシに使ってんだ、同伴の理由」
「いいじゃないですか、ちょっとでも挽回したかったんです」
うっすら笑って時永が言い返した先には、スッとナチュラルに合流してきたイツキとイヌカイの姿があった。そしてしれっとイヌカイに渡される文庫本。
「はい読んでくださいオススメ本」
「えっ、挽回ってイヌカイの汚名を?」
「汚名は返上だ。名誉毀損で訴えるぞイツキ」
「……で、一応聞きますが状況は?」
ミコトのように図書室にしか用事がない場合――それから、今日のように上履きを手持ちで来ている場合は、生徒の使わない東側玄関を使った方が格段に早い。
対して時永が当初向かおうと考えていたのは職員室だ。もっとも、目当てにしていたのはイツキたちだったので結局、手間が省けた形だが。
「あー……とりあえずイツキのアレ、休み明けでもよかったはずなんだが、ご丁寧にも今さっき提出したしな。ついでに校舎をぐるっと見てみたが、今のところ何もない」
「本当に今日、何かが動くんですか。時永先生?」
イツキはため息混じりにいう。
……クロノスは今までがそもそも、ほぼノータッチだ。
谷川や佐田をけしかけたり、ミコトを谷川に攫わせたりはあったが、当人が出てきたことは一度もない。
「ああ……勿論、今まで同様当人が出てくるとは限らないんだけど。明らかにミコトが外出するように仕向けられてただろう?」
「俺らは逆に遠ざけられそうになってるしな。これで何もないってのは逆におかしいさ。……んで、分かるかイツキ? 音だけで、校内の様子」
時永より先に学校にきたイツキとイヌカイ。
それもただ校内をうろついていたわけではない。
イツキは頷き、本来ならつるに変化するはずの「左腕」――正確には、左手の小指を指した。
――モヤシだ。
正確には『モヤシの先っちょ』のヒゲ――それほど細い繊維が地面に向かって伸びている。
「つるの形状が変えられるらしいっていうから、試しに目立たない見た目でどんだけ伸びるかやってみろっつったらコレよ」
「……ここまでくると根っこですね、もはや」
時永は苦笑いしながら玄関口に侵入した繊維質なそれを指でいじった。……か細い割に、しっかりとコンクリートと木口に張り付いている。
「……それで、ミコトがいるのは今、たぶん校舎の地下一階」
右手で頭を軽く抑えながらイツキは呟く。この見た目で以前のつる同様――聴覚もちゃんとつながっているようだ。これが校内ほぼ全域をびっしり這っているというんだから、イツキの索敵能力もバカにならない。
「……さすがにうるさいし、どこでどの音が鳴ってるんだか分からなくなりそうだから、今後ちょっとずつポイント絞るけどさ……うん、ミコト今、ちゃんと図書室に入ったよ」
「よし」
さすがに時永邸で、かなり長いこと足に根を生やしていただけはある。
走ってくる足音のみでミコトの挙動を察知したり、遠いミコトの喋り声に反応できるのはお手のものだ。まあ、そういうのは分かっていたのだが。
「……」
「イツキどうした?」
……さすがにミコトの呼吸音を聴いただけで「あ、ミコトだ」と判断できたのは、イツキ当人も自分にドン引きである。
「あ……でも図書室で待たせるとか、時永先生考えましたね。思ってたより人が多いような」
「ミコトの性格上、そこが一番待ちやすいだろうしね」
時永は苦笑いした。そこらへんは同類なのでよく分かる。
「あと冬休みも図書室ならだいたい開いてるし、そこで静かに自習する人もいるからね。いざとなればミコトを守ってくれると思いたい」
「問題は自習室に集まるようなガリ勉受験生に、クロノスの息がかかるか否かだな。佐田とかみたいに」
「それがあり得なくもないのが悩みどころなんですよね。かといって僕らと一緒に行動させると、この間のようなことに」
イヌカイは苦笑した。
「ああ、【暗黒クソ眼鏡】になりきって、ミコトの精神をクラッシュさせる羽目になると」
「まあ【暗黒クソ眼鏡】で叱りつけるのも、結局いつまで出来るか分からないんですが……ともかく助かった。植苗くんがミコトの状態を分かってるなら安心だ」
「いや、全部分かるわけじゃないと思うので、そこは任せっきりにしないでほしいんですけど」
ため息をついたイツキは言う。
「音だけですよ?」
「音のエキスパートだろ、二人とも?」
だってイツキは、つるの先で音を拾う。
イヌカイはイヌカイで、人より聞こえる範囲が広い。
「……ンッだよ、他と聞こえ方が違うだけだっつーの」
イヌカイは複雑げに耳をほじる。――そりゃあ犬笛が聞こえるくらいだから相当特殊な聞こえ方なのだが。
「ともかくこれでミコトの行動がモニターできる。心強いよ。僕は何もできないから」
「…………」
それは違うでしょ。――そう言いたげに、イツキはちらりと時永をみた。
ミコトの記憶なり、クロノスの記憶なりをワンテンポ遅れるとはいえ……直感的に把握できるのは時永だけだ。
「まあ何にせよ、『色々できるひと』の方が頼もしいさ。もしかしたらこれが、この世界における最後の戦いになるかもしれないしね」
「あー、そうしたら、だ」
イヌカイはふと、常々思っていたことを思い出した。
「時永先生……あんた」
――ピューン!!
「!」
イヌカイは慌てて思考を打ち切る。
……ゴーレムの鳴き声だ!
「始まったか!?」
慌てて3人で身を縮める。軽く屈んだイヌカイは咄嗟にガッと時永の首を掴んで脇に締めた。
「痛いです」
「あ、すまん」
「わお、ゴリラが眼鏡を捕獲してる」
「色々うるせえ」
――仕方ねえだろうが、一番こん中で肉壁になり得るの俺なんだから!
顎の下にしれっとかがみ込んでいるイツキに遠慮して横に立つにとどめたらしい時永。それを無理やり体の下に押し込みつつ――イヌカイは恐る恐る辺りを見回した。
「おい……」
「何?」
「こいつら、複数いねぇか?」
地響き。音。鳴き声。
――それが、多方面から圧し潰すように増えてきている。
「……おいイツキ!」
「ミコトの反応、なし!」
「じゃ、クロノス側ってか!?」
時永は頷く。
そう、以前も話題に出たが――この世界のゴーレムは、異物を排除する白血球だ。この世界が、ミコトとクロノスの共同運営で成り立っているならば、当然『ミコト由来のもの』と『クロノス由来のもの』がある。
「……クロノスが誰かに話しかけている記憶が流入しています。恐らく……谷川さんたちだ」
「さばけそうか?」
「……わかりません」
……どんどん、その数は目の前で増えていた。
* * * *
「ほほう。そろそろ、追いかけっこがスタートする頃か」
神界。どこかの古代遺跡。日が薄く差し込む廃墟にて――クロノスは玉座に胡坐を書いて、悠々とビジョンを見ていた。
――「うっわ」――
「ハ、何かな、メティス」
――「何このエネミーの大群……? 今回まったく容赦ないわね」――
「当然であろう?」
遠くから響いて聞こえる女性の声、メティスにクロノスはからからと笑いながら言う。
「勿論、あれだけ骨のある雑魚なのだからなあ!」
肉食獣の舌なめずりだ。――そう、メティスはふと思った。
下等生物を追い詰めたライオン。もしくはネズミを視野に捉えた鷹の目にも似た、その喜びと蔑み。
「今まで散々遊ばせてきたが、さすがに我も手の上で遊ぶ虫には飽きてきた。やはりこれだよ。じわじわと余裕をなくして、真綿で絞め殺す」
メティスは通信の向こうで頷いた。クロノスの考えそうなことは大体分かっている。――要するに、自らの地位の正当化と安定化だ。この神は全知全能のふりをしているが、そもそもコンプレックスがある。
彼は自らの力が強大すぎる故に、コントロールができていない。
怒ればその念のみで人を殺す、獣も殺す、物も壊す。ひとたび大勢の前に姿を現せば人間社会も。それから人と人とのつながりも。
彼に殺せないものは自分自身だけ。
逆らうものは皆、消えていく。
――彼のリムトーキとかろうじて拮抗する、メティス以外は。
「……幾度も手を抜いては、そのレベルを学習させる。それが人間での遊び方だ」
……彼はただ、自らを正当化したいだけだ。理解者のいない現状、心の隙間であったり寂しさであったり。そういうものから目を背けているに過ぎない。
彼とて心がないわけではない。メティスと暮らしていたころだって、住処に迷い込んだ獣を「かわいい」と愛でたこともあれば、切り取られた狭い空から、ふらふらと落ちてきた蝶を世話したこともあった。
幼い頃から考えることは、きっとごまんとあっただろう。自らの激情を、どうすればいいかと悩むこともあっただろう。
けれどやっぱり彼の心は生きている。生きている限り、物を壊し続ける。生き物を壊し、町を破壊し、生ける【災害】であり続ける。
「『さすがにここまではやらなかろう』、その予想を立てさせ、その少し上を行く。その過程で勇者はいつでも死んでいく。それはそうだ。我に逆らうものはいつか死ぬ。それが道理だと分からぬものを見るのは、楽しい」
……相手が弱いから悪いのだ。自分が強いから正しいのだ。
そう捉えることで、どうにか精神を安定させている。
メティスは大きく息を吐く。
――その『楽しい』は、ホッとする、の間違いなのでは?
「いやはやまったく」
クロノスは椅子からポンと足を投げ出した。
「何度も何度もミコト嬢を目覚めさせようとしてくれたが、やはりあの子は空想の世界がお好きらしい。我も目覚めるとはまったく思わずにいたよ」
しかしだね、とクロノスは笑みを消した。
「我にとっても予想外の事態が起こった。……彼女は目覚めようとしてしまった。それもあの3人の手によってではなく、我も勢力下にあったと軽ぅーく信じ込んでしまっていた、【身内】の手によって」
――「そうね」――
メティスは言う。
――「あれは、恐らくミコト当人にとっても予想外だったんだと思うわ」――
クロノスの放ったゴーレムと、佐田。
イヌカイ、イツキ、時永の3人。それが危険を冒して戦う場面を、ミコトはその目で見てしまった。
……彼女はその時、何を思ったのだろう。何を感じたのだろう。
……そして彼女に声をかけたあの谷川の狙いは、おそらく……。
「まぁ、それももうここまでだ、どうせもう用済みに過ぎん……その真似ができるかはともかく、それを管理するメカニズムはもう、よく分かった」
彼は、上機嫌で指を鳴らした。
――「! まさか」――
メティスの声が凍るように冷たい声を発した。
「わかるだろう? 誰が用済みか」
クロノスはふぅ、と息をついて答えた。
「……世界はほぼ完成をした。存在を固定され、ホンモノの地球や神界とほぼ代わりのないぐらいにまで発展している。……さて、我とミコト嬢は今、魂同士でコネクトされている状態だ。この状態でもし、創造主たるミコトが“雲隠れ”でもすることがあればの話……」
クロノスはククッと満足げに喉を鳴らす。
「その時は自動的に、管理権限は我に移る」
一言で笑い声というには、些か深い――しかし軽い、禍々しい。
心の奥底からの音。
「ああ、つまりだ……今の状況下で創造主を消せば。後は我に、『その力』が流れ込むのみとなるのだよ!」
――「はあ」――
メティスは呆れたように息を吐き、暫く思索に耽った後……
――「なるほどね?」――
そっと呟いた。
* * * *
――ガタリ。
図書室内。なんだか硬質な音がして……ミコトはふと顔を上げる。
視線を感じたせいだ。
「! ひっ」
ミコトは異様な空気に凍り付く。自分以外の生徒が、教師が……まるで能面のように無表情のままこちらを一斉に向いたのだ。
「な、何……?」
やたらに気味が悪い。今まで何事も無く普通に、仕事を、勉強を、読書をしていた人たちが動きを止めて、こちらを見ている。
「……――」
不意に、“ガタッ”と1人の生徒が席を立った。『ハーフアップの髪型をした女子生徒』だった。
それを合図にするように……
――ガタ ガタ ガタ。
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ!!
……その“人達”は、一斉に動き始めた。
ミコトをみつめる視線。
目。目、目――無の感情。穴があくような、視線。
「う」
――射殺すような、まっくろな、瞳。
「う、うわああああああっ!?」
椅子が転がる。思わず足で蹴って逃げだした。全員が全員、自分を標的にしているのを感じる。
「マテ」
「アハ、マテマテ」
無機質な声がする。後ろから複数の足音がし、こちらへ向かって追いかけてきているのをただ感じた。
「アハアハアハハハハハ」
「コイ」
「コイコイ」
「コツチヘコイ」
「コイコココこここここあはあはあははははhahidvoevooooo」
バグったような音声。
聞こえる足音は、ホラー映画を思い起こさせた。
「怖いよ……!」
助けて、誰か助けて。
得体の知れない恐怖に怯えながら、わけもわからずひた走る。
「っ……」
階段で逃げようとすると、階段の向こう……水泳部の入っているはずの地下プールから、同じような無表情の大群が集まってきていた。
「!」
慌てて踵を返すが、もとの廊下にはもう図書室の人たちが詰め掛けているはずで……
ミコトは恐ろしくなり、とにかく必死になって階段を駆け上がった。振り返る余裕はない。行くあてもなければ、頼れる誰かも。
「……こういう、とき」
いない。
「……誰の名前を、呼んだら……?」
……遠くで何かが、手を握ったような気がした。
見たこともないはずの化け物を前に。
湿気た匂いと、空の星の下で。
――「…… 、 」
ああ、知っている。
いないのだ。この世界では。
……あぶくのように消える【空白】の向こうにしか、誰も。