10.仮定の家庭事情・後
* * * *
「は? ――何、転校届?」
オレが佐田さんからもらって帰ってきた、【キャラ名つきのサイン色紙】を得意げにブンブンしている妹をよそに、携帯電話を左手に持ち替える。
『……イツキ、もしかして聞いてないのか?』
「かあさん、ビダクオンのナシ男のサインー! かざっていい!? かざっていいー!?」
電話の向こうでは食器の音。
困惑気味のそれはラーメン屋の方の祖父だ。
「今帰ってきたとこだし、聞いてない。何」
――ぱさっ。
「コラ」
上着をソファに放り投げた瞬間、後ろから母さんの小言が挟まった。
けれど。
『……椿と梢さんで二人揃って急な転勤が決まったそうだ』
「え」
電話口から聞こえた父さんと母さんの名前。思わずピタッとオレは静止した。
頭によぎる、『ミコトちゃんをこの世界から切り離す』というユキ姉ちゃんの言葉。ミコトどころの騒ぎではない。これ、たぶん……オレが切り離されそうになってる。ミコトのいる聖山学園から。もっというと、イヌカイと時永先生から。
『「どっちもそんな離れてないし、ちょうどいいや全員で九州行きだー!」と大喜びでな……。あずさはともかく、イツキはどうするんだって言おうとしたら電話が切れて』
……オレは思わず天を仰いだ後、リビングに貼ってある妹用の社会科日本地図を凝視した。いや九州のどこ? ちょっと待ってオレの転校届とか言ってることは、連れてかれるの前提?
「ほっほおー……? まあ。単身赴任よりは楽だよなあー」
すぐ横で聞き耳を立てていたらしい松じいちゃんが、母さんに視線を向けた。
「でっしょー? だったら思い切って全員で東京飛び出すのもいいと思っ」
「た・だ・あ……」
ニヤッと口角が上がる。
「――高校3年生で、微ッ妙な時期の長男坊を忘れてもらっちゃあ困るなあ?」
「え? ……あ」
待って。――オレは思わず、他人事みたいに噴き出した。
今『あ』って言ったよね。絶対オレのこと忘れてたよね。――オレ高校生最後の冬なんだけど。大学受験がすぐ後ろに控えちゃってんだけど。設定的に。
「ん、ははは? ……や、やーだぁ、私がイツキの大学選び忘れてはしゃぐとかありえッ」
「座れ!! 正座!!」
ピシャリと雷が落ちたようだった。
思わず棒読みで「わあ」という言葉が出る。ガチで怒られる親を見るのは、何気に小学生ぶりだ。
というか……
「――ぷしゅ」
「おい誰だ今ふきだしたの」
苦笑いしつつ、オレは目を逸らす。
まさかここでこのデカブツ松じいちゃんが味方になるとは思わなかった。
「ああああもう! ……だいたいよお、忘れたのお前!?」
ふきだしたオレをよそに、大音量で母さんに詰め寄る松じいちゃん。
「あいつ高3よ!? お前だって短大いくのにどんだけ気をもんで――ッ」
ともかく懇々とした説教が響く最中……オレはガラケー片手に遠い目をしたまま、日本地図のでっかく貼ってある壁の後ろを見た。
バスルームにつながる廊下側。そう。
……顔半分だけ壁の後ろから見えている、逃げ腰の。
「えー、イツキ……風呂から出たら地獄絵図だったんだけど、どういう状況?」
「……父さん、きっと地獄絵図のパート2なんだけど」
父親に向かって、オレは自分の携帯電話を指差した。
「世界一美味しいラーメン店からの中継、繋ごうか?」
『……大至急繋げイツキ。今、延し棒を持ってばあちゃんが来た』
『ウフフ。これではんごろしにしまぁす……!』
電話越しに『殺意マシマシ・バリカタ鈍器』をくるくる振った最強父方ばあちゃんが笑ってる様を思い浮かべてほしい。えらくいたたまれない。そう思いながら電話を手渡せば。
「あ、ハイごめんなさい断れなかったんです!! あと部長の持ってた紫芋ソフトに釣られたんですごめんなさ――」
「父さん今、紫芋ソフトって言った!?」
何のスイーツで買収されてるの、このすっとぼけた大黒柱!? ――そんなことを思っていると今度は妹から服の裾がひっぱられる。
「にいちゃんにいちゃんサイン貼って、壁!」
「か、壁直貼りはやめとこうか!」
「はやく!」
トンデモカオスな絵面だ。
今まさにこの家、混沌の神が降臨してる。
「――だいたい春ならまだいいさぁ!」
画鋲をもったあずさを羽交い絞めにしていれば、松じいちゃんが呆れた声で食卓を叩く。
「夏でも間に合う。秋ならギリまあ……冬はアウトだってのよ。っつーかあいつもあんな中学生みたいなナリだが18だぞ!」
「……ナリは余計だよ」
「余計で結構だッ! だいたいイツキよぉ、おめえだって行きたい志望校とかこっちにあんだろーよ、はっきり言っとけ今のうちに!」
「まあ」
松じいちゃんの問いかけに、オレは頷いた。
「……えっと、まあ」
志望校、あったのは13年前なんだけども。ほら、父方ラーメン店近くの星移大とか、お手軽だし。
そう思いながらふと壁掛けのカレンダーを見る。
12月30日――『お引越し』と書かれたフェルトペンのクセ字。
その下に吊り下げられた「これからやることリスト」。
あずさに関わる要件を示すオレンジ色はそこに置いてあっても、兄のオレを示す水色がついた要件はほとんどない。
たぶん本気で忘れていたんだろう。
それはそれで構わない。
そう思うことに自分自身、驚いた。
……前ならどうしてたっけ。
文句の一つでも言っていた?
オレはふと妹を見た。……この家でいちばん手がかかる末っ子。どこか抜けてるし、マイペースだし、子供らしく落ち着きはない。
当然いつだって、この家の主役はこの子だ。
「だいたいお前らなあ! ――イツキが太陽みたいな存在だからって、甘えてんじゃねえぞ!」
そんなとき耳に、ぎゃんぎゃんうるさい松じいちゃんの言葉が飛び込んできた。
「お日様だって、当たり前に最初からそこにあるんじゃねえんだわ!」
そこにあるのが当然の、お日様。
――「イツキって名前はなあ」
遠い昔、どこかで聞いたオレの名前の由来。
――太陽に向かって、光に向かってすくすく育つ。
真っ直ぐ、迷わず、伸び伸びと。
「……。そっか」
ハッとしてやることリストを改めて見返す。
今度は丸の色でなく、中身。
『住む街を絞り込む』『不動産屋の予約』『お世話になった人に挨拶』『仕事の引き継ぎ』『転入学通知書、転出届等の手続き(郵送)』――締切日はカレンダーの印と同じ。
「……にいちゃん?」
どうしたの? ――そう下から覗き込まれながら、吊り下げられていたペンをとる。
「いや。オレの『やること』、書いてないなって」
……オレにとって、『お日様』だったのは誰だった?
この家庭に、家に――はじめての子供として生まれてから、育ってきてから。
オレにとって太陽みたいな存在だったのは、たとえばあのとき出会った幼いミコトだったし。
それからずっと前に世話していた妹だったし。
じいちゃんズだったし、ばあちゃんだったし。母さん父さんだったに違いない。
でもそう――きっとさ。
逆でもあったんだなって、今更思ったよ。
「……にいちゃん、もしかしてだけど」
目の前のあずさが、身をよじって振り返る。
――『長男の行き先を決めること』『住所変更の手続き』『さよならすること』。
「……九州、いっしょに行かないの?」
もちろん。
オレは頷いた。
「……行かないね」
「どうして?」
――『やることリスト』のおしまいに、水色のマーカーで丸印。
今気づいた。
家族の皆が、一瞬でもオレの時期を。
学年を、存在を――頭からすっぽりと忘れてしまったわけを。
この世界は人の理想に影響される。
ここにいる本物の【植苗イツキ】の心の中が可視化される。
――だと、するのなら。
オレは、あずさのほっぺたを少し撫でた。
「……だって、もう、お別れできるだろ?」
ようやく思い出した。
ドリュアスになった一番最初。「オレがいなくなったらどう思うか?」――妹は、母さんは、父さんは、とさんざん思いを巡らせた。
あれはそう。単純に、頭がついていかなかったからだ。
「……おわかれ?」
「うん、そう、お別れ」
聖山学園を卒業できなかったのと同じだ。
オレはあの人たちの子供を卒業できないまま、ここまでやってきた。
ひとり立ちの儀式をしていなかったんだ。
18歳から先に、進めなかった。
時永邸ではいつも、必ず、心のどこかが死んでいた。
オレの居場所はここじゃない。なのに朧げになっていくものがあった。
……忘れていく。
ほんの数年前のことだとか。妹の好きなものだとか。
本当は正直、今でもミコトの世界のこれが正しいのかすらわからない。家の壁はどんな色で。自転車で駅まで行くのはどんなルートで。
最初はそれに気づいて悲鳴を上げた。
たすけてほしいと思った。
……イヌカイに以前、言ったとおり。
18歳に対して13年なんて、地獄みたいな長さだった。
夜毎に一人でグルグル考えて、それでも色々消えてって。
今は違う。助けなんか来なくていい。
ひとりでだっていきていける。
オレはちゃんと今、ここで、「お別れ」ができたんだ。今になってようやく、準備が整った。
あの日に置いてきた、暖かい陽だまり。
唯一の心残りだった、硬い結び目みたいだったそれ。
――ひとりにしないで。
忘れられたくない、忘れたくない。
オレが、『このひとたち』の一員だったことを。
「……んーと、わたしね、にいちゃん」
「うん?」
「さよならしても、さみしくないよ?」
「……そっか。本当に?」
それが――きっと、ここにいて。
ミコトがつくってくれた、ニセモノの太陽光の中で……ちょっとずつ、ほどけていったんだ。
「あのね」
それはオレの心の代弁だろう。
あれだけオレにべったりだったあずさは、こっそりと内緒話をするように、ちいさなくちびるに指をつける。
「……どこかにいるなら、大丈夫だもん!」
* * * *
「……ん、着信がきてんな。イツキか……」
「元~、あがったのー?」
風呂上がり、『ミコトの時代』にそぐわない2016年製のそれを持った瞬間、壁向こうから聞こえる母親の声。……たぶんまた息子の私物を勝手に物色しているんだろう。いつものことだ。
「お袋も早く入れよ。まだ熱いから」
「そう? じゃあお言葉に甘えて……」
すれ違うように足音が遠ざかっていくのを感じ、こっそり携帯を開く。
――『ヤっバいんだけど! 転校しそうになった! 30日までしかいないんだって、うちの親!』
12月30日? あと1週間もない。ってか、ああ、大晦日の前日じゃねえの。
そりゃあヤバいな、と返信した瞬間、のぼせがちだった頭がクリアになる。――待て。思わず食卓側を見る。
そういやこっちもさっき、食卓に『旅行会社の名前』がついた封筒がなかったか。
――「……元は年末、どうするの?」
危うくスルーするところだった封筒をまじまじと見つめる。
母親の持ち物だと触らずにいたそれ。
……そういえば子供の頃。
誕生日、欲しいものがどうしても手に入らなくてもらえなかったとき、日帰りでこっそりと……母親にどこかへ連れて行ってもらった事がある。
その夜、何をもってバレたのか『お前、いつも特別扱いよね?』的に、じとっとした目で見てきた兄貴はさておこう。
それから以前も突然押しかけてきて、家に上げて、帰り際。
「春休みでしょ? つきあって!」と誘われた小旅行。
……その帰還翌日、突然行方知れずになったと思ったら、2週間後に南米でぼっちエンジョイしてるのが発見された兄貴もさておこう。大人げねえ。
「……まさかとは思うが」
恐る恐る手に取り、封筒を開く。
……2人分の紙切れがそこにあった。
海外行きの飛行機チケット。不意に閃く。
ああ、こりゃあれだ。『ここに犬飼元がいたら都合が悪い』からだ。――うん、誰の都合が?
「……あー、あーあーああー!」
――ズボッ!!
クソデカため息をついた俺は、つけっぱなしのこたつに頭からつっこんだ。
そして暫く考えてから――赤色灯の下でスマホの電話帳をひらく。嫌なんだけど。こいつと話すの、死ぬほど気まずいんだけど今。
「ッ、ハァあ――イ、もしもし兄貴! 俺俺俺! 突然だけどドバイに興味ありませんか! 今ならタダだよタダ! ……詐欺!? 否違う! 年末! ……そう、30日以降、数日空いてねえか!」
1秒、2秒――3秒、少しして。
電話の向こう、嫌そうな声がボソリと呟いた。
『……山田ちゃん、いきなり兄のスマホに海外経由の詐欺しかけてくるオレオレ詐欺ある?』
『無いと思います』
「あの、信用してくれません!?」
* * * *
『ヤっバいんだけど! 転校しそうになった! 30日までしかいないんだって、うちの親!』
『そりゃあヤバいな』
『ヤバいですね!』
ミコトを前にした僕は、机の下でしれっとフリック入力を繰り出した。
『――違う訂正、うちもだ。ストレス溜まった親に長期休暇だからって無断で飛行機取られてやんの、30日から! キャンセル代とか考えろや!』
「………」
スマホの画面を見ながら、痛む節々を堪えつつ――つらつらと考える。
全員見事に、【12月30日】に何かが突っ込まれそうになっている。
『これアレか!? 転校イツキ同様、間違えて行ったら最後戻って来れなくなるイベントか!?』
『イヌカイ、旅行先で刺し殺されるとか』
『俺刺し殺せると思う?』
『刃物が負けると思う』
ツイッ、と僕は指をすべらせた。
『腹筋の力で刃こぼれしますね☆』
『悪かったな物理無効で!』
ミコトがもそもそと形の悪いオムライスを食べつつ、こちらを見る。
「お父さんどうかした?」
「……いや、なんでもないよ」
「困った顔してる」
僕は苦笑いした。……困ったどころの話じゃないのが夏の終わりからの僕だ。「本当は食欲もないのだけれど」。そう思いながら僕は息を吐く。
日付の変更をまたぐ夕食。いや、もはや夜食か。
卵を入れるのすら億劫で、ただのケチャップライスになっているそれに手を伸ばした瞬間――ミコトのスプーンが視界にさっと滑り込んだ。
「! ぐぎゅ」
口に光速の勢いで突っ込まれた卵は牛乳を入れすぎたのか――それとも油が少なかったのか、ペッタンコのボロボロだった。
「とっ、突然どうしたの、卵好きだろ?」
「お、おお、お父さんの卵がない……!」
「僕は大丈夫だよ。そもそも苦手なんだ、こういう……その、綺麗につくるの」
まあそもそもちゃんとした料理全体、あまり自信がないのだが。
「……だって、不平等だもん。同じじゃないとやだ……」
「作ってる側がいいって言ったらいいんだ。だいたい同じだろう。……あー、そんなむくれないで、悪かったから」
「……」
ぷく、と膨らんでいるほっぺたを苦笑いしながらつつく。うん、お餅だコレ……。
「ええと。ミコト、30日だったよね、本の期限」
「うんー……」
「一緒に行こうか」
頬をまだ少し、ほんのちょっとだけ膨らませたままではあったが。
ようやくミコトがパッと目を輝かせた。
「……いいの? ついてきてくれる?」
「一人で行ってもつまらないだろ、冬休みだし。大丈夫。僕もちょっとした用事があるんだ。――ほら今日も会っただろ。心理学の犬飼先生。あの人普段アニメとか映画ばかりで、本を読まない人みたいでね。せっかくだし、何か貸そうと思って」
「うん……」
「それでミコト。君にしかできない重要ミッションなんだけど、どうかな?」
「――重要ミッション?」
キョトンとしたミコトに、僕はいう。
「……ほかならぬミコトに聞きたい。今週と先週、どんな面白い本を借りたか教えてくれる? この半年でもいい。なんなら今まで読んだものの中で一番好きだった本でもいい。……よく考えたら僕、『ミコトが好きそうなお話』をまだ、あまりよく知らないんだ」
僕の好きなものって、大概癖の強いものが多いだろう? ――そんなことを言ったら、ミコトは声をあげてふきだした。
「……自覚あったの?」
「あるさ。いや、何でも読むといえば読むけどね」
「だったら……」
軽やかに、饒舌に――好きな本の話を始める本好きの女の子。時折僕に立ち読みのできる公式URLを送りつけてきたり、あらすじを語ったり。
「……この中だとお父さんは何が気になる?」
「そうだなあ、あくまで表紙の感じでいうと……」
――その子は、ちゃんと今を生きている。
虚構の中で、理想の中で、空想の中で。
彼女だけは本物の夢を見ている。
対する僕はどうだろう。
今までもこれからも、全て嘘やでまかせだらけだけど。
彼女に対して本音をこぼす瞬間なんてどこにもない。
叱ることさえ、フリでないと難しい。
ただ……それでも。
「ミコト」
「なに?」
「……いや、生き生きしてるね」
『ごまかしばかりでごめんね』、そう心の中で呟きながら。
本音で語り合う時間なんて、どこにもないことを理解しながら。
疲れを気にせず、ゆっくりゆっくり、その声を聞く。
「ああ、これなら犬飼先生も好きそうだね。……僕も読んだことあるよ。子供の頃に」
「本当!?」
「本当。小学5年生くらいだったかな」
……ミコト。君を守れるうちは、守ってやりたい。
どんな事柄からであろうとも。
どんな罪悪感や、悪い神様やからであろうとも。
たとえ君が目覚めた瞬間に――僕の体が、命が。
「ミコト」
「なに?」
「……僕のおすすめも、教えてあげようか」
――たったひとりで風にとけて、消えるとしても。