8.悪い夢
――こわく、ない、わけがない。
(ミコト、待って)
――さくりさくりと足を踏み出すつど、自分の【体の輪郭】がぽろぽろと崩れていくのがわかった。勿論今は視覚的にだ。痛みはない。
ぼんやりとにじんだ、霞んだ視界。
ああ――知っている。これは悪夢だ。
(……ミコト)
耳の奥をつんざく大勢の足音。殺気。怒号。
それらを引き連れて、追いかけられて。
「――――――……」
目の前。バグったようなノイズまみれの狭い視野。
息を切らして走っていくのは――見慣れた色彩だった。
揺れる髪。
赤い、見慣れた聖山のスクールカラー。
……あの子の輪郭すらぼやけているのは、かすんでみえるのは、僕の視力が悪いからだろうか。それとも疲れているせい? 足を、足を動かさなければ。
それでも……
(……ミコト)
その子が、悲鳴を上げているのが分かった。
(――待って、大丈夫、こっちにおいで)
足が重い。軋んで動かない。
極度の疲労のせいだと気づく。そうだ、いつだってそう、肝心な時に僕の足は動かない。
(――……)
叫びたいのに、肺の中がスッカラカン。そのくせ頭に浮かぶのも、口に含むのも、耳障りのいい言葉だけだ。――本来の僕ならどうするのだろう? 本当なら、僕はどんな言葉をかけるだろう?
轟音が、嫌な音が、急激に大きくなる――そう、耳が割れんばかりに。
(! ミコ……)
――ピシュ。
一瞬の静寂。
瞬間、何かの飛沫が顔に飛ぶ。
赤い視界。どうにも拭えない、違和感。
爆発したような血の匂い。鉄の味。
……。
体がガタガタと震え始めるのが分かった。
慣れない喪失感。仮想だろうが夢だろうが現実だろうが関係はない。
その感覚だけは何度経たところで透明だった。
ハッキリとした死の輪郭。とてつもなくクリアだ、何度繰り返しても。何度現実でそれが起こっても。何度悪夢で、誰かが死のうとも。
目の前に襲いかかるように死の匂いは深く、重く突き刺さる。
覆いかぶさってくる。
……すくんだ足を震わせる。
髪の色も、赤い制服も、もはや何も見えなくなる。
(――あ)
視界の赤が流れ去る。視界は不気味に真っ白くて――足が何かに削り取られるのが分かった。
……ああ、そうか。
ミコトが、死んだのか。
(あ、あああ――)
ざりざりと。ミコトがいなくなったと認識した瞬間――皮膚から、筋から、脂肪から。
(あ、ああああああああああ!!)
そう、じゃくじゃくと――かき氷を噛むように。氷が砕けて溶けて小さくなるように。ああ、全てが分解されていく。
知っている。
分かり切っている。
【ここの僕】はミコトに生かされている。
だから死ぬ。
彼女がいなくなれば、体もなくなる――跡形もなくだ!
(痛い!)
体がひび割れて、燃えて、消えていく。
(痛い、いたい、嫌だ……)
涙さえ見えない。音も聞こえない。
(――こんな、ところで、消えたくない、殺されたくない!)
うわ言のように言葉を吐き連ねる。あれだけ勝手なことをのたまっておいて、ふるまっておいて。それでも僕は。
(……しにたく、ない)
……そう、それが本音だ。怖い。痛い。きもちがわるい。
絶対怖いに決まってるんだ。この世界が消えたら。
この世界が粉々になったら。
そう、自分が消えてなくなるなんて――怖いに決まってるんだ!!
「――――――!」
思わず叫んだ。意味も通らないイラだちまぎれの奇声だ。
【他人に向ける怒り】はどこかに向かってすっぽ抜けていても、自己嫌悪だけは別物だ。ああ、よーく理解できるとも!
ヒューヒューと寒くて、胸が痛い。
何もなくなった後のそれでも、「そこの痛み」だけが残っている。
ぼんやりとした思考も、光の注ぐ水中のような揺らぎも、霞も。
(……僕が、何を、したっていうんですか?)
幾度目かの号哭。悔し泣きの後、歯を食いしばる。
……数え切れない非現実。現実だとしても死に戻りでループする、それがミコトの創った世界の理だった。
幾度目かの問い。誰に対してでもない問い。もしかしたら自分にかもしれないし、自分という生き物をつくった、そもそもの『何か』へかもしれない。
(夜毎に夢を見る。何度もこんなのばっかりだ。見たくもないのに!)
視界の真っ白に僕の声が溶ける。
……いくら一度死んでたところで。むしろ一度死んだ自覚があるからこそ、余計にだ――自分が失われていく感触を、僕は知っている。
体を失う。思考を失う。地面も頭も空も色も、全てなくなる。
(……どうやったって、なんで、僕……ろくでもない最期なんですか……)
ミコトを失えば、当然のごとく僕は死ぬ。
(……ねえ、ねえ、ミコト……!)
すがる。真っ白な世界で、せめて――せめて、誰かを探す。ここが悪夢なのは知っている。外への出口がどこかにあるのはわかっている。
(……そこに、いるかい? 僕は、ちゃんと寝息を立てている? まだそこにいる?)
自分の両手さえ見えない中で、顔を覆う。
ああ――ああそうさ。そうだとも!
ちゃんと計画通り、この世界からミコトを追い出したって。
それからクロノスに、いつものごとく僕の家族をだ――そう、ミコトを殺されたって、結局どうせ変わらない!
ミコトがどんな奇跡をくれたって、どんな幸せをくれたって。
世界は滅びて、どうせ僕は死ぬ。クソゲーだ。八方塞がりにもほどがある。それでもどうせ死ぬのなら、無意味になんてぜったい嫌だ。
ミコトを追い出してから死にたい。
外に送り出して、それからだっていい。なのに。
なのに。
(――はは。さっき、走ればよかったじゃないか。僕)
呼ぶだけじゃない。こちらから迎えに行けばよかった。
呼ぶだけじゃない。ああ、ここぞとばかりに怒鳴ればよかった。
なのに、こういう夢はいつもそうだ。
日記の最後みたいに。そう、美郷さんのときみたいに……足が動かない。
(……僕、は……)
いくらミコトに懐かれたって――それから、自分が常に何を思おうと。一人に怯えて、温もりに向かって手を伸ばそうと。
そう、きっと『全部が無駄だった』し――『無理だった』のでは?
幼い頃に夢見たそれをふと思い出す。
幾度もめくった本の感触を。
かつて読んだいくつもの物語がそうだったように……あたりまえに誰かの手を握ったり、差し出したりするそれを。
そう、『誰かと一緒に幸せに暮らす』なんてそんなありきたりなハッピーエンド、結局、無理だったんじゃなかろうか。
――そう思った瞬間、グサリと腹が指し穿たれたのが分かった。
『ねえ』
せせら笑うような、子供の声。
……子供用の、工作バサミ。
かつて僕が右手で持った、小さな凶器。
『どうせ僕のこと、人形としか思ってないんでしょ?』
(……君、は)
『――お前も、きっと 僕を棄てるんだ』
―――――― ―――― ――
「わっ!!!?」
「起きたか、時永先生」
――腹を見た。それから恐る恐る、時計を見た。
夜の9時半。隣には、まだ寝息を立てるミコトの姿。
「ここは……」
「あんたの車の中だ」
「……いつから寝てました?」
ふう、と口から息を吐く。
――シャツがじっとりと嫌な湿気を含んでいるのが分かった。
大量の冷や汗。
車の後部座席にいる現状。
……思わずめまいをおぼえながら、問いを口にする。
記憶が曖昧だ。こういうことが起こるつど、毎度の事ながら不安にはなる。
勿論ミコトの世界でこうなるのは初めてなわけだし、いつも通りの別人格が云々……というわけではないのだろうけれど。
……無意識でなんか口にしてなかっただろうか、僕は。
「あー……車で来てるっていうんで、駐車場までそのまま担いでだなー。下ろそうとしたら既にグッスリ。しょうがないから、俺がそのままあんたの財布につながってた鍵を拝借。イツキを最寄駅手前まで送ってだな。ついでに今は俺の家の前」
「……」
犬飼先生が運転席から首をすくめる。
「把握したか? ガソリン代とか請求すんなよ?」
「いや、しませんよそんなみみっちいこと。まあ【クソい僕】ならしそうですが」
へえ、と犬飼先生は呆れたように口にした。
「……」
「……」
暫く、互いに黙り込む。
「……あの、降りないんですか。家の前なんでしょう」
目の前には確かに、見覚えのあるアパートがぽつり。……以前、我が家から彼の家に送迎していったときは、確かあの2階だか3階だかが彼の部屋だったはずだ。
「……なあ」
「はい?」
犬飼先生は目を細めながら、ぶっきらぼうにいう。
「時永先生って何年生まれ?」
「……いや、なんですか急に」
若干気色が悪いが、声音がいやに優しい。
「平成3年ですよ。1991年」
「ミコトと同じ5月。確か3日ぐらいズレてるんだったか」
「ええ、一応ミコトが9日、僕が12日ですが……え、あ……」
寝ぼけていたらしい。
ふと気づく。――どうも勢いで言ってしまったが、実際にはこの返答はおかしい。
「……いやその」
今口にしたそれは、本来の僕の『戸籍上の生年月日』の話だ。
当然ながら【この世界の僕】としてのものではない。
「……」
……バカだろう。どうせ嘘をつくなら、一気につき通すべきだ。
彼らのような心優しい生き物に認識されるなら、【人によく似たはりぼて】ぐらいがちょうどいい。生きていない人形ならそう、ドールハウスごと捨てたって、きっと良心も痛まないというものだ。
「……ちなみに俺、一個下。92年生まれの申年」
「……」
犬飼先生は思いっきりため息を吐く。
「はあああ。――勿論知ってるさ。あくまで設定上の話な。本来あんたは今年ミコトに生み出された令和15年生まれのバブーな眼鏡だ」
「バブーな眼鏡ってなんですか……生まれた瞬間から眼鏡かけてるんですか、そのバブーは」
「眼鏡バブーはともかくだ」
よし、バブーは重要でなかったらしい。
シートベルトをカチッと外しながら、犬飼先生は言う。
「……一応、『ミコトの代わり』に答えてやるがな」
「え」
「心配しなくても、あんた自身はちゃんとそこにいる。そこにいて、息をして、眠って、頑張って起きている」
「……えっと」
運転席の扉が開く。外から吹き込むのはゆるやかな風だった。
暖房を通していない、冷たい空気。
「なあ時永先生。それでいいだろ。今は」
「……。他になに言ってました? 僕、寝言で」
犬飼先生は鼻で笑いながら、強めに扉をしめる。
扉越しの声はよく聞こえなかったが、「聞かなかったことにしてやるよ」、そう、外で口が動いたのが分かって。
「……」
去り際、ニヤッと笑ったその表情を見た。
既視感。たぶんそれはミコトの記憶だろう。
たとえば、そう――夕飯時になっても自分の部屋なり、馬越さんのところに帰らないミコトを窘めるとき、よくする表情。
仕方のないものを見るような目。
苦笑い。それから読み取れない空白。恐らく――ほんの少しのイラだち。
「……相変わらず、よく分からない人だな」
目を閉じて――ため息がてら、大きく息を吐く。
すぐ耳の横。ちいさくゆっくりと聞こえる、ミコトの寝息。
案の定、あんな眠りで疲れはとれない。全くだ。それどころかむしろ、溜まっている自覚もあった。数日前にうっかりひねった足もまだ痛い。ゴーレムの攻撃が幾度となくかすった火傷もだ。
ひりひりとした感覚が、ガーゼと服に擦れている。
それでも不思議と――少しずつ。
今の会話で、楽になったような気がした。
「……帰ろうか、ミコト」
よっぽど『メンタルの復旧』に時間がかかるんだろう。
強引に見せつけられたし、巧いこと傷つけられたんだから、まあ仕方がない。
ろくな返事はないだろうそれを薄々分かりつつ……重い腰を上げ、僕はようやく外に出た。
運転席に座る間際、深く息を吸い、辺りをゆるりと見回す。
「分かりきっていたこと」ではあるものの――犬飼先生の姿はもう、そこにはなかった。