7.ホンモノとニセモノ
「はあ、はあ……」
イツキの背後から、息切れした喘息気味の音が聞こえてくる。
「っぜ、っは……」
ようやく追いついたと言わんばかりに肩で息をする、眼鏡の奥。……大方、ここに突っ込んできたイヌカイに置いていかれたに違いない。それは時永の姿だった。
ほっぺたに線がついているところをみると、床の煉瓦に押し付けられていたんだろう。そりゃあ関節が固まって、立ち上がるまでラグがあるはずだ。だが。
「あの、大丈夫です?」
……イツキとて、息は切らしている。
今しがたまで佐田と膠着状態に陥っていたのだから、それはそうだ。ただ他人のことは絶対言えそうにないイツキですら……
「――……――……」
……思わず、声をかける有様だった。
つるを出しっぱなしだからこそ、多角的に分かる。
――この時永、鼓動の音がおかしい。
関連して血流のそれもだ。
なんというか……音が妙にガチャガチャだった。機能はしているがスムーズではない。
「――――いっやあ」
――ジャキッ。
何か、金属質の硬いものを踏む音が聞こえた。
「そっりゃあ疲れやすいっしょ、時永くん?」
――パチンッ!
その女性の声は靴音を立て、金属音を蹴り飛ばす。
瞬間、時永がイツキの前に出て蹴り返した。
誰がどう見ても分かる。本調子ではない、火事場の馬鹿力だ。
「わーあ、根性あるーぅ」
「……根、性、だけで、生きてますから、僕は」
――カラコロカラ!
曲がり角まで蹴り返されたのは『佐田のナイフの欠けた先』だ。
そしてそれを、サッカーボールよろしく足で止めたのは――先ほどの女性の声。
曲がり角から出てきたセミロングのストレートヘア。ニッコニコ笑顔の眩しい谷川だった。
イツキは大きく息をつく。
「……ユキ姉ちゃんも共犯だろうね、こういう場合」
「あれまー、イッちゃんにすらバレてた?」
おどけた谷川はナイフの先を拾い上げ、お調子者じみた様子で見せびらかす。
「――あたしが怪しいの?」
「佐田さんが出てきたらそりゃあ、どっかにいるでしょ。オレからみたら2人セットのイメージだよ?」
イツキはそれとなく、時永の前に立った。
「くわえてオレは、前に姉ちゃんを見てる。イヌカイは気づかなかったみたいだけど」
「……ああそりゃ、あれだ。見たくなかったんだろうよ」
佐田を抑えつけたままのイヌカイはあっさりと呟いた。
「ここはミコトのつくった理想の世界だ。なら都合の悪いものは無意識だって目に入らないし、耳にも入らない。……そうだな、谷川先輩? だから2人とも俺に近づいた」
谷川は首をすくめ、クルッと時永の方に向き直る。……今の彼女にとって、イヌカイという人間は優先順位が低い存在だ。
腹が決まっている。いっそすがすがしいほどだ。
だってもうその目はこちらを見ない。
後ろ向きな逃避ではなく、確固たる拒絶だった。
もちろん谷川にとってはそれでいいし、それがいい。――だからこその容赦ない『目線の外しっぷり』なのだろう。【谷川ユキ】を彼はよく知っている。
……本当は、彼にだって一言声をかけたかったのだけど。
言葉尻を捉えた軽口は彼女の得意技だ。『へえよく分かってんねえ!』だとか、『キミの性格でそういう態度取れんの、すごくなーい?』だとか。それをいう資格はどこにもない。
そういうのはあれだ、きっと歳が10個下の木の妖精がやってくれる。
「時永くんさあ。……キミが偽物であれ、本物であれよ?」
「!」
時永は谷川の含みに反応したのか、黙って顔を上げる。
「ミコトちゃんが基にしてるのは、『古い日記帳』に書かれていた年代、だよねー?」
「日記帳?」
イヌカイの訝しげな問いに、谷川がぽんと床に放ったのは『赤い表紙の冊子』だった。時永はハッと反応して、ポケットを探る。
「……大事なものなら落とさないでよね。まーそんな重いの、持ち歩くのもどうかと思うけど!」
「……あー。その、一番、身近なもの、なんだ。仕方ないだろう」
息を切らしたまま、拾い上げた。
その背表紙を握りしめ――時永はようやく、口が重そうに返答をこぼす。
「……ペラペラの写真なんて、意味はないよ。確かに『その僕』は、あの人のくれたデジタルカメラで幾度も、何度も……ミコトの写真を撮った」
あの人。それが誰を指すのかは分からない。
けれどイツキはふと思い出した。
ミコトが小学校の時、馬越に頼み事をしていた声のみがうっすら聞こえてきたことがある。
――「おや、何かお探しで?」
――「馬越さん、私の赤ちゃんのころの写真とか、ないよね?」
――「……。どこかで必要なのですか?」
――「二分の一成人式の授業でつかうって先生が」
……あの時の会話は、「その先生のお名前を教えていただけますか」で終わった気がする。
たぶん、それは写真が見つからなかったからだ。
「……ははは。意外だろうけどね。15年前の僕はすごくたくさん写真を撮ったんだぜ、谷川さん」
ぐしゃ、と、時永は笑う。
「携帯も、デジカメも……あの頃、ずっと容量はパンパンだったんだ。ミコトもそうだし、ミコトを抱いたあの人だって何枚も。ああ、たくさんあった。それでも現存しているものはもうないんだ。現実にはない。……しっかり覚えているさ。その意味合いを感じ取れない人間が、全てきっちり処分したことを」
――写真が見つからなかったから、馬越はあの時、重い口を開いた。
何で代用するかとか、馬越がこっそり撮ってたものでいいかとか――後で電話か何かで擦り合わせたに違いない。ミコトはきっとそれを知っていた。
「……でもこれはね。ちゃんとミコトが見つけたものだし、ここに持ち込んだものだ」
苦笑いして、この世界の時永は続ける。
「『その僕』の残したものは、結局のところ……未来に届かなかったのさ。ミコトの知ってる【お父さん】はそういう意味でも自分の持ってる『運のなさ』というのかな。そういうものに負けてしまったけれど――うん。その日記は違う。勝ったんだ。勝ち逃げしたんだよ」
……時永が握りしめた古い日記帳。視覚的には見覚えのないものではあったが、イヌカイはぴくりと反応した。それをどこかで知っている。ミコトがその、古い紙の匂いを持っていたことがある。
「……いなくなったあの日、ミコトが読んでいたもの……?」
ミコトはよく冊子を持ち歩く。……それは小説だったりが多いが、時々雑誌だったり。絵本だったり。ライトノベルだったり。その点だけを見るなら時永もそうだ。この世界であれ、それから、元の地球であれ――紙の匂いが常にしていた。
そして、15年前といったか?
勿論正確にいえば違うのかもしれない。『約』とつくのかもしれないが。
それは前後関係からして、自分達が「こうなる」――その2年前。
「――まあ、これは確かに僕の大事なものだ。彼女にあやかって、どうにか勝ち逃げするための願掛けというか」
時永は苦笑いしながら言う。
「筆跡も、気持ちも、心も――匂い含めて残ってる唯一の代物だとも」
「まさか、お守りがわりだったとか?」
クスッと笑いながら谷川は茶化した。
「昔好きだった女の子が書いた、長い長いただの日記が?」
あっ――と合点がいったようにイツキとイヌカイは一瞬目線を合わせた。
あの赤い冊子の持ち主。時永が時々口にする『あの人』。それは同一人物だと理解したせいだ。
……この場で恐らく、自分たちだけが知らないもう一人の登場人物。
『ミコトの母親』。
「ハハッ――悪いかい?」
けろりとした様子で時永がいう。
「……常に一冊は物語を持ち歩くのが僕の癖だ。君だってそう記憶してるでしょう?」
――見せたかったのは、確かだ。
時永はそう振り返る。
――ミコトが見ている景色とか。
どんな色が好きかとか。どんなわがままを言うかとか。
あの子の辛い記憶を読んで――素知らぬ顔で、我が物顔で高校1年生の女の子の父親をきどって。
時々、とても心細かったのは確かだ。
誰かに隣にいて、慰めて欲しかったのは確かだ。
一人だけ、知らない場所にいるような気分になる時に――片手で抱えて、幾度も深く、呼吸をしたのは確かだ。
「……ミコトは、お母さんにも好かれていたからね」
……日記の背表紙を持つたびに、「あの人ならどうしただろう」と幾度も思った。時々不自然に早くなる鼓動を整えながら。呼吸を整えながら。
自分でなく、あの人がここにいたのなら。そう。なんだかんだ、楽しんだのではないだろうか。
ミコトの見ていた世界を、一番知りたがっていたのは『あの人』だ。
「……そうだねえ」
谷川は困ったものを見る目で時永を見た。
「確かにミコトちゃんは15年前――神様が介入していなかった段階で、生みの親から無償の愛を注がれていた」
……谷川のその発言。思わずイヌカイは時永を見た。――それが本当かは今、時永の表情を見ればわかる。ああ、意外ではあれど。
「片親ではなく両親ともどもに」
「……」
「それをミコトちゃんは文字情報のみで知ったんだね。その頃の君を知りたいから、こんな『大掛かりで大胆な発想』が出た。世界をつくりかえよう、お父さんと自分が、『幸せだった』世界にしよう」
……ミコトは生まれた時、愛されていた。
時永は否定しなかったし、射抜くような目が揺れなかった。
イヌカイは思い出す。
……以前の会話。以前の発言。
――「俺はかつて、クロノスにこう言ったことがある。……『おいあんた、まさかこんなことは言わないよな』」
へらりと笑ってあの時の時永は、目の前で言葉を引き継ぐ。
他人事で。そう、知らないものを語るように。
――「……『あんたが介入しなかった場合の時永は、誰もが頷く善人だった』……そうですね。そのノーマル時永先生が、ちゃんと善人だったかは知りませんよ?」
イヌカイは息を吐いた。
――そうだ。あいつは確かに記憶を戻した時、ちゃんと言っていたじゃないか。
父親が、そうならなかった世界を望んだのだと。
……つまりこの状態は100パーセントのフィクションではない。
妄想でなく。想像でなく。
現実のほうに、本当のターニングポイントがあった。
目の前の時永には、少なくとも――モデルがいたのだ。
と、いうことは――。ああー。なるほどーぅ……。
「おおおおおおお前ねえええええ!」
「……植苗くん、犬飼先生なんか横ブレして荒ぶってるんだけど」
「後で本人から『お怒りポイント』を聞きましょうね時永先生……たぶん絶対気づいてないから……」
「で、怒ってる元くんはさておくとしてだ? ……当然、自分の知らないお父さんが過去にいた。それを知ったミコトちゃんは、きっと強くハッキリ、こう思ったはずだよねー」
ガルガルしているイヌカイをよそに、谷川は谷川で話を展開する。
時永に負けず劣らずの、けろりとした表情。
「空想でも、もしもでも何でもいい。『あの頃からやり直したらどうなるか』!」
「……」
「でもミコトちゃんは君の大まかな性格を知ってても、その声を知らない。体を知らない。今の時永くんしかわからない」
時永は頷く。その事実を認めるように。
「――だから齟齬が出るんだわ、時永くんキミ、あってないんだよ、体の規格が」
27歳の新米パパを基に再構築された精神が、ミコトの想像できる42歳の体に合致するわけがない。
いくら元々同一存在であっても、15年間で使い方は変わる。――体力の減り方も、体の強度も。
「だッから疲れやすいってか!!」
ガルガルしながらイヌカイは口をひらいた。
「ふとした瞬間の『汗のかきかた』が異様だったのも、突然吐いたり、胃腸がおかしかったのも!」
イヌカイにはあいにく、心当たりがあった。
13年前の自分で経験済みだ。不本意ながら慣れてしまうまでの話――そう、少なくともきっかり、一年間はそうだった。
「嫌な記憶によるストレス反応というだけじゃねえんだわ、体と心の不一致か!」
「……。なんか分かった。御託はいいさ。犬飼先生」
「おいコラ」
暗に『どうでもいいことだ』と一蹴されたイヌカイは一瞬ぐるりと喉を鳴らした。普段なら掴みかかっていただろうが――そうはさせない雰囲気で、時永は口を開く。
「で、君はミコトに何をした?」
「おや」
――まっすぐと、谷川に向かって眉を寄せながら。
イヌカイがピタッ、と怒るのを止める。
「……うちのミコト、その辺で捕まえてきたんだろ、谷川さん」
そっけなく時永は口を開く。
「頭の隅っこの記憶領域がずっとパニックしてる。こっちも余裕がなかったから気付くのは遅れてしまったんだけれど――ミコトは今、どういう状態だ?」
「ははあ――それ、怒ってるつもり?」
「『本物』より、迫力はないだろうね」
谷川は合点がいった。なるほど――感情が欠けている。あの神様が言った通りだ。
他人に対する怒りの感情がない。表せない。表現できない。
なぜなら怒りを感じる機構はとうの昔に分離した。人に対する怒りと不信と攻撃性が、ごっそりと【どこか】に行ってしまっているのだ。
この、偽物のふりをした本物の『時永 誠』は。
「……はあ」
……怒る機能もないのに。
よくもまあ立派な「僕はお怒りです」のポーズだけ取れるものだ。
「……相っ変わらず強情だよね。ベチャ雪の覇王」
「なんだそのクソダサい異名!?」
イヌカイが軽く突っ込んだが、時永はスルーした。――大学生で発症した記憶がおぼろげにある中二病の残骸なので、それは放っておいてください……。
「一応言っとくけど、あたし『スイッチ』押しただけだから」
「スイッチ?」
「ミコトちゃんと、この世界の分離スイッチ。――自壊スイッチっていうべきかな?」
その瞬間、顔面血まみれの佐田が「ガッ」と何かに気づいたように突然立ちあがろうとして――――
「! ぐえッ」
「おっしイツキ、ちょっと佐田抑えてろ」
瞬間、佐田の背中に全体重をのせたイヌカイが、顎でしゃくる。――今、イヌカイの下の佐田が、まっすぐ目を向けた先。
シュルッと瞬く間につるで固定。佐田が恵方巻き状態になった瞬間、イツキは耳打ちした。
「……イヌカイ、さっきユキ姉ちゃんが出てきた曲がり角」
「……ああ、知ってる」
イヌカイは答えた。
――さっきから音が聞こえる。
人が呼吸をしている音だ。
……静かに、けれど早く。浅く、まるでパニックを起こすように。
「まあまあ、つまりはだよ、時永くん!」
谷川はヘラヘラと言う。
「ミコトちゃんに事実を教え、逃避する間も無く一気に真実を叩き込む! 目をかっぴらいて直視させることで、この世界とのつながりを絶たせる! ……あたしたち、これが目的だったわけ」
「なるほど?」
時永は頷いた。――半分はわかっていたとばかりに。ただ、「そこまで乱暴なやり方をするとは思わなかった」と呆れるように。
「これで世界の均衡が崩れるの。今まではあの【青い神様】と創造主ちゃんで長いこと拮抗していた。一部権限が神様にあるだけで、この世界のメインシステムはミコトちゃんが手離さなかった。それを今から手放してもらう」
「それで?」
「……それで、おしまい」
システムの掌握は、いくら神様でも時間がかかるだろうけどね。
谷川はそう呟いて少し笑う。
「そしたら、ミコトちゃんどころかキミたちの居場所――この世界になくなるんじゃないかな?」
イヌカイたちが暴れたところで、どうとでもなくなる。
ミコトが正気に戻ったところで、きっとびくともしなくなる。
外殻が壊れない限り、この世界の生き物の将来は安泰だ。……今のところは、だが。
「……はあ、正気かな? 谷川さん……僕の【負の側面】が分かってて言ってるのかい?」
「モチロン! 元くんとかイッちゃんの中身グチャグチャにした、【悪ぅーい時永くん】でしょう?」
谷川や佐田にだって勿論、よく分かっている。
自分たちを脅迫したあの神様の根本が、あの時永に似ていることくらいは。
「マジ神様そっくりだもんね、ミコトちゃんの知ってる時永くん! スケールが小さいとはいえ、モデルケースがあるから容易に想像できるだろうってキミは言いたいんだ。違う?」
「ああ、違わないさ」
「はー、確かにそーね。……余裕がない、すぐキレる、他人からの愛情不足?」
「……軽く見過ぎだろう、谷川さん」
時永は珍しく本気であきれたようだった。
「『ちょっとキレやすい若者像』みたいに言わないでくれるかな。……僕の場合、もう少しドロドロしてるというか、えもいわれぬ感じのどうしようもない汚さにまみれてるから」
「うんまあ、言いたいことは分かる。――そういう人間に自分の世界を明け渡していいのかって聞かれたらよくないよ、たぶん?」
でもね、と谷川はいう。
「根本的に似てるってことは、今のキミの中にみっちり詰まってる要素も、どっかにある」
「……」
「認められたら、応えようとする。満たされたら、渡そうとする。――今の時永くんさぁ、キミ、怒るの苦手な理由って、愛情不足が解消されたからだよね」
短い間柄とはいえ、クロノスと接した谷川はなんとなく知っている。
理解しているのだ。時永の人間性はクロノスとほとんど変わりがない。――違いは、その道程と結果だけ。
「……君のベースになった15年前の時永先生は、怒りが枯れていた」
時永が元々怒りを溜め込むタイプだったのと同じに、クロノスも同類――怒りを内包する性質だ。
癇癪持ちといえばまだ聞こえはいい。問題は神界の神が、【思いつきを片端から実現する】類の災害であるということだ。
「怒りの塊であるクロノスくんには、ちょっと理解できなかったんだよね。……前までの怒りっぽい弱虫のキミの方が、見ていて筋が通る。そう思った」
「……。まあ、そうだろう。恐らくね」
「だから【癇癪持ちの癇癪】だけ取りだして――そう、他者への怒りと攻撃性を抽出して造られたのが、君の人工的な別人格。当然その出涸らしさんは、ただのお人好し。平和主義者の我慢屋さん。人当たりのいい男の子だ」
「……ああ、そこまでいいものではないと思うけども」
時永は軽く肩を落とす。
「不自然に欠落している分、当然だけど――きっと、なにがしかの反感はかうさ。自分の中の怒りが分からないということは、誰かのそれも、極論、分かったふりしかできないってことだろう?」
そんな会話の中、パッとイヌカイが「曲がり角」に駆け出した。佐田を引きずったイツキも一緒だ。
……時永はすっとイツキを見る。それから、少し遅れてイヌカイも。
「僕の経歴、自覚のなさ。それに怒ってるのはまあ分かる。受け止めようとはしているさ。しかしそれがちゃんと僕に受け止められているかは分からないし、正直、仮定が多すぎて理解できているかすら分からない。……更にいえば、理解したところで、さっきみたいに『分かった』なんて気安く言ってはいけない」
――だって失礼だろう?
そう聞こえた気がして、角の向こう――ミコトを視認したイヌカイは怒りを少しだけ収めた。……そう、時永の感覚器はたぶん、相当にズレている。けれど無頓着なわけではない。ああみえて気は使うし、本当に善意で言ってるからタチが悪い。
「……人の憤りっていうのはそういうものだ。システム的に分かってなくても、大事に扱うことはできる。扱おうとすることもね」
「……毎回思うけど、真面目すぎじゃない?」
谷川はフフンと茶化すようにいう。ああ、その表情はよく知っている。昔からそうだ。
常にフットワークの軽い、谷川らしい発言だった。自由人のマイペース……時永は少しだけ羨ましそうに呟く。
「日記の君がゆるいだけですよ、谷川さん」
「ミコト!」
イツキはトントンと肩を叩く――揺すっても反応がない。目線も動かない。ただ。
「ミコト、ミコト、しっかりしろ!」
「…………」
「……ふぇ」
ヒクッ、と喉がなるのが分かった。時永には耳慣れた音だ。
「……泣き方、15年前と変わらないな。ミコト」
フラつきながら、ゆっくりミコトの方を向く。
そう、彼女は大声では泣き喚かない。たとえ赤子の頃だろうが、不自然にも自己表現だけはいっちょまえだったのが彼女だ。
言いたいことが伝わるなら一言でいい。
「……はあ、もう」
ミコトの前までトボトボと足を引きずり、気の抜けたように膝をついた時永は――軽く咳払いをした。
「……。『ミコト、真っ直ぐ帰りなさいって言っただろう?』」
「……――ぷぇ」
――――こてっ。
「ああああー、あの、時永先生……なんで突然『イラついたクソ眼鏡』のモノマネを……?」
「……モノマネどころかご本人登場レベルだぞ、イツキ」
突然気を失ったミコトを横から受け止めつつ、イヌカイは呆れたように口にした。……たぶんこれ、アレだ。モノマネしないと素で怒れなかったんだ。
「失礼な、僕は偽物ですよ?」
「そこはこだわりを見せるのねお前!?」
しゃきっとしろ! ――とイヌカイに背中をぶっ叩かれつつ、イツキが少しふるえながら時永を見た。
ミコトのトラウマ以上に、あの声色はイツキのトラウマだ。
「……パソコンで言うところの、タスクマネージャーすら出てこないで固まってる状態だからね、アレ。さらには電源ボタンがないので、負荷を更に増してクラッシュさせるしかありません。幸いバックアップデータならありますし――というか、僕がそれですし?」
「だとしてもやり方よ」
「あはは、ミコトのためなら何でもやりますよ、僕は!」
ガショコン! ――その瞬間、玄関ホール側から耳をつん裂くような騒音が聞こえた。
「……何だ今の」
「簡単な話」
谷川は涼しい顔で、佐田を拘束したイツキのつるをちょんぎりながら言った。イツキはハッと気づく。
――ダメだ、ミコトに夢中だったせいで、何も聞いてなかったや。
「ミコトちゃんに莫大なストレスがかかった。つまりゴーレムが発生したんだよ、今の音は。……でもミコトちゃんは今、この世界との繋がりが少し弱まってる。神様が少しずつ介入できる隙間が広がってんの」
「ぐぇ」
谷川にぎゅうぎゅうとつるをひっぱられ、佐田がくぐもった声を上げた。
「つまり、何ができるようになったか。うちらが侵食して持ってるもの以外全部、神様が破壊するってわけ。出てきた瞬間にね――今お外、きっと一万匹はわいてたんじゃない? ゴーレムくん」
「……それを、一瞬でスクラップにしたと。で、俺たちをどうする気だよ。お前らは」
ナメていたわけではない。クロノスというのはそういうものだとイヌカイは既に知っている。……言葉を交わした時、肌で感じ取った。
これは本来敵に回していい存在ではないし、そもそも敵どころか勝ち負けがない。おそらくは勝負にすらならない生命体だ。当然『一瞬でゴーレムを潰せる』と知っても、そういうものだと納得はできた。
「いんや、特に何もー?」
……クロノスの手下であるはずの谷川は、おちゃらけた様子でつるをもう一度、強くひっぱる。
「げば!?」
ようやくつるがちぎれとび、拘束を解かれた佐田が激しく咳き込んだ。
「襲いかかってこない限り、今は何もしない。少なくともあたしはね。だって追撃指示出てないし!」
「佐田は?」
「秀ちゃんなら、そもそも動くための体力が尽きてる。時永くんとそー変わりないんだよ。……ミコトちゃんに噛みつこうとしたのが最後の足掻きだね」
「……わかった。行くぞ。歩けるか時永先生」
「え。はい、なんとか……えっ」
そういって立ち上がろうとした瞬間、時永の視界がふわりと持ち上がる。……ズリッと引きずられる、足の先。
「ハーイ『歩けないと判断』するまで0.5秒でしたァー、俺はお前のそーいうところを全く信用していませぇーん」
「……は!? え、何? ……米俵ですか僕は!?」
ミコト、時永を両脇に。まるで学童保育のイタズラッ子を無理やり抱えるような調子で『撤退』を決めたイヌカイは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「冗談じゃねえ。俵のほうが後で美味しいお米が食べられるぶん、数百倍とか千倍マシだっつーの」
「……はっはあ……。分かりました。比較対象を米と見せかけ、全部押し麦にしましょう」
「何も分かってねえじゃねえかボケが!? 大通りに放り出してよろしい!?」
玄関からさっさと出ていくイヌカイと谷川。
イツキはそれを追いかけようか迷ったのち……。
「えっと。そうだ、佐田さん」
……引き返してきた。
「ああー、というか待ってください……僕、今になって自分でもよく分からない衝動が芽生えてですね……犬飼先生、下ろして?」
「嫌だよ」
「今無性に佐田くんの顔に油性ペンで落書きしたくてたまらないんですが」
「何でだよ!?」
イツキは呆れて立ち止まった。
……本当に都合よく、玄関扉前で言い争いをし出した、時永とイヌカイ。
「持ってません油性マーカー?」
「やらせねえよ! 怒りの噴出の仕方おかしいだろ!?」
「えっ、今僕、怒ってるんです?」
「あいつにミコト2回も殺されそうになって、結果怒らないわけないだろうがお前!? 何、マジで怒り自覚してないのに衝動的に他人の顔に油性ペン!?」
イツキはちらりと佐田を見た。
「……」
「……」
何とも言えぬ表情をしている、鼻血まみれの佐田と目が合う。
……たぶんイヌカイも時永も、イツキが引き返したのを見てそれとなく様子を見ているのだろうが――それにしたって会話内容がヤバい。
「あの……佐田さん、逃げないと顔面全体に『カルパッチョ』って書かれるよ」
「見てわかんね? 腰抜けてんだよ。ついでにゆっきー先輩とか、オレが落書きされたほうが腹かかえて爆笑する展開だよ。……っつーか、何か用かよ、植苗くん。体力ゼロの敵対人間カルパッチョに」
「……敵味方関係なく、一言いっときたかったのを思い出したんで」
イツキはごそごそと上着の下、おそらく落とさないよう腰に挟んでいたに違いない『てのひらサイズの色紙』を出した。
「サインください」
「は?」
「来るとき百均寄ったんですが、小さいのしかなかったんで」
「いやそうじゃなくて」
佐田は困惑しながらいう。
「……鼻血出すまで殴った相手に言う台詞じゃないでしょ、君。どんな根性してんの」
「うーん、ツラの皮が厚いのは誰に似たんでしょうね」
「……君のそれが犬飼の影響なら元祖は記憶の中のオレだよ、悪かったな」
佐田はため息をつく。そして、気怠げに――貸して、と佐田は色紙を手にとった。
「……ペンある? あ、油性じゃないの」
「何警戒してるんですか。あ、水性サインペンも買いましたんで」
「用意いいね」
「よく言われます」
まっさらなペンを開封しつつ、イツキはいう。
「サイン求められる時永先生の隣でサインペン出す役割をしてた時期もあるので」
「何それ怖ー。バカだろお前ら」
イツキは苦笑する。
……実際バカの自覚はあったし。まあ、それも真顔でニュッと指の間からサインペンを10本ほど出されてからサインペン係をやめたわけだが。
「……ところで佐田さん。うちの妹なんですけど」
「何いきなり」
「昔、あなたが主役をやった作品のファンなんですよ。オレ昨日まで全然知らなかったけど」
「……」
黙って佐田はペンをとる。
「家帰ったら、録画のアニメをじっと見てる妹がいてさ。『それ、誰が主人公の声やってたか知ってる?』って聞いたら、答えられなかった」
「……へえ」
「おおかた、そっちには興味がないんでしょう。でも今までのディスクは全部うちにあるし、あなたの声は小さい子でも知ってる。『発声魔神ビダクオン』の主人公とか」
「なあ」
佐田はペンを走らせながら言った。
「それってさあ。意味ある?」
「意味、ですか?」
だってその子は、『キャラクター』が好きなのであって、中の人が好きなわけではない。子供なら尚更だ。声を当てた声優のサインなんて、結局何の価値もない。大人になれば勿論、その価値には気づくだろう。
――それでもその子は、たぶん大人になれない。
分かっている。
佐田がどれだけ頑張っても。汗水たらそうと――この世界が終わることくらい。
ミコトが管理していたって、所詮「泡沫の夢」に等しい世界だったのだ。
クロノスがそれを引き継いだら余計、「何がどうなるか」ぐらい……本能レベルで分かっている。
「……その妹ちゃん、君の記憶から再生されたニセモノだろ」
「……まあ」
「そしてこれを書いてるオレが、犬飼の記憶でしかないわけだ」
「佐田さん」
イツキは明確に答えなかった。ただ、そこにサインと一緒に『キャラクターの名前』があるのを目にしながら……少し笑って、小柄な高校生は呟く。
「あのさ。自分の記憶を大事にしない人間なんて、いると思う?」
「…………」
……佐田は暫し手を止め、少し唸る。
イヌカイと同じ癖だ。ああ、とっても不機嫌そうに。
「だってそれって、楽しかった記憶だ。……オレの妹も、佐田さんにとってのイヌカイも」
――理屈でどうこうじゃねえのさ、と頭の隅で何かが呟いた気がした。
いつかのイヌカイの言葉。衝動的なそれ。
相手を気遣い、敬意をもって。……「それ」をしたいと思ったから、やった。
いつか終わる世界でも、いつかいなくなるもの相手にでも。
「――――ほい」
佐田は黙って、サイン色紙を描き終えるとイツキに握らせた。
イツキは頷く。
「ありがとうございました」
「おう」
それはたぶん、佐田がイツキを傷つけるのを渋った原因だった。
イヌカイに影響されている佐田、否、イヌカイの一部から発生した佐田にはそもそも――イツキに対する愛着が刻まれている。
更にいえば、イヌカイが佐田に一つも譲歩しなかった原因――ゴーレムに向かって、全力でぶん殴りに行った原因。谷川にあえて冷たく接してみせた原因。
――今のイツキの言葉は、きっとその指摘だった。
……あのイヌカイは知っている。覚えている。
同級生、佐田秀彦という面倒な人間との『喧嘩の仕方』を。
自分の記憶からできているのは知っている。認めている。それ以上に……
「……気ぃ付けて、帰りな」
「うん、佐田さんも」
ごく普通に、佐田を本物と同じく扱っているのだ。
イツキが妹に接するのと、まったく同じように。
「植苗くん油性ペン持ってない!?」
「まだ言ってんだわ」
「……諦めて先生。やるなら後日やって」
……その3人の背中を、暫く見る。
外から差し込む、イルミネーションの反射光。照らされた、道の先。
佐田は呟く。
「……本当に、何やってんだかな。オレも」