4.ネクスト・ステージ
「……猶予なし。時間切れか」
……喋り声と華やかな空気。
緊張感から解放された演者たちのボルテージは――本当にその瞬間、最高潮だった。
『お疲れ様!』――そう互いの仕事を称え合うそれらには、きっとそれぞれバックボーンがある。隠された歴史があり、正義があり、たった数ヶ月前から続いてきた二重螺旋の歴史がある。
「……はあ」
どう考えたって打ち上げ前の、誰もが開放感でテンションが上がっているはずの楽しい時間。谷川は折りたたみ式の携帯をゆっくりとしめた。
深く息を吸う。――古びたデザイン。その携帯電話はもう、いつから使っているのかあやふやだった。
高校時代だったかもしれないし、大学時代だったかもしれない。
少なくとも「今の時代」にはそぐわないもの。
それはほぼ、間違いがない。
イツキの持っている携帯と同じだ――イヌカイの持つ、現代社会の知識と同じ。ズレがある。ミコトの時代との齟齬だし、もっというなら「それを持っているイメージ」が強かったから持たされているというだけの、拙い認識。
過去の遺物。
「……やだなあ。神様」
谷川は苦笑いした。
そう、いつかこの神様は現状に飽いて――世界の硬直は、終わりを迎えて。
それから、仕組みを少しずつ理解していく。ブラックボックスはあけられて、秘密はほどけて。
「――もう、遊ばせてはくれないんだ?」
携帯電話にともった無機質な灯り。それが誰からのメッセージなのか――それは、谷川と佐田だけが知っている。
「……まあ、そうだよな」
よっ、と佐田は席を立つ。その手にもスマートフォンがあった。同じく古い、いつかの型番。
「佐田さん、打ち上げの予約取れてますんで行きましょ!」
はしゃいだ声に佐田は目を向ける。……【主宰だった人間】が歯車から外れたところで、世界は結構うまく回るものだ。
スカッ、と彼らは佐田をスルーした。その名を呼びながら――まるで透明人間を相手にするかのように。
すぐ横にいるのに、彼らは誰もいない椅子に語りかける。
「鍋とかしけてるなあー! 焼肉の方が良かったー」
「わがまま言うなよ、多数決だったんだから!」
『佐田のいた席』に向かって次々に声をかける演者たちの目は、キラキラ輝いていた。
――ああ、吐き気がする。
佐田は大きく息を吐く。
だって彼らは一般人だ。この世界のシステムの中にいて、その虚像を見ているにすぎない。
だから今しがた、【クロノス】の指令を受けて席を外した佐田のことを全く認識できなかったのだろう。指揮系統が違う――クロノスのシステムと、ミコトの構築した人間社会は歯車がズレる。
同じ空間内なのに、その世界観は絶対に交わらない。
声も表情も、何もかもだ――等しく、ズレていく。
本当のそれが何であれ、彼らの目の前には【一仕事終えて打ち上げ会場に移動する前の佐田秀彦】が――ちゃんと映っているのだ。
「……ちょっと席、外すね」
聞こえない。
見えない。認識されない。
それでもなお、佐田は彼らに一応の声をかけた。
「……リコちゃん、オレの分もよろしくね。おいしいもの食べて、飲んで、打ち上げ楽しんで。……一番楽しいの、そこだから」
主役のトナカイ役だったティーンモデルの彼女が『空席』に目を向けるのをみて、佐田は口を開く。向こうには当然聞こえやしない。
それでもぞんざいには扱わない。佐田はそこに、必ず本物の人間がいると信じている。
いくらそれが、「誰かに創られたもの」だとしても。
そこには暖かい鼓動があるし息がある。
ちゃんとした生き物だ。オリジナルの――重い、生き物だ。
彼女はその場から立ち上がる。
「佐田さん」
……今日の彼女の台詞は。その動きは、今までで一番良かった。
幼く拙い。だからこそ逆にリアルでもあった。
そこにちゃんと役柄がいた。そう思わせられる芝居だった。
「――あの」
「何」
彼は部屋を出ていく間際に立ち止まる。返事をしながら。
――佐田のいない『空席』に、彼女は笑顔で声をかける。
「楽しかったです、とても!」
ハッ、と佐田の脳裏に「イツキを前にしたイヌカイ」が浮かぶ。
「意外でした。こんなにワクワクできたの。――だから、またやりたいなって!」
――無邪気な言葉が心に突き刺さる。
ミコトが目覚めれば――正気に戻れば、きっとその先がない女の子の言葉。
「……リコ、ちゃん……」
彼女の名を呼ぶ。佐田は照明係のイヌカイに対峙するつど、ごく普通に挨拶をし、他愛もないじゃれつきを経て――最初はそう、彼を【クロノス側】に引きずり込もうとした。
クロノスが求めているのは夢の継続だ。『この世界を紡ぎ続けるミコト』が彼には必要だった。それが佐田の狙いではあったし、イヌカイもそれに乗りかけた節もあったのだろう。
――ただ、彼は最後までブレなかった。
蓋を開けてみればそう、逆に引きずられそうになったのは……佐田のほうだった。だってそうだろう。佐田の自意識のほとんどは、元々が『イヌカイの記憶』を捏ねて作られた粘土のようなものだ。
土から生まれた粘土が土に近づけば、自然にかえってしまう。
当然境界線もあやふやになるし、気づくと知らない間に頭の中に情報が増えている。妙なものが流れてくることも、勿論。
それまでは、創られた自覚もなかった。
反発するしかなかった。
けれど、佐田は少しずつイヌカイの【それ】に染まっていった。
『本来の地球』の存在を飲み込んでしまうほどに、彼から漏れ出る記憶は、意思は、強固だった。
自分のものではない記憶が、ノイズまみれの情景を再生する。
――心理学では問題児だったが、廊下から時折みえた時永の授業での笑顔が。科目違いのノートにびっしりと書き込まれた情熱が。
「ああ、こいつ、反抗的だけど面白いヤツだな」――そう思わせる、生意気な生徒だったそれが。
それが『犬飼 元』にとっての『植苗イツキ』だ。
『佐田』にとっての、『新人舞台女優・リコ』と同じで。
犬飼にとって、その子が心理学を苦手にしていたのは知っていたし、それを怒るなんてことは――まあ立場上、幾度かしたのだけど。
……きっとあいつには、その有り様が懐かしくて。
直視するのが恥ずかしいほどに真っ直ぐで、素直で、「嫌なものは嫌だ」とはっきり主張できる。その伸びやかな個性が好ましかった。
「好きなもの」をどこまでも息切れせず追いかける、極める事のできる――そんな地味でくだらなくて、とても純粋なすごさ!
それを心のどこかで称賛していたし、羨ましがっていた。妬みもした。いいなあ――そう思った。
いざそれが、目の前からいなくなると――妙に『惜しい』と思った。
そしていなくなったそれを改めて、時永邸の奥で見つけた時。
頭の中で何かが、音を立てて壊れた。
突然――何かのスイッチが入った。
不安げだったその顔から涙が決壊したのを見た瞬間――時永に対して、出所のわからない【怒り】が湧いた。
傷つけられたのだ。……自分以上に、目の前の生き物の傷つきを見て、頭に来たのだ。
……本当ならそこまで怒らなくたっていい。相手はしょせん他人だ。気に入ったようで気に入らない、話を聞かない――そんな、クソ生意気な高校3年生だ。
けれど『犬飼 元』は――そう、自分でも気づいていなかろうと。植苗イツキというものを評価していたのだ。
将来が楽しみな部類の人間だと。そしてそれは。
「……次……」
それは、たぶん。
「次。次の舞台、ね。……はは、そっか……まいったなあ」
ああ――ここに繋がってくる。薄々わかっていた。同じだった。自分が、あの『モデル上がりの女の子』に得た感情は、同じだった。
……本当なら、そこまで怒らなくていい。
相手は他人だ。すごく気に入っている。でもどこかその才能に嫉妬する。そんな子だ。将来が楽しみな――とっても生意気な新人女優だ。
「ヤバいね秀ちゃん」
てくてくと近づいてきた、同じく周囲に認識されない谷川はからかうように口をはさむ。
「……負けらんないよ? この子、キミと一緒にまたやりたいんだって!」
「次、できっかなあ……!」
佐田は途方に暮れたように肩を落とした。ああ……やっちまった。変な影響を受けてしまった。どうしようもないほどに、自分の中の根幹が――『犬飼 元』のパーツを受け継いでいるのに気づいてしまった。
「……どうすっかね、ゆっきー先輩。あの子がいるせいでオレ、逃げられないんだけど……」
――ああ、本当に誰でもいい。いや、自分しかいない。俺しかいない。
「はははっ、秀ちゃん逃げ癖あるからねえ……」
あの時、『薄暗い部屋』のイヌカイは思った。
――……この子をこんな、何もないところで終わらせたくない。
「そう、秀ちゃんは逃げ癖がある」
谷川は苦笑しながら呟いた。
「……基本的に大きな責任は取りたくないし、本当ならピラミッドで上のほうにいたくもない」
『イヌカイから見た佐田』はいつもそうだ。そうだったはずなのだ。
……本来なら端役だとか、一番下っ端の方が気楽なタイプだけれど。結局リーダー格にさせられてしまうのが、佐田のいつもの役回りだ。
彼はいつだって一番面白いことを思いつくし、それが誰か偉い現行のリーダーに気に入られたり、言い出しっぺの法則で上に上がってしまったり。
結局、率先して誰かを引っ張ろうとするイヌカイとは対称的な仮のリーダーだった。周りに適任が誰もいない。自分しかいない。
だからそこに着任するしかない。
「下にいる人間の気持ちのほうがよーく分かるから、『上にいる自分がミスしてその人たちの努力が水の泡になる』っていう事故をすぐ想像する。責任を負うのが死ぬほど嫌い。でもそういうとき――元くんはいつだって、キミの背中を押し続けた」
ふと、昔の犬飼の声が聞こえた気がした。
高校時代の修学旅行。部長をしたくないと愚痴った自分に、嗜めるようにいった一言。
――お前がやることは一つだけだよ、佐田。お前が、お前の手で。
「……『いかに「演劇楽しい」って後輩に思わせるか』……」
それが、ここで叶った。
叶ってしまった。
あの時の自分にもそれができたのか、できなかったのかはとんと覚えていないのだけど。……覚えていなかったのは、きっとあの本物のイヌカイが覚えていなかったから、なのだけど。
「――オレに、自由意志はないのかよ?」
……この子のやりたい「次」ができる世界にしたい。
そう思ってしまったのはあの時、イヌカイがそう言ったからか?
違う。
たぶん。恐らく。本当に。うん。違うと思いたい。
否定はできないけれど。それが本当に自分の意思だとは、胸を張って言えないのだけれど。
この世界が滅んだところで、本物の『セッカ役』はどこかにいるのかもしれないし、本物の佐田秀彦はどこかにいるのだろうけど。
今、この場所にいる佐田秀彦がここにしかいないみたいに。
この子も、ここにしかいないのだ。
「……行こっか」
「ああ」
「後悔しないために」
「……そーっすね、ゆっきー先輩」
扉を閉める前――佐田秀彦は部屋を振り返る。
誰もいない椅子を見つめ続ける彼女を目で追いかけながら、心のどこかで問いかける。
――ねえリコちゃん。
「……全部、片付けたら」
――君をまた。ここへ呼んでもいいだろうか?
* * * *
「……ってーなわけで、田中の額にチョークがパーン!」
今時自動じゃないコンサートホール・パルテノの玄関扉を乱暴に閉めつつ、イヌカイは身振り手振りでテンション高く拳を突き上げた。
「次の瞬間にはクラス全員でスタンディングオベーション、アンコールまで巻き起こったぜ。でもまったく起きねぇの!」
「いつもながらさー……」
襟元をしめつつ、イツキはため息混じりに呟いた。
「……居眠りする生徒にそこまでやって、よく親とかに訴えられないよなぁ……モンスターとか怖くないの?」
「なーに言ってんだイツキ。こういうのは『怒られなさそうなヤツ』をきちんと見極めてだなー、その上で慎重に慎重に、コツコツやっていくんだよ!」
「相手を選んでるんですね……」
時永が苦笑いする。
……絶対真似をしたくはないスタイルだ。イヌカイらしい。
「それに怒んのは俺の権利だ。義務であり教育だ。俺が悪いわけじゃなく、授業中に寝るヤツが悪いわけであって、俺はな~んにも悪くな~い」
「まあ実際……どんなクレームがこようが犬飼先生ならどうにかしそうです。それこそモンスターペアレントも余裕で論破しそうですしね」
「実際に相手取ってやらかしたこともなくはなかったりするんですぜ、これがまた!」
けらけらと得意げに笑うイヌカイ。思わず呆れたイツキだったが、ふと異変を感じて立ち止まる。殆ど同時にイヌカイが気がついたように言った。
「……さて。またいつものヤツがお出ましか?」
――……ピューン!!
おなじみの音とともに現れた“それ”を見て――時永はため息をついた。
「惜しい。音は同じですが、また新しい形ですね」
……そのゴーレムは、音もなく虚空から舞い降りた。
いつもの黒色でもなければ、少し前に出てきた空飛ぶ青いゴーレムでもない。異質の塊。
「――――――!」
目の前に躍り出た、眩いばかりの赤紫。
ギラギラと禍々しく輝くゴーレムは……まるで東洋風の龍か、胴の長い蜥蜴のような形をしていた。
* * * *
ミコトは駅前をぶらぶらとうろついていた。
まっすぐ帰れと言われたけれど、とてもそんな気分にはなれない。……ああ。
――「 」
底のない空白を覗き込んだような違和感。気持ちの悪さ。謎の雑音が耳の奥をよぎる。
……不快。また、仲間はずれだ。
ため息をつく。一人っきりでいるほど楽しくないことはない。せっかくこんな『楽しい世界』になったのに、また一人だなんて……ん? また?
そう心の中で呟いて、次の瞬間また違和感を感じた。……やっぱりおかしいな。何かが違う。歯車が噛み合わない。
と、その時だ。
――ダンッ、カッ、カッ、カッ。
「とうっ! ――ッッッばぁ!」
「ひゃ!?」
歩いていたら大通りの横から足音を鳴らし、『何か』が勢いよく転がり出た。……体操選手のようなアクロバットだ。
「……いっやあ、ごめんごめん。そこまで驚かなくても大丈夫だって。ハロー!」
「は、はろー……?」
パシッ! 体幹のブレない華麗な着地に当然、ミコトは困惑した。
セミロングのストレート、ムーンサルトしながら歩行者に突撃してくるスレンダーな美人。まあ案の定だが――心当たりなんてゼロに近い。
「なんだー、間近で見るとやっぱ可愛いじゃん。罪なことするよね神様も」
「?」
困惑したミコトの足が少し、後ろへ。
――ああ、いけない。
谷川ユキはニヤリと笑って退路を塞いだ。そもそも、こんな登場の仕方をしたのだってギョッとさせて行く先を阻むためなのだし。
「長い髪。ポニーテールの似合う可愛い高校生。――君の名前は時永ミコトちゃん。ちがう?」
「!」
初対面の人間に名を呼ばれたミコトの足が、ふと止まった。
「あなたは……」
「お父さんの古いお友達、って言ったら分かるかなー? 君のお父さんがチケットを持って君を誘った理由の一つ! ホラ、聞き覚えない? 『お客さまに注意事項を申し上げます。当公演は前編後編合わせて――』」
「ああ!」
覚えのある文句だ。透き通った清流のような響き。
ミコトは合点がいったように頷く。――これ、さっき聞いた!
「そう、休憩のときは違うけど、公演前の方はあたしが喋ってたの! うーん、覚えてくれてたなら重畳重畳」
打ち上げを抜けてきたばかりの谷川はニヤリと笑う。
――今頃、佐田は頑張っているだろうか。
頼りないけれど。優しいけれど。あの子は誰より親友に厳しい。
ああ、なら。
こちらもやるべきことは済ませておこう。
「……ねーミコトちゃん、ちょっと向こうでお話しない?」
「お話ですか……?」
「お茶くらいなら奢るからさ、それともコーヒーがいい?」
だってこっちは今から――『ちょっとした荒療治』で、世界を守るのだ。