3.君の後ろを歩く人
劇の後半も無事終了した。時永はまだ劇場に残っている。
「……で、結局植苗くんは」
「はい?」
「あの【強風】の、原因も正体もわからずじまいと」
「ええ、まあ」
そう。「寄り道せずに、できるだけまっすぐ。屋根のあるところを選んで帰るんだよ」とミコトに言い聞かせて。
「……ミコト、帰っちゃいましたね」
「ああ」
同じく残ってベンチの縁を所在なさげに掴んでいるイツキに、時永は思わず苦笑した。
「本来なら、ミコトを連れたまま皆で晩御飯でも、と思ったんだけどね」
「明らかにオレたちと距離とってますもんね、あの子」
よくよく考えてみるとまあ、『そういうこと』なのだろうな、とは――イツキにも察しがつく。
今まで散々「ミコトがいない日」に家に招いて記憶を戻したり、ミコトを突き放してまで一緒にゴーレムの相手をしたり。あくまでイツキとイヌカイはミコトと別個に扱う方向性だったのがこの時永だ。
「様子を見ながら徐々に引き合わせよう」――大方、元々はそんな魂胆だったのだろう。
イツキに対して、いつまで経ってもよそよそしい。それどころかイヌカイに対しては見せる表情が異常にカタい。
学校でだってそうだ。昇降口付近で時永がミコトと喋っているところに、通りすがりのイヌカイが挨拶一つでも声かけしようものなら――その横にいたはずのミコトが、まるで人見知りをしたように後ろに隠れたり、逃げたり。
そしてそんなミコトとイヌカイに挟まれた時永が、大抵、とても申し訳なさげな顔をしていた。
そんな様子をイツキは幾度も目撃しているし、そういうときはミコトが更に委縮してもアレだ。結局声をかけたり、合流はしないようにしている。
「………。」
そんな気まずい空気の中――イヌカイもイツキもいる場に、ミコトをわざわざ連れてくるなんて時永らしくもない。いや、らしくないというのはおかしいか。
恐らくはその「妙な距離感」をどうにか縮めたり、取り持とうとしたに違いない。
――結果的にいうと勿論、失敗したのだが。
「……ミコト、一人で帰してよかったんですか」
「頭の中が疲れてそうだったからね」
そういう部分をひとつひとつ、細かく観察していくにつれ――ふと思う。
本当にこの世界の時永は人間くさい。
以前の【クソ眼鏡】ならそこまで気を回す人だったかは、甚だ疑問だ。
イツキにならまだともかく、ミコトとイヌカイの距離感は今のところ――どれだけ近づけようとしても遠いままだった。イツキには図書館の一件以降『すれちがいざまの会釈』まではするようになったが、イヌカイには変わらず『そっけない対応』を繰り返している。
「……正直、僕にも責任はあるんだよ」
ベンチの下に落ちていたチラシをふと拾い上げ、時永は苦笑する。
「たぶんだけどミコト、『お父さんがかまってくれない原因第1位』だと思ってるんだ、犬飼先生に関しては」
――ああ、なるほど!
イツキは噴き出す。そうだ、確かに声が大きい分目立つというか、表立って時永に声をかけるイメージがあるのはイヌカイの方だ。
――私のお父さんを取らないで! みたいな感じなのか。
「『まーたあの空気読めない系おじさんに、私のお父さんが独り占めされてるぅ』的な感じですか」
「さすが植苗くん、女の子の機微が分かるね」
「オレ以外分からないと?」
「うん、僕はさっぱり」
「嘘つかないでくださいね、モテ眼鏡先生」
ジトッとした顔でイツキが返す。――しかし、納得がいった。つまり【軽い逆恨み】か。
「あー……まあ、僕がモテたかはともかくね? 『話しかけようとしたら先客がいる』だとか、『先に来たのは私なのに、外野が話しかけてきた!』みたいな状況がずっと続いてたら、そりゃあ【いつも邪魔な人】くらいのイメージにはなるだろう?」
「……そう考えると、本当にべったり感がすごいなあ、ミコト……なんですか、前より随分と親子の距離感が近いじゃないですか」
「ん? ああ、それはもう」
そもそもの話、ミコトは内弁慶。
それも『慣れた相手』にほどベッタベタになる子だ。
今はそれに輪をかけてこの状態――ともなれば当然、集中砲火を受けるのは時永だった。
「16年間ぐらい塩対応の父親が、珍しくベタベタしても怒らないからね!」
――なんというか、今のうちだと思ってるんだよ、きっと。
そんなことをこぼす時永に、イツキは苦笑いを返した。
「……時永先生、それについてはどう思ってるんです?」
「何が?」
「ベタベタのミコト」
「控えめにいって天国だ。――いや、冗談だよ。ともかくあの子、愛情には飢えてるから。僕にぶつけなきゃバランスが取れないんだろう」
「そこまで分かってて。ああ、いえ」
イツキは一瞬咳ばらいをし、口をつぐむ。
……この人の言い分も何となくは分かりかけてきたところだ。
別に口うるさくいう気はない。そういうのは結局タイミングがあって、機会があって、それからようやく自分ひとりで向き合うものだろう。
……そう、イツキは思う。
――いい大人相手に口を出すことではない。少なくとも今は。
「でも、だったら……尚更一人で帰らせて大丈夫ですか、あの子」
――それこそクロノスだったり、もしくは何らかの悪意からすれば、今がチャンスなのでは?
時永は苦笑した。
「……さすがに痛い目というか、怖い目に遭った後だろう? 大丈夫大丈夫。少なくともどこかしらで警戒くらいはしてる。ミコトだってバカじゃないさ」
――ははあ。えらい自信だなあ。
イツキは内心、思いっきり呆れた。
呆れはしたのだが。まあ――同時にどこか、微笑ましくもあった。
「……」
「何、その微妙なリアクション」
「いえ」
この男はそれだけミコトに対して根深く。そしてしつこく、猛烈な信頼をしているのかもしれない。
……そう、元の世界ではまったく人に信頼を向けなかった、あの時永がだ。
「あと僕が思うに――あれは【強風】という現象じゃなくて生命体だ」
時永は首をすくめる。
「それもリモートコントロール式のね。ミコトの指令でモブをしてる張りぼての人間とか、異物を取り除くゴーレムと同じで――引き起こす本体が、必ず近くにあるはずなんだよ。ここで足止めしておけば、少なくとも強風はこの近くにしか吹かないし、現れない」
「何か根拠があるんですね?」
時永がミコトを先に返してでも残ったのは、その根拠、もしくは心当たりが理由だろう。
「……あれ、もしかして、本当にゴーレムみたいなものなんです?」
「【強風】のことかな」
イツキと時永のやりとりだけが響く、静まり返った玄関ロビー。ほんの15分前まではまだ人もいたが、今は誰もいない。あの熱気と熱量が嘘のようだった。
「一応、まだ姿が見えていないからね。なんともだけど……一応、憶測ぐらいなら成り立つかな?」
「……憶測」
「これ、たぶん単純なアレじゃなくてきっと複数のケースが重なっていると思うんだけど、まず一つ目。――初めにここに注目してみよう。ミコトは今日ここにきて、『隙を見せた』」
手元のチラシを折りたたみ、時永はゆるゆると口を開く。折るつど、幾度か形を変えていくチラシ。
「いつもだったらクロノスとか、敵性のものに攻撃されたところでやり返してるさ。この世界はミコトを中心に回っていて、張りぼてのキャラクターたちは全員が、頭のどこかで――自分を創った存在と繋がっている」
「…………」
「だから当然のごとく。いや、よく考えてみると例としては最悪だな――えっとね。攻撃を感知した瞬間、その辺の人間がミコトを庇うんだ」
「え」
思わずイツキは時永の方を振り返った。
「ミコトだって君と同じだよ。人を盾にするくらいの姑息さはあるさ、ミコトだって痛いのは嫌だろう?」
「それは……」
……言われてみるなら、確かにそうだ。
もしも自分だったら何をするか。ミコトの立場にいたら。誰かに襲われて……身を隠す手段がとっさになくて。それで、目の前に知らない人がいたら。
「……だからきっと」
時永は長い指でついっと、紙の角を伸ばしながら口を開く。
「『無意識に、命に優劣をつけている』! ……これが結構重要なのさ。そう、一般人というユニットは無数にいるから、一人脱落したところで替えがきく!」
……トカゲが尻尾を切るように。タコが足を一つ犠牲にするように。ミコトは『身代わり』を選ぶ。
「こうして言うと、ミコトが悪者みたいだけどね、まあ事実だ。……普段はエキストラとして重用して、いざとなれば防衛機構――ミコトの手足と同じになる。いや、手足ならまだ痛いか。きっと髪の毛とかに近い。無数にある髪の毛が一本、引っ張られて抜けるみたいな痛さだ。それで自分が守れる」
我が身可愛さというやつだろう。少し悪い言い方にも思えるが、結論としてはそう言った方が手っ取り早い。
「ただ、ミコトもできるだけそれはしたくないと思ってるんだろうね。僕も【それ】を見かけたのは一度だけ」
ミコトの記録に異変があった。それを頭の片隅で勘づいたとき――既に、帰りの電車に揺られていた時永はハッと夢うつつから浮上した。ゴーレムの攻撃を避けつつ、散々走り回ったせいだろう。ふいにうとうとと座席で首を揺らした瞬間、意識が切り替わる。
少しのノイズ。
見覚えのある、赤いフリース。
……その子の後ろから聞こえた、過剰に暴力的な音。
自分のそれに散々振り回された時永にはもう「耳が痛い」ほど分かりきった話だったが――どんな人間にも当然、攻撃性はある。
その夢は……その視点は恐らく、ミコトがそれを発揮した瞬間だった。
「この世界で一番のトップ。つまり王様なミコト――でも彼女にとって『モブキャラクター』は、結論として【絶対に守らなきゃいけないもの】ではないらしい。ああ、勿論盾にするくらいだから一番下の優先順位なのだけど……それでも同時に、その【一番下の駒】は【絶対に自分を裏切らない味方】。ミコトが王様なら、モブはその下っ端兵士なんだよ。扱いとしては」
「……」
それを聞いたイツキは――少しだけ、目を瞬いた。
……指摘されるまで何も思わなかった、ミコトの身勝手さ。それでもあの子にはおそらく悪意がない。『そこまで考えていない』だけだ。
時永も承知しているのだろう。あえて悪しざまに言うことはあれど、それでも本気で責める様子はなかった。
「たとえこれから先、『モブキャラクター』がミコトに敵意を向けた――そういうことがあったとして。それはこの世界に当たり前に存在していた『人』から『ミコト』の接続が切断されたということだ」
高い天井、切れかけた電球を見上げながら時永はいう。
「それは『ミコトの手足や髪の毛』には二度と戻らない。ミコトのいるべき場所に、クロノスが収まってるってことが大半だからね。本能レベルのところにクロノスからの指令が割り込む」
「……」
イツキは少し目を閉じた。その後、口を開く。
「ミコトが『使った人』はどうなりましたか?」
「ん?」
「その、見かけたときの」
時永はふう、と息を吐いた。
少し声のトーンを落とす。
「……生きてるよ」
* * * *
――「……橘先生」
あの日の翌日、説話の研究室にやってきた橘の片手には湿布と包帯のようなものが巻かれていた。
ミコトという存在を身を挺して守った、張りぼてのモブキャラクター。
あの時ミコトを後ろからなで斬りにしようとしたゴーレムの爪は、飛び込んできた橘の左手に食い込んでいたように見えた。
――「はい?」
――「その腕、どうしたの?」
――「あー」
橘は言葉に迷ったように左手をぷらりと動かした。
何があったのか、覚えていないのかもしれない。
――「……ちょっと転んじゃって」
――「……痛くない?」
時永が問えば、彼女はニッコリと笑い――まるで、最初から決められた台詞だったかのように。
――「はい、見た目よりは!」
* * * *
「……そのまま、何事もなかったかのように」
「なら、いいですけど」
あの腕の打ち身は、たぶんそういうことだろう。
「……『モブキャラクター』を盾にするのは、対クロノスだったり、対人の防御としては最適だ」
時永は、器用にチラシを【鶴の形】に折りながら口を開く。
「前も言ったけれど、クロノスは『ミコトの世界』を常に全部、理解できているわけじゃない」
「……ガラパゴス化した携帯ですね」
イツキは以前、イヌカイが現状をたとえた一言を思い出した。
――「日本産の携帯電話を見た海外の技術者が困惑する、みたいなもんだな!」
時永は頷く。
「……そう、人が襲ってくるっていうのは解析の難しいブラックボックスが襲ってくるようなものだし、手駒も相手も張りぼて並のものだったらそもそもが同レベルだから、ミコトの無意識が少し手を貸せばオーバーキルして終わる」
クロノス側に立った張りぼてが、もし相手と戦ってかなうとしたら、同レベルの『ミコトの張りぼて』相手に拮抗して勝つくらいだ。
でもミコトの張りぼては基本的に単体ではない。
「攻略に手間がかかるのを、向こうだって分かっているんだよ」
「……ミコトをほっといても大丈夫だった理由の一端は分かりました。でも今回、なんでミコトは『盾作戦』をしなかったんです?」
ふざけて折ったに違いない【折り鶴】をスルーしつつ呟いたイツキの問いに、時永は首をすくめる。
……ムキムキの足がついた鶴が膝の上で直立した。
「……これは僕の失態だと思うんだけど、君がいたから、じゃないかな」
「オレがいたから?」
「ミコトってほら、君にはまだ普通に話すだろ?」
「ええ」
「だから、君が隣にいることで……その、少しでも、お喋りしてくれたらと思ったんだけど」
イツキは張りぼてのモブキャラではない。【外の地球】からきた生き物だ。
だから一から十までミコトの影響下にあるわけではなく、そのやりとりも都合よくは運ばない。時永としては「会話」してくれるだけでよかった。
喧嘩してくれてもよかったし、かつてのように仲良くなろうと、それはそれで。……まあ、少し寂しいが。
「『箱庭の人形遊び』にはならない。それが大事なんだよ。今のミコトは内側に引きこもっているのと同じだから」
夢の中にいるのと同じだ。……自分の想像力が創り出した空間の中で、自分の想像力が創り出した人間と会話している。
「夢から覚めるには、何をすればいい? ……外側から音を立てる、おでこを弾く、なんでもいい。知らないものに触れて、想像力の及ばない何かに関わるのがいいと僕は思うんだ。でもね。ミコトからしたらそれは、あまり気持ちのいいことではない」
【未知のもの】に対する恐怖を植え付けたのはきっと、あの時永だ。
悪事をはたらいた。人の運命を弄んだ。
それを一ミリたりとも、悪いと思わなかった。
それはまるで当たり前のように。
……今までミコトは息を吸い込むように、無意識ながら改変能力を使い続けてきた。
大抵の物事は都合よく運んだが、さすがに彼女にもどうにもならないものがある。
『彼女の中の常識では意味の通らないもの』。
そして、過去の出来事。
――それはもうどうしようもない。なかったことにすらできない。けれど、ミコトから見ると決して見過ごせないもの。
「……あの子にとって、『知らないもの』がやってくるのは怖いことになってしまった。犬飼先生が言っていたけどね、『分かりきったことを繰り返して安心する』っていうのは、小さな子供がよくすることだそうだよ」
ふと思い出す。それは少し前の中間テストでイヌカイの背を叩き、解説を要求した言葉だった。
「……強化ですか」
「心理学用語だとそういうらしいね」
子供が好きな動画やアニメを繰り返し見るように。……一度見たもの、聞いたものは何度見ても結末が約束されている。楽しかったものなら、記憶通りに楽しいオチが待っている。それを『正の強化』という。いい刺激があればそれを繰り返すのが人間だ。
けれど、見たことがないものは未知数だ。そこで『新しい楽しさ』に出会うのに失敗してしまったら、その子は二度と新しいものに挑戦しなくなるかもしれない。
これを『負の強化』という。
……嫌なことがあれば、途端に生き物は学習する。それを一切しなくなる。それがたった一度であれ、嫌な出来事であればあるほど、避けるようになる。
そして繰り返せば繰り返すほど、その忌避や嫌悪は強くなる。
「君が知ってる以上に引っ込み思案だろう? ここのミコトは」
ミコトは元々内にこもりがちな子だ。友達もめったに外に作らないし、手の届く範囲の中に喜怒哀楽を見つける控えめな性格。
それでも彼女は、ここぞというときに好奇心を優先する女の子だった。
少なくとも初めてイツキと出会った頃のあの子は――見慣れない生き物に話しかけるし、その生き物に尻尾があれば引っ張る子でもあった。いや、怒られたら勿論しなくなったが。
「……『慣れないことはするもんじゃない』。そう学んでしまったんだよ、僕といることで。期待なんてしてはいけないし。それが良いことだとも悪いことだとも断じたくはない」
「…………」
「人は決断する生き物だ。それは確かに成長ではあるけれど、見ようによっては退化だろう?」
――新しいことに怯えてしまう。
それがミコトの性格になってしまった。
――見慣れないものを嫌ってしまう。それでも触れようとすれば変に緊張して、動悸と消耗を繰り返す。
「大概の物事から目を逸らすのはそのせいだよ。ミコトは今『とても気持ちのいい夢』を見ているけれど、本当だったら君の素性を知っているし、そこに絡んだ【僕の姿形をした悪意】も覚えている。それを思い出すつど、ミコトは嫌な気分になるし、消えたくなる」
「……」
「ミコトはフラッシュバックを繰り返す。一瞬思い出すんだよ。身近にあった地獄のすぐ横で、のほほんと過ごしていた自分のことを」
ぬるま湯に浸かりきっていた、気づきもしなかった、知ろうともしなかった。
それをふとした拍子に思い出す。
――なんで、この人のことをよく分からないんだっけ。
ああ、他人だからだ。――あれ?
じゃあ、なんでこの人たちだけ他人なんだっけ。
――なるほど……そうだった。
直視するのは嫌だから、また【忘れて】しまおう。
たぶん、そんな思考のループを繰り返す。
「……これがきっと、さっきいった理由の一つ。モブと自分の優劣が『一時的に入れ替わった』。彼女が隙を見せたのは何故か? そう、当たりにいったんだ。トラウマごと自分を消し去るために」
「……」
「ミコトが隙を見せたのは『自傷行為』だよ。言ったろう? ミコトは自分に全ての責任を押し付けている。――もっと早くに気づけなかったのか、もっと早くに僕を止められなかったのか。現実で僕がしたことも、自分の責任と思って背負い込んでるんだ。それから……多分だけど」
一度、言葉を途切れさせて、時永は少し考え込みながら言った。
「……自分が植苗くんや犬飼先生にしたことの善悪が、あの子はよく分かってる。いくら無理やり自分の領域に踏み込んできたからといって、人の記憶を消したり、いじったりするのはよくない……いや、よくないじゃすまないな……きっと『大好きなイヌカイさんに引っ叩かれる』」
イツキは少し噴き出した。
……引っ叩かれるだけで済むと思っているのが、またあの子らしい。
「だから、【思い出した一瞬】で自分への攻撃を受けようとした」
「もう次の瞬間には覚えてないのに……ですか?」
「うん。あと、更にいうとだ……『あなたのことなんか知りませんよ!』という振る舞いをして、傷つかない人間はいないだろう?」
ああ、イヌカイに対するあのしょっぱい対応とか。
図書室での自己紹介とか。
「……あの子からしたら、『現在進行形で更に悪事が重ねられている』んだから、これはもう思い出した瞬間にヤケのパニックで消そうとするだろう、自分ごと」
「ぶっ」
――少なくともイヌカイの方は、意外と気にしていないと思うのだが、その辺。
だが、あまりにミコトらしい思考の幼さにイツキは少し笑った。笑っている場合ではないのだが。そして、今、確かに時永は言った。
ミコトが自傷行為をしていると。自己嫌悪しているのだと。
「……ミコトは、『オレたちの境遇に気づかなかった』ミコト自身に対して――消えちまえ、って思ってるってことですか?」
「そうだね」
「オレたちはかえって、ミコトに救われたようなものなのに?」
……あの子がいなければ、イヌカイは奮起しなかった。たぶん自分もどこかの段階で衰弱死していたに違いない。そう、イツキはなんとなく思う。
馬越さんだって、どうだったか。――今も変わらない生活だった?
「……あの子がいたから、自由を勝ち取れた」
「自由だったかい、君は」
ぽつりと時永はいう。
「……足も動かないのに」
「意外と自由でしたよ。あなたのおかげでね」
イツキは意外と屈託なく、澄んだ目で彼を見た。
「空想だけならどこへだって行けます。考える時間だけはたっぷりあった。……オレの想像力を培ってくれたのは、どう考えたって子供の頃のあなたの授業だった」
「……」
ミコトに語ったように、アレは嫌な思い出になりつつある。定位置から見上げ続けた星空も、そこから見上げた星座の星々も。この上なく綺麗ではあるが、それは冷たい記憶だった。冷たくはある。――けれど、今から察するに、きっと必要なことだった。
「オレが今ここにいるのはあのクソ眼鏡のせいだし、そのおかげでもある。ミコトだってそうだ。オレが立ち直るのを一から十まで見守ってくれたのがミコトだったんです。――のほほんと過ごしていた? それに罪悪感なんていらない。それが必要だったんです、オレには!」
……言い切った。そのイツキの力強い言い切り方、ある種の剣幕にキョトンとした時永は、少し間を置いて――へらりと笑った。
「そうだね。……君には、そうだったのかもしれないね」
「…………」
「全力で卑屈になってる今のあの子には、きっと何も届かないけれど」
実際、同じように卑屈な一面を持っているこの時永には痛いほどよくわかる。
一度卑屈スイッチが入った人間は、物凄い頑固だ。それはもう手が付けられないぐらいに。
「ああ。でも、だ」
だから暫く対処療法しかできない。当人がそれはおかしいと自覚するまで、どうにも止めるすべがない。……だからこそ。いつか手を差し伸べてくれる人間が、そこにいてほしい。
大学生活2度目の冬。あの時の自分みたいに。
「でもだよ、植苗くん」
「なんですか?」
「……なんというかな。ありがとう」
休憩時間。ミコトを追ってきたイツキと目を合わせた、その瞬間――時永はあえてイツキに行かせた。
本当は、『お父さん』である自分が対処してもよかった。あの子を崖っぷちから引き上げるのは――自分だって、よかった。
何せ劇場についた頃から、意識の片隅に違和感があった。「ミコトが何かに巻き込まれる」のはなんとなく察していたのだし。ミコトの元気が普段よりないのは気づいていたし、疲れた顔をしているのも理解していた。
表層の意識に、罪悪感が浮上してくるのは時間の問題だ。
ミコトはイヌカイを遠目で見かけてから。そしてイツキを見かけてから――ひどく居心地が悪そうにしている。ミコトは自分の願望を叶える女の子だ。それは悪いことだって例外ではない。
『自分に罰を』と思ったら、それはそれで色々なことが降りかかる。
転んだり、飲み物をこぼしたり。
……どうしようもないほどに、ミコトはこの状況を、こころよくは思っていなかったのだ。
――それを見て、殊更「悔しい」と思った。
――目を、逸らし続けて欲しくなかった。
今までそうだ。思わせぶりなことだって散々言った。直接的に言えばゴーレムが湧く。一度死んだ挙句、時間が巻き戻る。
それを何度行ったかわからない。
いったい何度口にしただろう。「君の父親はどクズだ」と。
悪いのは自分であって、君は悪くないと。
結局どこまで繰り返したかも……もう分からない。
それでも時間はゆっくりと進んでいく。ゆっくりゆっくり、この身が『父親という役柄』に馴染んでいく。
最初こそ、ごっこ遊びだった。お芝居にしか過ぎないと思っていた。
それでもその女の子は――何度確かめても、16年前のちいさな赤ちゃんだった。
分かるのだ。いくらその子が大きくなろうとも、その子がこちらを覚えていなくても。窓辺でバッタを見たときに握った――一番初めの誕生日に指を触れた、あの小さな手を思い出すのだ。
「……僕は……」
結局、自分はこの世界でしか生きられない運命だ。試験管の中の小人のように。
外にはどこにも、もう自分の体はないのだから。
そもそもあのとき――ミコトの母親が死んだとき。一緒に死んでいるに等しかった。
半ば幽霊のようなものだ。
ここに意識を持っているのは――【時永 誠】の自覚があるのは、奇跡のようなものだ。
だからもしこの世界という『夢』からミコトを目覚めさせることに成功した時……自分は、きっと消滅する。
悔しいが、あの子をいつまでも守っているわけにはいかない。
……そう、思っていた。
「……ああ。うん。今気づいた。……僕は、きっと嬉しいんだろうな」
「はい?」
「そんなふうに言ってくれる人間がいるだけ、ミコトはちゃんと救われている」
瞼を少しだけ拭って――時永は諦めたように、かわいた笑いを少しだけもらす。
「そして僕は、きっとその分だけ、そう――ほんの少しだけ、ラッキーだったんだろうな!」
……「父親」がろくな相手をしなかった頃。そして、イツキやイヌカイに出会わなかった頃。
ミコトはずっと家に居ても、安心して、手放しで甘えられる対象物がなかった。
聡い子だったからかもしれない。馬越さん相手には愛らしく普通の子供らしく、無邪気さと大人しさを全開にして振舞ってはいたが、今ミコトと繋がっているこの時永にはわかる。
……あの子は「どこまで寄りかかるか」、「どこまで頼っていいか」をずっと、ちゃんと計算していたのだと。
つまり、ある程度の線引きはしていた。ある意味、居場所がないというのと同義だったのかもしれない。
……それはまるで、『あの人』に会う前までの、いつかの自分のようで。
しかしそんなミコトを思いもよらぬ形で支えたのがイツキとイヌカイで、その2人の中で特にミコトが心を開き、懐いて慕ったのが。全力で「寄り掛かった」のが、目の前にいる少年……イツキだった。
「………。」
……ミコトという子が、一番懐いた人間。
だから。そう、多分……父親として、というのもおこがましいが。
一度。二度。三度。
言葉を交わして、その目をみて、行動を見て――確かめてみたかったのだろう。
本当にこの植苗イツキが、ミコトを支えられるのか。
自分にとっての『あの人』みたいに。……愛情だとか友情だとか、そういうフワフワしたものでいいから。
……どうか。
そう、どうか。あの子を助けてほしい。
「……なんか、すごく偉そうなことを言ってた気がするね、僕以上のミコトの専門家に」
「いや、偉そうなの当然でしょ時永先生。……オレ、高校生ですよ?」
「そうだね」
そしてその答えは、いとも簡単に視界に転がり込んだ。……あっさりと。
確かに彼は見た目、一見頼りがいのない少年である。精神的にも同様だ。落ち込みやすく、すぐまわりの環境に左右されてしまうナイーブな性格。
ただ、彼にはここぞという時の決断力がある。過去を怨めど、憎めど、恐怖せど。自らが選んだものには後悔しないまっすぐさがある。……純粋でひたむきな、優しさがある。
そして何よりも悔しかったのが……
彼には色々な意味で“負けてしまった”自分と違い、人を守りぬくことのできる明確な心の強さがあったこと。
そう、とっくの昔に分かっていた。
ミコトの記憶を読んだとき。グレイブフィールの触手から――ミコトを守ろうとしたときのあの表情を見て。それからミコトを先ほど助けたとき。
あの子に手を差し伸べたとき。……あの、真っ直ぐな視線を見て。
「……。うん」
誰にも悟られぬよう、拳を強く握りながら時永は言う。
「……さて。犬飼先生も用事が済んだみたいだし、待っても何かが出てくる様子はない。からぶりだ。帰ろうか! 植苗くん」
「そうですね」
劇場から出てきて手を振るイヌカイを見ながら、時永はつとめて明るく声をかける。
それに返事を返すイツキは外見的には変わらずとも、外にいた“自分”が出会ったときよりも少し大人びた表情をしていた。
「悪いなー、待たせて」
「平気だって! こっちこそごめん。打ち上げとかあったと思うのに」
「ああ、あるらしいな。随分豪勢なのが。……だが、俺としては正直興味が薄いんでむしろ助かったってところか。辞退する口実が出来て」
「へぇ、じゃあ僕らも役に立てたってことで良いんですね?」
イヌカイも交え、少しだけ盛り上がる他愛もない会話。異世界も過去も関係ない、ただ少しふざけた内容のそれに……ふと。
「犬飼先生。その通りをもう少し行った先に、ホームセンターがあるでしょう」
「あるな」
「……その近くの喫茶店、モンブランがおいしいの知ってます?」
学生時代、大切な人といつか歩いた帰り道を思い出し――時永は頬を少しだけ緩ませた。