2.太陽の子
――いつもながら長丁場の舞台だ。
そう、イヌカイはのびをしながら思う。
佐田の役柄が退場したところでお客さんは寸止め。
当然じわじわと盛り上がりきったところなのだが……ここで休憩が挟まるのもまた、絶妙なバランスだ。
「はあ」
イヌカイは緊張を解き、ため息をついて時計をチラッと見た。
一応時間の余裕はある。
「受付辺りの様子でも見に行ってみるか……っと」
ずっと座っているよりも、その方が気分転換になって良いだろう……そう思いつつ、固まった足でトテトテと急階段を降りる。
ちらりと表を見てみれば、フロント室から見下ろしたとおり、やはり人は多かった。
「はっはあ。やっぱ混んでんな……お?」
――ぽすっ。
「すっ、すみません……」
独り言を呟いていたイヌカイにぶつかってきたのは、【どこか見覚えのある少女】。その手には、空のペットボトルがあった。
イヌカイはふっと息を吐き……思わず前同様、頭をポンと触れた。
「それよりだな。時永さんちのお嬢さん」
「は……はい?」
「ゴミ箱はそこ右折、トイレは一旦出て左折。……で、お探しのものはあってるよな?」
わしわしっと前髪を軽く擦れば……ミコトは嫌そうに目をつむった。
「ん?」
「失礼、します!」
ミコトは無理やり頭を下げ、ぺこっと会釈して駆け出す。瞬く間に見えなくなるその背中に、イヌカイは苦笑いを返した。
「――ハ、思いっきり逃げやがった」
「犬飼先生、威圧感ありますからね」
ミコトの後ろをちゃっかりつけてきていたらしい時永が、ひょっこりと顔を出す。
……その右手にはミコトのだろう、可愛らしいリュックサックが握られていた。
「……前のが怖かった自信はあるぞ」
「慣れの問題でしょう」
しかしこの時永。大方、荷物番として残されたのだろうが……その荷物番が荷物と一緒にぷらっぷらと散歩していたら、正直さほど残していく意味はない。
「でもあの子、何も言わないのによくわかりましたね。要件」
「まあな……最近は冬らしいことに空気が乾燥してるんでね」
ミコトをそのまま追いかけるつもりもないらしく、口の開いた缶紅茶に口をつける時永。……それに付き合う形で壁に寄りかかりつつ、イヌカイは口を開く。
「ついでに言うと、こういう場は埃も立つ。劇場なんてそんなもんさ。暖房が効いてるし、水分補給もしたくなる」
「なるほど?」
「その上、右手には空のペットボトルが握られてるときたもんだ」
イヌカイはわざとらしくぺちぺち、自分の寄りかかった右手にある案内図を叩いた。……そう、その手が指す通りここから無事なトイレまでは遠い。だから休憩時間も割と長めだ。
「ミコト、以前から女の子の割にトイレが近い印象があるからな。恐らくだが、実際に近いんじゃなくて慌てて行くことが多いんだわ」
「へえ」
「誰かさんと同じで、目の前のものに夢中になると後回しにする癖がある」
「……。あ、僕ですか?」
「他に誰がいるってんだ」
イヌカイはあらためて噴き出した。……まあ、自覚がないのは知っている。
この善人時永――本物か偽物かはともかく、設定上は父親役なのだ。血縁というものは得てしてそういうものだし、更には共同生活をしていると傍目からは意味不明の細々としたところがダブってくる。
「キョトンとすんな。あんたの場合は殆どそういうのいかねえだろ、吐き気がどうとか以外」
「えー、そんなに生理現象のイメージありませんか僕?」
「逆に不安になるんだって話さ!」
と、そこに、ひょこりとイツキが顔を出す。
「イヌカイ! ……ミコトは?」
時永が代わりに答えた。
「外行ったよ」
「ああ、ホラ」
イヌカイは首をすくめる。
「アナウンスでもタコスケ野郎が言ったが……ただ今館内のトイレは男女ともに工事中だ。経年劣化だってさ。腹痛持ちは入館しちゃいかんのだと!」
「へえ、いないんですか、腹痛持ち」
茶化すように返した時永に、イヌカイは呆れ半分に呟く。
「何、キャスト&スタッフ? あれだけいたらそりゃいるよ可哀想に。っつーかどうしたイツキ。何かミコトに用事でも?」
「……うん、まあ」
時永は目も合わせずさらっという。
「……後をつけるなら早くね」
「!」
イツキは一瞬、時永を見た。
……目があった瞬間、足がガバッと動く。
「え? あ、おい!」
イツキらしからぬ全速力だった。イヌカイは驚愕の表情で一瞬、時永と飛び出していくイツキを見比べる。
「今の何のゴーサイン!? 親公認ストーカー!?」
「――……」
時永は「はあ」と息を吐き――とってつけたような渋い顔でちらりとイヌカイを見る。
「何だよ」
「いえ、別に」
時永はぐいっとリュックと逆の手に持っていた缶紅茶を飲み干すと、ゴミ箱方面に向かってすたすた歩いていった。
「……何だよ、あのヘンテコな態度」
――口はムッとした一文字。それでも奇妙に明るい、その声の質。
なんだかワクワクしているような。楽しそうな。
なんだろうか、一面のアルパカの中にヤギが混ざっているような違和感だ。
イヌカイは息を吐き、諦めたようにフロント室へと帰っ……。
「ガッ!」
「……待ってください」
――スカーン!! そうゴミ箱に缶がジャストインした音と一緒に、グイッと視界が天井を向いた。
すぐに戻ってきた時永の声。首根っこが後ろから掴まれているのに気づき、イヌカイは慌ててふりほどく。
「仔、猫、じゃ、ねえんだからッ!」
「あ、はい」
「……で、どうかしたのお前……」
時永は手でメガホンを作った。……ああ、内緒話のジェスチャーだ。
イヌカイは息を吐く。――どうせこちらの聴力なら小声だろうと聞き取れはするし、なんならこのロビーのように大勢がワイワイしてても息遣いまで聞こえるのだが。
「今、ミコトが襲われました」
「何?」
しかしさすがに聞き返す。聞き取れなかったのではなくて、内容の唐突さにだ。
「風景からして、すぐ外ですね。あれは……よく分かりませんが……突発的な、風でしょうか」
あ、そうか――イヌカイは一拍遅れてようやく気づいた。
この時永、ミコトの記憶をリアルタイムで読んでいるのだ。
「ともかく見えない何かに、こう……横から突然グッと押されてバランスをくずした上」
ズリッ、と時永が横を向き――2、3歩後ずさりして片足立ちになった。
「足がズッと車道側へ」
「ゲッ、殺す気だろそれ。原因クロノスだとして、結局悪意マシマシじゃねえか」
イヌカイは案内図を頭に浮かべた。
――アナウンスやリーフレットにいくつか案内があったうち、一番近いのは外に出たらすぐのところに設置された仮設トイレだ。近くには水飲み場もある。
次点で隣のショッピングモールのそれだったが、距離的にはまず仮設トイレの様子を確認するのが自然な流れだろう。
時永はミコトの目線で見たビジョンの説明を少しずつ続ける。
「それを、こう――視界には入りませんでしたが、植苗くんがつる伸ばして、腰に巻きつきキャッチ」
地上2階の駅からメインストリートがそのまま歩道橋になって玄関に直結しているのがこの施設だ。
つまり地上とは高低差があるわけで――更にいえば、隣は崖。
「ミコトの感覚でいえば、あやうく手すりに押しつけられて投げ出されそうになった感じですね。それをガクッと反対側から何かが引っ張ってくれた。だからとまったんです」
「ってことはやっぱ、引っ張ってんのはイツキだな」
落ちれば大ごとだ。――打ち所が悪ければもちろん死ぬし、運が良くても怪我は免れない。そして下は車道だ。これがもしイヌカイなら落ちた瞬間怯むくらいで済むし、最悪ひかれても車の方がやられるだろうが、ミコトなら撥ね飛ばされる。
「それ、本当に風か? 手で突き飛ばされたんだってんじゃないよな?」
「……たぶん。ミコトが慌てているということは彼女にとっても想定外の出来事ですよ。なら、直接的な人の手じゃないです」
そういって時永は柔らかく笑う。
「あの子、人間のことはよく見てますから。さらに言えば――目をそらして見なかったことにしているような問題なら、そもそも思考が停止するんです、あの子」
――なんか楽しそうだな、こいつ。
イヌカイはようやく何かがピンときた。……ああ、もしかして。
「アンタ、もしかしてだが」
「なんです?」
「機嫌悪いフリしてませんかね?」
フン、と笑って時永は言う。……すごく久しぶりに見た【悪い顔】だ。
「何のことでしょう? ――だいたい普通、自分ちの女の子がよその男の子と仲良くしてたら、嫉妬の一つもするのがテッパンじゃないですか。機嫌悪そうに見えたならそういうことですよ!」
――普通、なんてチャンチャラおかしい。
イヌカイは頭を抱えた。
だってこいつは、めちゃくちゃ楽しそうだ。
「……真面目にふざけないと息ができない性格でもしてんのか、ミコトの中の父親像は」
「あれ、何かおかしかったです?」
「おかしい以上にダメだなそのテッパンムーブ。ドラマの見過ぎだろ」
一応、イツキたちの様子は見に行ってやろうか。
……いや。あまり持ち場を離れるわけにもいかない。
ここは、そうだな。
「とりあえず、ゴキゲンな時永先生に任していいか?」
【風】の正体は分からない。
何せクロノスの仕業なら時永の場合、即行で「クロノスの仕業だ」と断定しそうなものだろう。
それをしないということは、何か別のことが起こっているのだ。
ふにっ!、と瞬く間にいつもの善人顔に戻って時永はいう。
「まあ、ええ――ただ、僕は僕で今のところは動きませんよ。今一番近い植苗くんに任せるつもりでいます。そもそも全員が一斉にワチャワチャ動いたら、【相手】の思うツボかと」
……「相手」という言葉が出てきた。
イヌカイはため息をつく。
――なるほど、とりあえず時永先生としてはこう言いたいと。「事故じゃなくて事件だ」、「これは人災の可能性が高い」!
だがしかし「クロノス関連とまでは断定できないので、それ以上言いませんよ!」……意訳するとこういうことか。なるほどわからん。
「……あのなあ。【相手】の目論見以上に、ミコトが混乱しない方針を取ったらそりゃそうなるだろ! ……じゃなくてだ。いざとなったらイツキ連れて逃げろって話だよ」
とにかくやることの方向性は決まった。
あとはイツキがミコトを連れて、時永の元に無事に帰ってきたらいい。
――後のことはそれからまた、じっくり考えよう。
「……ところで時永先生、お前」
「はい?」
「帰ってきたらアレするつもりだろ」
「アレとは?」
イヌカイは中途半端な呆れ笑いを見せつつ、両手を恨めしやのポーズにした。
「『お前にうちの娘はやらんぞォー!』……とか」
「…………はははははは」
――ごまかし笑いをしないでもらえます、お前?
「どこでバレたんです? ――ついでにミコトに、『何でイツキとの関係を認めてくれないのお父さんのバカ!』と反発されたいだけの人生でしたね!」
「あんたがご機嫌で『不機嫌になろう』とし始めたところからだよ!? なんだその茶番劇!」
……うん、まあ。シチュエーションから入りそうなバカもいることだし。うん。
「はあ……」
疲れた。――イヌカイはかぶりを振る。
あとのことは本当に、あとで考えよう……。
* * * *
――ロビーをすぎ、玄関口に出る。
外の光が柔らかく差し込む中に、その子は歩いていた。
「縮こまった足を思いっきり伸ばそうと、だだっ広い玄関に出てきた」――そんな感覚に違いないその人混みは、こころなしか数があっていないような気もした。少しオーバーだ。
「……」
談笑する親子連れ。それからマネージャーさんだろうか、一人で携帯をいじっているスーツ姿の人間に、役者のファンだろうちょっぴり派手なうちわのグループ。……そそくさと、イツキは距離を取りながらその子を追いかける。
「……ミコト」
考えてみたら一緒にチケットを手配したにもかかわらず、時永親子とはかなり席が離れていた。もしかしたらミコトにさけられているのかもしれない。
この世界を「運営」しているのはミコトの無意識だという。
なら、やんわりと言われているわけだ。――近づいてくれるな、と。
……随分、勝手な話だ。
ひとりでひょこひょこ歩いていくミコトの後ろ姿をながめる。
隣に時永がいないだけで、ひどく不安げだ。
あんなにフワフワした子だっただろうか?
昔から甘えたがりではあったが――そこまで、地に足の着いていないイメージではなかったように思う。
「……」
前に話した時も思ったが、ミコトの印象はここに来てからかなり、いや、めちゃくちゃズレていた。
「ミコトによく似た知らない女の子」のように感じるのに、話してみるとグッと距離感が近くなる。
……そう、なんだか突き放されているような。
それでも放っておくことができない、どこかで関わりを持っておきたいとでもいうような。
「……どっちつかず」
ぼそりと呟く。――ドリュアスにも戻らず、ただ、だからといって時永のファンにも戻らないままイツキは過ごしてきた。
この理想世界で――イヌカイや時永とゴーレムをいなして。躱して、倒して、蹴散らして。
その果てにこのミコトと知り合った。
名も名乗った。
……名乗った瞬間に何か『とち狂った感情』が芽生えた気もしたが、たぶんあれは自分の意思ではない。
ミコトがそういう「人の意識を含めた世界事情」を改変する能力を持っていると知らなければ、危うくスルーしたかもしれない。
が、あいにく。なんとなくではあるけれど……イツキは概要を知ってしまっていた。
世界をどうにかするより、きっと、一人の木の妖精をどうにかする方が簡単だ。
人に対する認識なんてどれだけでも歪められるし、だからこそミコトはイツキだけでなく、自分に対しても「歪み」を押し付けている。
そう、たぶんだけれど。
……ミコトはミコトで、こちらに話したいことでもあるのかもしれない。
「……あっ」
「!」
それを見た瞬間、イツキは咄嗟に「手」を伸ばす。
……本来出会わなかった女の子に、足を向ける。
「大丈夫?」
――ぽすり、と尻餅をつく女の子。
そう、いきなり。
突然の出来事だった。
* * * *
突風か何かにあおられて。手すりから身を乗り出しそうになって。
でも、何かが腰をおさえつけた。
その感触を、どこかで知っている気がした。
――「できるだけオレに引っ付いてて」
遠い記憶――ノイズの入った何かの断片。
触手とつるの争う音。ちぎれたつる。
聞き覚えのある、声。
突発的な暴風のような何かが止んで、ふと気づけば手を差し出してきたのは、あの、図書室で出会った先輩――植苗イツキだった。
「……あ」
「腰でも抜けた?」
「……。」
「立てる?」
頷く。へたり込んでいたことに今更気付く。
目の前のその左手をとって、ミコトはようやく起き上がった。
「……危なっかしいな。落ちなくてよかったよ」
その手は、初めて握ったかもしれない。そのどこかで聞いたような響き。変わらない声。
自然に彼は手を引いて、仮設トイレに向かった。
「早く済ましちゃおう。次またあんなことがあったら、イヤだよオレは」
「……そうですね」
「トイレ、オレもいくとこだったんだ」
「……」
「どうかした? ……ああ」
ぽたりとミコトの目から涙があふれた。
「……ビックリしたよね、もう大丈夫」
何故だろう、とミコトは本気で首をかしげる。
――あ、あれ、おかしいな。そんなにビックリしたのかな、私。
「あ、あの!」
「何?」
――なんでこんな、そわそわするのかな。
ぐるぐると形にならない思考が脳裏を横切って……トイレの個室に入る直前、思わずミコトの口からは言葉がこぼれていた。
まるですがりつくように。手放したくないものを、「触れたら壊れてしまうかもしれないもの」を、思わず咄嗟につかんだように。
「……なんか、おしゃべりしていてくれませんか」
「お喋り?」
「すみません、心細くて」
「……」
図書室で出会った先輩は頷く。
「……じゃあ、時永さんさ」
個室に入って数秒、外から彼の声が聞こえた。
「説話の授業が好きって言ってたから聞くけど。――好きな神様、いる?」
目を丸くした。その問いかけには覚えがあったからだ。遠い昔、誰かに聞かれたのかもしれない。
それからまたあらためて思い出したのは数ヶ月前、夏の終わりの小テストで出た問題。
――『Q13.これは僕の個人的な問いかけです。あなたが一番好きな神様はなんですか?』
こうなってから初めての小テスト。え――こうなってから?
はたとミコトは首を傾げた。――こうなって、とはなんだろう?
「時永さん?」
「えっと」
……ともかく、あれは一番最後のサービス問題だった。
何か一つでも挙げれば誰でも8点が入る。
――『一番好きな、だろう?』
帰り道の父親の発言を思い出して耳が赤くなる。
――『なのに3つも突っ込んできたのはミコトだけだよ!』
「……あの、知ってるか分からないですけど」
「うん」
「……モイライ」
モイライ。聞いたイツキはすぐに思い至る。
……時永が好んで扱う単元の枠だった。
そう、ギリシャ神話に登場する――人の運命を決める三柱の女神のことだ。
「……確かにマイナーかも」
ただ、いかに時永の好きなギリシャ神話でも、全部のエピソードを扱うわけにはいかない。
そもそもが主神枠のウラノス、クロノス、ゼウスを軸に取り上げたりする他は、季節毎――たとえば冬ならオリオン座の話をしたりだとか。
夏ならヒマワリが太陽を向くわけだったり……そもそもギリシャ神話のあれ、絵画だとヒマワリにされるけど原典だとヒマワリじゃないんだという歴史系トリビアだったり。その時の気候や他の教科と連動させることも多いのが、説話という授業の特徴だった。
当然連動が多いということは、日本史の授業が大和朝廷辺りを扱っているときは、突然古事記に飛んだりするのである意味忙しない。
さらに言えばギリシャや古事記に限らずケルトや北欧、桃太郎までカバーするのがこの教科だ。
そんな中で運命だの、人の一生だの、哲学系のテーマなんていうのはたぶん、「気になるお話を探してレポートにまとめてこい」とか、そういうフワフワした宿題くらいでしかお目にかかれないだろう。
「……聖山だと知ってる人は少ないんじゃないかな。少なくともオレが知ったのはゲーム経由だ」
ギリシャ神話に登場するトリオの名前、モイライ。三姉妹として各々の名前を書いてあることもあるが、その場合は長女がクロト、次女がラケシス、三女がアトロポスになる。
「……クロト、ラケシス、アトロポス。クロトは人間たち一人一人に対して不思議な糸を紡ぎ出し、その長さを計るのがラケシス。適切な長さで糸を切るのがアトロポス。この3柱が作り出し、人に割り当てたその糸の太さ、長さ、色彩。その在り方で、人間の生きる長さや運命が決まる」
ミコトは呟く。
「……何であの3人が、3柱が好きになったんだっけなって思うんですけど」
「うん」
「たぶん、気になったのかなって」
ミコトの声は、小さいながらよく響いた。
「――アトロポスは間違えて、切り過ぎてしまうことはないの?」
……その場で決まった長さに従うなんて、自分なら堪えられない。
「――ラケシスは何を思いながら生の長さを決めるの?」
誰かの生存を諦める。死を迎える。
それが手の中にあることを、なんとも思わないのだろうか。
「――クロトは、糸を紡ぐのをやめてしまうことはないの?」
いっそ生み出さなければ。
――そう思うことは、ないのだろうか。
ミコトはそう思いつつ、ゆっくりと――少しそっけなく言う。
「……あなたは?」
「そうだなあ」
がらりと仮設トイレの扉が音を立てた。
イツキは苦笑いする。――ミコトが今、吐き出したもの。
それはやっぱり無意識ではあるだろうけれど――神様だとか、「運営者」目線の愚痴だった。ああ、確かにミコトならそうかもしれない。
そういうことを思いながら、そして――誰かの死から、目を背けながら――この切り取られた空間を眺めている。
――「怪我や死亡等【事故の起こった通行人】と【何事もなかった通行人】が、同じ場に重なっています」
以前、時永が言った言葉を思い起こす。
……ゴーレムの攻撃に巻き込まれたこの世界の住人が、ピンピンしている理由。
――「僕らから見て『あれはもうダメだ』と思っても、可能性を選ぶ最終的な決定権を持つミコトは、きっとどこか別の場所で目を背けているんです」
可能性を【見ない】ことで確定しない。
分からないことにする――そして分からないなら、選ぶことができる。
直視しないまま、都合のいいものを選び取る。
……そんな器用なことができるのは、嫌だからだ。
いくら自分が作った創り物、紛い物の命でも――人の運命をちょん切るのから、逃げている。
「じゃあ、どうぞ」
「うん」
ミコトと入れ替わりでトイレの中に入りつつ、イツキはついっと口を開く。
「日本書紀ならアマテラス。北欧神話ならソル」
「……好きな神様?」
「うん……オレね、太陽が好きなんだ」
太陽神。アマテラスもソルも、よくよく考えたら、どちらも女性の神格だ。
……ああ、そうか。
深く考えずに喋ったイツキだったが、口にしたところでふと気づく。『太陽』はギリシャだと男性格だが、日本と北欧は違う。――ミコトの性格は、たとえるならそう。
「時永さんさ。夜中、一人で【真っ暗な夜空】を見上げたことはある?」
「……」
「オレはあるよ、何度もね」
イツキの声は笑った。
「眠れないから目を開く……そこはちょうど一面ガラス張りでさ。大雨が降った後は、ガラスの曇りが流されて星も見える。綺麗なんだけどさあ。足元がなんとなく冷たいんだ」
仮設トイレの横、水飲み場が併設された水道で手を洗いつつ、ミコトはふっと上を見上げた。……今は青い空の色。太陽に照らされた、白っぽいスカイブルー。
「明日もこうして星を見るのかと思うと嫌になる。頭の中でつらつらと星を繋げてさ。あーアレが授業で習ったやつだ、とか思いながら、固まった足の冷たさを堪えて……何も変わらない日々が過ぎていく」
……今、この瞬間は暖かかった。昼だからだ。イツキもチラリと外を見た。
青空の向こう、太陽の光に隠されたたくさんの星――それはきっと綺麗だろう。けれど、イツキにとってはあまり好きではないもの。
あの、心細く誰もいない夜を思い出すからだった。
皆が寝ているのが真夜中だった。
土をつたって聞こえるミコトの生活音も、意外と落ち着きのない時永の足音もほとんど聞こえない。
……自分の中を水が流れている、そんな音が聞こえるくらい静かな夜。
イヌカイがたまに様子を見にくるけれど、それもまれでしかなかった。
一人になれば自ずと、考え事は増える。
突然、あの冷たさを思い出す。
初めて土の感触に冷たさをおぼえた――逃げ出したくても逃げ出せなかった。
ここから出た先にあるだろう、人の明かり。
街灯の明るさが妙に恋しかった、あの頃のことを。
「……起きて、寝て、飯食って、生産性のない『いつも』がやってくる」
このまま死んでしまうのかなと、幾度も思った。
逆にこのまま生き続けるのかなとも。
どちらがいいかというのは、正直――当時の彼には、よく分からなかった。
「……楽しいことなんて、結局さ……オレには朝が来ることしかないんだよ。朝が来れば、太陽がのぼれば。本当に何もない夜が終わる」
イツキにとって、朝方「おはよう!」と突撃してくる女の子は太陽だった。
暖かくて優しい、時に眩しい日の光だ。
「いくら怯えたって一人の夜はやってくる。いのちの終わりだっていつかは。でも明日――日が昇るんだ。雲に隠れていても、雲ごと照らしてくれる。……堪えてれば明るい朝がやってくるって、オレは知っている。そう約束されてるから、一人でもいいって我慢ができた」
脳裏によぎる子供の声。泣き疲れて居眠りしようが、明るくなれば容赦なく鼓膜を叩く、懐いてくれる、頼ってくれる――暖かな太陽。
「……だからオレ、太陽ってモチーフがいつの間にか好きになっててさ。月すら照らす、とんでもなく明るいすぐ近くの星。冷えた体をぽかぽかと暖めてくれる、誰が見たって目を惹かれて、ときどき肌を焼かれて――もちろん都合のいい存在じゃないし、必要以上に綺麗で、神聖なわけでもない」
トイレから出て、イツキは空を見る。
「すぐそこにいて、オレを見ていてくれる。――ありふれた、そんな太陽が好きなんだよ」
「…………」
ミコトは目を瞬かせ――目をそらし、首を傾げた。
「帰ろう。……続き、始まっちゃうから」
――がらがらと扉を閉めて、蛇口をひねったイツキは苦笑いする。
白っぽい空は、目を話した隙にますます霞んでいた。