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10.土の色。空の色。


 ほとんど貸切状態だったスクールバスから、枯葉を踏んで飛び出した父親の横顔。

 それは何か、遠くを見ているようで。


「…………」


 地面に降り立つ彼に手を引かれ――きょろりとミコトは「それ」をみた。


「――行こうか」

「――どこに?」


 笑った声がする。


「君の行きたい場所へ」


 何がなんだかわからないまま――色鮮やかなポプラの葉を足で潰して、ミコトは青い空の下を駆け下りる。

 坂を、高所から低所へ。逃げるように。


「ははっ。少し、思い出すなあ」

「何を?」

「最初、こうして手を引かれたのは……僕の方だったんだよ」


 ――遊びに行こうよ。


 遠い記憶。それでも未だ鮮やかなそれ。

 それを()()()()()したミコトは目を瞬いた。

 ……彼の耳の奥では、まだ聞こえる声がある。記憶がある。もう手の届かない何かがある。


 ――ねえ、ご飯を食べに行こうよ。時永くん。



「ほら」


 不意にくるりと回って彼は、『もう大きいミコト』を一瞬抱き上げた。もう容易には上がらない重さだ。彼女は『赤子の頃とは違う』のだけど。


「……ただの手繋ぎじゃないんだぜ。僕にはね。その瞬間、何かが崩れた気がしたんだ」


 どこか自慢げな昔話と一緒に、ミコトの前に広がる空。

 遠い色、深い色。どこまでも吸い込まれそうな、明るいセレストブルー。

 時永は苦笑する。――そう、あの日々。あんなに世界が広く見えたのも、深く見えたのも、色鮮やかに見えたのも、生まれてはじめてだった。


 彼はぽつりと呟く。


「――ねえ、ミコト。空が青いだろう?」




   *    *   *   *




 結局のところ、それはきっと()()()()()()()で。

 やったことといえばそう――本屋さんに入って好きな本の話をしたり、気になっていた喫茶店の中の混み具合を外からうかがってみたり。

 ゲームセンターでぬいぐるみをとってみたり、対戦してみたり。


 楽しいひと時だった。――意見は合わなかったけれど、食べ物の好みも飲み物も違ったけれど。おとなげない父親(ぼく)にコテンパンにはされたのだけれど。

 それでもいつの間にか反対に、手を引いているのはミコトの方だった。


「なにか私についてる?」

「いや、ただ……」


 屋台のクレープを受け取りながら言うミコトに、言うのをやめていた一言を思わず「ぽろり」と呟く。


 (――……こんな子に、育ったんだな。)


 勿論心の中でだ。きっと理解はされない。結局、「空が青いだろう」というのが精一杯だ。

 空が青いのは当たり前。それでも彼にとって、街中は長らく「くすんだ色」だったし、空はもうちょっと灰色だった。色覚異常というわけではないのだろうけど、結局、何が何色をしてようが、どうでもよかったのだ。


 ――自分という生き物に、まさかの【好きな女の子】がいることに、ある日突然気がつくまでは。


 見える色の鮮やかさは心の余裕だ。あれは心の豊かさであり、パロメーターだ。活字を読んで少し色づく程度だったそれが、一人の女の子のせいでビビットカラーになった。彼女がいるだけで視界に酔いそうになった。それに、遅ればせながら気づいてしまった。


 そんな経験を、ミコトはしたことがあるだろうか?

 この子にとっては最初から、世界は自分なんかよりよっぽど鮮やかだったに違いない。丸い目の奥で見えている――自分の視界に切り取った、世界の色。

 それでもそこから、一段階。二段階――目まぐるしくグレードが上がったことはあっただろうか。


(――ない。ああ、僕のせいか。)



 ……それがどうも、とふと思う。


 今の僕には、よっぽど『悔しい』らしい。



(――素直に言ったらどうだ?)


「……。」



 『聞き覚えのある声』が頭の片隅で響いた気がした。そう、既に年下になってしまった誰かの低音だ。

 勿論、今の自分に別人格は存在しない。ただの幻聴だと知っている。

 それに、この声はよく知っているし……


「……言ったら」


 ふいに口から言葉がこぼれた。ミコトには聞こえないちいささで。


「……言ったら、どうなるというんです?」


 養子に対してずっとイラついた顔をしていた、あの声の低さ。子供の頃から長らく放置した『ドーム状のサンルーム』に、ある日背中を押した養父の声。好きな女の子からの贈り物を、鉢をかかえて突入した秘密の場所。

 子供の頃によく聞いた声だ。花の香り。おぼろげになりつつある心の傷。雪が張り付いて、暗くなっていくガラスの空。

 ……その幻影を振り払い、少しだけ深呼吸をする。


 彼も、もしかしたら同じだったのかもしれない。

 ――僕のことを、生まれて数年経った途中からしか知らないのに。


 いや、と首を振る。

 ――それをいったら、ミコトのことを途中から知らないのが僕だ。


 ミコトがデパートのマネキンを指差した。


「あっ、お父さんお父さん! あのワンピースどっちがいいと思う?」

「……さあ、右じゃないかな。ミコトはずっと黄色が好きだろう?」


 ――最初から最後まで、『知っているふり』をしているだけだ。

 苦笑いしながらそう思い返す。

 ミコトがぷくっと膨れた。


「……お父さんはどうなのかなって聞いてるんだけど」

「僕こそ、ミコトがこっちに合わせる必要がないっていうんだけど?」


 おどけて返す。……だってそうだろう? この『時永 誠』はそういう人間だ。

 あの別人格の言動を、まるで()()()()()のように飲み込もうとするけれど、結局それは「一瞬のうちに映像を頭の中に叩きこまれて追体験する」ようなものにすぎない。


 どこまでいっても、それは『感想』だった。

 ほんの少しの他人事。


 勿論、心動かされる。

 ハラハラもするし嫌な気分にすらなる。

 感じるのは常に、ミコトに対する憐れみと同情。

 「この自分、何してくれやがったんだ」という行き場のない嘆き。

 それから、時折視界(カメラ)の隅に見える幼いミコトへの、少しのほっこり。


 今更言う資格がない。面と向かってはいえない。……ただハッキリと、心の底で語りかける。


 (……可愛かったんだろうな君は。今までも、これからも。)


 その子はきっと、()()()()()()()人生の中で、一番確かな希望だった。

 こんなに一日ごとに成長していくだなんて。それを見るのが楽しいだなんて。他人と接するのが苦手だった僕が。誰に対しても心の奥底で拒絶とちいさな恐怖を抱いていた僕が。

 ……接してもまったく、怖くないだなんて。


 記憶の中の()は苦笑する。


 ……何を間違えたんだろう。

 確かに、一緒の時間を生きてみたかった。もうちょっとだけ「幸せな時間」が続いてもよかったはずなのも事実だ。

 なのに、結局こちらに残ったのは「味気ない記録」だけ。


「ねえ、ミコト」

「なに?」


 ぽすん、と音がした。

 上着にミコトがぶつかった音。

 ……どうせこの世界も、自分も、いつか泡のように弾けて終わるなら――その子を、自分なりに褒めてみるのも一興だ。


「……お父さん?」


 くるしいよ、と苦笑いしながらいうミコトの声。

 彼女なりに努力した、たった一人の父親に認めてもらおうとした、夢の欠片がこの世界だ。腕の下から聞こえるその子の声に謝りたい。

 ああ、謝って、それから――褒めて、けなして、君はバカなことをしたと言って。()()()()()()()()()()()()()。けれどそれは嬉しかったと言って。


 よく頑張った。我慢した。もういい。


 前へ進め。


 それをいつか言いたいなと思うのだけれど――こういうときに限って、うまい言い方が思いつかない。




   *   *   *   *




 日が沈む。遊び回って汗をかく。駅前のちょっとしたスーパー銭湯までいって、いっちょまえにのぼせて。

 遅くまでやっているラーメン屋さんまでいって替え玉を頼みまくった帰り道。


『――質問。ミコトはあれからどうなりました?』


 ミコトの目を盗み、ちらりと見たスマートフォン。

 【植苗イツキ】と律儀にフルネームで書かれたアカウントがフキダシを吐いた瞬間、既読通知がポスンと2件ついた。


『……さんざん遊びまわった帰り道だ。電車の中でぐっすりさ』


 ミコトの頭を左肩に感じながらそう返答を打つと、ピコン。


 【褒めたるとたたん♪】とスイーツモチーフの魔法少女が決め台詞を吐いているスタンプが一瞬押されたが、取り消された。


『……やけに少女趣味なスタンプ買ってますね犬飼先生』


【褒めてやろう蛆虫が!】

【褒めてやろう蛆虫が!】

【褒めてやろう蛆虫が!】


『いや、間違えたの分かりましたから音声付の罵倒スタンプ連投しないでください。ミュートしてるけど』


 ――まったく。既読がすぐつくってことはずっと画面みてるじゃないか、この2人。

 やれやれと思いながら画面をスリープした瞬間、うっすらミコトの目が開いた。


「ねぇ、お父さん」

「なんだい?」


 目をこすったその子は、口を開く。


「ふと思ったんだけど、どうしてお父さんは()()()()になったの?」

「……」


 トンネルに入った窓の外。震えたガラスを伝わる走行音に突然、心がかき消されるような。くびを、しめられるような。

 ……ふは、とかわいた笑いを吐いて。


「……難しい質問だなぁ」


 【この世界の時永】は苦笑いする。どこか遠くで自分が笑うように感じた。

 「意味はあったか」、そう聞かれたような。


 ――ああ、そうだね、ミコト。



  ――『君は……ここに「イツキ」、「イヌカイ」、「馬越さん」。彼らがいなくて、平気なのか?』



 ずっと前、あらためて顔を合わせてから間もない頃。

 「設定」を無視して問いかけたそれを思い返す。



  ――『自分で答えを出して、僕に教えて。どうするつもりなのか。どうしたいのか』



 あのとき君に「現実と向き合え」といっておいて、これは無責任だった。

 僕が君と向き合っていないのはおかしい。

 それでもだ。



『――――生まれるだけの【価値】はある?』



 日記帳にかつて書かれていた疑問。

 海水浴の日に、自分の先――いつか出会うミコトの存在に気づいた彼女の母親が口にした、不安。


「……そうだなぁ」


 少し間を置いて返した返事には、我ながらちゃんとした『色』がのっていた。


「たくさん答えがあるよ」


 今更他人事みたいな音が、ふわふわと出る。

 暖かな声。

 幼子に言い聞かせるような柔らかい音。


「僕はもらってばっかりだから、あげられる人になりたかったのさ」


 ――未だに、ふと思い出すことがある。

 虚勢を張るだけでいっぱいいっぱいだった昔の自分を。

 うわべだけを取り繕って、吹けば飛ぶようなごまかしをいくつも重ねて。そんな人間があの頃の『時永 誠』だった。

 人当たりのいい誰かになろうとした。けれど。……そのごまかしを、一周回って「本当」にした人間がいた。


 嘘を剥ぎ取って、その中身を見ておきながら――「それでもいい」といった人間がいた。


「人に優しくされたり、甘えたり、相談に乗ってもらったり。そうしたら――あったかい温もりみたいなものが、心にたくさんたくさん溜まっていくだろう?」

「……うん」


 ミコトの瞳がゆるりと動く。


「……そういうものを誰かに分けてあげたいな、って、ずっと。あの頃はずーっと思ってたんだ」


 春の嵐のようにやってきて、慌てん坊の(かえで)みたいに散っていった彼女のことを覚えている。――ああ、ずっと昔から憶えているのだ。執拗に絡んできた日の青空も。ぐずぐずと泣く雫のきらめきも。いなくなった日の鮮血の赤も。

 良くも悪くもカラフルだった、過去の物語の温もりを。


「……僕は、そんなに人付き合いが得意な方ではなくて。人に優しくしてもらうだけで精一杯だったけれど、それでも必ず、誰かが僕に気を回してくれた」


 大学時代、無許可で開かれた誕生日パーティーを思い出す。

 数え切れないほどに顔見知りの人が集まった、華やかな空き教室。その中心で、ドッキリのネタバレをかました女性に対して、うまく怒れなかった『時永 誠』。

 ああ、自覚しているとも。

 あんなに()()()()()()()のに。不満を押し殺していたのに。頭の中がしっちゃかめっちゃかだったのに。

 怒れなかったのは――その子が、可愛かったからだ。

 惹かれていた。「好き」だった。

 ……遠くに、行かないでほしかった。


「気がつけば色々なことをしてもらっていた。……だったら、どうせなら次につなげていきたいじゃないか」


 好意を。愛情を。あの時に見た――花開くような笑顔と優しさを。


 ……それは【この時永】にしか分からない感覚だったのかもしれない。

 怒れなかった主人格だからこそ、至った答えだったのかもしれない。

 もらった愛情を自覚していた。それが、大切なものだと分かっていた。

 いくら重くても捨てられないものだと、知っていた。


 ()()()()()()が欲しかった。

 もっというなら、「他人からもらった宝物」を持ってどこかへ持ち去ってくれる、伝えてくれる、伝令が欲しかった。


 嬉しかったのだと。泣きたかったのだと――どうにも、自分ではうまく表せなかったので、()()()()()()()へ還すのだと。


「……もらったものを持ちきれないから捨てるんじゃない。あふれたそれを誰かに渡してあげられたら。繋げられたら、それってどんな気持ちだろう? そう思ったんだ」


 『大切な宝物』だから、生半可な人に渡すわけにはいかない。でも()()()()――16年前のあの日、5月。生まれおちたばかりの「自分によく似た何者か」にそう思った。


 似ていると思ったからだ。

 まだはっきりしない顔のつくりがではない。

 何か、根本的な何かが――この子は、今までの『僕』にそっくりだ。


「……両手からこぼれていくばっかりじゃ、もったいないだろ? だから、僕が持ちきれない分、後ろから追っかけてきた僕みたいな子にあげたいなって、美郷さんみたいな子にあげたいなって」


 吐き出すような独白に、ミコトは目をパチクリとした。

 瞬間、次の駅を知らせるアナウンスが鳴る。最寄り駅。……終わりが近い、楽しい時間。


「僕からこぼれちゃったそれを拾ってもらえたらいいなって……そうしたら素敵だなって。そう思ったんだ……!」


 心の奥底で繋がった、たった一人の女の子。

 それに拙い希望をずっと押し付けていた。生まれたとき。手が触れた瞬間。それからも改めて出会い、生活し、言葉を交わした間――恐らくいつだって、形にならないそれを暗に。執拗に。


 ……『ミコト』という名前の女の子は、どんな命だって愛し大切にする子だ。

 愛される子であれと願ったし、愛を受け継ぐ子であれと思った。


 見ようによっては勿論祝福だ。

 それでもその子が望まなければ呪いに近い。けれどそれでいい。人というのは自分勝手だ。手前勝手だからこそ、きっと前に進めるものなのだ。


「あの……お父さん?」

「……うん、終点だ」


 見覚えのある最寄り駅が窓枠にはまる。

 ……吐き切った息。それはたぶん、まぎれもない本音だった。あの頃ちいさな赤ちゃんを腕に抱いたばかりの、新米パパの優しい呟きだった。


「さて、帰ろうかミコト。……君の生まれた家へ」



 ――でも。


 ああ、でも、そうだなぁ。



  ――『そもそも、私とろくに話したことなんてこれが初めてじゃない。そんな人が父親?』



 ……あの、泣き顔を思い出す。

 クロノスが記憶していた、【もう一人の時永】から見た、涙のあとを。



  ――『父親を名乗るなら、もう少し私のことも見てよ!』



 大きな声でいわなくても……うん。ちゃんと見てたさ。

 あいつは少なくとも、君のそういう感情表現だけは逃さなかった。

 その意味が分からなくとも、そこにある空白を眺めていた。――拒絶の裏にある失望を。羨望を。絶望を。



「……バス、もうないな。タクシー呼ぼうか……」

「無計画だったもんね」


 駅前――ミコトの言葉に僕は言う。


「ははは! 計画性ないほうが気楽でいいだろう?」



 ……ねえ、あのとき……失望しただろう。

 ミコト。

 ほら、僕はあいつとちがって「分かる方」なんだ。


 努力を褒めてほしい。――きっと君はそう思った。

 でなければ「そうじゃない」と叱ってほしい。――きっと君は、そう思った。


 実父実母を心待ちにしていた幼少期の僕と同じだ。

 相手されない、迎えに来ない。今どこにいるかも分からない。

 なのに、信じ続けた。

 『きっと忙しいから誉めてくれないんだ』と。

 『きっと立派なことをしているから、私のことなんか目に入らないんだ』と。


 ――だったら頑張る、あなたの自慢の子になるから!

 だからどうかこちらを見てほしい!


 そんな胸に抱いた夢も、希望も……全部君は、あの時すべてなくしてしまった。


 ねえ、ミコト。そいつはね。


 ()()()()()()()()もなかったんだよ。

 ()()()()()()()も、君に、なかったんだよ。


 『忙しい』のではなく逃げているだけで、結局、『立派なこと』なんか一つもしていなかったんだ。


 君のすべては無駄だった。友達もうまくできない中で学校生活をあれだけ頑張ったのに。

 あれだけ体育も図工も頑張ったのに。

 不平不満なに一つ言わずに、品行方正な女の子であり続けたのに。


 ……でも、君はそれだけ、心の底で僕のことが好きだったんだろう。

 ああ、たった一年ぽっちだって仲良くしてなかったのにも関わらずだ。

 君はどこかでそれを覚えてくれていた。


 失望。悲しさ。拒絶。


 それでも諦められなかった――日記の中には()()()()()()()()が記されていた、「ごく普通に愛情を得て、育ててもらえる普通の幸せ」。



  ――『今更父親面なんてしたってもうわからないよ! 私のことも解ろうとしなかったくせに、解り合おうとしたって拒み続けたくせに、今更わかって欲しいなんて虫が良すぎるよ!』



 ……あのときの、君の表情。

 言葉。息の詰まるような声。憤りを時々思い出す。

 勿論自分の記憶ではないのだけど。


 未だに、君は暴言だと思っているのかな。

 ようやくやってきたタクシーに頭を下げながら苦笑する。

 だとすればひどい話だ。いやあ――事実だろう、あれは?


 記憶の中であれ、あの出来事はミコトの中の「要らないもの」ど真ん中に居座っていた。いかに他人事であろうと、映像だろうと、僕はその顔を忘れたくはない。地に落ちたしずくも。刃物みたいな声も。

 たった一人の女の子。

 宝物を受け取ってくれるはずだった、僕に似た女の子。


 その子にあんな顔をさせてしまう僕には――君の隣で「普通」に息をする資格はない。



「ミコト、今――好きな子はいるかい?」


 家の前。タクシーを降りる瞬間、声をしぼり出す。

 誰かに依存してくれ。僕に気を使わないでくれ。

 それが逃げだとは知っている。けれど【僕の存在】は、君のためになんて絶対ならない。


「――いないよ?」

「そうかな」


 ……僕、君の()()()()()()()を知ってるよ?


 そんなくだらない爆弾発言を飲み込んで。でもそれはやりすぎだなと苦笑して。遠い昔のその子の記憶を少したどる。

 ――風に揺れる、木漏れ日のコントラスト。


「……そうかな、本当に」


 土の色。影の黒。一呼吸する。

 それが恋の芽生えだとは自覚すらしない、16歳の女の子の手を握った。


 ああ――もう、これっきりにしよう。

 この子の厚意に甘えたくはない。これ以上は、もう。



「……君の選択は、いつだって正しいんだ。ミコト。間違ってたら誰かが教えてくれるさ」


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