9.ふたつにひとつ?
「……なーにー? ミコトちゃんを一人で襲おうとして、突き飛ばされた?」
聖駅のメインストリート。
――雨上がりの赤煉瓦が、きらきらと青い空を反射していた。
「……はあ」
折りたたみ傘をしまった谷川はため息をつく――水たまりだらけの、金曜夕方の駅前。わざわざ足場の悪いところを選ぶような人間も少ないのか、ロータリーも陸橋も静かなものだ。
「秀ちゃん。それは正解だよ、我に返って」
いや、よく見ると一部分だけ賑やかだ。視界の遠く、手を繋いで歩く親子。……止まらない女の子のお喋りに、相槌を打つ穏やかなテノール。
「むしろ君をぶっ飛ばしたらしき、ミコトちゃんの防衛本能ってか……【名もなき女性】に感謝しなきゃ。何やってんの」
――確かに。
佐田は苦虫を噛み潰したように親子を見た。
突然「何者か」にぶっ飛ばされたのだ。
結局、あのときは何が起こったか把握できずじまいだったが……冷静に考えればなんとなく分かる。つまり、ミコトは突然の襲撃に「その辺の人間を使う」という無意識の防御態勢を取ったし、なんとか生き延びた。
「すんません……」
「えーっと『殺人衝動』、いやこの場合、『世界全域を巻き込んだ自殺衝動』っていうの? ……ヤケクソになるのは分からなくもない。けどさぁ、よく考えてもみなって」
谷川が呆れ顔でつんつんと地面を指す。
「たとえば今までのこの世界が、古きよきSFだったとするじゃない? コンピュータに管理されてたディストピア」
「…………。」
「その管理してたマザーコンピュータが、突然世界のネットワークから遮断されてみなよ……どうなるか、わかったもんじゃないっしょ」
それこそ、一瞬で「世界」が滅ぶかもしれない。
「それで地球上の全部をすっ飛ばすってのは、どう考えても八つ当たりだよ、秀ちゃん。君が守ろうとしたものも全て散り散り。それでもよかったんだとしたら、それはそれは【大ごと】ですとも!」
……勿論、佐田の気持ちも分からなくはない。
たぶんこれは自己否定の一種だ。時永が持っていたのと同じもの。一部時永の記憶から創られている谷川には、うっすら懐かしく思えた。
そも、彼のように自分を憎む程度ならまだいい。
問題は『作成者』に当たり散らすということだ。
自己否定が一つ上の段階に至ったもの。自己をこえ……生みの親へ向かったもの。苦悩の末、子が親を憎むように。
そもそも【創造主の彼女】がこの世界を生み出さなければ。
招かれたあいつが自分を生み出すという運命がなければ。因果がなければ。こういう誤ったストーリーは生まれずにすんだのにという潔癖さ。
「……」
そんなことを考えていて、ふと谷川は気づく。佐田は値踏みをするかのごとく、じとっとこちらをみていた。
「『分からなくもない』?」
「うん、そういった」
「……あんたには、分からないっしょ、絶対」
佐田はため息をつく。
「えー、そーかな?」
からからっと笑う谷川に、佐田は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「だってだ――あんたにはそもそも、成功経験がない」
「……」
「失ったものがないんだ。たとえ、この場所が『虚構の世界』だったとして――たとえ、世界が昨日創られたものだとして」
『タコさんウィンナー』柄の傘を地面にぐりぐりと押し付けながら佐田は言う。
「オレたちには一応【共有の過去】があり、経歴がある。そうだったという思い込み自体がある。だからこの環境が人工物だという自覚自体、ハッキリとは、持てるはずがない」
メインストリートの床――水滴が赤い煉瓦にじわじわと広がる。
「過去まで一緒に作られたら、生み出された自覚は希薄なものになる。虚構と現実の境目がボヤけてるんだよ」
佐田は淡々と口にした。
「ここの世界が真っ赤な嘘だとか、オレたちは【犬飼の記憶のカスっぴ】からできているだとか、そういうのは後付けみたいに知識として知っているけれど、結局妙な確信と……そうだな……うっすら奇妙な懐かしさを感じるにすぎない」
「……まあね」
谷川は頷く。自覚というほど大層なものは確かにない。ただ、『事実なのだ』という後付の常識を、あの自称神様――クロノスから、体の表層に埋め込まれたような不思議な感覚がするだけだ。
「……結局あんたって人間は、何も知らないこの世界の過去のオレからどう映ってたか。たぶん同情していたんだろう。見下してもいたかもしれない」
「…………」
「有り余る才能を持ってて――成功するかもしれなかったのに、可能性の芽を潰されたド底辺だ」
谷川は首をすくめる。
偽悪的に当人は言うが、とどのつまり――佐田はそういう人間だった。
高校時代の、あのコンプレックスの塊だった女部長とは違い――『敗者の気持ち』も当然、推し量れるだけの心を持っている。どんな勝負だろうが、競争だろうが――オーディションを淡々と勝ち進み。それでもふとした瞬間、ちゃんと後ろを見る。
負けたものにも慈悲を持ち、褒め称え、たとえ逆恨みなり、ライバル意識を持たれたところでそれを否定しない。
正々堂々と勝負をし。
挑み、できることならば乗り越える。
……今まで勝ってきた勝負に責任を持つために。
対峙してきた彼らが負けた意味を創るために、その悔しさにせめて赦しを与えるために、彼は勝ってきた。
『あいつになら負けてもしょうがなかった』。
そう言われる人間になるために。
ああ――ただ、めったに負けなかっただけだ。
演劇部の時だってただ、一つ上の部長と役割が競合しなかったから、たまたま生き残ったから副部長という地位が確立しただけだと知っている。
最高学年になったから、辞めた後の後釜に押し込まれただけだ。
切り札や持ち味なんてものは微塵も持たない、一般人の延長線上。
ただ全力で「目の前のもの」に取り組むことくらいしか、取り柄が見つからない。高校時代の部長のような闘争心もない。ガッツも、谷川のような華々しいオーラも、昔の犬飼のような我の強さもない。
ただ惰性で積み重ねた勝利を、せめて彼らの【負け】と【悔しさ】を黙って汲み取ることで、未来に繋ごうとつとめてきたのが佐田という男だった。
――――そんな自分自身が、「何者かのコピー」。
「……この世界が、十歩とか百歩とか千歩ゆずって……すべて虚構だったとしても、オレはきっと『たくさんのもの』を見た」
彼は努力を是とする男だ。【負け】に敬意を払う男だ。
たまたま成功者ではあるけれど、成功者であることにちゃんと責任を持つ強者だった。たとえるならば一騎討ちのつど、相手の健闘を称える騎士でもある。
――勝利の上に成り立つ、不動の地位だと知っている。ノブレス・オブリージュ。
たくさんの負けをみた。選ばれなかったものをみた。勝ちの責任を背負ってきた。
それが虚構。それが嘘っぱち。
名もなきライバルたちの生き様が『本物ではない』と踏みにじられたようで、ひどく嫌だった。
ミコトを含む彼らは、佐田の目線から見るならば――本物を偽物に落としたのだ。失墜させた。価値をおとしめた。
それは陵辱だ。この上ない侮辱ですらある。自分が踏み越えてきたものたちへの辱めでしかない。
谷川は言う。
「……なるほど、見下しね」
「そう」
「同情ね」
「そうっすよ」
「へえ、上等じゃん」
さらりと谷川は強い口調で言い返す。
「……今のあたしが、キミから見てド底辺なのは否定しない。確かにこの世界の設定上……過去の『谷川ユキ』は、上っ面が不幸に見えるよ」
「……」
「普段何をしてるかなんて、元くんや時永くんには分かりっこなかったから、基本は想像でしかないんだろうね!」
谷川は苦笑いする。――3人と一番つながりが濃いのは確かに自分だろう。ただ、それは単純によく会っていたとかそういうわけではない。
中身とか、質の問題だ。
「イッちゃんだって、そんなに顔を合わせる仲じゃなかった。小学生の頃ならともかくだよ。高校生に上がってから見かけた試しなんて一度あったかなかったか」
だから、きっと谷川が一番ファンタジーなのだ。
事実が少ない。モチーフ元が少ない。分かっていることがない。
『この世界の登場人物』の中で一番得体の知れないキャラクター。
「この世界側の想定としてはこうだ――『谷川ユキ』は非正規で働いてて、単体だとお給金が少ない。時々秀ちゃんに喋らないかってラジオ局に引っ張り込まれて。お仕事を世話されてる」
「……」
「今回の舞台だってそう。君が、あたしに同情して役割を振ってくれたもの。『ふらふらしてるのはもったいない』って、壇上にひっぱりあげてくれたもの」
誰かに助けられて生きている。世話をされっぱなしだ。
けれど彼女は、「申し訳ない」なんて殊勝なことは1ミリも思わない。
「自覚はしてるんだよ? ――それは、君を含めた周囲に恵まれてるからだとあたしは知っている」
谷川だって自覚している。
【3人の知っている彼女】は「ごめんね」なんていう人じゃない。
厚かましく「ありがとー!」と笑うのだ。
「……あたし、そんな自分も含めて好きなんだよ。今の自分をそこまで『底辺』じゃないと思ってんだよね」
それは恐らく、この谷川ならではの考え方だ。
――だって、自分を創った人間がそうだった。大きな外枠をくれた人間がそうだった。
谷川ユキという人間を思い返したとき、そっと優しい祈りをくわえたのだ。
「思い悩まず、自由に生きろ」と。
「……君みたいに、悩まない。だってあたしには既に、この胸に【揺らがない意味】がある」
……『何者にもなれない女の子』だと、思い出の中の谷川ユキは言った。
それが今はどうだ――確かに自覚はない。知識として知っているだけだ。
それが無視できない知識だと、なぜか信じこんでしまっているだけではあるのだけど。……そう。
『誰かが特別よく覚えている』印象深い存在には、なれたじゃない。
「君に見捨てられない分、幸せだよ。君たちから同情と絶望と羨望を向けられるだけ、幸せだよ。――君は、自分という人間を持ち上げてくれた世界に感謝してて、それを貶めるような世界の出自に牙をむいている。……あたしは、自分を構成してくれた何もかもを愛しく思う。これ、きっとそんだけの話じゃない?」
差がある。……それが良いだとか悪いだとか。上だとか下だとかじゃない。
恋が多く、愛がクジラ並に重いのが谷川ユキだ。
「あたしはね、偽物の佐田秀彦くん。……元くんのことも好きだし、彼に良い影響を与えてくれた創造主ちゃんのことも好き」
ミコトが何をしたかを、この世界の谷川ユキは知っている。
知識が教えてくれている。
彼女は彼と笑ってくれたのだ。遊んでくれたのだ。
もう一度、生きようと思わせてくれたのだ。
「勿論――君のことも好き。だから、結局どっち応援してるか自分でも分かんないんだよね。結論、なるようになれと思う」
一見迷っているようにも感じる言葉だが、谷川自身の感覚としてはさっぱりしていた。
彼女はこの、【偽物の世界】に憤りをおぼえない。一歩間違えれば滅びそうになっているこの世界を特別守っていこうとも思わない。
好きな人間が、好きなように生きていくのが一番いいと思っている。
――たとえその結果、この世界が滅びようと。
「彼らが、お邪魔虫として配置されたあたしたちを乗り越えて元の世界に戻るもよし。その結果滅んでも悔いはない。あたしはそれを受け止めるだけだけど、君は違う」
「……」
「あたし、なんで『君の目の前』にいるかって、秀ちゃんに、後悔してほしくないだけなんだよね」
彼女の好きな人間には、ちゃんと佐田秀彦も含まれている。
彼は確かに目覚めた瞬間、谷川に助けを求めた。この世界の真実を把握したその足で、その声で。けれど彼はどうみても冷静ではなかった。
だから、手を差し出そうと決めた。今まで犬飼に――そして佐田にそうしてもらったように。
やさぐれていた佐田はようやく、少しだけ納得したように彼女を見た。……すべてが腑に落ちたわけではない。ただ、何かをつかんだようで。
「まー……それよりも秀ちゃん」
くるりと話を変えるように、谷川は呟く。
――目の前の劇場。コンサートホール・パルテノ。
「目下の心配事は彼のことだよ」
「……」
「どうすんの? 一応作戦通り、イッちゃんから元くんを引きはがすことに成功した。つまり【戦力の分断】みたいな感じにできちゃったわけだけど」
「あー……」
雨上がりのずぶ濡れな階段を見上げ、佐田は口を開く。
「まだ『できた』わけじゃないぞ、先輩――慎重に行こう。オレたちの目的は、あくまで犬飼をこっち側に引き込むことだ」
……ミコトの心を動かすには何が必要か。
「夢見がちな創造主を叩き起こすには、あのチビの植苗くんと犬飼がどうしても必要なんだろ? だからあのクソ眼鏡――失礼、時永さんは二人を夢から急浮上させた」
この世界が偽物の理想世界だと知ってから、ミコトという少女の存在を知ってから。幾度も佐田は物事の流れを頭に浮かべた。
この世界の外部から招かれた、本物のイヌカイとイツキ。
彼らはミコト同様、思考するだけで世界に影響を与える存在だ。
思い込み。
『そうなったら良いな』という願い。
――そういうものが結実して、佐田と谷川は自己を確立させた。
「……創造主の女の子はあくまでこの世界の要だ。夢から叩き起こされるわけにゃあいかない」
【本物のイヌカイ】がこの世界の佐田秀彦を創り上げたのなら、ミコトのあり方は誰が創るのだろう。あのミコト自身は【本物の自己】を見失っているというのに。記憶を手放し、予定調和的な言動しかしていないのに。
――「もどってこい」。
それを願って、夢から引き上げる。
それはやはりイヌカイとイツキの役目なのではないかといつも思う。彼女を幼い頃から見守ってきたあの人外、二人なのでは。
「……まず、オレたちが存在し続けるために……犬飼には『夢を見続けてもらう』必要がある」
「ミコトちゃん以前に?」
「そう、ここが夢だと忘れてもらう必要がある」
「情に訴えて?」
宝物というのは、手放してからこそ――逆に美しく思えるものだ。
佐田は呟く。
「犬飼は情に厚いし、どこかでオレたちに甘い。あいつを『頼れるイヌカイさん』にしてるのはイツキくんだし、ミコトちゃんだ。――なら、オレたちはどうする?」
谷川は首をすくめた。……決まっている。
佐田はようやく少し、落ち着いた顔で笑う。
「オレたちが知ってる、『勝手気ままな犬飼くん』にするしかないだろ。あのクソデカワンコを」
――そう、あれの正体が超絶クソデカワンコだと自分たちは知っているのだけれど。
「人の心を揺さぶるのが、舞台役者の役割だ――なあ、ド底辺じゃないゆっきー先輩」
「嫌いじゃないね。のった」
同時に『クソデカワンコである』というだけのそれが、当人には重圧なのだと佐田は知っている。――木の妖精のお守り役など、なりたくてなったわけではない。人ではない何かなど、なりたくてなったものではない。
あのデカブツも――心の底では、あの頃に戻りたくて仕方がない。
遠くに見覚えのある大きな人影――後ろに流した硬い髪質が見え、谷川は手を振りながら言った。
「優しいなあ。君のいいところは――そういう腐ってもまっすぐなところだよ、秀ちゃん」
* * * *
……合流したのち、椅子に座って一時間半。
イヌカイは頰を叩く。
「お、眠くなった?」
「――というより、注意力散漫だな」
周りを見渡せば大きな劇場。つられた照明器具、大きなスピーカー。
ジャージやTシャツの稽古着が多い人々。
学校とは異質の……しかし、見慣れた光景。
「で、ここは7番と9番同時につけちゃって」
「しぼりはどれくらい?」
目の前の台本には、いくつもメモが書き込んであった。
余裕はないが、引き継ぎは一応今やっている。
舞台演出の谷川、そして目の前の台本とにらめっこしたまま――イヌカイの表情には少し、疲れが滲んでいた。
……まあつまるところ結局、そういう性分だ。何かを頼まれたらそれだけ、マジにはなる。
動いて喋るなら相手は生き物、はりぼてだろうと知能は高い。少なくとも人並みだ。違う解釈は受け付ける。
「……谷川先輩」
「なにー?」
振り向いたその顔が、どことなくイツキのそれに重なった。
――『イヌカイ、ミコトを元に戻すにはまず何をしたらいいと思う?』
この間の、空飛ぶゴーレムを退けた日。
イツキからスマートフォンにメッセージが届いたのをふと思い出す。
「どうかした?」
「……何でも」
「……そ。ちょっと休憩しよっか」
「ああ」
イヌカイは椅子をずらす。
台本だけでこの分厚さだと、上演時間は結構長めだ。
「……あらすじ、サンタが倒れてトナカイだけでプレゼントを届ける羽目になる話だったか」
「そうそう」
やっぱり少し疲れているらしい。
口からあらすじを吐きつつ、鞄から缶コーヒーを出す。
「『サンタのトナカイ』はトナカイの姿をしているだけの雪の精。主人公は一番若いトナカイの女の子で、倒れて雪の結晶に姿を変えてしまう仲間たちを小瓶に拾い集めながらプレゼント配りの旅に出る……」
けれど頭の中は完全にフワフワと上の空だ。
――『ミコトをどうにかするのは、たぶんオレたちじゃない』
……イツキの送ってきた文章は、何がしか直感的な香りがした。
「どういうことだ」と問いただす前に、こういうものはある程度、自分で考えてみる方が得をするものだ。それは長い付き合いで分かっているつもりだった。
「……えー、このお話におけるサンタさんは御伽噺の精霊と同じなので、心の底から彼を信じる人間の元でなければ現れることができない……」
「そーそー! なので、プレゼントを運ぶ必要があるのは世界に6人だけ。それもヤバいセキュリティを突破しないと会えない鉄壁の御曹司揃い!」
笑って付け足す谷川はスナック菓子をつまんだ。
「んで、トナカイたちはサンタを信じない人間に触れられると、溶けて雪になってしまう」
「子供心を忘れた警備員とかね!」
「警察官でも溶けてんな。……で、この、最後まで主人公と残ってる『オカマのトナカイ』が佐田の役柄か。ってか誰が書いたんだ、えらいめちゃくちゃな展開すんなコレ」
「ああ、それ」
谷川は台本の後ろに書いてある簡易的な奥付をチョイチョイ、と指した。
「元くんのお兄さんが、深夜テンションとお酒の勢いで☆」
「……聞かなかったことにしとくわ」
要らない情報を即座に頭から締め出し、イヌカイは息を吐く。
さて、イツキの話も進めよう。
ミコトをどうにかする――という方向性が間違っていたとするならば。恐らく次につつく場所は、もう決まっている。
時永だ。
最終的にこの理想世界から弾き出されたミコトが、どういう精神状態かは分からない。
無理やりこの世界から切り取るにせよ、いや、納得してゲームの電源を切るように、「世界そのもの」を消し飛ばすにしたって――何かしらのショックは発生するのが妥当だ。
その分の「衝撃」を緩和するのは、きっと――――。
「ほっほぉ――――!! やってるやってる!」
「う゛ッ」
――考え事を中断。ぼすんっ! と左肩が沈み込んだ。ちらりと横を見れば、ちゃっかり佐田が様子を見に来たらしい。
「……あのな。あっちいってろ。稽古中だろ」
主役の女の子が今、壇上で喋っている。
どうも雰囲気からしてクライマックスの台詞に違いない。劇団内のナンバー3らしい、『序盤退場のイケメントナカイ』に辛口評価をもらっている様子なのが見て取れた。
「いいんだよ、桜庭くんが相手してるから」
「……お前、大人になっても変わってねぇな。何一人でサボってんだ」
「休憩時間と言ってほしいねえ、ポチカイくん! オレはオンオフ切り替える方なの、オンにしっぱなしだとすーぐ茹でダコみたいになるわけっすよ! その証拠に見てよーオレの肌を!」
「見んでも分かるし、不健康な感じに血行不良だよ。運動しろ太陽の下で。――いやお前ね、もうちょっと赤みが欲しいんだったら茹でダコじゃなくて一人で酢ダコになってろ。もっと赤くなるぞ」
「んっもー☆!」
パチリとウインクし、佐田は素っ頓狂な声を上げた。
「つーめたいんだからぁ! ハジメちゃんってば、ツ・ン・デ・レ☆」
「…………。」
イヌカイは舌打ちを返す。
役柄ネタだ。
つまりメインの中で唯一のオカマキャラなのを突然ノリごとぶち込んできたのだ。しかもかわいい系なら別にいいのだが、絶妙なバランスで気持ち悪い。
おっさんのお笑い芸人が、架空のキャラ濃い女の子になりきって即席コントするような気持ちの悪さだ。
「うっふぅ☆」
「うっふぅじゃねえんだよ。あーもう構ってほしいなら忙しいから他でやれ! ちゃっかり俺の隣に座るな! 乙女ポーズするな! そんな目で俺を見つめるな! キモいんだよ、しっしっ」
イヌカイはイライラした。
――全く、偶然知り合いにいる可愛いトランスジェンダーが泣きそうだぜ!
「んまー真剣なのねっ☆ でもそういうところもそそるわぁ、たッッッはー!」
無視しようにも視界の隅がうるさい。というかもはや顔がうるさい。
「佐田」
「ん☆?」
「お前は俺に集中してほしいのか逃亡してほしいのかどっちだ」
「しゅうちゅー↑してほしい↑」
「うるっせえわ!」
っていうか似合うならいい。似合わない。
まったく似合わないからこそ、本気でキモすぎて気力がそがれてしまう。
「先輩、ちょっと助けてよこのオクトパス子! マジでキモいんですが!!」
「ちょっとーぉ↑、ひっどいんじゃなーいぃ? そーの言い方ぁ↓」
「音を上下するな音を」
「……??」
谷川は黙って質の悪いスマイルを浮かべた。
「『チミたち仲良チでちゅね??』的な焦点のあってない目をすんな!?」
「バレた?」
「バレるわ!」
「んっもー! 照明さん怒ってばっかでコワイしつーまーんーなーいぃ~↑。……って、ねぇちょっとぉ~、それってもしかして差し入れってやつなの~? みーしーてーよーぉ!!」
イヌカイはホッとため息をついた。タイミングの良いことに別のスタッフがタコのカルパッチョを大量に購入してきたようだ。
「……はあ……全く変わんねえな……」
「キミが思うんだから変わりないんだろーねえ」
からからと谷川が笑う。
「相変わらず好物にはゲキ弱だし」
「そして本番にはゲキ強。――どんだけ遊んでても、ちゃんとやることはやってくれるのが秀ちゃんの良さなのだー。ねっ、元くんも知ってるっしょ!」
……良さ。
そうか、確かに良さだよな。
そう思って。
ふと、イヌカイはうっかりその場になじんでしまいそうになる自分に気が付いた。
「……キツい」
ああ。
何故だろう。
こんなおかしな性格も、やりとりも、パッと見いたって変わらないのに。
―――「ただのはりぼてですけどね、この世界は」
時永の声を思い出す。
『時々、逃げたくなる』。そう吐露した偽物の。
震えた足でトイレに立っていたそれを思い返し、イヌカイは深く息をする。
……口を開いた。
「続きやるか、谷川先輩」
「ん?」
フッと笑って谷川は言う。
「ってか、今更名字とかどうなのよ。ユキ呼びでもいいのにー」
「……気分じゃねえのさ、断るわ」
そっけなくイヌカイは答えた。
「やるときゃ、ちゃんとやる。佐田もそういう人間なんだろ?」
――線を引くときは、俺なりにだ。
勿論、きちんと引くさ。フリーハンドでな。




