7.抗うマリオネット
「ひゃっほーぅ!! たっだいまーあ!」
おかえり、とも誰も言わない。
……そこには誰もおらず、客席しかないのだ。
「ふぃー……!」
ふたりそろって帰ってきたのは……あの暗い劇場だった。
誰もいないホール。全開にされたままの緞帳。垂れ下がった照明器具。
ラーメン屋で谷川が口にしていた、あの豪勢な劇場だ。聖駅南口から大通りで一本、まっすぐ行った突き当たり……コンサートホール・パルテノ。
「……で、どうだった」
わざわざ【駅前の現場】まで迎えにきてくれたらしい佐田の問いかけに、「いっやあ~!」と谷川は芝居染みた様子で首をすくめる。
「どうもこうも……何事もなかったみたいになってるよ。すっごいね、この世界の裏側! なに、見えない小人さんでもオーバーワークしてる?」
「……散々街をぶっ壊した当人が何言ってんの、この人」
呆れかえったような佐田の反応に、谷川は笑みを強めた。
数百メートル離れたこのパルテノの上からでも「戦闘中の轟音」はしっかりと聞こえていたし、立体交差になっていた駅前の通りは、ほとんど形が崩れていた。
……明らかに光弾の打ちすぎだ。
「どうせやるなら思いっきりが一番ってね! ほら、大怪獣になった気分だし!」
谷川の言葉を聞いていた佐田は、余計に渋い顔をする。
……実際「大」かどうかはともかく、怪獣だ。
少なくとも建物一戸、一軒家相当の大きさはあって――それが滑るように移動するんだから、怪獣でなればUFOか、エイリアンだろう。
「……なーに、すぐ直るんなら大丈夫だって、メインストリートの歩道橋!」
「そういうことじゃなくて」
「でーも面白いよー?」
ニヨニヨと笑いながら谷川はいう。
「あの石像くん。動きのやけに重たいシューティングゲームみたい! ホント、うごかしてるのが時永くんだったらもうちょっとどうにかなってたかもしれないけど、残念だよね。今は『的』だし」
「――今は?」
佐田の反応が良くないことに気づき、谷川は笑みの質を少し変えた。
やはり、あまり気分がよくないようだ。一時間前の舞台稽古ではいつも通りへらへら笑っていたのに、二人っきりになると途端にスイッチが『バツン!』と切れる。「切り替えがいい」のであれば、それは単純に素敵なことだが……恐らくそういうことではないんだろう。
「……ほら」
「え、なに」
おどけた様子の谷川に、佐田は気の抜けた調子で缶ジュースを放る。
「差し入れ」
「うっわありがとー! えーどしたの、気が効くじゃーん!」
確かに、ちょうど緊張の糸がプツンと切れたところだった。
喜び勇んで口をつけた瞬間……
「毒入りだけど」
「ぷほ!?」
思わず谷川はむせ返る。似た印象だと佐田は思った。
……以前見かけた、イヌカイの慌て方。
「……。冗談っすよ」
「冗ぉぉ談に聞こえないんだよなっ! 今のヤケクソ秀ちゃんは!?」
ただ、一度口をつけた手前――とりあえず味わうことなく谷川は飲み干す。
実際に毒入りだってかまわない。心の準備さえすれば。
「……もぉ、どーせマジで『ただのジュース』なのに……意地悪……」
ラベルもただのミックスジュースだ、今のは「反応を見た」に違いない。
クロノスの働きかけで世界の真実を知ってから、佐田は周囲に心を閉ざしてしまった。勿論『普通の人間』として、いつも通りに自分の仕事はする。食事もとる。相変わらずツッコミどころ満載の親しみのもてるキャラで、周囲を楽しませる。
けれどその実――誰のことも一切、信用しなくなったのは知っていた。
「……ゆっきー先輩も『緊張』だけはするんすね」
「そりゃーね?」
相変わらず【やさぐれ感】マックスの後輩を見つつ、谷川はとりあえず話を続けることにした。
「ほらー、時永くんってビシッてしてるじゃん」
「知らねっすよ。――いきなり何、突然」
「あれさぁ、何かに似てると思わない?」
話をそらしたと思われたのかもしれない。――まあ、実際にそうだ!
谷川は笑ってごまかした。
……『好きな男の子が2人いて、素敵な記憶があって、それがたった今創られた偽りだった』!
それを「マジかー」と笑い飛ばせる人間なんてきっと、この世界中のどこを探しても自分だけだろう。さらに、今日は彼を怪我させようとしたのだ。
本気で、殺そうとした。
なぜか? ――そんなもの、自分だけが知っていればいい。
悪役って、リアルにやるとそういうものでしょ?
……アルミの缶をペキペキと潰しながら、谷川は口角をあげた。
「ねえ、時永くんってさ……何を見ても、何を経験しても、口をつぐんでじっと耐えてんの。まるで固まったみたいに」
「……」
臆病者のくせに人一倍真面目で、頑固で、ちょっとやそっとで【膝をつかない】。
それがあの時永の特徴だ。
谷川ほどではないが、世界のつくりを理解している佐田は目を閉じた。
あれはたぶん、創造主の母親に彼が影響されたから。
彼女は彼女で、最後まで心を折らなかった理由はミコトがいたから。
たとえ一人が欠けても、二人が欠けても……あの時永一家は影響されあって生きている。
「……あの普段街に出てくる黒い子、『時永くんみたいなイメージしてる』でしょ?」
佐田はふと思い出す。イヌカイや時永たちがどうにかゴーレムの肉体を叩き割る様を、遠目からうっすら見たことは幾度かある。
それは佐田自身が【この世界の一般人】から抜け出てしまった証だった。他の人間たちと同じなら感知もできないで終わるイベントだ。
――普段の黒い、無機質なイメージのそれにはほぼ関節がない。
生き物らしく四肢はあれど、直立している。「膝をつく」ようなアクションがないのは、曲がらないからだ。
「……知りませんっての」
谷川と先ほどまでリンクしていたゴーレムは、色水のように透き通る青だった。……ゴーレムは武器だ。唯一、【存在強度】の違う上位存在に対抗できる抜け道。
創造主の捨てた感情エネルギーに、この世界の人間が【殺意】を上乗せすることで扱えるようになる巨大オブジェクトがそれだった。
「……あの黒い子は、あたしのみたいに飛べもしないよね?」
谷川が意識を接続した段階で形状と色の変化したそれは、緩やかに羽を動かした。
飛んでいる様は無機質でこそあったが、自在に曲がるようだった。
しなやかで、流線型。黒いゴーレムとは真逆の印象。
「キミのみたいに雄叫びもあげない」
「……」
「けど、ピシッと直立しててさ、真面目そうなの」
佐田は息を吐いた。……雄叫び、ね……。
「それで?」
「あれさぁ、時永くんが『ゴーレムくん』に接続できてたら、ああなってたっていう形状なんだって。この世界には神様と、創造主ちゃんの他だと――時永くんの要素が濃いから」
佐田はふくれた。――あの勝手な神、このフリーダムな女性が大層お気に召したらしい。
「って、神様が言ってたんすね?」
「そう、金髪に青い服のかっわゆーい神様が言ってた」
――格差がひどい。
佐田は息をつく。あのクソガキ神、こちらが何か問いかけたところで何も言わない。
まるっきり返答はないというのに。
「実際さ、あの黒い子がちゃんと仲間だった可能性もあったんだよ?」
「へえ」
「だってこの世界、時永くん基準だと超平和じゃん?」
谷川は軽い調子で言う。
「少なくとも自分の手では誰も死んでないわけだし」
「……」
「豊田さんはいないけどそれはそれ。自分が手を下したっていう罪悪感のある事実は消えてるわけで」
……小さな創造主が願ったのは、何もなかった世界だ。
時永が何も起こさなかった、もしも。
「結局、全部忘れてしまえば都合はいい」
谷川はへらへら笑いつつ――少し、悲しそうに言った。
「あの人、意地なんて張らなきゃよかったのに。本来なら、今みたいに苦しむ必要なんてなかった」
「……」
「この世界を守る道もあった。何もかも忘れちゃう道もあった」
ただ、あの時永はやらないだろう。そんな確証がどこかにある。佐田はかぶりをふって谷川のとなえる「もしも」を振り切った。
……【別の時永】ならやるかもしれないが。
「この世界の創造主ちゃんはちゃんと道筋を残してる。だから神様的にはメンタルにつけ込む余地があると思ったんだけど、無理みたい。なんかすっごい怒ってる。怒る機構ないのに」
「自分で撒いた種っしょ」
――そもそもだ。
佐田は暗い顔で息をつく。
――そういうのっぴきならない事情があるなら、こうなる前に。誰も知らないところでこっそり自殺でもしときゃあよかったんだよ。ロクデモ眼鏡。
佐田は言葉を飲み込み、息をつく。
まあ、それは――お互いさまってやつかもしれない。
「……時永さんがこっち側にきて、犬飼をいじめるルートがあったと仮定すると。オレ、絶対こっちサイドから離脱しますけどね」
「ん、何で?」
佐田は自分の首を、横からチョップした。
「オレが時永さん、死ぬほど嫌いだから。首くくる」
「! はっはーん……」
谷川は面白げな顔をした。
確かに……時永とイヌカイが覚えている【本物の佐田】自身が、時永という男にどういう感情を抱いていたかは分からない。
ギリギリ何度か、同じグループで遊びに行ったような浅い関係性だ。
海にもいった、パーティもした。けれどそれだけだ。
……目の前で車にはねられれば当然、顔見知りとして捨て置きはしないが、それも相手が大事な人間だったわけではない。道徳的な良心に従ったまでだろう。
「むしろそっちの方が都合がよかったかもしんないっすわ。踏ん切りがつく」
「へーえ!」
更にいえば男連中3人の記憶が寄せ集まってできている谷川とは違い――佐田はそもそも、ほとんどがイヌカイベースだ。
イヌカイが持つ、【佐田に対しての印象と記憶】でできている。
成功した記憶も、夢をつかんだ記憶も、つるんでいた楽しい記憶も。
イヌカイ自身の精神面が、形を変えて枝分かれしたものなら――当然、時永に対する感情も混入する。
「……なるほど、秀ちゃんは元々、自分のお仕事にプライドを持ってる素敵な成功者だ」
……時永邸で聞いていたラジオ番組の印象。
話し方の癖、エピソードのあれそれ。
「佐田秀彦というカッコいい声優さんは、演じた役柄に愛着を持ち、お仕事の現場に愛着を持ち、人が好きだ。自分を取り巻く人間関係に感謝を忘れず、うまくいかないことにはちゃんと悔しがり、ちゃんと泣く」
……何事も楽しそうに。
誰より前向きに。素直に。純粋に、真っ正面から取り組む人間性。
「つまるところさ、キミって人間は――自らを取り巻くこの世界が、大好きなんだよね?」
時永とは真逆の人間だろう。恐らく、幾度も膝をついたはずだ。
誰にも見えないところで、人知れず「折れ続けた」形跡が見て取れる。
弱音もきっと吐くタイプだ。……それが、番組上の軽快な語り口からぽろっと出ていたのを、イヌカイは知っている。
意外と繊細で脆い男だ。
でも、その弱さが強みになる――そんな、格好いい男だ。
「『自分の生きてる世界』が大好きで、元くんのことも大好きな佐田秀彦は……キミのオリジナルは。もしもこういう大きな決断を迫られたら、どうするだろう?」
……時永邸のイヌカイは聞き続けていたはずだ。
声のみの情報を、貪るように。
――『この間ね、演じたキャラクターでね。あっ、ゆっきー先輩見てた? 発声魔神ビダクオン』
――『見てない』
――『見てよ。んで、ざっくりいうとさ、その最終回一歩手前で世界を救うために、敵に寝返った幼馴染と戦わなきゃいけなくなっちゃったんすよ』
――『よくあるやつだー』
いつかの光景が脳裏に広がる。
その人狼はいつも通りに、朝、時永邸の長い廊下を拭き掃除していた。
イツキは居眠りでもしているらしく、馬越もやってこない。
静かな廊下で――タブレットのラジオアプリだけが起動している。
――『そう、よくあるやつなんすよ。どうする? すっごい仲良しだった親友を殺さないと世界を救えないの』
――『やだ。心中する』
――『しないで心中。……オレね。結構迷うけど倒すと思う。倒しちゃう』
――『マジかよ』
――『マジだよ』
雑巾を絞った音の向こう。
……「ラジオアプリ」はそう言った。
「……『だって悲しいけど』」
放送回を思い出した、「この世界の佐田」は呟く。
「……『そいつがいなくても世界ってきっと、回っちゃうんだよ』」
人間性の出る回答だとは重々承知している。
けれど、大事な誰かを一人見捨てることで出る結果がちゃんと確定しているのであれば。
「『いやだよオレ。リスナーの皆に会えなくなるの』」
そうでしょうねお前!! このクソ野郎! ――という独り言が人狼から発せられたのも佐田は知っている。それも思いっきり「らしいな」と笑いながら。
「……そーいうこと。キミはそのままだ。元くんの思った通りの人間性で、超迷いながら【この世界の人類の敵】を倒しに来たんだよ。踏ん切り付かないままに!」
ニッと谷川は笑った。
「らしいね! まあ秀ちゃん個人の感情だから、あたしにゃー知ったこっちゃないわけだけど!」
「オレ個人の感情かどうか定かでないものが、胸の中でくすぶってるオレの気持ちにも一度なってくれません?」
だってこれは『本物の世界のイヌカイ』のイメージだろう。自分が考えたことかどうかなんて、もうわからない。
佐田は呆れたように息をついた。
「……で、話戻そうか先輩。本物のクソ眼鏡さんは仲間にならなかったから、『黒いの』に限っては計画通りいかなかった。動かしてるのが神様当人だったと」
「そう、そもそも時永くんは【本物】の一欠片だったし、秀ちゃんみたいに『この世界』に思い入れはない。それに、持たないようにしてる」
「思い入れを?」
意外そうな響きだった。……思い入れを、持つ気があったのかと。
谷川は頷く。
「……必死に。そりゃあ当然話し合いの余地もないなら、あたしたちから見たら『物言わぬ的』だし、向こうから見たってそうでしょ!」
「つめたいな」
言い方が。そう呟いた佐田はやり切れずライターを取り出した。
「あれ、喫煙? とっくの昔にやめたんじゃなかった?」
「気ぃ使うのも馬鹿らしくなったんです」
「秀ちゃんらしいや」
谷川は苦笑した。
誰かに気遣ったわけではない。……結局彼は『自己中』だ。
「らしい?」
「役柄からタバコに手を出してハマるのも、喉に悪いからってスッパリやめるのも」
佐田はモゴモゴと呟く。
「自分を大事にする必要がなくなったからってやめるのも?」
「んー、そーね。昔からキミがヤケを起こしてフォローできるのは元くんだけだし……あたし、関係ないかも?」
昔から。イヌカイの記憶を引っ張り出してくる谷川の言い方に複雑げに目を細め、佐田は目を瞑る。……タバコの火が大きくなった。
「……関係ないなら、なんでオレの根城に帰ってくるんすかね」
「面白いから」
即答。軽いノリの一言に、佐田は煙を吐き出した。
「……嘘でしょ」
* * * *
谷川と別れ、外に出ると――すでに夕暮れは終わっていた。
夕方からだいぶ間を置いた午後7時。
暗い青と黒の中間に、佐田はイライラとした息を吐く。
「……赤」
もう見えないその空の色を口に出す。
……戦隊ヒーローの色だ。リーダーの色だ。つまり、あいつの色だ。
バスケ部のユニフォームは赤かったし、進学後のラグビー部も赤のラインが入っていた気がする。
「……くそ」
空色が赤色に変わる一大スペクタクルは、【世界で一番有り難みのない奇跡】だと佐田は思う。何せ地平線に光が沈むだけで、光が勝手に乱反射して雲を染めるのだ。日によって綺麗だとか、今日はそうでもないだとか。曇っててよく見えないとか色々あるが――基本はほぼ毎日繰り返される。
誰も見ていなさそうな朝焼けよりも、だいぶ目撃者多数の。レアリティの低い「そこそこ綺麗なもの」。
「……赤、赤、赤」
憧れてやまないものは昔から大概、赤色をしていた。
くしゃりと上着のフリースの端を握りつぶす。
佐田の着ているそれも、赤色のフリースだった。
……空の赤は、太陽が沈んだ色。
誰か一人がいなくても、世界が動いている証拠だ。
――『だって悲しいけど、そいつがいなくても世界ってきっと、回っちゃうんだよ』
「……何で、あんなこといったんだろうな、本物のオレは」
【犬飼】がいなくても、自分がいなくとも。
どうせ、夕日は落ちてくる。
それは結局のところ――今日も異常なく、夕暮れを迎えた証なのだ。
それがもう、気付くと嫌で嫌でたまらなかった。
仕事帰りの社会人や寄り道の中高生に紛れて、見覚えのある少女を見つける。
……長いポニーテールの、赤い制服。
「……――」
衝動的に地面を蹴る。――何だかむしゃくしゃした。そいつをどうにかしたくてたまらなかった。
この世界の仕組みを知ってから、明日が来るのは奇跡になった。
その少女が首を横に振ったら世界は滅亡するのだと、いつの間にか知っていた。
それは、きっと――『当たり前のように来るもの』ではなかったのだ。
今まで積み上げた時間が、経験が、脆く崩れ去っていくようだった。
偽物と幻の世界。誰かの夢。目が覚めたら終わる、一瞬のまやかし。
薄氷のように薄っぺらだったそこで、自分は何をしてきただろう。いつ生まれたとも分からない世界で、まっとうに生きてきた意味はあったか? 努力した意味はあった? 笑って自己満足した意味はあった?
この記憶は何だ? 自意識は、プライドは、幻か?
――この人生に、意味はあったか?
声にならないそれを叫ぶ。モヤモヤとした何かが像を結ぶ。
佐田のそれがゴーレムの一部を形作り、【破壊】を体現する。ミコトの頭を跳ね飛ばそうと手を伸ばした瞬間だった。
「――――こら」
人影が目の前に飛び出し、ゴーレムの腕ごと佐田を弾き飛ばした。
「……ミコトちゃんに、手を出すな」
それは――誰かを思い起こす低い音だった。
同時に――全く知らない女の声だった。
* * * *
ミコトはビクッとして振り向く。
雷でも落ちたのか、至近距離で爆竹のような音がしたなと思った数秒後のことだった。
――でも、それはすぐに街の喧騒の中に消えて。
「やー、ミコトちゃん!」
そこにいたのは橘だった。……軽そうな鞄に、着替えの入った手提げ袋。
駅前のスポーツジムにでも行く算段なのかもしれない。
「また会ったね。どうしたのこんな時間に。寄り道?」
心なしかホッとしたミコトは瞬きをする。今の、変な悪寒はなんだろう。
「……あの、なんか弾けたような音しませんでした?」
「した気もするねえ」
橘は苦笑いしながらいう。
「知ってる? 田舎でよくありがちなんだって、謎の爆発音」
「うち、田舎だけど聞きませんよ?」
きょとんとミコトは返事を返した。更にいえば、この付近は割と街中だ。
少なくとも――とミコトは橘の後ろを見る。
……ぐんにゃりとぶっ倒れた赤いフリースの男。ああいう感じに、酔っ払いが倒れていることもあるくらいには街中である。
「……そっかー。時永先生のお家、森に囲まれてるもんね。田舎すぎて車通りがないのかも。ほら、一説によると大きなヒキガエルが車に踏まれて爆発したときの音だとかいうからー」
えー……。
ミコトは思わず、車に轢かれたカエルを思い浮かべてしまう。
……嫌ぁーな光景だなぁ……。
「ところでミコトちゃーん……寄り道の正体、看破しちゃったんだけどもー?」
「え? あ、はい!」
橘のニヤニヤした目線に気づいたミコトは、慌ててビニール袋を守るように抱き込んだ。
透明の袋の中にはクレープ屋さんのロゴが入った紙袋と、たくさんの保冷剤が見えている。
「結構たくさん買ったんだね。……さてはどれ買うか、迷ったでしょ?」
「あ、あの」
「うん?」
「……最近、忙しそうだから……どうしたらお父さんが、私のこと忘れないかなって……」
――なんか、忘れられてる気がして。
そうごにょごにょと照れくさそうにフェードアウトするミコトの声に、橘は思わず噴き出した。
「な、なんですかっ」
「かーわいいのカっタマリかなぁぁぁ……!」
わしゃわしゃと頭を撫でつつ、「時永先生の味方しすぎちゃったかも!」と妙な呟きが漏れ聞こえた気がして、ミコトは首を傾げる。
「橘先生って」
「んー?」
「……お父さんのこと、嫌いでしたよね?」
ふと脳裏によぎる、奇妙な光景。
いつのことだったか覚えていないけれど……
――「……あなたに気づいているから、満足に父親の悪口も言えないんですよ」
廊下の、床の湿気。雨の降る外。
……橘の睨みつけるような表情。
――「差し出がましいことを言うようですが、心配です」
――「……そこまで変ですか、うちのミコトは」
……あれ、おかしいな。
ミコトは不思議な違和感に直面した。
……あの時のお父さんの表情が、思い出せない。
橘は少しだけ苦笑いして、口を開く。
「……あなたのお父さんが怖かった時期のことを言っているのなら、正解かな?」
「こわかった、時期……」
ミコトはぱちりと瞬いた。
そう、確か……あの頃の私は「いい子」でいたくて。
お父さんが振り向いてくれるような、「いい子」になりたくて。お父さんにだけは、どうにか好かれるようにふるまって。
「そう、怖かった時期」
橘はまっすぐとミコトを見て、目を細めた。
「あったよね?」
「……ないです」
はっとした。……ない。あるわけが、ない。
だってお父さんは今、とても優しい。
何もしなくても。何も言わなくても。
たまに放っておかれることがあっても!
ガタッ、と靴が音を立てる。
「失礼します!」
幸せな現実が黒く塗りつぶされるような感覚がして、ミコトは逃げるように駆け出した。
……袋からこぼれて、保冷剤が一つ、ぽとりと落ちる。
「うーん」
それを拾った橘は息を吐き、胸ポケットに入れたペンを癖のように触ると――ふと後ろを見た。
「で――そこのお兄さん、大丈夫です?」
「う、うう……」
「駄目ですよー、そんなところで寝ちゃあ……それとも救急車呼びます?」
よたよたと佐田は起き上がった。
「……今のは、何、夢……??」
「? ――ああ、夢じゃないですか、知りませんけど」
そう言いながら、橘は保冷剤をぴとりと額に押し付けた。
「つめた! 誰!?」
「通りすがりのモブキャラAです」
「口からでまかせ感半端ないんだけど! 何、今オレのことブッ飛ばさなかったお姉さん!?」
橘は「は?」と心底、キョトンとした顔で呟いた。
「――――え、夢でも見たんじゃないですか? 何それ?」