4.主観的記憶の反芻
「ハ、ハハハ……ッ」
……イツキの携帯に送った言い訳。
『中2の補習』なんていうのは、割とはなっから嘘っぱちだった。
「犬飼先生、あなたねえ……」
えー、なんてーの? 史上最大級にカッコ悪いからそう言っただけなのであって、実際は『補習の予定がのっぴきならない事情により、数時間前にドタキャンされた!』と言ったほうが正しい。
勿論、補習など有難がる生徒はそういないので、学内メーリングリストからは喜びの声が多数届いております。
ハッハッハッ、勉学に励む意欲が全くなくって何よりだよ、中2諸君。
別に怒らないから、今日という半休日。たまには街に繰り出せ、そして羽目を外して補導されてろ、ああチクショウ! 知ってるよ、お前らどうせ俺の授業嫌いだろーが!!
そう頭の中で半ば、ヤケクソ気味に繰り返している俺、『犬飼 元』は先程から『強引にバスケ部顧問を辞めたこと』に対する、今更な苦情やクレーム処理を受け付けていた。
……いや、生徒はいい。
現行バスケ部の面々は意外と怒っていない。俺の指導方法がよっぽど気に入ってたのか、惜しがるやつがたまにいるぐらいだ。
つまり『下』はいい。『横』もいい……問題は『上』、上司だ。
「あーハイハイ、サーセンっしたー」
「言い方ってもんがあるでしょう! ほら橘先生、何か言ってやって!」
「いや教頭先生、言ってやってって言われても……言いたいことあらかたもー言っちゃってますし、私もそろそろ体育館に顔出さないと、バスケ部の練習が……」
「ほーら、押しつけられた当人がいいっつってんだからーあ!」
まあ――正直、割と派手にドンパチやっていた自覚はある。
「引継ぎしたし後は知らん」とすっとぼけたり、かと思えば素直に謝ってみたりを繰り返しつつ――なだめなだめ、のらりくらりと職員室を出たのは結局、午後3時半を過ぎた頃のことだった。
バスケ部の顧問だったなら当然、きっともう練習が始まっていた頃だ。
それが今は「体育館の外」にいる。
……今更だが、なんだかズル休みをしたような心地だった。
「……ハハハ」
実際、いい大人がその場の勢いで辞めたなんて、怒られて当然の話だ。
もしかしたら普通に怒られたかったのかもしれない。幾分スッキリしたのはそういうことだろう。
だから「普段は真顔でムッツリした、しかし飲み会だと意外と陽気なあの教頭」も今回は口煩くいいやがったのだ。俺の「何も言わない要望」に応えるがごとく。
だってここは都合のいい世界だ。願望と記憶と思い込み。
そのごったまぜで出来た、ちゃちでリアルで困ったどうしようもない世界。
そう思いつつ――荷物を取りに行こうと職員室前から方向転換した、その時。
「は?」
思わず、その光景を二度見した。
……前の廊下。明らかにミコトではないハーフアップのお淑やかヘア。
覚えのある女子生徒と時永が、廊下で何やら顔を突き合わせていた。
――終始、和やかな様子だった。
時折くすくす笑う女子生徒に、時永が言葉をかけている。はにかみつつ、ニコニコ笑って何事か、饒舌に。和気藹々とかいうレベルではない。ただ、それに。
「おい……」
それに……声をかけずにはいられなかった。
大きく手でも振りそうなテンションで彼女と別れ、すたすたと歩き出した時永を追いかける。
別に今更、『笑うな』とは言わない。
明るく振舞うなとも、軽口を叩くなとも。
ただ――
「今のは……おい、今の子って、時永先生」
「――――」
「待て、待てっての!」
それに関しては知りすぎるほど知っていた。タイミングが悪かったのか、それとも家の都合だろうか。イツキほど騒がれなかった、とやかく言われることもなかった。
ただ、噂のみが立ったのは知っている。
今の彼女も、かつて。
「おい……!」
そう、かつてこの学校に通っていて――どこかに消えた。
いなくなった。蒸発した。
イツキが姿を消す少し前。優等生の一人がある日突然、ぱたりと登校しなくなった。思えばその子は「説話」も選択していたはずだ。接点があるとすればその辺りだろう。
当時、説話の担当講師は時永だけだった。
「ハーフアップの優等生」が生徒会長をしていた最後の一年だか数ヶ月だかは、俺自身――部の顧問として絡みがあったはずだ。「部の遠征費が経費で落ちるか」。それを決めるのは主に職員室だったが、それでも形のみではあれ、『学費をおさめる全校生徒』の代表として、生徒会の承認も必要だった。
「おい、おいっての、時永先生……」
ハーフアップの彼女がいなくなったのは、時永の仕業だろう。
自分が姿を消す番になってそれを悟っても、結局遅かったのだが。
「待てって」
それからうねる触手と肉塊の化け物――グレイブフィールと対峙した時、その顔が頭によぎったところで、他にも色々心当たりの生徒が頭によぎったところで、ああ、何ができるわけでもなかったのだが。
「おい、聞こえて――」
目の前を早足で歩くワイシャツ姿。それをようやくひっつかんだところで違和感があるのに気づいた。……うまく引っ張れない。時永自身が腹の部分でシャツを握り込んでいるから伸びなかった。……いや、逆か?
「え」
そこは気づくと教職員用トイレだった。
生徒は基本的に使わない、職員室前のそれ。――シャツではなく腹、正確には胃の部分を強く抑えつけた手。
「……っぐ」
個室。……ドアを閉める余裕もなかったらしく、身を乗り出したように前傾した背中は、ひどく弱々しく視界に収まる。
「……」
何をしているのかは音でわかった。
……水洗トイレでそいつは、胃の中身をひっくりかえしていた。
「――――……」
背後から手を伸ばし、ふと思う。
俺はこいつの背中をさすりたいのだろうか。それとも、後ろから。
――後ろ、から。
「…………。」
――その首を、今すぐ絞めたいのだろうか。
罵詈雑言を浴びせながら。どす黒いものを吐き出して。いや。
思わず首を小さく振る。……違う。
それは、きっと、違う。
イツキの顔がふと浮かんだ。……あいつならどうする。ミコトなら。馬越さんなら。
「……怒るかイツキ。ミコト」
何かが引き留めているような気がした。俺の袖口を、ミコトの手が。
……ああ、確かにだ。殺して戻ってくるなら、今すぐにでも殺そう。
なくなったものが元の場所に戻るなら。全部なかったことになるならば。でもそうだ、戻らない。時間は、後ろには絶対巻き戻らない。意味がない。
無駄にこの手が汚れるだけで、《肉塊》と対峙した時の罪悪感が削れるだけで。焦燥感は拭えない。
心の穴も塞がらない。
ならこれはそう――俺の、やることじゃないわけだ。
……留まる。とどまってから、その背に手を置いた。
ゆっくりさすった瞬間、「おげ」と第二陣が口から発射されるのが分かった。
* * * *
「……世話かけますね、犬飼先生」
「全くだ」
人目のつかない場所。職員室からもほど近い、旧校舎の階段踊り場だ。
――まだいくらか青い顔をしている時永はしゃがみこんで、へらへら笑う。
昔は何らかのクラスが入っていたのだろう、しかし今はインドア系の部室がちょびちょびしか入っていない旧校舎の空き部屋には普段なら、柄の悪いやつらがたむろっている。
が、今日に限って都合よく、誰もいない。
十中八九職員会議ものだろう『タバコの吸い殻』を発見しつつ、口に出す。
「……生徒会長、ここにいたんだな」
「……ええ、まあ」
佐田のこともある。流れとして、うっすらとだが検討はついた。
イツキか俺か、とにかく無意識に彼女を思い返したに違いない。
階段に座り込み、足を投げ出した時永はいう。
「いつから、この世界に彼女がいたのかはその……ピンときませんが、本当にいい子ですよ」
「……」
「ふ、はははっ……いや、そんな嫌な顔をしないでください。僕としては初対面です」
――そう言われて、ふと思い出す。
こいつのことだから、どうせ存在を忘れているのだとばかり思っていた。
あの、グレイブフィールの基盤など――取るに足らない出来事だと。
「えー……多少……そうですね……」
時永はいう。
「背伸びをしがちな面がありますし、大人をからかうこともあります。……そう、親しみやすい子ですね、彼女」
――ただ、大前提が抜けていた。
『同一個体でないことをうっかり忘れる』。そのくらい、この時永はリアルだ。
性格が違えど、その気配が似ている。その飄々とした言動も。ふとした瞬間の間の取り方も。
だがそもそもの話。この時永はミコトが設定した偽物だとヤツはいう。
贋作。ミコトが望んだ理想的な父親の偶像だ。――現実世界で生徒会長に手をかけた時永ではない。
だから、よくよく考えるとあの子のことを知っているわけが。
「いや、知ってますよ、概要は」
時永は踊り場に腰掛けたまま、呟いた。
「前にも言いましたね……僕はこの世界の人間だ。だからミコトのみならず、この世界を創り出すキッカケになったクロノスとも、無意識下での繋がりがあります」
口でも濯げと買い与えたミネラルウォーターをちびちびと飲みつつ、時永は余裕のこそげ落ちた顔で言う。
半ば焦燥したような。やつにしては――珍しい表情だった。
「……だからこの世界で目覚め、この体ができたときにはちゃんと頭に入っているわけです。『元々の僕』の犠牲者くらい知ってますし、顔を見れば察します……どう殺したのかくらい、理解はできますよ」
……だから、吐いたのかもしれない。
相変わらず煙にまくような口調だが、嘘は言っていないように思えた。
「ってか、あれ」
「はい?」
先ほど喋っていた職員室前、廊下の方向をしゃくり、俺はいう。
「『イツキの時代の生徒会長』だろ。何の用だったんだ」
「いや……本当に生徒会ですよ。ミコト、自分の世代の生徒会に興味が薄いんですねきっと」
なるほど。ミコト優先だしなこの世界……生徒会の顔つきを覚えていたら、絶対そっちの生徒に存在がすげかわるはずだ。
「彼女が僕に聴きに来たのはおそらく、部費の使い方について少し。僕、いま文芸部の副顧問なんで」
「は?」
「……意外そうな顔しますね」
「そりゃあな、初耳だ」
――だって、どう考えたってあんたがやる仕事じゃないだろ、それ。
「まあ――意外そうな顔をするのも無理はないかもしれませんが。副業を理由に断ったみたいですからね。『本物の世界の僕』は」
「芸能活動優先だったからな、あんた」
「ええ。ですので逆に考えてください。……この世界が副業をしていない世界線のシミュレーションなら、顧問であれなんであれ、やっているのが妥当なんです」
ああ、そういえばですよ。
……そう言って、くるりとやつは振り向いた。
「……聞くのが遅れましたが」
「何だよ」
「犬飼先生が僕に一々突っかかってくるのは、『自分の体』のことだけじゃないですよね?」
ふふ、と笑い――そう、なぜだか「突っかかってくること」自体がやたらと好ましいような顔をしてやつは言う。
「……きっと本当の貴方は体の大きさが3メートルくらいあって、ずんぐりむっくりで、お伽話みたいに満月の日は調子を崩します」
「ボカすなよ、普通にいえ」
喧嘩を売られているような中身だが、煽っているつもりはないらしい。
それは余裕のないげっそり笑顔から分かる。……笑顔。そう、こいつも本物同様よく笑う。
ただしそれは威圧感の微塵もない。嘲笑の意味もない。ただの「ごまかし笑顔」だ。
「……体調不良というよりは、意識レベルが強制的に低下するんだ。言語能力がなくなるし、判断能力が異常に落ちる。撫でられたら喜ぶし、お前みたいな怖いやつには結局――尻尾巻いてビビる」
俺はポロリと呟いた。
そう、未だに俺は根っこの部分でこいつを警戒していて――その警戒を解こうとするでもなく、こいつはただ近くにいる。
時永は苦笑した。
「……可愛いじゃないですか」
「オシッコひっかけてやろうか、お前」
「冗談ですよ。でもそれ以上に、きっと貴方には許せないものがある」
「イツキのことか?」
あいつだって時永相手に迷惑を被った一人だ。
未だ「横になって寝られる」のを喜ぶし、「自分の足で歩ける」のを感じれば、未だにテンションが上がっている。この「ミコトの世界」にきてから成績が上がったことも、小テストを見ていればよく分かった。
……おそらく取り返そうとしているに違いない。ひどく後悔したからだろう。失ったものが惜しくなったはずだ。
その辺にいくらでも転がっているはずの、ごくごくありふれた『普通の日常生活』を、あいつは今になってようやく楽しんでいる。
「植苗くんですか。まあ……それもありますが、きっとそれだけじゃない」
時永は俺から目をそらす。
「あなたは覚えているんです。グレイブフィールの体に手を触れた感触を」
「…………」
「あの中身はともかく、触れる肉体が『何』で出来ているかを、うっすらと」
「……まあ、な」
あれが『人の筋繊維』と『血液』の寄せ集めだとは知っていた。だから、恐らくはあの生徒会長もどこかのパーツに入っているだろう。
「……あのですね、どうしてこんなことを言いだしたかというと」
「ああ」
「……恥ずかしい話、トイレでの失態を見られたから白状しますが……自覚と記録だけは、いっちょまえにあるんですよ」
「あ?」
「それが僕でないにしても」
時永はぼそりという。
「自分のものかも分からぬ、何というか、泥みたいな記憶の中で……目の前でさらってきた女の子が、死にかけているわけです」
……女の子。生徒会長のことか?
「元々木の妖精って、伝説上は女の子が多いんですよ。男性はいないこともないようですが、記述がほぼない」
「……」
「イメージの問題ですね」
なら、最初は――イツキの代わりがいたことになる。
必ずしもあいつがそこにいたわけではない。
「植苗くん同様、彼女は木の実を取り込みました。が、結局体質に合わなかった」
まっすぐ時永はふっとまっすぐ、こちらの目を見据えた。逃げる気のないストレートな目がこちらを射抜く。
「彼女は苦しんで暴れました。ええ……ショック死寸前です。そのままだと死を待つばかりだというところで、グレイブフィールが彼女を咀嚼した」
淡々とやつはいう――軽い調子で、だがあの生徒会長を見下さず、ある種、敬意のようなものを持って。
「この世界に来たばかりの貴方がたと同じで、そういうのが時たまフラッシュバックしてくるわけです。――僕の耳に、まだその音は残っています。ゴリゴリと一度分解される音。ぷちぷちと引きちぎれる音。まだ生きているものをぼりぼりと噛み砕いて、飲み込んだ音」
逆に淡々とした語り口にしなければ、駄目だったんだろう。――そう、なんとなく思った。でなければまた、何かしら込み上がるのかもしれない。
胃液とか、今しがた飲んだ水とか。
「……勿論それを見て、聞いている【その僕】は罪悪の感情を持ちません。たかが人間一人の死に対して何も思いませんし、悪いことをしたとも何も思いやしませんが……『ここの僕』は思います」
……ここの、僕。
「痛そうだなあとか。苦しそうだなあとか。悪かったなあとか」
「だが、それは」
所詮、雑に紐付けされただけの感情だ。こいつの言うことを信じるなら、こいつがこの世界で「時永」を名乗っている。ただそれだけの。
「……この記録が、彼女を見る都度、思い出される。実感を伴うわけですよ」
時永はフッと笑った。
思い出す。そう、この世界の最初に。記憶を取り戻しに時永邸に行ったとき……ヤツは汗が滴るほどに出ていた。
あれは、恐らくフラッシュバックがきていたわけだ。俺たち当人を前にして。それから、一つ一つ再現をしていくにつれ。
「……何も、感じないふりなら得意ですよ。慣れてはいるから。ええ、表情には出しません。感情的になるのも苦手です。ただ表はどうあれ、中身がどう反応しているかは――また、別なわけで」
喉仏が少し動く。……痙攣したように。
「……もういいよ」
……嘘は言っていない。
いや、分かっていた。恐らくこいつは何か、とてつもない大嘘をついているし。自分に対しても盛大な嘘を吐いていて。
「――……時々ですが、嫌になります」
「だろうよ」
「家に、帰って――ミコトの顔を見ると、それが霧散する」
その顔色はいまだに悪い。――ひどく真っ青で、手足の先はふるえている。
「逃避ですね。忘れてしまう瞬間がある」
「それくらいあってもいいんじゃねえの、知らんけど」
それでも他人に対してはちいさく都合のいい嘘しかつかないのだろう。それがどんなものだかは分からない。が、少なくとも。
「……なあ。あの生徒会長に自己判断能力はあるのか? お前みたいに、ここでどうして生まれたか、自分は何者のコピーなのか、知っているのか」
「……分かりません」
薄く笑ったその答えは意外なものだった。
まるで『その可能性』があると言わんばかりの。
「分かりませんが……知ってて僕と楽しく『お話』しているのなら、それは、恨みゆえかもしれませんね」
「恨み?」
ええ、と時永は飲み干したミネラルウォーターのボトルを潰した。
「『誰かの思い入れ』があるならば、はりぼては複雑化しますし、そこには当然意識が生まれます……最初は拙く、やがてはしっかりと。僕はグレイブフィールの基になった幾人かに、思い入れを持たない理由がありません」
ふと思い当たった。
今の言葉、それってつまり言うと――
「……あんた、まさか」
――あの生徒会長を思い返したのは、こいつだったのでは……?
「ははは、アレの代わりに『ごめんなさい』を言わない理由がないだけですよ、僕は」
「だが、それをしたのはあんたじゃないんだろ?」
「――昔も今も、似たような台詞を吐いていたような気分ですが」
さらりと返したそいつは、妙におどけていた。
妙にカッコつけてみえたし、逆に寂しそうにも見えた。
「それでも僕なんです。一人の人間。同じ型抜きで抜き出したものと言いますか……僕にとって『もう一人の自分』というのは、そういう存在です」
「そうか」
俺は大きく息を吐く。相変わらず調子が狂う。だが。
……やり方が、分かってきた。
「あんたが弱みを見せたなら、俺だって見せるがな」
「え?」
きょとんとした顔に、ミコトのそれが重なった気がした。
「なあ、時永先生」
「? はい……」
目を瞬かせてやつは俺を見た。腹の中をぶちまけたせいだろう。さすがに以前、記憶を取り戻した際に見た『張り詰めた力強さ』はなかった。ミコトに出会う前、オリジナルのクソ野郎に騙された時のあの冷たさも。
「任せていいんだな? イツキとミコトを」
「え、ええ……それは勿論。何するつもりです?」
「俺は俺で別口の情報が欲しい。あんたの『それ』に頼りきりってのもなんだ」
「それ?」
俺は苦笑いした。そう、それ。
「俺はかつて、クロノスにこう言ったことがある。……『おいあんた、まさかこんなことは言わないよな』」
時永は少し静止して――一呼吸。ゆっくりと続ける。
「……『あんたが介入しなかった場合の時永は、誰もが頷く善人だった』……」
「それだ。俺が言ったくだらない一言を一々あんたは覚えてる。その場にいなかったにもかかわらずだ」
「まあ……その、常に『他人の記憶』のプールに片足ずつ突っ込んでべちゃべちゃになっているような状態なので」
どんなたとえだそれ。
「――あと、そうですね。その『ノーマル時永先生』がちゃんと善人だったかは知りませんよ」
「そんなん今更どーだっていいんだよ。要するにクロノスと繋がってるってのはそういうこったろーが」
俺は息をついた。
「たとえばクロノスの目線で見たもの、聞いたもの。それにプラスして、ミコトの目線で見たもの、聞いたものの情報。それが全部あんたの頭に収束してる――二人分。いや、あんた自身含めて三人だ。三人分の情報じゃ、足りるかもしれんが正直不足だ」
「不足ですか」
この時永が『以前、学校で騒ぎを起こした件』でミコトの機嫌を損ねてはいけないのは分かっている。俺たちはあくまで「日常生活のようなもの」を送らねばならないのだ。
確証はないが、ゴーレムが無限湧きをしたのは事実だろう。それはたぶん、他でもない『学校』で事を起こしたから。
――ミコトの目が届く範囲で、時永自身が誰かを傷つけるようなことをした。恐らくミコト自身にショックを与えるのが目的で。
それが発端だったとしたら、大体の理屈は通る。
「ああ、今ようやく分かった。なんつーか膠着してんだよ。決定打がないし、情報の入力はクロノスとミコトでも、出口はあんた一人だ。だからこそ言わせてもらうが、一面的には事実でも多面的じゃない。正確性に欠けるし主観が多い。……あんた意外と感情的だな」
「ああ、なるほど」
ただ、『おままごとの日常生活を思い切りぶち壊すとゴーレムが無限湧きする』という新ルールが分かっても、じゃあどうするかという話だ。
日常生活を送るのがベターではあっても、それだと記憶がないようなもので、結果何も変わらない。
「……事実に対する視点と切り口は確かに多い方がいい。警察の検分と同じですね。いやミコトが抱えてるのはトラウマだ。セカンドオピニオンの方が近いか……医者も複数人にかかったほうが場合によっては早いですから」
時永の呟きにハッと思わず笑った。
「……お前、自分が医者だと思ってんの?」
「まさか。でも僕、精神科医が一番苦手なんですよ」
「なんの話だよ」
「『ミコトのお母さん』曰くの話ですが。お医者さんは疑うのが仕事です。犬飼先生」
ふと気づく。……こいつがミコトの母親の話をするのは珍しい。何か意味があるのか、それともただのノリか。いや。
「……大方、佐田くんたちから何かに誘われて、断り切れなかったんだ」
「そーいうこった。弱みだろ?」
「弱みですね。要するに別行動を取る気でしょう」
「ま、たまにはな」
「物は言いようだ、逆にチャンスですね。……そう、『疑り深い人』の見るもの、判断するものはちゃんと多い方がいい」
――意味、あるな、これ。
明らかに雰囲気の変わった表情には、明らかな親しみがのっていた。
「逆にお願いしますよ、犬飼先生」
時永は膝を叩いて立ち上がる。そろそろ元気になってきたらしい。子供のかかりつけ医に話しかけるような気軽さで、ヤツはニヤリと笑う。
「――ちゃんと疑ってきてください、この世界を。僕とは違う視点で」
ニコリではない、ニヤリだ。――質の違うそれに気づく。
今のそれは、本心か?
「……おう、任せろ」
「はい」
時永のニヤリとした笑み。いたずらっ子が見せるような笑い方だ。
それはたぶん、いつものごまかし笑いではなく――マジ笑いだった。