44.もう、届かない声(下) 8年目・12月1日~
――彼は知っていた。
始終自分のことばっかり考えていて。
他人を蹴り落とすのも日常茶飯事で。
人の不幸を喜んで。
多数の屍の上に立ち、何食わぬ顔をして生きている人間たちを。
――同時に彼もまた知っていた。
思いやりがあって、優しい人たちを。
ずっとずっと頼りないばかりの自分を支え続けてくれた愛しい人たちを。
その人たちのおかげで自分は生きていられるのだと、そう思っていた。
――そんな人たちを嫌いになんかなれない。いや、なっちゃいけない。
期待に応えなきゃいけない。信用しなきゃいけない。
……強迫観念にも似た意思が、そこにはあった。
「「……なあ」」
彼はぽつりと呟いた。
「「分かるだろう。……こいつは自分の中の、“人を拒絶する部分”をずっと隠してきた。自分でも見えない場所に、ずっと押し込んでいた」」
「……確かに、別の人格だろう」
途中から反響をしなくなる。なぜか一時的にクロノスとのリンクを外した別人格の口調は、しかし、とても静かだ。
「でもこちらからしてみれば、主なのは俺なんだ。出会ったあの日、あの場所でペンを忘れたのは。嫌々ながら君を追いかけたのは」
別人格にも自覚のある記憶。
それは、珍しく「両方」が共有しているもの。否、恐らくではあるが――元々は、ちゃんと分かれていなかったのだ。時々記憶が欠落するだけで、その記憶も欠落したままで。
「……君と仲良くなる都度、何かが育っていった……見慣れない、感じ慣れない何かに体を、じわじわと乗っ取られていった……」
元々は両方が彼女と接していた。しかし、別人格の基となる部分が耳を塞ぐようになった。目を閉じるようになった。美郷という「他人」に怯えるように……しかし主人格は彼女を求め続けた。
それは別人格からみた結果のここ8年だった。美郷に出会ってから、ここまでの全てだった。
「体は上手く動かなくなった、起きていられる時間が短くなった。夢をみた。意味の分からない夢をみた……とても、羨ましい、夢をみた」
美郷はまっすぐに彼を見返す。――彼の感じたことに、否定も、肯定もせずに。
「……でもそれは違う。受け入れられない妄想だ。自分という生き物に起きた重大なトラブルだ。欠陥だったし、疾患だ、剥離だ。思考の一部が暴走して膨れ上がるなんざ、願い下げなんだよ」
それは、主人格の視点ではない物語。
「愛を知らない男が愛を知る」ラブストーリーではなく、「愛を知らない男に生まれた違う人格が、体をのっとっていく」サイコホラー。
「こっちからしたら、この体という牢獄に監禁されたも同然だ。君は、お前は、俺から全てを奪った」
「……」
体の自由意思を。小さなプライドを。心の半分を。
「「全部だ」」
「……」
「「全部、お前が壊していった」」
反響がぐわんと響く。
「「だから――君は知らないだろうが、こっちは君のことすら嫌いなんだぜ?」」
「知ってる」
美郷は臆せず呟いた。……そう、知っていたはずだ。
それでも彼女は彼という存在そのものに恋をした。後戻りのできない恋を。ひっくるめてそれは「時永 誠」なのだ。ひっくるめてそれは愛なのだ。その道程を知っている。その苦さを一部であろうと共有している。
その証拠に彼女は彼の前で、一度も別人格を名指しで呼んでいない。――右手くん、と。
「言っとくけどね、誠くん――わたし、君の毒舌、割と好きだよ」
「!?」
途端、ぴたりとまた反響が収まる。
――毒舌。それは愛を求めるソナーの音だ。誰にも届かなかった「嫌い」の信号。無関心とその他しか発せられない彼の、貴重なその他。
「……『僕、家政婦の真似事もできない女性ほどダサいものはないと思っているので』!」
美郷はたまたまその一つを諳んじた。テレビの向こうから聞いたらしい一言を。
「『いや主に料理とかですよ? 掃除も洗濯もできるのに料理だけとかね。激しく殺意が湧きます。できたらできたで腹立ちますけど』!」
……料理下手の、専業主婦。
ミコトが授かってから在宅仕事を辞めたそれ。美郷は少し、呆れたように笑う。
「……あれ、わたしじゃん?」
「……」
つつつ、と別人格の首筋に冷や汗が落ちた。
「わたしが頭に浮かんでるよね? ――そういう不用意な発言が話題になるたび、8割がた、わたしのネタをお気に入りで喋ってるよね?」
――誰かの悪口。軽口。陰口。
主人格が口にしなくなったもの。美郷は少し笑う。
切った額の血もそのままに。
「……ねえ、誠くん」
美郷は呟いた。
「怒れと思ってる。いっそ嫌ってくれと思ってる。それがきっとそっちのあなただ」
「……。」
「でもね。それだけわたし、君の頭に残ってるんだ、って思ったよ?」
ギョッとした顔で、別人格は彼女を見た。
「……?」
「こびりついて離れない何かになってたんだって」
いつかの喧嘩と同じだ。「どうでもよくない」からこそ、彼は口を開く。
どうでもよくないからこそ、彼は……ちゃんと美郷を認識していた。
「君は猫をかぶるけど、わたしと一つも会話してくれないけど、それでもきっと『どうでもいいもの』じゃなかった」
『変えのきかない何か』だったのは、きちんと残っていた。「だからこそわたしは嫌われたのだ」と、彼女はようやく悟った。……瞬間、その憎まれ口が。そのトゲのひどい悪口が、愛しい何かに変わった。
「……こっちを見てないと出てこない発言が、言葉がいくつもあって……」
彼女は照れ笑いをする。まるで……彼に対して『仕方のないもの』をみるように。
「それがちょっと、嬉しかった」
会話らしい会話は日頃ない。感じ取るのは気配のみだ。
一瞬の間……意識の境。目が合うのは主人格の方で、別人格はよくて廊下をすれ違う程度でしかない。それでも美郷は米粒よりも小さな反応を拾い続けたのだろう。彼はどんな人間か、探りをずっと入れ続けてきた。
だって彼女は、彼のことも好きで居続けたのだ。彼女は――
「……ねえ誠くん。わたしのこと、どう思ってますか」
――彼女はいつか、彼と対峙することになると知っていた。おぼろげながらにわかっていた。だからいつ「その時」が来てもおかしくないように。大丈夫なように――大事に、大事にこの言葉を温め続けたのだろう。
「……誠くん。どんな生き物だと思いますか、わたしは?」
いつかの仲直り。そこで問いかけられた、「時永くん」から美郷への言葉の引用だ。「どう思ってますか」。「どんな生き物だと思いますか」。――恐らく片方は主人格からの投げかけで、後から言い直したのは別人格のそれだった。
本気で「理解が及ばなかった」のに違いない。強い、明確な拒絶を乗り越えてやってきたその女性が、得体の知れない怪物に見えていたに違いない。
――……自分のカテゴリを振り返ってみろ。
――僕は、君と同じものではない。ああ、どんな生き物だと思ってるんだ。
――君とは違うぞ、もっと『普通に理解が及ぶもの』だ。
それは問いかけにみえて違うもの。
中身をあらためてみれば、それは単に恐怖に対する、明確な拒絶反応だった。
Qではなく、A。
彼はじり、と後ずさる。
――人は、わけのわからないものを忌避するようにできている。外敵から身を守る為、見えない細菌やウイルスから身を守る為。
「怖い? それとも嫌いかな? 吐き気がするほど憎い? どれにしろ同じことだよ。――君は」
「やめろ」
「……わたしが好きだったんだ」
「気持ち悪い」
――彼の足は後ろへ、彼女は前へ。左足がバランスをくずして立ち止まる。
「――!」
「……悲しい人だね、あなたは」
「は?」
「君、さっきから中に引っ込みたくて仕方ないんだ」
立ち止まってしまったのがその兆候だった。別人格がかつて、右手を中心にしか動かせなかったように――左足に今、不自然な力がかかっている。
「頼ってる……自分じゃ受け止めきれないものを、もう一人の自分に、頼ってる」
まだいるのだ。弱体化したけれど、虫の息だけれど、確かに美郷を突き飛ばした主人格は生きている。――右手とは真逆の、左足に。
「!?」
「だから今、君は左足を巧く動かせない。逃げたいんだ」
その瞬間、怒り狂った別人格は彼女を蹴り飛ばした。瞬間的に両足の権限を取り戻したのだろう。執拗に、幾度も。足が届かなくなるまで。
「馬鹿、いうな。あの【よく分からない不気味な僕】と、同じように、扱うな! ――そしてお前……今、なんていった? ……今更! ――今更、なんだっていうんだ、同情、か?」
彼には分からない。――息が切れる。詰まる。中で、何かが暴れている。眉を寄せたその表情は……怒り。
「今更――ああ、今更、今更、今更だ! 今までこっちの存在に気づこうともしなかったじゃないか! 分かったように言いやがって!」
内出血が増える。打撲が増える。吼える。子供が癇癪を起こしている。そう言い表すのが一番しっくりくるような、そんな剣幕で。
「職員の奴らも父親も母親も、谷川もお前も! 誰一人だって気づいてはくれなかった! 助けて、くれなかった!」
……当たり前だ。手を差し伸べたら、それはそれで跳ね除けるくせに。
当たり前だ。主人格の言葉の意味も、おこがましさもわからないくせに。
「その上自分自身にすら忘れられようとしていた! この気持ちがお前にはわかるのか、わかったような振りをして近づくなよ偽善者! 思えば今までお前が一番目障りだった! お前なんかに何がわかる! 僕の何がわかっ……!?」
とんっ……
そんな、少しの衝撃。
「……うん」
驚いたように誠の言葉が止んだ。
美郷の腕が包み込むように誠を抱いている。
……さながら、子供を鎮めようとするお母さんのようだった。
「わかるなんて言わないよ。ごめんね、こういう性分なんだ」
……いつか、誰かが言ったように。
「……あ……」
確かに彼女は、誰から見ても『おせっかい』だ。
困っている人間をなんとなく見過ごせない。そのくせ、誰かの懐にも飛び込まない。きっとそれは、見ようによってはズルさのかたまりだった。
「――わたしね、君が好きなの」
今までも。いや今だって、ずっと。
「――本っ当に、気色の悪い女だな、君は」
「そりゃ、どうも」
せき込んだ美郷は苦笑し、言い返すように呟いた。
「ねぇ、今はおとなしく猛獣を引っ込めて。もう誰も傷つけちゃ駄目。じゃないとあなたはもっと苦しむことになる」
美郷はそう言って猛獣を従えた誠を真っ直ぐと見据えた。
「お願い」
ギリ、と歯軋りが響く。
「あなたはまた、独りになりたいの?」
その時、『猛獣』の影が一瞬、ゆらりと動いた。
――ザシュッ!
美郷の体から、血飛沫がとぶ。
「美郷さん……!」
慎治はようやく声をかけた。崩れ落ちる立ち姿。
別人格が恐怖で過呼吸を起こしつつ猛スピードで後ずさるのを見、慌ててミコトを抱っこして――ようやく思い出す。「近づけないで」というあの言葉を。
ふと、目の前の栄子を見る。血溜まりに「波」が立っていた。生きている……?
「メティス、メティス……!?」
意外と元気そうな美郷の声がした。――振り返れば、苦しげな誰かの声が反響する。
――「う、く……っ!」
「なんで……」
――「あなたの痛覚、借りてるわよ。基盤が同じだって、言ったでしょ……」
痛みをこらえているような、そんな女神の声。
――「こういうの、きっと得意な方なのよ、私。本来は人格が崩壊するリスクがあるから絶対やっちゃ駄目なんだけど、クロノスだってやりたい放題じゃない? リスクの方も、逆に、悪用してるし……!」
「メティス」
――「……あれよりは、うまく行く自信、最初からあったのよね。最後に、張り合いたく、なっちゃった」
「そんな、痛みを肩代わりとかしちゃ駄目だってば!」
『美郷さんの痛みを別の何かが請け負っている』。どこかから聞こえてきた声に、慎治は漠然とそんな考えしか浮かばなかった。
……実際それは事実だったが、何故そんなことになっているのか、当時の自分にはまるっきり解らなかった。
――「ええ、ごめんね。これくらいしか、できなかったの」
立ち上がろうとした美郷がもがく。それでも力が入らないのが分かった。――限界なのだ。いくら痛みがなくても内出血は、猛獣の噛み傷は、明らかなダメージを彼女に伝えている。
――「いくら美郷が痛みを感じなくても……痛みを感じているのは、美郷の体なのよね……だから、ごめん……もう美郷……死ぬしかないみたいで、本気でごめん」
「この、バカ女神……」
そう言って美郷は憤怒の表情で腕をつねった。
――「あいたたたっ!」
「いつもながら、人の心を読むな――気持ちをとるな! ああもうバカメティス! 誠くんのところといい、わたしのところといい、神様なんて、自分勝手のオンパレードだ!」
――「そうね」
美郷は騒ぐ。
「このバカ姉ちゃん! 天然! どくず! ……大っ嫌いだ、痛覚返せっ! どろぼー!」
――「……バカね。……私が嫌いなら、なぜ泣くの?」
美郷は一息に言った。
「……あなたが、痛そうだからに決まってんでしょ!?」
――「……。ありがとう、十分よ。優しい人間さん。あなたと一緒に毎日を生きるのは楽しかったわ。とてもよ」
「メティス……」
――「だから、その分返さなきゃいけないの。いくらエゴでも、自分勝手でも、私は施す」
……強者の責任や矜持というものかもしれない。思い込みや心の力を使う神は「生きた自然災害」と同じだと、彼女はかつて美郷に言った。
けれど美郷にとっては結局――どう見えていたのだろう。
――「だって私、神様だもの!」
力強く女神は宣言した。……気力を奮い立たせ、己の敵とどっこいに自分勝手な決意を胸に。
――「気に入った人間の痛みくらい、いくらだって飲み干せるわ。苦しみも。心の痛みも……あなたの強さも!」
光の粒がふわりと顕現した。美郷を包むように、盾になるように。それは、見ようによっては水の粒に見えた。
「メティス?」
――「なあに?」
「……泣いてる?」
はじけて消える光の粒子。いくつも生まれては拡散する奇跡の結晶。それは――美郷にとって、女神の涙だったのかもしれない。
――「……そういうことにしておいてあげる」
「素直じゃない」
――「……私が素直だったことあった? 残念ながらお互いさまよ。私、言いたいことは言わないし、言えやない。だって間違ってるかもしれないそれが、『人間たちのルールになる』の、嫌だもの」
メティスの声は浅く呼吸を繰り返した。
――「未来が見通せたって、殆どの場合、変えられるわけじゃない。だから言わないの」
「……弱虫だね」
――「知ってるわ、あなたとお揃いでしょう?」
臆病で優しい女神はくすりと笑った。痛そうに。
――「せめて一緒よ、さいごまで……大丈夫。眠るように終わらせてみせる。だってあなたは最後まであらがった。抵抗した。彼を、こちらに引き戻そうと踏ん張った」
「うん」
――「偶然と運命と、彼の気持ちに……それくらい必死に戦い続けた女の子には、ルール度外視の奇跡が必要だものね」
「ねえメティス」
美郷は苦笑いした。
「自分に言い聞かせてない?」
――「らしくないことしてるからね、私。あなただからやるのよ。こんなこと」
ぱん、ぱん。
その時、誠は埃を払うかのように服を叩いた。
「……へぇー痛くないんだぁ。残念だなぁー」
「……あの、メティス」
別人格の様子がおかしいことに気づいたのだろう。美郷が困惑しながら彼を指す。
――「……次々に『履歴』を消してるわね、あの時永くん。クロノスの雑な指示でしょうけど、不憫すぎてもう笑けてくるわ……」
「履歴って」
――「美郷のスマホに例えましょうか? キャッシュとクッキーが消えてるのよ。動きが鈍くならないように。いや、デフラグでもいいかしら……要するに、とっちらかってたのが整理されてるの。感情とか、記憶とか。それで、要らないと判断されたものは失われる」
「そっか」
美郷は呟いた。
「劣勢ってわけだ、あっちの誠くん」
誠の顔からは怒りの表情は「消えていた」。
「当然だろ、恐怖感で動けないなら、忘れればいい」
「恐怖の源を?」
「ああ」
その声にもまるで意味は入っていない。台本を棒読みしているかのようだ。
「安心しなよ、当然だろう。君のことを忘れるだけじゃないか。第一、君、こんなに嫌がらせをしてくるなんて、僕のことが嫌いなんだろう?」
「うわ、最低」
美郷はなぜか大笑いした。やけなのかも知れない。いや、もしかしなくても――こういう展開も予想していたのかもしれない。
「あれだけ好きだって言ったのに?」
「冗談も大概に……っ」
ふしゅ、と口から息が漏れた。
――「一瞬で忘れたわね」
「いや」
――「なに、美郷?」
美郷は苦笑いした。……今まで、大体そうだった。純粋な『好意』を口にするたび、別人格は逃げる。
「――左足、みて」
ぴくりと動く、視線の先。
「……は、ははは」
独りで笑い始める彼の――足の先。
「でも、あいつ、何がいいたいのか分からなかったな……僕に指図するなんて、何様のつもりなんだろうか」
左足が動く。――正しくは、左の親指が。
「……クロノス、に……? いや、謎の声に言われたんだ」
引きずられるように、左足は地面をすべる。――親指のみならず、つま先全体が少し開いた。
――「クロノス」
メティスは呟く。
――「あの右手くん、あんたに対しても怯えてたらしいわよ。記憶が消えてるけどいいの?」
「……『もう少し待てばお前は神になれる』。『もう汚い人間と同一に扱われることもない』だから、ころせって、目障りな人間には復讐しろって……誰かに……。ミコトとかいうのを育てて……そう、よく分からないが、それでいい……」
足首が曲がる。――左の足が、突っ張る。
「いうことを聞くのは癪だが、それが最善だ。なぜか、そう分かる。それはそうだ、思い出したぞ、だって、誰が、お前みたいな偽善者とッ――そうだ、そうだ、殺そう、めにはいるもの、すべて」
記憶や認識がフワついているらしい。ブツブツと狂った何かを口にしながら、誠はもう動かない美郷の体をまた蹴り上げようとした……しかし。
「…………?」
足は、動かない。
……まるで、誰かが足を押さえつけているかのようで。
「っ……??」
混乱したような顔で別人格は呟いた。……微塵も動かない左足を抑えつけた『何者か』に。
「……誰だ、お前は……?」
君だよ。――それは、君だったものだ。
美郷は苦笑した。――さて、未来は変えられなかったわけだけど。死ぬしかないわけだけど。
「ごめんね、誠くん」
……助けてあげられなかったね、と彼女は詫びたのかもしれない。
「まあいい。足が、動かないなら――噛み殺させて――うん?」
別人格は何かに気づいたのか、固まった。
狂った彼が見ている先には、何もない。
「……ねぇ、これだけは最期に言っておきたいんだ」
もう目の前の彼には、聞こえていないのかもしれない。……けれど、彼女の小さな呟きが慎治には漏れ聞こえた。表情は見えない。
しかし、ハッキリと彼女は言った。
「……愛してるよ。誠くん」
美郷の腕は一瞬、誠の方に伸びた。
――ザクッ! グチャッ、がきゅきゅっ。
……そして、腕はゆっくりと床に落ちていった。
途端、何かがまた砕け散る音がして。
「……?」
別人格は左足をあげた。
「そうか。――お前は、『僕』か。しかし惜しいことをしたな。お礼も言えないなんて」
何事もなかったかのように動く左足。……光の粒が、かき消える。
「……」
最後の最後、主人格は美郷を庇おうとした。同時に恐らく――別人格に対して殺意を抱いたのだ。
あの怒らない青年が唯一「例外」を認めたことで――瞬間的に別人格は『自己否定感』を失ったのだろう。対して主人格は『自己愛』を手放した。
美郷と出会い、大切に育てた感情を――別人格の自己嫌悪を奪い取った代わり、サーブしてしまった。
「……妙だな。いい気分だ」
「あの」
ひくりと彼は私をみた。忘れていたのに違いない。
「何か?」
「救急車を呼んでも、いいでしょうか」
おそるおそる問いかける。凝固しつつある血だまりの上、僅かに上下する栄子の胸。つまらなそうな表情でそれをまじまじと見た彼は、気の抜けた声でこう呟いた。
「ああ――だが、その前に片付けろ、馬越」
「は?」
「は? じゃない。アホみたいな顔をするな。飲み込みが悪いのか、お前は」
なぜ、と今でも思うのがその対応だ。……なぜ彼は、私に対して呆れるだけで、彼女と同様に「怒り」をぶつけなかったのだろう。
「……その女がどうなってもいいのなら、逃げ出せばいい」
「!」
……ぐにゃ、と何かが喉に触れた。
「もっともその瞬間、お前の首と胴は分かれているかもしれないが」
「ぁ……あぱっぷ??」
ミコトがようやく口を開いた瞬間、彼は――
「……あと、この子を黙らせておけ。何故だろうな。胸の奥が気持ち悪いんだ」
――目をそらした。まるで、そう。
……嫌いなのにどこか、引っかかるものを見たように。
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
「…………。」
黙ってページをめくる。彼としては覚えていない発言もあったのだろうけれど、それでも流れとして、理屈として、消えたワードの穴は塞がっている。書かれた日付をよく見れば、たったの3年前だ。幾度もそれまで日記を見直したのだろうし、自分でもあの日の出来事を思い返していたに違いない。
……よくできていた。
僕は1つ呼吸を置いて、ようやく日記帳のページをめくる。
その後、彼はこう続けている。
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
あの後の話をしますと……まず栄子はその後、ちゃんと救急搬送されました。
さらにいうならそのまま、何年も生きていたんです。
といってもずっと昏睡状態で――実質殆ど死んだようなもの。勿論事故とは思えないようなとんでもない怪我だったものですから、半ば強制的に事情聴取を受けさせられました。
その際、嘘の供述の口裏あわせをさせられたことは、もう昨日の事のようにハッキリと覚えています。何せ彼は、やたらめったら栄子をダシに使うのです。
それが弱みだと知っているようでした。愛も恋も知らないのに、そうすれば人が動くのだと、なぜか彼は理解しているのです。
その後も事あるごとに栄子をダシに使われ、気がつけば自分の手で「被害者」を量産している有様。――我ながら、自分にうんざりしましたね。
実は犬飼さんと植苗くんのお二方がやってきた時もそうだったんです。しかしもうそんな日々もきっと近いうちに終わるでしょう。
何せ彼はもう、栄子の命をダシには使えなくなってしまったんですから。
2030年1月1日。
そう、今これを書いている自分にとってはつい昨日のことです。病院から連絡があり、栄子がとうとう死んだことが告げられました。
……よく、今まで持ったものだと思います。
あの怪我ではむしろ、生きていたのが不思議なくらいでした。
栄子を噛み砕き、頭を強打し、美郷さんを死に追いやったあの猛獣。
彼はその後猛獣に「グレイブフィール」と名づけて可愛がりました。人並みの感性の持ち主ではなくなってしまったのかもしれません。
何度か餌やりと称して「人だったもの」を攫わせました。「木の実」や「血」に適応しなかった人間たちです。
世間的には、凄まじくたくさんの行方不明者が発生しました。そして私としては、恐ろしくたくさんの失敗作が咀嚼されるのを見ました。
そして恐ろしいことに、人を飲み込むつど、その姿がハッキリと形を成してきたのです。――それは、筋張った肉の塊でした。血管の浮いたぶよぶよの触手が生えていました。
彼はそれを見ても心が痛まないらしいのです。
むしろ面白がって――どうやってか、人がいなくなってもうまい具合にうやむやにしてしまう。
彼の周りでばかり人が何人も消えているのに、一向に怪しまれもしない。
そんな彼が、私はずっと怖くて怖くてたまりませんでした。しかし、先ほど書いたように、もう自分には鎖の先がありません。栄子という存在を失いました。
彼にもう道具として使われる義務はありません。失うものは何もない。死んでしまったって後悔はない。
でも……このまま、ここを去るわけにはいかないのです。今更になって、幾度も思い出すのです。
あの時頼みこんできた彼の言葉を、約束を、幾度も。
……「もし僕に何かあったりしたら、その時はミコトを預けて良いですか」と。
そう最後に言った“あの”誠くんを自分はどうしても裏切れないのです。
お嬢様なんていなければと思ったこともありますよ。正直あります。
でもね。その可愛らしい顔が笑うたびに思うんです。「そっくりだ」と。それからどこか、温かい気持ちになる。
……私はこの仕事が苦手ですよ。嫌いです。何せ人殺しの手伝いですから。
ただ、まだここにはあなたがいます。美郷さんと誠くんの娘がいます。ええ、あの2人が居ないにもかかわらず、あの2人にそっくりな少女が残されているのです。
だから、自分は待ちます――待っているんです。踏ん切りがつくかもしれないその時を。
今は何も知らない“お嬢様”が、あの人の秘密に触れる時を。
ミコトちゃんは受け入れないでしょう。あの外道を受け入れない。
だって、私たちはそうやって育ててきた。
彼が望むように、そしてミコトちゃん自身が望むように、万人から愛されるように育ってきた。
彼女が拒絶したとき、彼は激昂するはずです。だって彼は自分の子供に「空白」を見ている。胸の奥がモヤモヤするのだと、あの子を嫌っている。
だから彼女がいなくなる前に、私は決断を余儀なくされるでしょう。いくら迷っても、手を汚すときは訪れます。
自分はその時―― 必ず、あの人を殺すのです。どんな手を使ってでも。
これは、きっと本人も望んでいることですから。
2030年1月2日 午後1時25分
正月早々嬉々としてドームに駆け込むミコトちゃんを横目で見ながら――馬越慎治
――― ――― ――― ――― ――― ――― ―――
……日記帳の文字は、ちょうど最後のページでそう止まっていた。
日記を読んでいた僕はため息をつく。
ああ……まったく、困った日記だ。込められた心だ。読みすすめるのがしんどくて、楽しくて、悲しかった。
何度も泣いて、読めなくなった。
何度も破り捨てそうになった。
何度も……自己嫌悪した。
それでも、不思議と読みすすめたのは、知りたかったからかもしれない。
……自分にとって、紛れも泣く幸せと呼べたあの日常を、彼女がどう感じていたのかを。
僕は息をつく。片手で幾度ももてあそんだ紅葉のしおりを手に取ると……一番最初の一冊を手にとった。
「……」
日記の最初に、静かに挟み込む。優しく、ゆっくりと。
……そこはもうずっと前の、『2009年11月21日』。
初めて僕らが出会った日。
「返事と言ったら……遅いかもしれないね」
深く、息をつく。
「……僕も、だ」
文字を眺めて、その筆圧を眺めて――ミコトの落書きを眺めて。ようやく日記を閉じる。
「……愛してるよ、怖いくらいに。けれどそれを見ないフリはしないし、それを忘れたりもしない。少なくとも僕だけは」
例え君を殺したのが、同じ僕であったとしても。君がその運命を受け入れていて、それを僕がどうしても受け入れられなくても。
ヤツが言うように、僕がずっと人を信用せずに生きてきていたとしても、ずっと嘘ばっかりついて生きていたとしても……
……僕が君を好きでいたことは、事実だったはずだから。
「少し、待っていてくれないかな」
ぽつりと僕は呟いた。――「幸せの残滓」を抱えて、この先の未来ではない「どこか」へ行ったあの人に。
「……知ってるだろ、意外と僕は足が速いんだ。君を抱えたって速く走れるよ。ミコトを、どうにかしたら、たとえ……っ」
息が詰まる。見て見ぬ振りはしない。
わかっている。
彼女は。
「……ああ、たとえ……。あの世の果てにだって、走っていくさ」
――彼女は、死んだんだ。
あのとき、あの場で、僕と一緒に。
「……わかってるでしょう、美郷さん。僕は君が好きだ。死んだ君を見て、心折れるほどには好きなんだ」
幾度も見上げた一本楓と同じ種類。あの葉っぱが遠くを飛んでいく。それを見た僕はもう、朝ごはんの時間になっていることに気づいた。
席を立ち、ミコトを呼ぶ。
……外はもう明るく、山を横日が照らしていた。