37.意味のある人 8年目・5月5日
・2017年5月5日(金)
『予定日』が近づく……
「いつ産まれてもおかしくない」という緊迫した空気。
それは徐々に焦りを生み始めて、ろくな気持ちにならなかった。
いきがつまってしまいそう。――今から緊張したって仕方がないっていうのに。
わたしは深く息を吸い――
「うあ――――――っ!!」
お腹の中の女の子が――うん、女の子だっていわれてたよ確か――ともかく、いきなりの叫び声に驚いたのか、わたしを蹴っ飛ばす。
うーん、すっきりしない。
メティスが苦笑いした。
――「逆に赤ちゃんに悪いんじゃないの? その発散の仕方……」
わたしは黙ってぶるんぶるんと頭をふる。――いや、だってほら。考えてもみてほしい。確定した「これ大変だわ」なイベントが、刻々と迫ってくるのが頭に浮かんでいる。
一応予定では5月の10日。
つまりあと5日。
誠くんの誕生日の、およそ2日前。
だけど、いつも通りに彼を気にする余裕や余力は……正直まったく持てないでいる。だって、ネットショップでプレゼントなんか買ったって、結局家にいるかもわからないじゃん、わたし……。
頭の隅っこに、常に「緊急時持ち物リスト」だったり「病院の電話番号」だったり、「誠くんの連絡先」がずっと陣取っている。
いや、右手くんがちゃんと着信に出てくれるかどうかすら、よく分からないんだけれど……もう、不確定要素が多すぎる!
そりゃあソワソワして落ち着かない!
「まーたモヤモヤしているんです?」
ご飯を作っていた慎治さんが、皿を片手にひょいと振り返った。……お昼から夕方はもう、ちゃっかりいるのが当たり前になっている御仁。
人が叫んでいても「いつものことだ」とのんびり構えている慎治さんの適応力っぷりにはほとほと感心だ。逆に理解しがたい。
――「そこに感心するよりも、まずはフラストレーションが溜まると叫ぶ癖を直す方が先だと思うのは私が間違っているのかしらね……」
一応それも正論とは思うけど! あいにく、わたしは直すきっかけを見つけられないし余裕もないわけで……いや、探せばあるのかもしれないけど、見つけられないわけで。
……うん、とりあえずほっておいて?
「今日のご飯、なんですか?」
とりあえず口を開く。
……落ち着かないときは他愛もない話だ。今考えてもしょうがないことに思考回路を使うのは、正直非常にもったいない。
「グラタンとひじきのサラダですね」
慎治さんは持ってきてくれた買い物袋から、長いパン袋を取り出した。
「あとは……チーズが少し余りそうなので、バゲットでトーストでも作りましょうか」
ご飯のついでといいつつ、最近は草むしりまでしてくれている慎治さんに頭が下がる。申し訳ない。色々気にするせいで動きにくいからとはいえ……いつの間にかわたしが担当だった仕事が取られまくっている気がする。
ああ……
「……どうしよう、ニートすぎて凹むわ……」
――「ネガティブスパイラルに陥ってるわ、この子……!?」
メティスもそう思うなら、もうちょっと気晴らしになるような情報ちょうだいよ……。なにが「あ、今庭にウグイスがきてるー」「野良猫がくしゃみした」よ。本当どうでもいいわ。
――「なんでもいいから喋れと言われたら、基本そうなるタイプなのよ私」
「あー、いえいえ」
どちゃりと音を立てて椅子の背もたれに頭をぶつけた瞬間、慌てたように慎治さんが言う。
「別に、私も無理してませんからね。美郷さんもあまり動きたくないでしょう。たまに散歩する程度ならよくても、前かがみの体勢だったり、ずっと立ちっぱなしなのはちょっと。あと、こっちはやってて楽しいので」
「他人の家事が楽しい人なんて、この世にいますぅぅ……?」
……気ぃ使ってない? 大丈夫この人?
「この世にいますって。ここにいますよ」
休憩だろうか――食卓に座り、お湯を沸かしながら慎治さんは言った。
「元々、こういうのが本当に好きなんです。いわゆる雑用係というか……誰かのサポートをする、先回りして整える、補う――それで、『ありがとう』と言われるのが嬉しいのです」
「?」
「……いや、違うかな、別に言葉はなくても構いません。そういう見返りのためにやるわけでもない。ただ、それで『何か』が変わるのが好きなんです」
わたしは思わず首を傾げた。
「何かが?」
「ええ。『何か』が」
慎治さんは頷く。
「たとえばちょっとしたことで――誰かが落とした、消しゴムを一つ拾ったことで、その先、仲良くなれる女の子がいたりとか」
栄子さんだろうか。
「たまたま隣に手土産を持っていったことで、話の弾むようになった男の子がいたりとか」
「……」
……誠くんだろうか?
「食後の皿洗い、仕事後の洗濯、平日の掃除。誰かが途中で放り投げてしまった億劫な物事を、こっそりと片付けてみたくなることもあります」
慎治さんはくすくす笑う。
「性分なのですよね、本能的というか。誰に言うでもなく、誰に誇るでもなく。ただ、目の前にある放置された出来事。それを、片付けたくなってしまう」
……卓上ケトルを傾けて、麦茶のパックの中で影がくるくると回る。せわしなく、まるで普段の働き者の慎治さんみたいに。
「頼まれたら頼まれたで、張り切ってやってしまおうとするのですよ。それでどこか『スッ』としてしまう自分がいるわけです。胸のうちのどこかに、必ずいる」
「へえ」
――「達成感のようなもの」を感じるのだと、彼は言う。
誰かがやるはずだった出来事……その中の本当に細かくて煩わしい部分を、代わりにこなす。それで、その人を理解できるような気がする。
どこか、繋がっている気分になる。
「……他人に利用されやすい性質だと、昔から栄子には言われましてね。まあ、当たり前でしょう。『自分のために』の比重が、自分の中では大きいとはいっても、周囲には分からない。便利な何かでしかないわけです」
結果的にみれば、それは世話焼きと同じだ。文句を言わずに黙って、相手の「楽」を増やす――雑用をこなし続ける。
求められることを、半ば、求められる前にやることに意義を感じる。
ああ、だから栄子さんはあんなこと言ったんだ。
――『いいじゃん。どうせならちゃんと使ってよぉ……元無職という名の家政夫だから、この人』
あれは半分冗談だったんだろうけど、もう半分はきっと冗談じゃなかった。許可が出たのに等しい。だって。
「その結果『自分は怠けていいのだ』と図にのられたところで、奴隷扱いされたところで。きっと表立っては恨まないのが私です――だって、好きでやっているのですから」
……あくまで「自分からやりだしたこと」だと、彼は思うんだ。
だからそれで、だんだん相手が調子にのって見下されるようになっても……扱いが悪くなっても。
何を言われても、ある程度は気にしない。
鈍いのだ。
いや、それ以上にきっと。
「……客観的にみると、こう思うこともあります。ただ、『自信がないだけ』なのだ、と」
……「承認欲求」の一種だ。
誰かにとって、「必要なもの」になろうとする強迫観念。
だから、良いように利用されることを、一番近くにいる栄子さんは快く思っていない。たとえ、彼が願っていても。
だって慎治さんにはある意味で、ブレーキがない。『自分が楽しい』から人を助けて、交流して。時々きっと、誰もが呆れるような無茶をする。
きっと彼はそういうことをいくつもやってきた。
今まで何度も、幾度も。
「――露骨でなくていい、心のどこかで必要とされたいだけなのです。それでしか、相手ときちんとお話ができた気がしないんですよね」
栄子さんはそれを昔から知っている。ずっと隣でみてきている。
だから、手の届くかぎり……彼と関わりを持つ人間を、一度はじっくり見定めている。
必要以上に『何か』を背負わせそうな人間を、何気なく牽制している。
慎治さんもそれを、きっとわかっているんだろう。
それは2人ならではの「恋のかたち」だったのだろうし、「愛のかたち」でもあるんだ。
「一つでも二つでもいいから、『頭の片隅にある厄介な荷物を下ろしてあげる』。それでなぜか自分まで、『楽になった気持ち』になる……」
慎治さんはしみじみと言った。
「共感というか、妙にホッとしてしまう。「これで相手は楽になる」、そう思うと……役に立てた、そう思うと。そのじわっとした自己肯定感が、私を突き動かすんですよ」
……別に恩を着せるつもりもない。甘やかそうとは思っていませんよ。
彼は苦笑した。
「やりたいからやるのです。目の前の物事を改善したいから、効率良くしたいから。何よりそうして私が動けば、私は誰かと話す機会をちょうど得ることができる。交流する機会を得て、少し楽しく過ごせる」
いびつな人だ。
でもそれ以上に、熱を感じる人だ。
「……何もしないより、何かをしたいのです。思いついたことは全て、挑戦してみたいのです。そうしたら周りの出来事が、少しずつ愉快に変わっていくような気がしてならないのです」
「……」
「そうした私の性質を知る人は、最初はおずおずと。そのうち堂々と私を利用し始めます。その方が楽だから。ただたまに、栄子みたいに怒る人がいる。それから――」
――『それで、馬越さんは楽しいんですか?』
――ええ。
――『あとで大変な目に遭っても?』
「……初めて彼と話した日」
慎治さんはホット麦茶を飲みながら口を開いた。
「……私が偶然、この隣の敷地に越してきた日。栄子と私の関係を知らなかった時永さんちのお坊っちゃんは、私を表札の名字で呼んで口を開きました。ああ……言いませんでしたかね、栄子と彼のお父さんは古い知り合いで、私も付き合いはそれなりにあったんですよ。彼も変わった人で、昔、同じことを言ったんです」
――『……それで当人が楽しいなら、いいんだろうさ』
誠くん同様に「不器用」だったという。人付き合いに難ありの、慎治さんと同じ年頃の青年はかつて――そう口を開いたのだという。
楽しいですよ、と若い頃の慎治さんが口に出せば、それはもう駄目押しのように。
――『後で大変な目に遭っても?』
――うん。
――『……ならいい』
「……あの時は、たまたま、同じ名字だと思っていました」
懐かしそうに慎治さんはいう。
「手紙や贈り物をしたこともありましたが、何しろ街の方にある彼の会社宛てだったので――まさか、あんなところに縁のある人が住んでいるなんて思いもしなかった。それが、親子だったと知って、合点がいったんですよ」
――口調も違う。立ち振る舞いも。両方人付き合いに関しては不器用な印象なのに、まるっきりの正反対。【丁寧すぎる】誠くんに、【まったく他人に気を持たせない】誠くんのお父さん。
それでも……
「一切繋がらなくても――不思議と、ダブってみえたのです」
彼は笑って、からのコップを片付けようと手を伸ばす。
「……こちらの性分を、『良い』とも『悪い』とも言わなかった。栄子は【これ】を欠点だと言いますが、あの2人は違った」
誠くんは一般的な家族を知らない。
普遍的な人の家庭を知らないし、相手を同居人のように思っていた節もある。
そういつか、ぽつりと言っていた。
貰われっ子ではある。時永という家と関係のない出自ではあって、お父さんと繋がるアナログなものはほとんどない。
でもそれなりに、受け継いだものはあったのかもしれない。……人を見る目とか。感性とか。
「……二人とも、そういう人だと肯定してくれました。嘲笑することもなく、むしろ敬意を払ってくれました。そんな人なんて、意外と――この親子だけだったんですよ」
――なるほど。
わたしは思わず笑った。
「慎治さんにとって『レア』だったんですね、誠くん」
「激レアでしたね」
……よかった。
そう、なんとなく思った。
この人が誠くんの友達でよかった。ついでに、隣に引っ越してきてくれてよかった。
それから、誠くんのお父さんのお友達で。
ああ、なんとなく思う。
「……意味のある人で、よかった」
慎治さんは笑う。――なんですかそれ、と。
「意味のない人なんて、なかなかいないでしょう」
「ですかね」
――そういう、形のないもの。ちょっぴり分かりづらい意味であったりとか、奇跡であったり、運命的なものだったりを……わたしは今までたくさん、気づかないままスルーしてきたのかもしれない。
「ああ、そういえば。すっかり忘れていたのですが」
「あ、はい」
慎治さんは臨月のお腹をふっと見る。
「赤ちゃん、お名前はもう?」
……意味。この子もそうだ。わたしは納得して呟いた。
「ああ……ネーミングセンスがあるかは分かりませんけど」
ほとんどノリみたいなものだ。
ミコト。命を大切にする子。……みんな「ま行」で、最後が「と」。
「……語呂合わせか何かでしょうか?」
苦笑いしながら慎治さんは言う。
「誠くんが絡んでるなら、何ともないとは思いますが」
「あ、ひどい。わたしのセンスが独特だって言ってます?」
「実際そうでしょう、奥様?」
最近暇つぶしのオンラインゲームによく付き合ってくれる慎治さんは、しれっとちゃかす。
「……この間、私を巻き込んでやり始めた対戦ゲーム。作成したキャラクターのお名前、『無限わらび』とか『有限会社ひょっとこザウルス』とかだったじゃないですか?」
「ゲームと現実はさすがに弁えますぅ!」
慎治さんはくつくつと笑った。
ああ、だんだん恥ずかしくなってくる。
――「最初はちゃんと【可憐なレディ】扱いだったのに、最近だとただの妙ちきりんな人みたいな扱いになりつつあるわよ、美郷?」
うわーん! だとしたら誤解だよ!?
「わたしだって、わざとやってるんじゃないですからね!?」
「半分はわざとというか、面白くしようとは思ってるでしょう」
「しっくりくるのがたまたま面白系になるだけですー!」
心外だ、なんで根っからの「ギャグ脳」みたいに思われているんだろう、わたしは!
「うぇーん! 誠くん、早く帰ってこないかなあ!」
「彼ならキャラ名を悪く言いませんからねえ」
まあ、確かにバカにされたことはないんだけど!
「超高性能分度器って名前にしたときは『美郷さんにしてはパンチがない』って言われましたけどね!」
・ ・ ・
「なんで高性能?」
「『ちょうこうせいのうぶんどき』って地味に言いづらくない?」
「……。超高性能分度器 超高性能分度器 超高性能分度器」
「ナチュラルにクリアしないで」
・ ・ ・
「……まあ、最終的に『超高性能高速分度器ソックス付き三点セット2万7,980円(税込)』になって出撃していったんですけど」
「そこまでして、ようやく噛んだんですか、彼……?」
「お互いムキになった」情景を悟ってしまった慎治さん、超苦笑い。
――「あれは意外と手強かったわよねー」
によによした声のメティス。
……な、何をーぅ、手強いに決まってんじゃない!
「噛まなくて当たり前ですよ! 皆の前で喋る先生ですから、滑舌はそこそこいいです!」
――「あ、そこは威張るの。噛ませようとムキになってたくせに」
メティスに対して『フーン!』とドヤ顔したわたし。――うん、それはそれ。これはこれ。
うちの誠くんはすごいんだ! それはゆずれない。
「……まあ確かに、タレントさんですからね」
あ、慎治さんも見てるんだ、あれ。
話題にあまりしないから、全然知らなかったけど。
「……」
先生もタレントさんも、どちらも本当は「右手くん」だ。わたしがいつも接してるのは、家に帰ってくるまでに切り替わる――違うほうの、誠くんなのだけど。
それが、少しさみしい。――そう思った瞬間。
「ただいま戻りましたー」
優しい声。……ああ、噂をすれば、いつもの誠くんだ!
鍵をかける音。相変わらずお仕事に行った気がしてないんだろう、疲労感の欠片もない元気な足音が聞こえて――玄関口に向かうべく、慌ててすっくと立ち上がった瞬間、慎治さんに「待て」ポーズで制止される。
「えー」
「そんなウッキウキにご機嫌なステップで! ……転んだら困るでしょうに」
「いやあ、大げさな」
だってここまできたら、逆に運動したほうがいいって言われてるのに。
「「大げさにもなりますよ」」
居間のドアが開いた瞬間、男性ズ2人の発言がハモった。……瞬間、お互いにきょとんとした目が合って、ふきだす。
「なに真似してるんですか」
「そちらこそ」
……ああ。
やっぱこの2人。
わたしは少し、笑いながら言った。
「……いきぴったりだね、2人とも」
――見てるとなんだか、落ち着くなあ。
ちょっと面白い。そう思うのはどうしてだろう。