36.命の名前 (少しとんで)7年目・9月2日~2月26日
その後も日記帳のページをめくる。
……ひとつひとつ丁寧に、僕は「あの日の残滓」を確認していく。
まるで飛び石みたいに日常描写は続いていった。
楽しい出来事。――僕に「困らされた」出来事。
逆に僕が「困った」出来事。
まるでとびとびの、僕の記憶と合わせるように。
彼女いわくの「右手の彼」は、だんだんと活動領域をひろげていったようだった。
確かあの頃……
僕がふと我に返るのは、最寄駅についたとき。
そこからバスに乗る際、もしくは自宅の門をくぐる間際……
勿論例外もある。気づけば土地勘のない町に放り出されていたときは、大概時刻を見ると終電をのがした後だ。
その時は下唇を舐めると、ほのかに脂っこい味がした。……濃い味。居酒屋のものなのか、洒落たバーのものなのかは分からないけれど。
大方、誰かに食事にでも誘われたのだろう。
途中で帰るということをしなかったらしい。
「右手の彼」は家よりも外の方が好きなのだろうか。
そして帰宅が一番気がすすまない。
気がすすまない? ――ああ、だから帰宅後と休日は、僕の担当なのか?
そうか、彼は自分の家が苦手なのだ。
彼女の待つ場所が。その前の誰かとの思い出の残る、あの玄関が。
……そう思いながら、知らない街で夜が明けるのをいくつか繰り返した。
――帰りたい。早く帰って、彼女に会いたい。
逸る気持ちを抑えて始発に乗るのを、結局幾度も経験した。
たとえ僕の半身が帰宅を嫌おうと。
あの血塗られた家を嫌っても。
そして恐らく――そう。
……僕の半身が、彼女を嫌っていたとしても。
――「おかえりなさい」
――「……ただいま」
未だに思い出す。朝帰りしても全く怒らなかった彼女を。
台所に残る夜更かしの形跡を。
――「遅かったね!」
……満面のスマイルで許される。
何も突っ込まずに僕を手招く。
――「出勤までまだ時間あるじゃん、パンでも食べていきなよ」
こわばっていた体が、心細かった奥底が――ふっと力を抜いて、僕の心を落ち着かせる。まだ大丈夫だ。僕の心は生きている。
『この人を好きだと感じられる感情』はまだ残っている。
「右手の彼」には、もうこの時点で理解が出来なかったんじゃないだろうか。
だって、僕が彼女を好きなのだ。
この感情は僕だけのものだ。僕だけが覚えている。
僕はもう、彼の仕事を理解していないし覚えていない。
カメラの前で喋るなんて、メディアの前でおどけるなんて。
そんなものはやっぱり、非日常だ。
あれから味をしめたように始まった「タレント活動」が――目立つため、ちやほやされるための足がかりが、僕の理解の外なのだとしたら。
きっと彼にとっての理解の外は……
ひとにおぼえる、「愛情」の類だったのだと、今なら思う。
みないふりをした。感じないようにふるまった。
養父の心遣いと――乱暴であったかい言葉と――あっけない死を。
……その時と、全く変わっていない。
こうして『彼女の日記』を追いかけている今なら、もう全貌がわかる。
僕という人間はきっと腑分けされるように――綺麗にひとつずつ、分けられていったのだと。
・2016年9月2日(金)
――長い廊下を駆け抜ける。
今……わたしは『人生最大のビッグイベント』の始まりを、誠くんに報告しようとしていた。
狙いを定めたのはいつものごとくお風呂場でバケツの水を被って寝癖をごまかしてきた誠くん。いやあ、本当に跳ねやすいんだよねあの髪!
まだ眼鏡もかけてないその目の前に……わたしは問答無用であらかじめ用意していたものを突きつけた。
「え?」
「これ、なーんだ?」
わたしが何か、『冊子』を持っているのは分かるらしい。寝起きで目が霞むのか、視力の問題か、目を細めて瞬きを繰り返す。
「……何、それ」
「カメラを向けられた右手くん並のリアクションを求む!」
「ええっと、それは当人に言って、くれな、い……」
言いながら眼鏡をかけた彼は、暫く固まった。――あまり素っ頓狂な声は上げない。ただ自分の目が信じられないのか、誠くんは目を細め、フレームを指で押し上げた。
「……」
裸眼でそれをまじまじと観察した後、ようやくまた眼鏡をかけなおす。
「……What is this?」
「何で英語!?」
「いや、本気で見たことがなかったんだよね、実物を」
そして腕を組んだまま考え込んで、沈黙。
目の前の緊急事態をうまく受け止めきれないようだ。
――「これだけ驚いてくれると、見てる方も愉快よね」
メティスがころころと笑う。……うん、どうもわたしの口から答えを聞くまでは信じられないらしい。わたしはさも当然と答えた。
「見たことがなくても、タイトルはあるわけで。見てわかるでしょうに。それとも存在を知らなかった? 母子手帳」
「いや知ってはいるよ。噂は知ってる。と、いうことは……?」
彼が見上げた先に、たぶんわたしは滝のような汗を流していたに違いない。
そう、緊張感ないように見えると思うけど、実はわたしも半分ヤケクソでお知らせしている。
……いや本当、ばりばりに心当たりがあるような顔をしてて助かった。
「実はそれやらかしたの、僕じゃない方です!」とか言われたら、もう生きていける自信がなかった。
「『妊娠2ヶ月です』だって、やったねお父さん」
「ヴ」
口を抑える誠くん。
「いや吐きたいのわたしだよ!?」
「ごめん、緊張感のあまり胃液が」
本当、最近よく気持ち悪くなるんで、まさかーと思ったら案の定。
そこで否応なしに思い出すのは、メティスから言われたこと。ここから先、時永くんに一番近づく女の子は――いつか『大きな泡』を必ず生み出す。
「……えー……。」
ところであの【大きな泡ちゃん】ですが。今回、関係あるのでしょうか。メティスの見解は?
――「……お察しください」
お察し宣言された!!
でも、最近は誠くんも調子が悪かったり疲れたりすることが多いらしい。だから、ここ数日言いたくても家に帰るとすぐに寝てしまっている姿を見ることが多くて……今、ようやく言えたと。そういうわけ。
……なーんて言ってるうちに。
だんだん目の前の新米パパさんが、ニマニマと口角を上げる。
「……本当に?」
「本当に」
誠くんは、みるみる満面の笑みになった。
ああ。
……そっか。
「……夢が、近くなったなぁ……」
しみじみという彼の背中に、少しだけ手をかける。
……血の繋がった誰か。初めて出会う肉親。
それに対して、不思議に『あこがれ』の強かった人。
……うん、「大好き」だって言ってもらいたいんだもんね。
勿論、最初は実の両親がその対象だったに違いない。
でも、彼らはもういないかもしれないのだ。
――連絡手段すらない、誰か。
それよりは「いつか出会うかもしれない存在」の方が、彼には近いものに見えたのかもしれない。
そんなことを考えていたら、わたしの顔も勝手に、誠くんにつられるように思いっきり『ニヨニヨ』し始めた。……ああ、なんだ。結構単純だ、わたし。
不安がないわけじゃないんだけれど、この人と一緒だと――不思議と大丈夫に思えてくる!
「……誠くんが、そんな顔してくれるんだったらしょうがない」
頑張らなきゃ。
「……そういえば美郷さん、何か僕がいない間、内職してたよね?」
「誠くんが出先で迷子になったとき、反応できなかったら困るからね?」
実際、何度かあった出来事だ。
目立ちたがり屋の『右手くん』が、遠くまで撮影に呼び出された帰り道……時々、家の傍まで帰ってこずにふっと抜けてしまう。
ハッと気付いた後の誠くんも慣れたもので、慣れないルートを調べて、少し手こずりながら帰ってくる。特にその日の携帯電話のやりとりだったり、設定画面で表示される現在地情報だったり。アプリで入ってるスケジュール帳の記録なんかは鍵になるようだ。
断片的なそれらを繋ぎ合わせて、右手くんの行動の流れと、近くのコンビニの店名から地名、最寄駅を把握する……まるで探偵だ。
ただし携帯電話の電池が切れていた日には……うん、公衆電話からわたしが帰り方の指示をした方が早い。誠くんは現在地を推測する為に周囲の建物名を電話口で言うだけだ。
……今いる場所が分からないなんて、きっと世間的にいったらどうかしてる。いちいち交番のお世話になってもいられない。
だからわたしはいつも、手元に電話を置いている。
「……ああ、そっか」
でも、今気づいた。そう考えると手が回らないかもしれない。
赤ちゃんのお世話、誠くんの迷子コール。お仕事……誠くんもそれが言いたかったのか、ゆっくり頷く。
「僕の面倒とは両立できても、もう一人は厳しいだろ?」
ナチュラルに自分を庇護者の側に入れている誠くんの様子に、思わずふきだす。誠くんは呆れたように笑った。
「……実際そうでしょ」
「お仕事やめよっかな」
「それがいい」
……逆に考えると、時間ができる。
今までは在宅でちまちま稼いでたけど、それは「今後の足しになれば」というもので――必要にせまられてじゃない。少なくとも今は。
「…………。」
誠くんが仕事中『何も覚えていない日』がほとんどになりつつあるのは、知っている。
そのくせ普通に収入がある。普通に、お金が手に入る。
それが、個人的にはすごく――怖い。
誠くんだってその辺は不気味さを感じているに違いない。
知らない間に撮られたテレビ番組が。取材されたそれが話題になって尾を引いた『タレントさん扱い』が、彼の中でひどく戸惑いの対象なのをわたしは知っている。出かけた先でヒソヒソと噂されたりするのも案外多い。
皆、彼の顔と経歴を知っている。
――そのつど、彼は大きく息を吐く。
……嫌というほどではない。
いや多少嫌ではあるが、それを伝えるすべがない。
何より、「誠くんが気を失っている間」、何をしているのかが分からない。
だからまずコントロールできないのだ。
「今日の自分」が何を言ったか。
それを当人ですら――大体、ネットで知るのだから。
だからこそ、彼のお仕事が「いつの間にかダメになっている」状態になる可能性も、ばっちり視野に入れなきゃいけない。
元々結構な貯えのあるこのお家は、特に何をしないでも――今のところは生きていけるのだけど。
それでも結局、「何もせず」にいるのが不安だった。
誠くんのすぐ隣にいる人間として、「何かやらなければいけない」という使命感があった。
だから家でできることをコツコツ働いたりして、お小遣いの足しにしていたんだけど……いざやってみると、なかなかにスケジュール管理が難しくて。
うん、それを考えるとこれ以上のオーバーワークは。
「……大丈夫」
誠くんはため息交じりにこちらに言う。
「自覚的には僕じゃないけど、それなりに社会生活は営んでくれてるだろ」
右手くんの話らしい。
「……落ち着いて。少なくとも今は甘えられる。僕が着ている服も、僕が手を洗うときに使う石鹸も、『僕ではない僕』のお金で買っている」
「……うん」
「そう考えるとむしろ、今この僕の存在が邪魔だな。まるで居候みたいじゃないか」
「……それはちがう」
「違う?」
わたしは首を振る。
「……両方、誠くんだよ。どっちが上とか、居候とか、絶対ない」
「そう?」
「わたしにとっては――困ったところも普通じゃないところも、ぜんぶひっくるめて大切な人なの」
だから、そういうことを言わないでほしい。
「『この子』にとってもきっとそうだよ。あなたは、特別な意味がある人」
「……そうかな」
「そうだよ、それこそ落ち着いて。自信をもって」
彼のほっぺたを触る。……熱めの体温。そこに確かに存在する、熱量。
誠くんは少し不安そうに、わたしをみた。
「……家にいるとき。わたしの前にいるのは、あなただ」
「…………。」
「『この子』のお父さんになれるのは、君だけだよ、誠くん」
かなえてあげたい。
今まで、夢も希望もない人生だったかもしれないけれど。
「誠くん、最近、クロノスは出てきた?」
「……たぶん、いないかな。声も聞かない」
「そっか。じゃあ、何も考えなくていいよ」
少なくとも今は、大丈夫。祝福しよう。……ここに宿った命を、「意味がない」なんて思わないように。
「これはね、嬉しいことなんだよ」
「うん……そうだ」
誠くんは苦笑いしながら小さく言った。
「……実感はない。まだ、僕は。でもこの子は……しっかり、君に望まれているんだね」
ふと、出会った頃の誠くんを思い出す。――人と喋るたびにどこかおどおどしていたそれ。
クリスマスに秘密を教えてくれたあの頃。
試すようにわたしをみていた、「ここにいていいんだ」と呟いた。
自己肯定感の弱い、大学生の男の子。
……捨てられたところから始まった。
誕生を「望まれなかった」かもしれない誠くん。
「……嫉妬するよ、羨ましい。でも僕はそれが――今からちょっとだけ、嬉しいんだ」
* * * *
・2016年12月31日(土)
腹を内部から蹴られるというのは、なんとも不思議な感じだ。
「はいはいはいはい……」
声は聞こえるだろうし、返事を返す。うーん……胎動って、もうちょっとこう「わあ、動いた」ってイメージだったんだけど。
「……さっきから立て続けに全力蹴りされてるせいで、びっくりしておやつのミカンが口から出そう」
――「まだチビのくせに自己主張激しいわね」
メティスがニヤニヤと言った。
――「やっぱり、他の子と違うのかしら?」
しかしなんていったって、師走の大晦日だ。お腹に赤ちゃんがいて気もそぞろとはいえ、さすがに何もやらないわけには。
気がついたら、早朝から外の門柱とかゴシゴシしてる誠くんが目に入ったりしてたわけだし……
――「あ。そういえば美郷、気がついてた?」
「何を?」
そろそろ休憩も終わりにしよう。内側からガスガス蹴られながら、わたしはお茶を飲み干す。
――「門をゴシゴシしてたの、たぶん右手くんよ」
「え」
……気づかなかった。確かに言われてみると、表情がぶすっとしてたかもしれない。最近の誠くんはあまりしない顔だ。
って、なんでぶすっとしてたんだろう。
テレビの前だとあれだけ愛想がいいのに……。
――「あなたが話しかけた瞬間、いつもの方に入れ替わったけどね。すぐ表情がふにゅっと柔らかくなったでしょ」
なるほど、きょろきょろしてたわけだ。
意外と誠くん本体はあそこで覚醒したのかもしれない。起きたら真冬の外でバケツ持って掃除してたとか、嫌な目覚めだなあ。
――「まあ、それ以降出てきてないみたいだけれど」
「……わたし、もしかして、避けられてるのかな?」
――「さあ? ほぼ、お仕事でしか表に出ないって誠くん言ってたでしょ。家にいるのが嫌いな性格なんじゃない?」
「せ、性格かあ……」
……なんか今、ちょっと言葉がにごされた気がする。でも目をつむろう。
メティスはメティスで考えがあるんだから。
推測だけで物事を進めるのは、ちょっとちがう。
――「でも、さすがに最近はずっとお休みだからねえ。出るところがないでしょう? きっと外の空気を吸いに出てきたのよ。ちょっとだけ」
「あー……そう考えるとなんか面白いかも。本当にもう一人いるみたい」
話す機会はまるでない。でも、明らかにそこにいる。
そんな「いつもの誠くん」とは違う存在。
彼のせいで困ることも、一応たくさんあるけれど、そう考えたら賑やかに年を越せる気がする。……それもまさかのトップバッターで大みそかの大掃除を手伝ってくれたんだから、感謝はするべきだ。
――って、げはっ!
「あったたたた、いや、痛いというよりなんか、なんか衝撃が!」
――「またー?」
「お、お腹にいるうちからここまで活発なのは……誰に似たんだろう……!」
本当にミカンが出そうだ。
……うん、口の中からミカンジュース。絶対嬉しくない。
「少なくとも僕じゃないと思うんだけどなぁ」
ゴミを縛って戻ってきた誠くんは苦笑しながら、軽くわたしを冗談交じりに指差す。うっそだぁ。
――「絶対向こうに似たわね」
「あー、メティスが言うくらいだからたぶん間違いないかなー!」
「なんて言ってた?」
誠くんはそう言って箒を物置に片付けようとした。
「完璧に誠くん似だって」
「ははは、まさか……わっ!?」
扉を引いたとたん――ドンガラガッシャンゴットン! 彼に直撃で、未整理の掃除用具たちが降り注ぐ。……どうやら知らないうちに中でなだれを起こしてしまっていたらしい。相変わらずツイてない人だ。
「いったぁ……」
「ぷあっははは! ちょっと誠くん、鏡見てみなよ、埃まみれだよ!」
だけどそんな感じが何でだか妙に誠くんらしくて思わず大笑いしてしまう。誠くんも別段怒ることなくつられて笑った。
平和で、素敵な雰囲気。幸せすぎてもったいない。
――そう思うくらいの日々。
* * * *
・2017年2月26日(日)
……うん、いつも思うけど、中高生の3学期ってすごく短いような気がする。
新学期が始まったと思ったらすぐ春休みに入ったような、そんなイメージ。
「……なんだこれ。日本神話から出題するんだったら、もう少しバランスのいい出し方あるだろ……」
先生としてもだいたいそんな感じなのか、そろそろ3月だと気づいた誠くんの行動は早かった。鞄をあさり、生徒たちに出す春休みの課題の内容に手をつける。
……といっても、右手くんがほぼやってしまったのを仕上げているだけなんだけど。
「……選択肢が後半サクヤとイワナガでダブッてるじゃないか。邇邇芸命祭りかよ……あと『時永先生が選ぶなら』じゃないよ、なんだこの問題。どうせお前、両方タイプじゃないだろ……」
誠くんはブツブツと文句を言いつつ、さっきから消しゴムをかけていた。ワープロソフトで清書する前……鉛筆で書かれた下書きを直しているようだ。
「どうせやるなら古文とか現国に繋げといた方が、伊藤先生からの当たりが柔らかくなるに決まってる。えーっと、『にぎにぎしいという古語があります。これはニニギと同じ意味なのですが、現代語にもにぎにぎしいの言葉は形を変えて残っているようです。さて、にぎにぎしいの意味は次のうちどれ』――」
なんか詳しくないけど、右手くん、散々な言われようをしてる気がする。
「……きっとそれだけ差が開いてきてるんだよ。誠くんが授業に出なくなってからだいぶ経つし。右手くんは右手くんで、やり方が変わってきてるとか」
「それもそうだろうけども!!」
律儀な性格の右手くんは一年毎に予定表を必ず作っているみたいで、今どこまでやっているか、必ず予定表に書き込んでいる。
それに従って誠くんも手を入れているような状態だ。……おかしいな、最初は誠くん自体が先生してたはずなのに。
「……はあ。でも確かに『僕』らしくはあるよね、ははは。ウケ狙いの問題が多いな芸能人? この間うっかり発言でプチ炎上してただけありますねー、時永せんせー……?」
「自分に皮肉言ってどうすんの」
慎治さんが数時間前にくれた、作り置きの常備菜も部屋に持ち帰ってそのままに……っていうかちょくちょくつまみつつ、わたしも誠くんと同じ部屋で適当に本を借りて読んでいる。
勝手に問題を書き換えられてる右手くんが文句言いたくなったときに、いつでも仲介できるように……とも思ってたんだけど。
――「いや、文句あっても出てこないんじゃないかしら……彼、『美郷』という存在は認識してるだろうけれど、なぜか顔合わすこと自体がほとんどないでしょ」
あ、やっぱり?
そう思いながら本を読み進めていると……また、見覚えのある文字が出てきた。この字、さっきから何回もでてくる。そういえばさっきも誠くん、問題に文句いうときに……
「誠くん。ふと思ったんだけど質問いい?」
「あー、ハイハイどうぞー」
紙をめくる音を響かせて、誠くんは呻くように言った。
「この間、電車の中でふと目をさましたら『汚物を見るような目』でご年配に見られてた、誤解の解けない炎上芸人でよければー?」
――「き、傷は深いわよ美郷……?」
「じゃあハイ先生!」
つとめて明るい声でわたしは言った。
「何で神様って『~のみこと』ってつく人が多いのかな?」
「……ああ、さっきから僕もチェックしてる日本神話の話?」
誠くんはさっきまで使っていた資料を本棚に戻しながら言った。
「『~さん』とか『~様』と同じ敬称でしょう? 昔の天皇の名前にもついてるし、そもそも『みこと』には命令者の意味があったとも言われてるから、間違いなく高貴な人や偉い人につける敬称だったんだろうね」
わたしの手に日本神話をモチーフにした物語絵本があるのを見て、誠くんはちゃんと先生っぽく答えた。……なるほどそっか、敬称か。
「ふーん……名前の一部かと思ってた。この人たち皆、最後だけ可愛い名前してるなぁ、なんてね」
「ああ、言われてみれば……」
誠くんはくすっと笑う。
「読みだけ見たら、女の子にいそうな名前かも知れないね」
「これついてるの、男の神様ばかりだけどね」
そう何気なく言ってからふと、あることに気づいた。
「誠くん」
「ん?」
「わたし、美郷」
「……はあ」
つまり――わたしはお腹を指した。
「……この子につけたら、語呂がいいよね」
誠くんはびっくりしたようにわたしを見た。
「……なるほど?」
「思えばわたしも誠くんも、名前の最後が『と』で3文字でしょ?」
その時、軽くお腹が叩かれた気がした。いつもみたいに暴れる感じでもない。ただ「とん」と。それがわたしには、不思議と同意の合図のような気がした。
ああ――この子、気に入ったんだ。
「……良いんじゃないかな」
誠くんもしっくりきたように頷いた。
「漢字、あてるなら『命』の方だよね。命を大切にする、優しい子になってくれそうだ」
神話の漢字、『尊』、『命』のどっちかなんだっけ。
メティスはふうん、と挟み込んできた。
――「『尊い』だと大層すぎるのかしら。実際大層な子だけども」
うーん……そっちの字は本当に神様っぽい気がする。
「わたしもあてるなら命かな」
――「そう……まぁ考えてみたら、大切にされすぎて我侭放題になりそうな気もしないでもないわよね」
それはかなり怖い気がする。というか下手したら、メティスやクロノスよりも強い子が生まれるって話なんだから、それだけは絶対阻止したいところだ。
「ミコト……ミコトちゃん、か」
「くん、かもしれないよ」
誠くんは笑う。
「……どっちでもいいな」
「いいんだ?」
「男の子だったら少し可愛すぎるかもしれないけれど」
「そうだね」
換気で開けたままの窓から、ふわりとあたたかい風が入ってきた。――誠くんの髪が少しなびく。
「きっと、僕よりずっと明るくて、たくさんの人に好かれる。慕われる……そんな優しい子だったなら、どちらでも似合うよ。その名前は」
「そっか」
「うん」
春一番を体感した誠くんは、少し楽しげだ。――作業の手を止めて、窓をもう少しだけ開く。
……そうだね。
だってこの子は順調にいけばきっと、春の終わりか、夏の初めの子になるだろうから。
……春が来たら、会えるのはきっと、もうすぐだもんね?