35.勘と闇雲 5年目・3月5日~10月11日
・2014年3月5日(水)
ああいう【大げさな告白】をしておいて。――いやまあ、ラーメン屋さんを貸し切って、なんていう格好の悪さとはいえ。
ああいう素直で最悪な告白をしておいて! ――いやまあ、酔っ払い野郎の戯言とはいえ!
なんだろう、この。
「あれを繰り返すのは気恥ずかしいし、メールで超カンタンに話をすまそう、プロポーズとか!」みたいな。
そういう魂胆が、気に食わない。
――「もうお昼よ、美郷?」
「…………。」
――「どれだけメールの衝撃が大きかったの?」
「……自分でも分からない」
いや、せっかくだし――了承の旨、勢いで返信したんだけど。
ごろん、と転がりながら携帯電話を見る。こんなぬるっと既婚者になるのは正直嫌だ。なんだこれ。
――「はあ。……結局まとめると、こういうことよね?」
メティスのニヤついた言葉。わたしは携帯を開いた。
――「卒業後……疎遠になったり、自然消滅するのが嫌だ」
電話を握りしめる。そっけなさすら感じるその簡素な文面が、実際には熱を帯びているのをわたしは知っている。
――「お互い、全然違う環境に身を置いて、二の次になっていくのが嫌だ」
その感覚を、わたしは知っている。ここの大学に来るまでに何度も経験した。
――「見ている世界が、違ってしまうのが嫌だ」
時永くんは見ている。わたしが、友達からもらったペンを。
――メッセージがあるのすら見ていないそのペンを、彼はわたしに返した。「大事にしろ」と叱りつけながら。
わたしは基本的に、「愛着」を持たない人間だ。
時永くんが恐らく初めてで、もしかしたら最後の人かもしれない。
ここまでこだわった人は、他にいない。
――「結局のところ、彼は忘れられたくないのよ。せっかく紡いだ赤い糸がちぎれてしまうのが怖いから、あんなことを言い出した。『行くとこないなら、うちに就職活動に来ませんか?』と」
「あの人、そんな気取った言い方してない……」
枕をだっこしながら呟いた。――声がくぐもる。
うん、暫く一人になりたいのだけど……結局メティスが話しかけてくる。
――「彼のことだから、どうせ『面と向かって』が照れくさくってもじもじやってたんだとは思うんだけど……この間、栄子ちゃんと話してたことがそれだったって線はない?」
……だろうなー……。わたしは2人と喫茶店で鉢合わせした時の、あの大変『気まずそう』な雰囲気を思い出した。
「……なんか……時永くんっていっつもそうだよね。人に後押しされないと動けない性格っていうか」
――「あら、もしかして面白くないの? 私から見れば、あなたもどっこいだと思うけど?」
「……」
――「というか私たちの場合、後押しされても動かない分、時永くんの方が行動的だし?」
うー! うるせぇやい! がばっとわたしは起き上がる。
小馬鹿にしたようなメティスをどつきたくなる衝動に駆られた。
……もういい! 外に出る!
――「あ、ちょっと! 待ちなさいよ! 携帯忘れていくつもり!?」
わたしはメイクもせずにカーディガンを羽織って、「ふんっ」と鼻から息を吐いた。……えい、知るか! 視界の隅に見えた着信ランプをほっ散らかして、わたしは逃げるように飛び出した。
……今頃の時永くんってば、きっと自宅テラスで首をかしげながら返信を待ってるに違いない。ざまあみろ。
* * * *
……ああ。なんだか、余計に腹立ってきた。
――「お、落ち着きなさいよ、煽った私が悪かったから」
いやメティスがどうこうじゃない。そもそも、なんていうか。
わたしは自分のほっぺたが「ぷくっ」とちいさく空気を含むのを感じた。
……時永くんが、気に入らない。
だいたいなんだ。何でもかんでも誰かに聞いて。
わたしに対して確認もしないで。
――「してるじゃない」
メティスはケロッと言った。わたしは勢いあまって徒歩でお不動前まで歩いてきてしまいながら、首を振る。
……違う! とにかく、最初からわたしに言うんじゃないのが腹立つの!
あのね、メティス。「自分の考えがハッキリしない」から、言うことハッキリしてる誰かに感情をぶちまけて、整理してもらう。これは分かる。でもだったら――だったらだよ。最初からわたしでもいいわけじゃん!
「同棲しませんか」。「ぶっちゃけ籍入れませんか」。
それを確認してくるので、別にいいわけじゃん。どうせ何も変わらないんだから。
アームストロング船長の月面着陸みたいに、やっちゃったらもう、それでいいんだから。いくら周りが大ごとみたいに言ったって、結局「感触」を知ってるのは、わたしたち当人だけなんだから!
『これをしたい』『これを言いたい』『切り出せない!』……そこで悩んでるわけだから、だったらもうわたしに直接聞けばいいじゃん!
――「あー……」
「今のタイミングでプロポーズしていいです?」って聞かれたら笑えるよ! いやもうタイミングとか考えるような時期すぎてんじゃん!?
なんならなんでも言っていいし、言えるんじゃん!
――「……それだけ、丁重に扱ってくれてるんでしょ。適当なことをいうよりは、って他人に相談してる。……え、何」
メティスは困惑したように言った。
――「もしかしてあなた、相談役してた栄子ちゃんに妬いてる?」
妬いてない!
――「ははあ……。何でも相談できる、頼り甲斐のある女性、よね」
…………。
――「美郷が元々収まってたポジションに近いわよね、確かに」
わたしは思わず足を止める。河原のへりで、わたしは思わず右後ろを見た。もちろん、そこにメティスは見えないんだけど。
――「そう考えたら確かに面白くない。でも美郷のいるところって、今はそれよりずっと奥で……レアなところな気がするんだけどねぇ」
……いつの間にか遠くにみえる、見覚えのあるお店。ああここだっけ、お不動前のケーキ屋さんって……
――『あなたの代わりは、どこにもいない』
……相手と喧嘩をしたとき、谷川さんに言われた言葉だ。
時永くんにとって、わたしは――特別な人だと。
――「そう」
メティスはそれを読んだように呟いた。
――「いないのよ代わりが。……『失敗してもいい』とは絶対に思わない。だから彼は誰かの力を借りようとするし、借りてまで、あなたの心を動かそうとする。――自分の心も調整するし、整える」
「…………。」
――「あなたも彼も、学生よ? 20代も前半の前半。それがいきなりお互い離れがたいからって。それから――美郷が死ぬほど適当なフリーターだったり無職になりそうで、なんかちゅうぶらりんで心配だからって。ぱんっ、と結婚の一言を口に出せると思う?」
「うん……」
――「彼なりに色々考えてるのはわかるわね? ないがしろにされているのではなく、大切だからこそ彼は確認する。『自分の意見はこうだが、迷惑ではなかろうか』。それを身近な、方向性の似た女性に確認する」
……まだ大学生の男の子が考えたこと。そうだ。時永くんが最近しっかりしすぎているから、そこまで考えが及ばなかった。子供の口約束とは訳が違う。大人の、それこそ判断力や自信の追いついたそれとは、訳が違う。
……そう考えると。
「……やっぱりなんか、展開早いよ」
――「……」
「一人で考えてずんずん先に行っちゃってるみたいな」
思わず呟いていた。
「おいてかれてるみたい」
わたしたちにはまだ、時間があるのに。
――「早いわね。展開。でも美郷、他と比べる必要はないのよ。確かに私、あなたたち地球人の観察は好きだし。美郷が生まれ変わるより前から、つらつらと見てきてるわよ」
「……」
――「……今の地球で婚姻なんて、だんだん遅くなってきてることも知ってる。100年前なら25歳で行き遅れを心配されたのが、今じゃ『ちょっと早いね』になりつつあるもの。でも早すぎるとか、遅すぎるとか……まあとにかく他人と比べてちゃ駄目。そこが二人ともの悪い癖。主体性ゼロ」
メティスは息を吐きながら、とうとうと口に出した。
――「家同士がどうこうとかあるなら分かるけど、所詮、親なし同士よ? そんなものないわけだし。『今だー』とか『遅い!』とか、当人しか判断できる人はいないわ」
「うーん……」
――「時永くんは今だと思ったんだし、美郷はそう思ってないってことよね。じゃあ、ちゃんとすり合わせたらいいじゃない。冷静に。それだけの話。……やりたいならやれば? なし崩し的に、一緒になってしまえばいいのよ。そうでないならまあ、待てばいい」
メティス……。
――「それでね。万が一彼があなたの意見を軽く見ているようなら私が噛みついてやるわ。安心しなさい。神様のクレームって割と脳髄に響くわよ」
それはもはや『洗脳』っていうのでは!?
そんな会話を頭の中でグルグルやりまくっていた時――――
「あーっ、美郷ちゃーん!」
「あ……」
聞き覚えのある声に振り向くと、件の栄子さんが大きく手を振っていた。
* * * *
この間も遭遇した喫茶店に2人で入る。
「おごるよー、何にするー?」
「じゃあ、抹茶オレください。……ところで栄子さん」
「ハイハイ、何かな?」
店員さんにメニューを指さしながら、栄子さんは笑って言った。
ケッ、大人の余裕……。
「時永くん、また栄子さんに恋愛相談してたりとかしませんか?」
栄子さんはおしぼりを差し出して、ふっ、と息を吐いた。
「し・て・た・ぞっ?」
――「へえぇい、やっぱりか、ちっくしょーい!!」
……メティス、場を和ませようとしてるんだろうけど、すべってるからね?
それどんなテンション?
「プロポーズをサラッとやったでしょあの子。『結婚しません?』の一言で。それもメールで済ませちゃったとか言うもんだから、さっきも雷落としてて」
「え?」
「えっ、じゃなくてさ。美郷ちゃんもシャンとしなって」
水を飲み干して、栄子さんはいう。
「美郷ちゃんだって『こういうやり方されると腑に落ちない』って顔してんでしょ。ただの勘だけど」
「……はい」
――見破られてた。
「だとしたら、こういうときは言ってやらなきゃ。『出直してこい!』って」
「……」
「勿論リテイクは許してあげよう。誠くん、背伸びしてるけどまだ若いんだし……美郷ちゃんが『そういうのはちゃんと対面で言ってほしい』って性格なのはさ、もうちょっと後で気づくのかもしれない。言わなきゃ分かんないんだ」
メティスみたいなこと言うなあ……。
「でね、『今のはダメだ』ってーのは、言うときに言わないと怖いんだわ。よくわかんない間にそういう雰囲気になって、『区切り』がないーってなると、きっとリズムが狂う。足並みが揃わなくなる」
それは、経験則だろうか?
「うちの場合はお互い爆発したから、それで」
「――慎治さんって怒ることあるんですか」
「いや? よっぽど大事な人にしか怒らないんじゃない?」
――それも、どこかで聞いた気がする。ケロッと笑って栄子さんは言った。
「少なくとも他では見なかったかな? あの人の怒った顔。……何されても悲しそうな目をするだけだから、子供の頃はそれでサンドバックにされてた。怒りを滲ませることもない。何されても言い返せないやつだと思ってた。――違う。あの人は強い人だった。強かったんだけど、弱虫だった。初めて喧嘩した時、そう思った」
……初めての喧嘩が、「経験則」のそこだったんだろうか?
「……お互い、『そのままの状態』でもずるずると居心地よかったからね。でも何か足りなかったんだと思う。かといって、次のステップに進むのが怖かったんだと思う」
……ああ。同じだ、きっと。
時永くんと慎治さんってこんなに内面が似てたんだ。
「だから向こうも、プロポーズってーの? そういうのは口頭ではすまさなかった。言ったのは、手紙だけだった」
……あ、そうか。今更思い出した。――慎治さん、前に言ってたや。
「告白は自分から言った」って。わたしはまじまじと栄子さんをみた。
……それは、プロポーズも?
「当時、お互い忙しくてさ」
恋愛については途端に臆病になる……そんな女の人だったらしい栄子さんは苦笑いしながら口を開く。不思議だ。そんな雰囲気、微塵もないのに。
「……手紙で言われるのは納得いかないっていうか、身が入らない。あとでちゃんとするって向こうは言うんだけど、会う時間なくて。……んで、何回か書面上でやりとりして。向こうはもうスイッチ切り替わったような気分というか、『自分は所帯持ちなんだからしっかりしなきゃ』みたいになってるんだけど、こっちとしては実感ないじゃん」
――「うわー、すれ違い感がリアルー……」
恋愛ドラマでこんなのあるよね。
わたしは抹茶オレを飲みつつ苦い顔になった。……あれっていつもハラハラしすぎて途中でみてられなくなるんだけど、実際にあるやつなんだ。
「だからノリが違うわけね。向こうが真剣な話しててもこっちは軽くとらえちゃうし、逆にこっちが真剣にしてても向こうは完全にうわの空だったりして。お互い様なんだよね。んでそういうこと繰り返してたらまあ大変」
――警察学校までニコニコ笑顔で来た後、いきなり泣きながら張り手だよ?
なんて、ケロッという栄子さんにちょっとむせる。
マジか、あの人、ああ見えてすっごい落差が激しいんだ。
「だから、ピンと来ない場合はちゃんとダメって言って場を改めたほうがいい。なんなら面と向かって、こっちから『やろう』って言ったほうがいい。だって文字ってすごく力はあるけれど、効果が限定的じゃない?」
栄子さんは角砂糖みたいに固まったコーヒーシュガーをシャカシャカしながら、懐かしそうな顔をして言う。
「こっちが古いのかもしんないけど、自覚しづらくない? せめて会って話して『あ、本気だったんだ』って思いたくない?」
……思う。
「面と向かって言うのが恥ずかしい? は? だからこそだと思いません??」
「……わかります」
いつの間にか、わたしの中のモヤモヤした感情は消えていた。――うん、確かにわたし、嫉妬していたのかもしれない。だってこの人、「正しい」んだもん。誰が見てもとか、そういう絶対的な善悪じゃなくて――少なくとも、わたしの
感じる「正しい」とよく似ている。わたしが好むもの。わたしが、望むもの。
それと同じ感性を持っている。
「……前、時永くんがわたしに言ってたことですけど……結局、わたしも時永くんに不満はないです。優しい。こっちが向こうに気を使ったりもするけど、その分、向こうもそれを返してくれる。こっちのことをちゃんと考え抜いてくれる」
「うん」
栄子さんは頷いた。
「けど、たまにそれだけです」
――「美郷?」
「優しい、だけだと……結局。何していいか分かりません」
メティスの戸惑った声を無視して、わたしは息を吐いた。
「予告のつもりだったのかもしれません。でも、はっきり言われたって文面上だと、ネットのニュース記事と変わりません。どこか遠くの出来事みたいで!」
「そうよね」
「だったら、最初からもうちょっと場所作ってほしい。もうちょっと時間を考えてほしいし、もう少しなんか……『どうにかなりませんでしたか』って言いたい!」
随分、懐かしげな顔をした彼女は言う。
「でも、言われたことは嬉しかった。次に行くきっかけを作ってもらえたことは嬉しかった。ちがうかな?」
……違わない。
「あの」
「何?」
わたしは口を開いた。――内情は理解できた。時永くんが考えていることもなんだか、うまく整理できた上で、ますますイラつく。……イラつくそれを、吐き出す相手を見つけた。
「……愚痴らせてください、先輩」
「その意気だ」
栄子さんはニヤリと笑った。
「恋も愛も同じだよ。相手に当たる前に、ガス抜きしなきゃ」
がらっ、とケーキ屋さんのドアベルが鳴った。ふっと見ると、そこには焦った顔の時永くん。手元には、全く繋がらなかったらしい携帯電話……。
「……なんでここが?」
「……勘、かな?」
栄子さんみたいなことを言い出す彼に、耳元でメティスは声をあげて笑った。
* * * *
・2014年10月11日(土)
……さぁ、日付を見てごらん。半年以上!
呆れるでしょう? ……あまりにサボりすぎだと自分でも思う。
もしかしたらこの日記を開くのも久しぶりかもしれない。
あれからわたしは、それはもうちゃんと「不満」を口にしたし、時永くんからも謝られたり。栄子さんにはやし立てられたり。
後日、ちゃんと呼び出されたり。かと思いきやその足で、ちょっとした家具選びに付き合わされたり――「君も使うんだろ?」と電気ケトル前で意地悪そうに言われたときは、「ああ、なるほど照れ隠しでショッピングまでするのかこの人」と合点がいったり。
ともかくそうしてわたしたちは手をつないで、一緒に気ままな学生から――少しだけ大人になった。
一人暮らしだったアパートも引き払い、掃除だけ手伝いに来てもらったら――ああ、彼ったらちょっと、面食らった顔をしてたっけ。
……え、「女の子らしくない部屋」?
むしろ君、女の子の自室にいったい何の幻想を?
その後は書類にハンコ押したり、名前を書いたり。
時永くんの後見人らしい「お父さんの知り合い」に挨拶しに行ったら、気のいいお爺さんだったけどお家の内装がどうみても反社……コホン、いや、なんでもない……だったとか。
「時永くん、もしかして若頭とかじゃないよね?」「そういう扱いされそうだから距離とってた」「マジですか」だったりだとか。
ともかくバタバタしていて、気付けば日記のことなんてすっかり忘れていたんだけど。
……ああ、気がつけば。
本当に気がつけば、普通に今の生活に慣れているわたしがいる。
「おっはよー、寝癖ひどいよ? 濡らす?」
「おはよう、美郷さん。とりあえず皆に笑われないようにバケツかぶってきます……」
「待って、時永先生」
わたしはニヤッと笑って、日めくりカレンダーを指した。
「休日だよ、誠くん」
「……」
くわえた歯ブラシが落っこちた。
……今ではもう、本当にこんな慣れた会話してたり。
そう、なかなか切り替わらなかった――下の名前だ!
「日に日に、時間感覚がずれていく……!」
「うん、だから笑われるとしたらお医者さんだねー」
「……」
「誠くん?」
彼は頭を抱えた。
「……予約の日だった?」
「予約の日だった」
そうそう、「皆」といえば……時永くん改め誠くんはなんと、わたしの「先生に向いてる」という言葉が元で、本当に先生になっちゃったらしい。
と言っても、誠くんの担当教科は「国語」とか「数学」とか――そんな当たり前の教科でもない。実はその学校、他とはちょっと違う感じの私立校なのだ。
大学の時に誠くんが専攻していた分野。つまり、昔話について調べたり、世界の伝承について講義する時間がある……超・彼向けの学校だったりする。
……まあ、それも。今はちょっと問題が発生してるんだけど。
* * * *
「……えー」
パイプ椅子に座ったわたしたちの前で、白衣を着たおじいちゃんは面倒そうに首をひねった。わたしは彼の右手をちらっと見る。――うん。大丈夫。休日までは出てこない。
「……解離性の、記憶障害の一種だと思うのですが、いわゆる多重人格には当たらないのではないでしょうか」
「……そうですか」
半分曇った眼鏡の向こうから、「残念」と「不機嫌」の混じった目を精神科医に向けているのは、いつものわたしの旦那さんだった。……いや、顔、顔。
「十把一絡げにはできないかもしれませんが、いわゆる多重人格というのは、蓋を開けてみると構造はそう複雑ではありません。何かしらの【精神的なショック】を、自己とは別人という認識を持って吸収する盾役と、守られる役があることがほとんどなのです」
今わたしたちがいるのは精神科。
つまり、メンタルクリニックだ。
……神様関連に詳しいメティスだって、結局のところわたしたちからすれば、「声だけの存在」。今この場にいるわけじゃない。
相談ぐらいならできても、何かがあったときに「ちゃんとした対処」なんてできるはずもないんだ。だから、違うアプローチができるなら、それに越したことはないんだけれど……。
「「…………。」」
わたしたちは気まずげに目配せをしあった。
……ええっと。
『害がなければほっとこう』?
いや、さすがにノーだよ。少し前の『時永くん』。
「盾役と、守られる役。……この場合、守られる役は本体です。大抵はもともとあった主人格を指します」
「ええ……」
実害しかないじゃん。……わたしはため息をついた。そんな、当人も知らない間に「テレビの取材」を受けてるなんて!
「いわゆる多重人格的なケースの場合、主人格は『大人しい気質』の方が多い傾向があります。内向的と言いますか、己のことを最初はうまく言葉にすることが難しいような方も多い。ストレスを受け止めるだけで、自分からはうまく発信できないのです」
――「いやそれ、偏見もあるだろうけど――超・時永くんじゃない」
メティスはだまってなさい。
「対して盾役は、防衛本能の一種が具現化したような存在です。受け止めません。跳ね返します。言いたいことはズバズバ言うかもしれませんし、感情豊かで自由なのが必ず一人はいます。他の人格が口にできないこと、態度に出せないようなことを実践する係なのです。そうやって受けたストレスを跳ね返す。もしくは放出する」
誠くんはため息を吐きつつ、頷いた。
「……本で読みましたね」
「この辺り、少し怪しいなと思っています。時永さんの場合、あまり内向的な性格には思えませんから。勿論、かといってハチャメチャな性格でもない。何と言いますか……『特徴的な記号』がないんです」
そもそも「昔ながらの時永くん」は目立ちたがりというわけではない。むしろカメラは嫌がる方だし、わたしの一言がなければ教壇の上で注目されるような先生にはならなかったに違いない。
それが、なんだって?
……テレビの取材? それも自分について?
わたしは真顔で突っ込みたくなった。
……それ、地味かもしれないけど、十分『自由』じゃない?
「本体と役割を切り離すため、盾役は大概、主人格と全く違う性格を持っています」
お医者さんは言う。
「誰からみても様子がおかしいと判断のつくようなもの。名乗る名前が違ったり、話し言葉が違ったり」
「……」
「現在、そういうことはありますか?」
……ない、かもしれない。
彼の異変は誰にも気づかれなかった。
たぶん、日常をジワジワと侵食していったからだ。
取材の件が発覚したのは、わたしがいるとき……家にそのことについて電話があったから。「聞いてないけど……!?」と困惑するわたしに「貸して」とそっけなく手を出したのは「右手」だった。
で、受話器を置いた瞬間、彼はすっかり電話内容を忘れていた。あとで彼が困らないように咄嗟にやりとりを録音していた、レコーダーを持ったわたしを見ていう始末だ。「な、なんかやらかした、僕!?」――――。
「……はあ」
「お疲れ様、誠くん」
帰り道。
彼は不貞腐れた様子で、ため息をついた。
「……だから精神科は苦手なんだ……」
「疑うのがお医者さんだからねえ」
「前もそうだ。ゴネて手に入れたのは睡眠障害と記憶障害」
ナチュラルに寄り道する気らしい。
……喫茶店のテラス席に足を投げ出した誠くんは、投げやり気味に言う。
「つまり僕は、医者からしてみれば夢と現実の違いが分からないバカなのさ」
「…………。」
「自信がなくなる」
「知ってる」
わたしは誠くんのお財布を預かって席を立った。
「……わたしが、それを現実だと知ってる。ならわたしも、そのバカの仲間だよね」
「……ふふっ」
少し機嫌が直ったらしい。彼は愉快そうに笑った。……最近は妙に怖がるから、こういうところのお会計はわたしが行くことになっている。先払いなら彼は席でお留守番だし、後払いなら一足先に、店の外に出てるのが常だ。
「こうなればどうせ、カメラが回ってるうちに喋ってるのって、きっと僕じゃないほうだろ……」
彼は開き直ったように言う。
「いっそ自由に喋らせてみて、ポテチ片手に上映会でもしようか」
「うん。……どうする? 本当に自由な態度悪い誠くんがいたら」
わたしがきけば、誠くんは首をすくめた。
「――最悪、職場を辞めるよ、たぶん」
※ 追記 ※
……数日後。
実際にポテチ片手に挑んだ、テレビ前。
「……まあ、態度悪い、というより……多分僕以上にそとづらはいいんだけど」
「うん」
やっぱり彼からすると『覚え』のないらしい、テレビの特集。
それから授業風景。――不思議なものを見たような顔で、誠くんは一時停止ボタンを押した。
初めて彼が仕事をしている姿を見たけど、授業内容は確かに面白い。取材されるだけはある。というか元々「分かりやすい」「面白い」「その上イケメン」の3拍子っていうことで話題になってたみたいだし。――生徒さんが勝手にその様子をアップロードした、SNSで。
「……うーん」
「……誠くん?」
ただ、それ以上に……微妙な違和感が発生していた。
「……確かに、これは僕みたいだ。『僕がやりそう』なことは全部やっている。たとえばひっかけ問題とか。どこでどの話題を出すかとか」
「うん」
「――でも、そこはかとなく」
呆れ顔で、でもきっぱりと誠くんは言った。
「『嫌味なやつ』だな」
「あ、それは思った」
……誠くんっぽさはそのままに、何か、対人関係の印象がずれている。
――カチッ。
あらためて押される再生ボタン。
『みんなー、これを機に、時永先生に聞きたいことあるー?』
カメラ前で、スタッフさんが呼びかける。
「わあ、それ生徒にマイク向けちゃうんだー」
「……あはは、嫌な予感が」
『先生ー』
一番前の席の子が手を挙げた。
『好きな人はいますかー!』
『フッ』
「いや、フッじゃなくてそこは即答してほしいんだけど僕」
『――ご想像に、お任せするよ☆』
キラン☆ と星が出そうなアイドルスマイルを放ったそれに、背中がぞぞびっ、となった。
「……あの、誠くん……」
ものすごく苦笑いしながら恐る恐る隣を見た。――ああ、案の定だ。撃沈している。
「いや本当に突っ込まないでほしい」
「うん……」
突っ込みようがない。何せ誠くんが既に突っ込んでいるのだ――ソファのクッションに、頭を。
「記憶にございません。ハハハ、なにあれワロス……黒歴史……」
そういえば正式に告白した後も、ラーメン屋さんでこの状態だったよねこの人……?
「いやワロスじゃなくてどういうキャラなの、この右手」
「ボク、ナニモ、ワカラナイ」
「片言にならないでよ」
わたしは誠くんの右手を見た。――最近は、妙なことに『お仕事』でしか出てこないらしい。