第16話 「忘れないよ、この名前」
七月。中間発表を終え、僕らは今日も波乗家に集まっている。
今日の目的はラジオではなく試験勉強なのだが……
「おい、これだけ面子揃ってて誰もこの問題分からんのか」
「私、学校休みがちだったし……」
申し訳なさそう答える波乗に、すかさず川上がフォローを入れる。
「いや、澄音ちゃんは悪くないっ!!悪いのは質問をする多記とこの問題だ!!」
「そやけど……皆アホやなぁ……で、単位ベクトルって何なん?」
「……」
「なに? ナニ? リンちゃんにも教えて!!」
僕らが何も出来ずに固まっていると横からリンが僕等を覗く。
こいつは学校が別なので一緒に勉強しても無駄なのだ。
「うるさい。今、お前に関わってる暇は――」
「それの答え、±3ベクトルeだよ!!」
「「「「えっ!?」」」」
全員がリンに注目する中、リンはどんどん説明を加えていった。
「んーとね、単位ベクトルっていうのは大きさが1の……でね、ベクトルaに……この時のtは実数だよ。それで……ってなるの」
「……」
「琴和さん、すごーい!!」
波乗が感嘆の声を上げ、工藤は口を開けたまま固まっている。
「そういえばお前、有名私立通ってるんだもんな。出来るよなこんな問題」
「関係ないよぉ〜!!アホな子はアホだし」
「あぁ、どうせ僕達はアホだよ……じゃあ、ついでにこの問題を教えてくれ」
「お断リン!! 自分で解いて」
「……ケチ」
こんな風に時間は過ぎていった。
結局はほとんど喋っていただけの様な気がしたけど……
中間発表以来、すっかり僕らは和やかムード。
いい雰囲気といえばいい雰囲気なのだが、緊張感が少し足りない気もする。
区切りのいいところで勉強会は終わり、帰ることにした。
玄関のドアを開け、少し歩くと誰かが僕等に背を向けて立っているのが見える。
見覚えのある後姿は……玲子さんだった。
僕だけじゃなくて川上も気付いたらしい。
「多記、あれ華富玲子じゃないのか?」
「あぁ、そうみたいだな」
中間発表以来、というか以前から玲子さんとの仲は悪くなる一方だ。
本当は話したいことがたくさんあるのに……
僕が声を掛けようか迷っていると、玲子さんは振り返り僕等と目が合った。
「!!」
「あっ……」
玲子さんの顔を見て僕はかける言葉を失った。
彼女もそのまま何も言わずに走り去る。
他の連中にも見えたようで、工藤が皆に尋ねる。
「なぁ、あの人、泣いてなかった?」
「……泣いてたよな」
「リンちゃん、かけっこなら負けないよ〜」
「リン、あれはかけっこでも何でもないぞ。付いていくな!!」
僕はリンの襟首をつかむ。
リンはそれでも走ろうとしたが、少しして諦めたようだ。
『その気持ちだけで十分』
そう言った2年前のあの日も玲子さんは泣いてた。
僕の一番古い記憶は十年前。家族で山へドライブに行ったときのことだ。
遅くまで山頂で過ごした僕ら家族は夜道を急いでいた。
運転席には父親。助手席には母親……と膝の上に僕。車内はラジオが流れている。
どこも渋滞だと伝えていた。
しかし、ここは山道。あまり関係の無いこと。
僕は遊びすぎたこともあり、ウトウトしていた。
だから、その瞬間はあまり記憶が無い。
父親の叫び声と母親の悲鳴が聞こえた後、もの凄い衝撃と共に僕は意識を失った。
意識を取り戻した僕は自分が横になっていることに気付いた。
最初は分からなかったけど、車が横転していたからだと理解する。
何がどうなったか分からず、僕は両親を呼んだ。
「お母さん!!お父さん!!どこなの!?」
呼びかけに反して声は聞こえない。
僕はとりあえずここから出ようと思い、体を動かそうとした。
しかし、何かが僕の体の自由を奪っている。
暗くてよく分からなかったけど、手探りで確かめるとそれは母の腕だった。
僕は母親に包み込まれる様に抱かれていたのだ。
僕は少し安心して母親を呼んだ。
だが、母親は答えない。
結論を言えば転落事故を起こし、すでに両親は死んでいた。
すでに死んでしまった母親に抱かれて救助までの時間を過ごすことになる。
僕は泣いた。
両親が死んでしまった事も悲しかったが、この夜空一人きりだということが怖かったのだ。
泣いて、泣いて、泣き疲れた頃……僕の耳に何かが聞こえてきた。
それはラジオ。
カーラジオは事故の衝撃を耐えて放送を流し続けていた。
どんな放送がやっていたかなんて覚えていない。
でも、消え入りそうな気持ちをラジオが繋ぎとめてくれた。
その後、無事救助されて、僕だけが助かった。
母親は僕をかばって死んだ。即死だったらしい。
その後、親戚の家を転々とした。
遊びに行く時の親戚の家とは違い、僕は歓迎されていない。
疎外感に耐えられながら、ラジオだけは常に手元に置いた。
辛かった時、一人に怯えた時、そこにいてくれる。
今の家で暮らすようになっても変わらない。
ラジオは僕にとってそういう存在だ。
でも、ラジオの方は何も答えてはくれない。
話し相手になるわけでもない。あの放送を聴くまでは……
三年前の夏。何気なく聴いていた地方局の深夜のラジオ番組。
この回が第一回の放送だったらしく、番組の勝手が分からないパーソナリティーはあまり流暢とはいえない喋りを展開していた。
番組も最後になり、パーソナリティーがハガキの告知なんかを終えると締めの挨拶をする。
『ラジオを聞いている場所はそれぞれ。車で、仕事場で、友達の家で、もしかしたら恋人の家でこの放送を聞いてる人がいるかも知れません……』
「……」
舌打ちしたくなるような感覚。独りで聞いてる僕はないがしろかよ……
『でも、私は自分の部屋で独り居る人のために送ります』
「!!」
『それが私のやり方……私も独りだよ。ブースの中だけど』
この一言が僕を変えた。自分に話しかけてくれるパーソナリティー。
来週もこの放送を聴こうと思った。
そして、次の週。
『ふぇーん、誰か助けてくださーい!ハガキが、ハガキが一枚も来ないのです!』
『安いよ!安いよ!今なら採用率100%!』
何が安いのか良くわからないが、このパーソナリティーが必死なのは良く分かった。
よくよく考えてみれば『独りでいる人のために送る』なんてリスナーの反感を買うようなコメントを残してるんだからハガキが来ないのも納得できる。
だからというわけじゃないが、僕は生まれて初めてハガキを書いてみた。
このパーソナリティーなら何かが届きそうな気がした。
いざ書いてみるとなかなか面白く、我ながら良い出来だったので、そのままポストに投函。
さらに次の週。
本当にハガキが読まれた。
『呼びかけたかいがあったよ! ペンネーム、マッチョ石松君からなんと20通もハガキが届きました!』
僕はコーヒーを口から噴出した。
確かに20通送った。調子に乗って書いていたらそれぐらいになってしまったのだ。
しかし、何で書いた枚数まで言うんだ?
……恥ずかしい。もう二度と送るまいと心に誓う。
『へへっ……実はあんなに呼びかけたのに、この子しかハガキ来なかったのよね……。マッチョ石松、マッチョ石松、マッチョ石松。よし、もう忘れないよ、この名前。もうこうなったらマッチョ君のためだけに放送しちゃう!!』
何だか半分やけになって喋っているこのパーソナリティーに好感を持ち、僕はこのパーソナリティーの名前を憶えておく事にした。
そのパーソナリティーの名前は華富玲子といった。