第1話 万能の魔女(過去形)
――王国には、かつて「万能の魔女」が存在した。
魔女に不可能は存在しなかった。敵に天災を与え、味方には恵みの雨を降らせた。
魔女は幾度となく王国を救い、いつしか彼女は英雄となった。
だが、時の女王はその力を恐れ、「呪い」をかけた。
魔女は抗ったが、かなわなかった。
「呪い」の名は「デモクラティア」。
その効果は、「王国議会の承認した予算の範囲内でしか、魔法を行使できない」。
――かくして、世界最強の魔女は、世界一民主的な魔女になった。
――彼女の今の仕事は事務員である。
「――私の眼球が潰れたようです。陛下、治癒魔法のご許可を」
黒服、黒の帽子、銀髪ショートがトレードマークの魔女は主張した。
「魔女らしく、硫酸でもかけてみてはどうですか」
陛下と呼ばれた金髪の少女は、書類から目を離そうともしない。今日は一段と目のクマが濃く、目付きが悪い。
「しかし、この書類にある数字が15,000ソル以外に見えません。恐らく、目に障害が発生しています」
「視力検査は合格です。貴女の目は正常に機能しています。業務に戻りなさい」
「陛下ぁ……」
魔女マリーは、珍しく泣きそうな顔で下を向きながら呟く。
彼女が握りしめた書類には、彼女が一人所属する、「宮殿事務総局庶務第13課」の予備費割り当て分が記載されている。
「宮殿事務総局庶務第十三課」は、予算請求が出来ない。
本来であれば、上部の組織である「宮殿事務総局庶務部」が彼女の課も含めた来年度の予算を請求し、それを執行する。
しかし、魔女の給与以外の予算は基本的に「有事」が発生しない限りは不要である。また魔法の行使は官僚組織の予算体系には全く適さないものだった。何しろ、いつどんな魔法を求められるかなど、万能の魔女でも魔法を使わないとわからない。そこで、宮殿事務総局(庁に相当)に認められた予備費から支出する事になった。予備費とは、予見し難い予算の不足に機動的に対応する為の制度である。通常の予算に上乗せ計上されるが、予備費から支出した場合は議会の事後承認が必要になるので、予算取り放題の裏技ではない。
マリーは一か月毎に、予備費からどれだけ必要とするかの予算要求を行い、宮殿事務総局財政部がその妥当性を審査していた。
そして、その結果が返ってきたのである。
「――15,000ソルじゃ、空を飛ぶ事すら出来ませんよ」
言うまでもないが、ソルは王国通貨である。マリーが空を飛ぶ魔力を使うには、18,500ソルが必要になる(18,500ソルは宮殿職員の初任給とほぼ同額)。
ちなみに、先週辞任したマディソン首相夫人の不正蓄財は10億ソルである事が報じられた。起こそう、革命。
「そ、そうは言っても、だよ。マリー君。緊縮財政下だし、ね。皆、凄く我慢してると思うんだよね」
気弱そうな初老が、心底恐怖した声で囁く。
席のプレートには「侍従長」とある。酷く挙動不審で、怒ると泣き出しそうな位にビクついている。
「クロムウェル侍従長。うちの子を甘やかさないで下さい」
女王、アデレード3世は、御名御璽を済ませた書類を侍従に手渡すと、砂糖とミルクを常人の三倍は放り込んだコーヒーを一飲する。カップには「これは紅茶」と朱書きされている。
「40ソルで、そのコーヒーを紅茶に出来ますよ?」
マリーがウィンクしながら、女王に提案する。
「結構です!」
女王は目を見開きながら、ミルクを口に放り込む。苦かったらしい。
――以前、宮殿は女王の意向を受けて、紅茶以外の飲料は廃棄しようとした。
実際に女王は、「カフェインジャンキー育成の泥水は我が宮殿に不要、抹殺すべし」との勅命を下し、コーヒーの排除を試みた。職員は、専制君主の圧政に抵抗すると称して、「女王陛下の仰せのままに」とデカデカと書かれたプレートを貼り付けたコーヒーサーバーを、宮殿内に複数設置した。
革命の勃発である。
コーヒー派の職員100名が、宮殿内に「ラスト・リベリオン」という名前の「叛乱軍」を結成し、紅茶の茶葉とスコーン(紅茶派の嫌疑がかけられた)が次々と宮殿内のボストン湖に放り込んだ。こうして宮殿内の紅茶は一夜で壊滅した。女王は直ちに「叛乱軍」を鎮圧するように、近衛歩兵連隊長に命じた。しかし近衛歩兵連隊長は自身がコーヒー派である事を表明し、「第四次コーヒー・紅茶憲法危機」は終結した。
(やはり専制政治は滅びる運命にあるのだろう。歴史は偉大だなぁ……)
侍従長は唯一の紅茶派として、女王側で奮戦したが無残に敗北した。コーヒー派による、コーヒーゼリー無償配布などのアメから、職員を引き離す事が出来なかったのだ。
余談だが、女王は今も、あの敗北は何者かの煽動であるとして、負けを認めていない。彼女が飲む紅茶は「黒い」が、コーヒーではない。
――その後もマリーは、「先日観測された太陽系外からの不可思議な光学信号」を根拠とした宇宙からの侵略の可能性や、「三年前の大地震は某国の地震兵器によるものである」という深刻な脅威を主張し、予算獲得へ向けた最大限の努力を試みた。
女王は、悪戯を考える悪ガキのような表情を浮かべながら、「その宇宙人はイカ形ですか?タコ形ですか?」などと応じながら、マリーを弄る。
――マリーの陰謀論ネタが尽きた頃、女王から親友を弄る喜びの表情が消える。
マリーは、引き際だと理解した。
「マディソン内閣総辞職後の、宮殿へのリベラル層の不信感は増大しています。私の政治的介入があったとね。――否定はしませんが、君主に白色クーデターを扇動する議会政治家には、あれが極めて適切な行動だと考えています。今後の組閣次第では、更に先鋭化した人物の登場も予想されます」
女王は侍従長に目配せをする。
これ以上は、自分の口から説明するわけにはいかない。そう言っているようだ。
「マリー君。君が要求する予算を予備費から支出すれば、議会野党、そして、それを支持する国民と女王との間に、要らぬ不協和音を生じさせかねない。次期政権に更なる負担をかけるのは、陛下の本意ではない」
「我が王国にとって、危機的事態が到来すると予想されない限りは、現在の額は維持される。そ、そう考えて欲しい」
要領が悪い事で有名な、名門貴族の三男坊、ウォルター・クロムウェル侍従長兼伯爵は、震えを押さえつけながら、そう述べた。
彼は(控えめに述べても)優れた能力を有する人間とはいえなかった。少なくとも、内務省や外務省からの出向組や民間企業からスカウトされた民間組が大半を占める宮殿で、出自だけで無理やり採用枠を押し込まれた生え抜き職員である彼がそう見られる事はない。彼が侍従長のポストを得たのも、不安定化する政治状況でリスクが無いからに過ぎない。就任式で唯一の親友であったマディソン首相に、「無能であっても、せめてあの少女の盾にはなりたい」と、泣きながら話しているのをマリーは聞いていた。心からの善意と良心は、無能の担保にはなり得ない。ただ、マリーは女王と違い、そのような合理的な判断を絶対視したくはなかった。
――マリーは女王執務室を一礼して去ると、好物のコーヒーゼリーでも食べようと食堂に向かった。
せっかく革命を扇動してまで、好物を守り抜いたのだから。
職員食堂は午後三時を回ったにも関わらず、かなりの盛況だった。
マリーは、「暇人共めが、女王陛下のために働け」と、自分を棚に上げた発言をしながら注文をする。実用化されたばかりの立体映像テレビを、物珍しそうに眺めている若い職員を眺めながら、「私が男とか作れば、女王もやきもきしたりするのかな」などと考える。
テレビのアナウンサーの声が、頭に入ってこない。なんだかんだで、存在価値を否定された事がショックだった事に、今更気づいた。
時代なのだろうと諦めようも考えたが、長く生きても精神は幼い魔女マリーには無理だった。
自分を外に連れ出せと、魔法を使ってみろと駄々を捏ねていた王女は、もういないのだろうな。「午後十時消灯厳守」と、女王の自筆で書かれたポスターを眺めながら、呟く。
「――『新大陸』セントビンセント共和国・ヤコブス大統領の任期30周年記念式典が、本日開催され、各国要人が招かれました。」
「――王国のセントビンセント総督を殺害し、王立植民地議会を武力制圧。以後独裁体制を敷いたヤコブス大統領ですが、現在では、財政政策の破綻で財政は極端に悪化。先月には統一連合からの緊急財政援助を受けました。独裁国家への経済支援は統一連合条約に反するのではないか、という統一連合加盟国からの根強い反発を理解してか、無通告の宇宙機雷実験やテロリストへの援助の公言などは鳴りを潜めています」
「――王国内では、反ヤコブスを唱える保守派と、親ヤコブスを唱える革新派の両者の衝突が相次いでおり、本日午後五時に宮殿内の一室で、労働社会党党首であるモズレー党首を仲介者に、第一回の会合が予定されております。このように感情的な対立に至る背景には、いわゆる『アデレード移民』と呼ばれる――」
その後、ヤコブス大統領の功績を嬉しそうに語るアナウンサー(労働社会党の熱心な支持者で、よく保守派の若者にネットで叩かれている)のせいで、スタジオの空気が凍りつき始めた頃には、職員食堂にはマリーしかいなくなった。
食堂のおばちゃんが、「男に振られたのかい?男なんて胸で顔を押さえつければいいのよ」と言った瞬間、マリーの貧しい胸部を見て言葉に詰まった以外は、特筆すべき状況にはない。
マリーは自身の状況を振り返った。
王国が、世界の超大国としての役目を終えた百年前。この頃には王国の植民地にて独立の機運が高まり、独立紛争が相次いだ。
この頃ならマリーの仕事は沢山あったはずだが、「寝ていた」。
王国が、世界に複数ある大国の一つとしての役割を理解し始めた半世紀前。この頃には王国に代わる超大国であった新大陸「連邦」の力が落ち始めたので、「親の責任」として積極的に海外派兵を行った。
マリーはまだ、「寝ている」。
王国が一大国としての地位さえ喪い始めた現在。マリーは、「目覚めた」。
この頃にはもはや戦争を行う余裕は無い。当然、マリーの仕事はない。
――こうして彼女の仕事は事務員になった。未だに、魔法なしにはコピー一つ出来ない事務員である。
もっと早くに起きろ、私!
というか、何故眠った!
「陛下、貴女も、もう少し早く私を目覚めさせて下さい!万能の魔女の私がいれば、我が王国は衰退しなかったかもしれませんよ?」
そう女王に愚痴った時には、「お寝坊さん」と微笑まれた。
畜生。
そうこうしてるうち、誰かが女王に、「魔女が投身自殺を図りそうな位に落ち込んでいる」と告げ口したのか、私の肩を叩く音がする。
「あの、まだ生きてますか?」
そこにはレイラ・スチュワード、宮殿で働くメイドがいた。オッドアイにショートヘア、メイド服で判別可能である。歩けば三歩で転倒し、その無能さには定評がある。
もっともそれを改善しようとしている点は評価されており、女王も、自身の私服にスープをぶっかけられたり、女王が書いたポエム集が誤って宮殿内に漏洩してしまったりしても、怒ってはいない(後者はかなり怪しかったが)。
マリーは、目を伏せながら小さな杖を振り、生存を伝える。
「良かったぁ。貴女が投身自殺を図りそうな位に落ち込んでいると、女王陛下から聞かされまして。とりあえず適当に慰めておいて欲しいと仰せだったので、慰めます!」
慰める人間にその動機と慰める旨を事前通告するその正直さに、マリーは苦笑した。
駄目だ、女王の思惑通りだ、これ。
「あの、マリーさん?昨日、首相閣下が来訪された時に妨害するように、陛下に頼まれた件なんですが・・・。陛下、お怒りでした?怖くて、怖くて聞けないんです」
恐らくあの女王の事なので、君を脳内で絞首刑に処す位には怒ってたのでは無いですかね、とは言えない。 言えば、投身自殺を図りそうな位に落ち込むだろう。敢えて彼女を擁護するなら、マディソン首相は政界最強クラスのスポーツマンであり、彼女お得意の体当たり攻撃は自殺行為であった。女王も期待はしてないだろう。マリーは政治的かつ官僚的な発言に終止したが、その意図を感じ取る程、このメイドは賢くないので、素直に女王は怒ってないという認識に到達した。
「良かったぁ」
良くないよ。マリーは苦笑したが、このメイドは気づかないだろう。
二人は、レイラが作ったコーヒーケーキを食べる為に、宮殿中庭に向かう。
マリーが、すっかり女王の思惑通りに元気を取り戻していると、ある人物に気づいた。
背は高く、ベリーショートの金髪の女性。中庭の噴水前で何かを弄っている。
メイド服を着ているが、顔に見覚えがない。凝視しないとわからないが、挙動不審な面があった。地図でしか知らない町を歩く田舎者、そんな表現が似つかわしい。
新人メイド? そんなはずはない。宮廷費にそんな余裕はないし、人員の空きも無い。何より自分よりは優秀な事が確実な新人メイドの登場はレイラを脅かし、今頃愚痴の嵐だろう。
「レイラ、あの人が誰か知ってる?」
マリーは尋ねる。一応聞いておく。もし勘違いで大騒ぎするのもあれだ。
「いや知りません。綺麗な人ですね?」
レイラは素直な感想を述べる。 そのままの君でいて。
マリーはあらゆる可能性を探る。
盗人――盗む価値があるものは多いが、すぐに足がつく。
マスコミ――可能性はあるが、彼らには精々外縁にある事務総局あたりが限界だろう。
それとも、テロリスト――
はしゃぐ心を抑えながら、使い慣れない端末で撮影した顔画像を、王国内務省のサーバーに送信する。
応答あり。
内務省令第一八九八号(我が国の政体を脅かす可能性がある人物リスト)に記載ありとの表記。
――「Q」リストに記載あり?
マリーは我が目を疑った。本日二回目である。
「Q」リストとは、半世紀前に成立した対テロリズム緊急措置法で、内務省にその作成が義務付けられている危険人物リストである。
君主政体及び民主政体を脅かす可能性があるテロリスト、市民運動家、政治家――。
当該リストに記載された人物は主務大臣(内務大臣を指す)の判断で、予防拘禁、令状なしの家宅捜索及び盗聴や訴追前の勾留期間を三十日間に延長する事が可能になる。
王国憲法に抵触しかねない規定である為、その運用には極めて慎重を要する。その為、リストの追加は野党の強い反発もあり、施行後は一件もないとされている。
そう、公式には、だ。
声にならない歓喜の声を上げる魔女と、ドン引きするメイドをよそに、「不審人物」はある木を眺めながら呟いた。
「……ここでも育つのね」
まるで人生の総決算を眺めるかのように、女性は木を眺める。だが、「毒虫発生につき、撤去準備中。触るな」という看板を見るなり、目を背けた。
「少し宜しいでしょうか?えーと、新人メイド君?」
マリーは遠慮気味に聞いた。
先程の情報では、「Q」リストに記載があるという事実以上の情報が開示されない。魔女にはその程度のアクセス権限しか無い。権限も魔法で何とかなるが、それには10万ソルが必要になる。無理。
だから、このメイドがテロリストかどうかは自信が持てない。もし間違えば、女王に末代まで笑わられる。魔女は子供を作れないが。
「何でしょうか?」
「不審人物」は答えた。予想に反し、声にかなり幼さが残っている。女王とそう変わらないかもしれない。
「君の顔を、このレイラ君も、そして宮殿職員全員の顔を覚えているはずの私も、覚えていないんだが、君はどこから来たのかな?」
マリーは身構える。魔法を使わなくても、この「少女」なら何とでもなる。
その少女が何故リストに記載されてるのかは、考えなかった。
「――地獄」
「不審人物」はマリーの左足を蹴り、食堂で頂戴してきたであろう胡椒一瓶を顔面に浴びせる。
なんて経済的な攻撃をするのだ、とのマリーの絶叫をよそに「不審人物」は逃亡する。
レイラは、近くにあった雑巾がけ用のバケツをマリーの顔面に浴びせる。目の痛みが一時的にマシになる。
マリーがレイラの機転を褒めようとすると、
「行きましょう!マリーさんの初手柄になりますよ!」
レイラの極めて失礼な発言を無視して、マリーは「不審人物」を追う。
こいつを逮捕すれば、私の地位も、「事務員」から、「安全保障問題担当魔女兼ゴミ係」ぐらいにはなるかもしれない――。
――「不審人物」の身体能力を舐めていた。
まるでパワードスーツでも装着してるみたいな――いや、間違いない。「装着」している。それも間違いなく軍用だ。
威嚇射撃も検討したが、周辺被害を考えると不可能だった。1%でも宮殿内の女王に当たる可能性が否定できない以上は、だ。
「不審人物」は通行人を突き飛ばしながら、宮殿内部を突き進んでいく。
まさかこのまま「玉」を取りに行く気なのか。
女王暗殺の四文字が脳裏によぎったマリーは、魔法の行使を決断した。
目標、前方の不審人物。使用魔法は「ウォーター」。魔法単価は400ソル。使用回数は3回。
「ウォーター」は高圧放水砲を扱う魔法であり、女王の護衛時によく使うので、プリセットされている。
女王の御名が空中に浮かび上がり、発光している。準備は完了だ。
「女王陛下の仰せのままに」
お決まりの詠唱文を呟くと、勢い良く水が前方に飛び出す。1発目は、通路上に飾っていた東の国から送られた国宝級の陶器に直撃した。致し方ない犠牲だ。「魔女が国宝を壊した!」と侍従達が騒いでいる。早く近衛兵か、騎馬警察を呼ばないなら、お前らにも御見舞するぞとマリーは睨む。男性職員が鼻血を出しているのが見える。今日はスカートだった事を思い出す。だがは今は知った事ではない。目の前のあいつを捕まえられるなら、貞操だって惜しくはない。
2発目、3発目は「不審人物」の横を掠めるだけに終わる。
「ゴム」や「サンド」などの魔法も試みるが、全弾命中したにも関わらず依然健在だった。
致死性のレーザー魔法の使用を考えるも、控える。先程から野次馬が集まり始めている。最悪、巻き添えで複数人が死傷する。
もう、軽コストかつ非殺傷系の魔法は使い切った。
マリーは考える。
「ゴム」だけは対象の速度が若干低下せしめた。もしかして質量を伴う打撃は有効なのかもしれない。
だが、「ウォーター」も「ゴム」も、回避されるか、効果が薄い。既存物を利用するしか無い。出来れば、比較的低コストの、人間くらいの大きさで、かつ質量を有するものが望ましい。
しかし、そんなものがすぐに用意できるわけがない。ましてや今は追跡中だ。
「な、なんであの人疲れないんでしょうか。心臓が、死ぬ。死んじゃう……」
レイラが、今にも昇天しそうな位に顔を真っ赤にしながら述べる。
彼女が魔女の速度についてきている事実に驚愕するマリー。そして訊ねる。
「――女王陛下の為に働きたい?」
「も、勿論ですよ。私はそのために、郷里からこの身一つで来たんですから!」
そう、忠義者ね、とマリーは微笑む。
この人が笑う時って、大抵私に不幸が来る事が多いような――とレイラが思った瞬間に、
「な、何ですかこれ」
レイラの周りが、見えない空気の膜に覆われる。まるでクッションのようだ。
マリーはレイラを抱きかかえる。レイラもようやくその意図を理解し、
「ちょっと、ねぇ!さすがにそれは人権上――」
レイラが、最近覚えた人権という言葉の意味を、最後まで説明し終わる前に、マリーは「パワー」の魔法を使い、レイラを(生存可能な限界速度で)、「不審人物」目がけて、投げつけた。
「不審人物」は振り返り、レイラと呼称される砲弾を目視し、驚愕した。
ちょうど丁字路になった通路に差し掛かっていた彼女は、瞬時の判断で窓を突き破り、逃亡した。
――そして砲弾「レイラ」は丁字路の死角からやってきた二人組に命中した。
「ガコーン」
命中した途端、非常に気持ち良い音がした。
――――
「だ、大丈夫ですか~」
マリーは、人生で発した中で最も弱々しい声で話しかける。
レイラは「ぅ~ん」という呻き声で答える。お前には聞いてない。
命中した二人組のうち、気絶している一人は老人で、立派な白ひげを備えている。非常にラフな格好で、少なくともこんな格好で宮殿に来る人間はまずいない。まさか不審人物の仲間?と顔を覗き込むと、そこには、報道で飽きるほど見た、野党第一党の労働社会党・モズレー党首の顔があった。
マリーは、最も考えたくない可能性を考え、命中したもう一人の方を見る。
その人物は軽症で、すぐに立ち上がれたようだった。
「マリー、いや『万能の魔女』マリーよ。叛逆の意志があるなら、『臣民』を巻き添えにせずに、私を直接狙ってはどうか・・・?」
そこには彼女が最も愛し、そして恐れる王国の象徴がいた。
統治権の総攬者、民主政体の擁護者、ついでに、私の主人。
「これには、極めて重大な安全保障上の問題が――」
「女王である私が、襲撃された事以上にか!」
女王の鉄拳を顔面で受け止めながら、なぜか、構ってもらえた事に内心喜んでる自分を、マリーは発見した。
女王様、もっと殴って下さい。
――そして次の日、各紙朝刊の一面を、宮殿内での傷害事件を報じた記事が飾った。
保守系新聞・「キングズタイム」
「鬼畜モズレー 女王陛下を襲撃――王政廃止に実力行使」
リベラル系新聞・「ピープルデイリー」
「同志モズレー 女王の白色クーデターで全治十年の重傷」
「――モズレー党首は、あの後すぐに王立病院に緊急搬送。幸い、ただの脳震盪だったそうです」
「――私が治療室まで付き添った甲斐もあり、党首も、貴女『個人』には深い尊敬の念を覚える。今回の事は事故であり、女王の悪意によるものではない事は理解している、と述べて下さいました」
「――マスコミにも近日中には伝わるでしょう」
女王は昨日の傷を擦りながら、無表情で述べる。
「まさに女王陛下万歳ですね。いやぁ、良かった、良かった」
マリーは、ケラケラと笑った。「共犯」たるレイラ・スチュワードは、初めての女王執務室で呆然としている。
「さて、宮殿事務総局が、来月の貴女の予備費割当額を発表しました。ゼロです」
女王は微笑む。
――そして、相棒のライフルを取り出して、「装填」する。
「もっとも、貴女達に来月があれば、の話ですがね」
マリーは頭を床に擦り付け、レイラは母親の名前を泣きながら叫んでいた。
宮殿事務総局人事部は、本日付けでレイラ・スチュワードを宮殿事務総局庶務第13課に異動させる旨を発令した。首相府独立人事委員会は、メイドの庶務課への異動に、人事管理と適性の点から疑問を呈したが、最終的に承認された。
魔女マリーは、こうして初めての部下を与えられたのである。
「人」という存在が最も予算を必要とする事を除けば、それは喜ぶべきことだった。
――彼女達の物語はここから始まる