第5章・上(気)弦
木崎 怜子 (きざき れいこ)通称レイ、 レイ姐
15歳・中学3年
小学生の家庭教師のバイトをしている。元ヴォーカル担当で、ハスキーな声に定評があった。
「うぅ……頭イタイ……」
朝、智華はフラフラと家を出た。ん?また朝の場面から始めるのか。まぁいい。
「レイ姐、ジュースだって言ってたけど……あれ絶対アルコール入ってたよ……たぶん」
昨日の放課後、怜子の家に行った智華は、自分がどうやって帰宅したのかさえ覚えていなかった。気がついたら朝、自分のベッドに寝ていた。
「え〜と、レイ姐の家で最初に学校の宿題やって、そんで……息抜きにジュース出してくれて……そこからの記憶がない」
ブツブツと言いながら歩いている。そして、突然ふと思い出したように立ち止まった。
「あたし、まさのアパート行っていいのかな……?」
それは、初めは小さな囁きにすぎなかった。しかし、一旦意識して考えだすと急に不安になってくる。
「あたしが行かなくても、まさにはユキノちゃんが……」
それに、昨日練習に顔を出さなかった後ろめたさもある。
(どうしよう……)
立ち止ったまま考えていると、すぐ後ろでキキキッと金属音がした。ビクッとする智華の横を、自転車に乗った学生がギリギリで通り抜ける。
(歩道の真ん中に突っ立ってたらジャマよね)
仕方なく、智華は歩き始めた。その間にも、智華は頭の中で何度も言葉を繰り返していた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
いつまでたっても、考えは定まらない。
そして気が付いた。
「やば……考えてる間に来ちゃった……」
いつもの習慣で、足は自然に正法のアパートに向かっていたのだ。
「や、やっぱり引き返そうかな」
踵を返そうとした時、智華の目が階段を上ろうとしている人物を捉えた。
「ユキノちゃん……」
気づいた雪乃があげかけた足を下ろし、振り返って会釈する。
「……おはようございます」
「お、おはよっ」
それ以上雪乃はなにも言わない。すぐに体の向きを戻してカン、カン、と錆びついた階段を上がって行く。
智華の来訪を歓迎していないことは容易に感じられる。
(あぁ……)
一歩一歩上がって行く雪乃の足音が、心の奥底にまで響く。ほんの小さな足音なのに、智華にはそれが何倍にも増幅して聞こえた。まるで審判の鐘の音のように。
「待って!」
叫ぶや否や、智華は走り出した。階段を上りきったところで雪乃に追いつき、狭い廊下で強引に追い越す。
後ろで雪乃が驚いたような顔をしているが、気にしている暇はない。正法の部屋の前に立ち、大きく息を吸う。
逸る動悸を抑えて息を止める。――不安を拭う方法は、これしか思いつかなかった。
「起きろー! まさー!」
ドアに言葉を叩きつける。ジーンと空気が振動するような気がした。
コツ、コツ……雪乃がマイペースで歩いてくる。そして、ドアをノックしようとした時だった。
「とも、か……?」
ドアが開き、赤い目をした正法が出てくる。
「まさ、あの、昨日……」
「来てくれたんだ」
「え?」
正法は眠そうに目をこすりつつ、きまり悪そうに空いた手で頭を掻く。
「いや、もしかしたら来てくれないかもって思ってさ。昨日レイに練習来ないって聞いたとき、とうとう見捨てられたかもって……」
「……」
「……おはようございます。正法先輩」
「っおわ!? ユ、ユキノちゃんいたの!?」
「さっきから……」
空気を読まない子だ。いや、むしろ空気を読んだ上での割り込みだろう。
「時間、急いだ方がいいんじゃないですか?」
「っそうだった! 待ってて、二人とも!」
正法は急いで奥に引っ込んでいく。
ドアが閉まると、静寂が戻った。
(二人とも、ね。ま、許してやるか)
智華は、勇気を出して雪乃に声をかける。
「ねぇ、ユキノちゃん」
「はい?」
「昨日の練習、どうだった?」
「……みなさん、スゴク上手くて。ついて行くのが精一杯でした」
「へえ」
「……」
「……」
会話が続かない。智華はなにか別の話題を見つけようとする。
「あ、ねぇ」
「でも……」
一瞬、二人の口が止まる。
「どうぞ。続けて」
「でも、智華先輩がいないと、その……物足りないって言ってました。正法先輩が」
「まさが……?」
「おまたせ〜」
正法が出てきて、会話は中断された。
「ちょっと時間ヤバイから走るか」
「誰のせいで時間ヤバイんだ?」
「うっせーよ」
そして、三人はアパートを出て走り出した。
「まさ」
「ん?」
道路に出たところで、声をかける。
「嬉しいこと言ってくれるじゃん」
「は? なにが?」
正法が智華の顔を見る。
「なーんでしょっ」
智華は前を向いたまま、ペースを上げて二人を引き離す。
「あ、待てコラ!」
「智華先輩、速い……」
――乙女心と秋の空、あるいは政治家の言い分、あるいは子どもの興味対象、もしくは若者のブーム……まぁとにかく、コロコロと変わるものである。
「レイ姐〜!」
「おっ、とも。その顔は成功したな」
「成功?」
「男ってのはね、一度離れないと気付かないものなのよ。鈍感だから」
相変わらず窓の外を見ながら、怜子は語る。その隣に智華がやってくる。
「レイ姐。……気付かないって、なにに?」
「は?」
「ねー、なにに気付かないの?」
怜子の腕を掴んで揺さぶる。本当にわからない、という目だ。
「わからないの?」
「わかんない」
「……あんたも鈍感ね」
「だから、なにが〜?」
ともあれ一見落着、に見えたが、智華の上機嫌は長く続かなかった。




