第11章・僥倖
「バカ……まさのバカやろう……」
叩きつけるような雨の降る中、智華はフラフラと路地をさまよっていた。どこか目的があるわけではない。ただ、人に会いたくなかった。涙と雨でズブ濡れになった姿を見られたくなかった。
「ハァ……」
すっかり消耗し切った智華は、狭い路地裏に突き出た軒下に入る。
「イヤだ……もう」
家に帰ろうとする気力もない。その場にしゃがみ込み、腕に顔を伏せた。
(今日の朝は、こんなことになるなんて思わなかった。何を話そう、とか美術館の他にどこに行こう、とか色々……色々考えてたのに)
――誰にも悪気はなかった。次郎はただチケットを提供しただけ。雪乃は本音を打ち明けるためにキャンセルし、円はその空いた席に正法を招待しただけだ。それらが怜子の計画したデートと重なり、すれ違いを生んだ。
”運命”などという言葉は気安く使いたくないが、時にそうとしか思えないことが起こる。結果、一人の少女が泣いた――
「……ん」
いつの間にか、智華は眠りかけていた。時間を確認すると、防水仕様の腕時計は律儀に針を動かして5時を指していた。雨はまだ強い。
「こんな恰好じゃ、風邪ひいちゃう」
しかし、バッグの中に入れていたハンドタオルも、水がしみ込んで湿っていた。
(何もないよりかはマシか)
タオルを広げると、中からなにかが舞い落ちた。美術館のチケットだ。タオルに守られていたおかげで濡れていない。
「ゴメンね、レイ姐……台無しにしちゃって」
体を拭きながらそうつぶやいた時……
「――か! ともか!」
雨音に混じって、人の呼ぶ声がする。
「この声……」
「智華! どこだぁ!」
正法だ。智華を探して、名前を呼びながら近づいて来る。
「まさ……」
見つかりたくない。そう思った時に限って、あっさりと見つかってしまう。
「智華!」
正法が傘をさして走ってくる。うつむいたまましゃがみ込んでいる智華の前に立ち、意を決したように口を開く。
「ゴメン……」
「……」
智華は何も言わない。
「オレ、お前が走り出した後、ユキノちゃんにも叩かれて、それで、やっとわかった」
(ユキノちゃんが、まさを叩いた?)
「ユキノちゃんは、オレ達が会う予定だったってこと知らなかったらしい。それで、そのことを知ったとたん、泣き初めて……『私がキャンセルしたせいだ』って」
(……違う。ユキノちゃんのせいじゃない……)
「で、その後いきなりオレに平手打ち喰らわせて、『なにしてるんですか!? 早く追いかけて!』って叫んだんだ。それで……2度もぶたれて、オレやっとわかった。智華が、今日のことをとても大事にしてたってことに」
「……」
「オレが、それを踏みにじってしまったことに……」
正法ががっくりと肩を落としてうなだれる。その声が震えているのを、智華は感じた。
「オレ、お前のこと全然気遣えてなくて……軽い気持ちで、笑って、本当にバカだ」
(まさ……)
「ゴメン、だけじゃ済まないけど……もう、それしか言えない……ゴメン」
心の底から、正法も悔やんでいた。取り返せない罪に傷ついていた。
「バカまさ……」
ポツリ、智華はこぼした。
「レイ姐からもらったチケットが無事だったことに免じて、もう一回だけチャンスをあげる」
「えっ」
「二人とも泣いてたら、誰が慰めるのよ。……行こう? 今から」
「な、泣いてねーよ、オレは……」
正法はそう言うが、傘をさしているのに目の周りが濡れているのは何故だろうか。
「行こう!」
無理矢理元気をつけるように、大声を出して智華は立ち上がった。正法は顔を見られないように視線をそらす。
「美術館、まだ時間があるから。……バッグがこんなにビショビショなのに、チケットは濡れてない。これ、運命ってやつじゃない?」
努めて明るく振舞う。涙は止まっていた。いや、正確に言うと”止めた”。
「さあ、行こうよ。まさ」
智華は軒下を出て、正法の傘に入る。互いの体温を感じるほど近く寄り添い、傘を握る手が重なる。
「あ、ああ。行こう。……ここからが、その……初、デートだな」
照れくさそうに正法が言うと、智華も笑って答える。
「7時間の遅刻だけどね」
「あ、ハハハ……」
さっきまでは、心にのしかかる重しのように聞こえていた雨音が、今では違って聞こえる。今の雨は、二人の距離を縮める温もりの雨。
再起を祈り、相々傘は歩きだした。