第10章・馬鹿野郎
「智華先輩。ちょっと……お話、いいですか」
「う、うん……ねぇ、ライブの時間、大丈夫?」
「ライブには行かないことにしました。私、先輩とどうしても話したいことがあるので。それで、先輩のことずっと探しててやっと見つけたんです。」
サラリと言ってのける。
「え! ライブ行かないの!? もったいない」
「できるだけ早く、二人きりで会いたかったんです。今日は練習がないからチャンスだと思って……」
「そんな……」
その時、智華の鼻先に冷たい雫が落ちる。とうとう雨が降り始めた。
「とりあえず、あそこで雨宿りしましょう」
二人は近くの喫茶店に移動する。店内は割と混んでいたが、運よく窓際の席を確保できた。
「で、話って?」
「実は……その……」
普段は元気のいい雪乃が、背中に手を組んでうつむいている。よく見ると顔が赤い。
「ご注文、お決まりでしょうか」
店員がやってきて注文をとる。
「ホットコーヒー。ユキノちゃんは?」
「わ、私もそれで……」
顔を下げたまま細い声で答えた。
「かしこまりました」
店員が去って行った後も、雪乃はそのまま黙りこくっていた。
(まさの事、よね。たぶん)
智華は、雪乃が何を言いたいのかを痛いほどわかっている。自分も怜子との電話で同じような状態になっていたのだから。
(けど、あたしは誘導しない。ユキノちゃんが自分で言い出すまで待つ)
そう決め込んで、智華はただひたすら沈黙に耐え始めた。
時を同じくして、真昼のライブが開始された。その一等席には円と正法の姿があった。
「スッゲェー! やっぱりナマで見ると半端ない実力だわ」
「うわっ、マジでレベルが違う」
そんな思い思いの感想も、大音量の音楽と歓声にかき消されて互いの耳まで届かない。そのうち、感想を述べるのも忘れてただただ熱狂し始める。
――智華との約束も、すっかり忘れて……
外の雨はますます強くなり、運ばれてきたコーヒーはとっくに冷たくなっている。
喫茶店に入ってからすでに4時間が経過。二人はずっと、来店時のままの状態を保ち続けていた。
「……」
智華は三杯目のコーヒーを飲み干し、雪乃は一杯目にも手をつけずにうつむいたままだった。
「……そのっ」
「ん?」
「その……」
そしてまた沈黙。4時間の間ずっとこの調子だ。次第に強くなる雨の音と他の客の話し声意外、何も聞こえない。
時折静寂を破るように、ドアが開閉するカラン、コロン、という鐘が響く。
「っぷはー、だいぶ雨強くなってきたなー」
三人連れの若い男たちが入って来た。
「おーい、こっちこっち」
智華たちの隣のテーブルにいた男が三人を呼ぶ。ここで待ち合わせしていたのだろう。
「どうだった? クライムのライブ」
「おー、スゴかったぜ」
(ライブ……終わったんだ)
隣の話し声を聞いて、智華は腕時計を確認する。そして、これをきっかけに雪乃に話しかけてみた。
「もうライブ終わっちゃったね」
「……ええ」
そこで、また会話が途切れる。
仕方なく智華が四杯目のコーヒーを頼もうとした時――
「わ、私……好き、なんです」
細い声で、確かにそう言った。
「好きです……正法先輩のことが……」
「……そう。やっぱり」
「え?」
智華の反応に驚いて顔を上げる。
「いつから? まさのこと好きになったのは」
出来るだけ静かに、けれども冷たくならないように智華は聞いた。雪乃は再び下を向き、ポツリ、ポツリと話し始める。
「……最初に正法先輩のことを知ったのは、次郎さんに見せてもらった写真です。バンド結成時の」
「ああ、あれね」
「その時はそれほどでもなかったんですけど、後に文化祭でバンド演奏を見たときに……その……ああ、本当にこの人は音楽が好きなんだなぁって思って、憧れるようになったんです」
「……」
「怜子さんがやめたって聞いた時、バンドに入りたいって次郎さんにお願いしたんです。それで、実際に間近であったら……スゴく、胸がドキドキして……これが、恋なんだなって初めて思いました」
「……」
じっと耳を傾けていた智華は、ふとなにかに引かれるように窓の外を見る。
「――まさ」
「え?」
雪乃が顔を上げると、智華は大きく眼を開いて窓の外を見ている。その視線の先には、傘を持って駅前をうろつく正法の姿があった。
「まさ!」
勢いよく叫んで立ち上がり、レジに代金を叩きつけるように支払って外に出る。雪乃もそれに続いた。
「まさ!」
「あ……智華と、ユキノちゃん?」
気づいた正法が近づいてくる。
「まさ、なんで……」
「ユキノちゃん、なんでライブ断ったの?」
正法が智華の声を遮って雪乃に尋ねる。
「なんか用事でもあったの?」
「いえ、その……」
「ま、そのおかげで俺がライブに行けたけどね」
「え?」
智華と雪乃が同時に聞き返す。
「ユキノちゃんが来ないからってエンタから電話があってよ。それでさっきまで行ってたんだ」
ニコやかに笑いながら正法はそう言った。
「そのせいで……来なかったの?連絡もしないで?」
「あ、ああ。携帯の電池が切れててさぁ……エンタは携帯持ってないし。いや、本当に悪かった!」
正法は頭を下げる。しかし、事の重さを十分に理解できていなかった。
「でもまあ、智華とはまたいつでも会えるし、クライムは一回きりだし……しょうがないかって思ってさ」
(しょうがないかって……? ……なにそれ。ふざけてる)
「智華?」
(その気になれば、公衆電話とか手段はあったでしょ!? それ以前に、断ってよ)
「おーい、とも……」
(……ヘラヘラするな!)
パシンッ!
音を立て、智華の平手が正法の頬を打った。
「いって……」
キョトンとする正法に向かい、智華は思い切り怒鳴りつけた。
「ふざけんな! バカヤロー!」
「先輩!?」
智華は、店先の狭いひさしから出て、雨に濡れながら走り去る。
(もっと、もっと雨を降らせて! もっと顔を濡らして、あたしの涙をごまかして……!)
念入りに選んだ服も、お気に入りのバッグもびしょ濡れにしながら、智華はあてもなく走り続けた……