弱さと惰性
「ただいま」
誰もいない部屋に帰るという状況にもさすがに慣れた。
長い長い平日をようやく終え、山のような仕事にもひと段落を付けることができた。
椅子にふんぞり返っていただけの上司や、言われたことしかできない部下は、なかよく夜の街に繰り出していった。私は到底そんな気にもなれず、まっすぐに家路についた。
化粧だけ簡単に落としてベットにそのままダイブする。
スーツ脱がなきゃ、シワになっちゃう。
頭の隅でそんな考えがよぎった気がするが、あっという間に意識を手放した。
親元離れて上京したのはなぜかと、時々聞かれる。
一応、外面的には今の仕事がやりたかったと答えるようにはしている。その回答に仲のいい友人は、苦笑を浮かべるだけだったけれど。
後付けで理由なんていくらでもあげられるが、夢を見ることに憧れた、というのが上京の理由なのだと思う。
田舎に分類されてしまう地元では、どうしても変化がなく、ゆるりと時間が流れていく。そんな中でただ老いを待つことに幸せを感じるには、私はまだ若かった。
そうして、都会、という場所に自分の夢そのものをかけることになるのは、ある意味では必然だったのだろう。だからこそ、同じように絶望に似た停滞を体験するのもまた、必然だったのではないかと思う。
忙しいという字は、心を亡くすと書くけれど、全くその通りだと実感させられた。何かを感じる暇などなく、ただ仕事に忙殺される日々が続いた。
上京する前と何も変わっていないということに気が付いたときには、責任というしがらみが私をがんじがらめに縛っていた。
逃れることも抗うこともできない。毎日が地獄のようだ。
翌朝、と言っても日はとうに登り切った時間に目を覚ました。
自業自得だけれど、しっかりとシワになったスーツを見て、げんなりとしてしまう。
軽くシャワーを浴びて、よれよれのTシャツ一枚で持ち帰った仕事に手を付け始める。急ぎではないけれど早く終わらせるに越したことはない。
どうせまたどこかで急ぎの仕事が舞い込んでくるのだ。それが、部下のミスのフォローか、上司のミスのしわ寄せかの違いだけだ。
こんな風にして休日を過ごすものだから、全く休んだ気になれず、一度のまばたきで一日が終わってしまうような感覚がある。
区切りがいいとこまで終わらせると、たいてい西空は焼けただれたような真っ赤に染まっている。そして私はどうしようもないほどに深い哀愁を感じてしまう。
ベランダには2つの植木鉢を置いた。何かしなければと、焦燥感に追いやられているときに買ったものだ。どちらもすでに枯れてしまっていて、まだ一度も花が咲いたことはない。
水をやっても目を出さず、かといって放っておいても枯れてゆく。慣れぬ作業に前進の兆しは一切見えない。
どうにかしなければと思いながらも、ただ水をやったり、肥料をやってはみるものの、効果的な打開策などはなかった。
惰性に満ちたこの生活で時間だけが速度を上げ、刹那のうちに一日が終わることも何度もある。
こんな生活をしているものだから、強烈な無力感にしばしば襲われる。そんな時はただじっと体を抱いて、耳をふさぎ目をつむる。変化を欲し、強くなりたいと思いながら、足を止め惰性に甘んじる。
鎖の強度は最も弱い部分で決まってしまうが、人間だって同じだろう。
それでも私は種を植えるのだ。何度枯らしても種を植える。
強いからでは決してない。失敗のたびに足が止まり、無力の自分を見つめれば、現実につなぎとめていた鎖は優に千切れてしまう。
こうしていつか死にゆくことを想像し、恐れ、動くのだ。
無力な自分も、愚か自分も、ただ恐怖し、動くのだ。
強さを欲しながら、弱さにすがり、変化を欲しながら惰性にすがる。
私はそうして今日も種を植えるのだ。
人を前に動かすものは強さだけではないと思う。
惰性や弱さこそがことを為す大きな原動力ではないだろうか