第三話「キミは友だ。故に守る」
第三話「キミは友だ。故に守る」
柊陽芽には大切な親友がいた。名は白風調。親同士が親友だった為か、物心ついた時にはいつも一緒にいた。陽芽は幼稚園の頃から人一倍人見知りが激しく、同年代の子供と打ち解けることは無かった。加えて、本人自身も物静かな子供だった。
そのせいか、男子にはよく苛められたのである。その時、いつも助けに来たのが調であった。まるで絵本の王子さながらに助けてくれた調。陽芽にとって彼女は本当に大切な友人だった。
その関係は小学校、中学校と進んでも変わることはなかった。
一つ問題があったとすれば、陽芽は調にべったりだった為に他の友人が出来なかったことか。調と共に遊んでいれば、その内に輪が出来ていたが、それは調に引き寄せられたものであって、自分のものではないと陽芽は考えていた。
調もそこまで他の友人と友好関係を深めようともせず、結局、同年代ではいつも二人だけだったと言える。陽芽は自分のあり方は間違っていると感じながらも、反面、それでいいのだと思っていた。
柊陽芽にはもう一人大切な人がいた。それは調の兄の透器だった。彼もまた陽芽が苛められていたら調と共に颯爽と現れ助けてくれた。あと、もう一人変態がいたような気がしたが、所詮、変態は変態でしかなく、どうしようもなく変態なので割愛する。
今も昔も頼れる兄であることは間違いないが、年を重ねるに連れてスボラな面が目に付くようになり、世話を焼かずにはいられなくなってしまった。
調べもそんな兄に甲斐甲斐しく世話を焼いき、陽芽はその光景を何度も見ていた。
二人とも、透器の世話を焼くのが好きだった。
透器が幼馴染の彼女に手酷く振られたとき、調は我が事の様に憤慨し、文句を言いに行こうとしていたほどに兄を好いていた。結局、彼女とは合えず仕舞いだったが。それでよかったと陽芽は思っている。
その後、振られたショックでオタク化してしまった兄を、調は『仕方ないなぁ』と愚痴りながらもやはり気遣っていた。透器と調は本当に仲のよい兄妹だった。
陽芽もまた、そんな二人と一緒にいるのがたまらなく好きだった。
この幼馴染の輪にララが加わり、この楽しき日々が永遠に続くと無邪気に信じていた。
(……忘れもしない。……あの時もちょうど唸るように熱い夏の日だった……)
八月二十九日。陽芽は白風祖父から電話を貰った。内容は、調が飛行機事故で死んだというものだった。そして、葬式が慌しく行われた。
陽芽は消して泣かなかった。何故なら信じなかったからだ。調たちの死体は、結局今も見つからなかった。そして、今も彼女は信じていない、調が死んだということを。
かつて調が兄にそうしたように、家族を支える人物が不在となった白風家で陽芽は出来うる限りの事をした。
初めは遠慮をしていた二人も、次第に流され、結局、家事を任されるようになった。
陽芽は、調たちが帰ってくるまでそうやって、この家族を守ろうと誓った。
だが、現実は冷酷に運命を突きつけた。それは白風祖父の死だった。
どんなに変わらぬ日々を願おうと、時の移ろいを止めることは出来ない。
誰もが知っている当たり前な事。あまり多くの人が感じていないかもしれない事実。
それに陽芽は気付いてしまった。そして、怖くなった。
どんなに美しい絵画も風雨に曝されれば朽ちて消える。
どんなに大切な親友との思いでも、時が経てば鮮明に思い出せない。
どんなに大切な居場所も、いつかは無くなってしまう。
そして陽芽は気付いてしまった。自分の半分のように大切だった親友の笑顔や笑い声が、直ぐに思い出せないという今に。
それからは、消失という恐怖を振り払うように白風家に通い詰めた。
そして今からおよそ四週間前、陽芽は謎の目眩と共に意識を失った。
目覚めてからも高熱が数日間続いた。彼女はこの時、初めて自分が死ぬのではないかと感じた。そして、心の底から死にたくないと願った。
それが通じたのか熱は引いた。それを聞いて透器が見舞いに来た時は嬉しかった。
家で安静にしている間は流石に毎日来てはくれなかったが、その事が帰って会いたいという気持ちに拍車をかけた。その気持ちが遂に抑えきれず、家を抜け出し、白風家に向かった。
そして、最後に会ってから数日しか経っていないというのに、彼を取り巻く状況は一変していた。陽芽が透器の家に入り、見たものは、自分が一度も見たことがないような美しい作り物めいた少女だった。その見た目にそぐわず、クルクルと表情の変わるのが印象的だった。
陽芽は不安だった。彼女がもし自分に出来る事を全て出来るとしたら、自分は必要でなくなるのではないかと。そして、もう一つ自覚した。自分は白風透器を兄ではなく、一人の男性として好きであるという事を。
数多の不安と戸惑いが内に巣食い、結局、療養が終わるまでの間、一度も白風家に行く事はなかった。
そして、あの日。完治したことを伝えにいった時、前に会った時より二人の距離が近づいている事を察した。
恐怖だ。自分の居場所がなくなるという。好きな人が他の人を好きになるという。
その時、水花は陽芽に料理の作り方を教えてくれと言った。陽芽にとってそれは大した問題ではなかった。料理というスキルには誰も寄せ付けない自身があったからだ。
しかし、透器に教えるということは、もう自分が必要ないと言われる可能性を高める事であった。だから拒絶した。
彼女はただ恐れていた。何もかもを失うという事を。ただ、脅えていた。
「本当にヒメちゃんの御飯はおいしいですね。からあげ弁当もおいしかったですけど、やはり家庭の味には適いません。トーキおかわりです」
「お前なぁ、うら若き高校一年生に家庭の味とかいったら失礼じゃねぇか? ほらよ」
「……問題ない。白風家料理長に就任してもう3年。ベテラン……」
現在、白風家は夕餉の真っ只中だった。今日のメニューはトンカツである。
(しっかし、ホント。料理がうめぇよな。このトンカツ、外は衣がサクッって音がし、中は市販の肉かと問い質したくなるぐらいに柔らかい。この噛んだ時のハーモニーが最高の贅沢だぜ)
記憶に残っている母の料理より、陽芽の料理の方がおいしいという事に対して、透器は心の中で誤った。
(天国の母よ、すまん……。あなたの料理より幼馴染にして妹の料理のほうが各段においしいです。カップラーメンとか食ってた時は、全然満たされませんでした。しかし、ミソ汁もウマッ! 辛すぎず、甘すぎず、俺好みのテイスト。流石白風家の家庭の味)
豪放磊落で大雑把だった母が、綺麗な花畑を背に、人差し指を立てている姿が目に浮かび寒気がした。しかし、そんな想像も目の前の美味にかかれば霞んでしまう。
「それにしても、ヒメちゃんの料理の腕には驚かされました。驚愕です。自分でも何とかなると思っていたのが恥ずかしいです。猛反です」
「……そんな事ない。ハルねぇも頑張れば料理が上達する……」
「それはないな。こいつは家事の神様に見放されてるよ。間違いないぜ」
「冷静に考えてみて下さい、トーキ。この世に絶対に出来ないなんて事ないと思うんですよ。つまり、私だってやれば家事の一つや二つぐらい可能です」
やってやれない事はないという自身に満ち溢れた表情で踏ん反り返る水花。
透器はそんな彼女に哀愁が漂う顔で諭した。
「いんや、この世界はお前が家事をすることを拒んでる。これは宇宙の意思だ。大人しくしたがっていろ。俺が家事を覚えるからよ」
「むむむ」
水花は透器の物言いに悔しそうに口をへの字にし、彼女の表情を見て楽しそうに笑う透器。陽芽はそんな二人をぼんやりと見守った。
「……もしも、宇宙の意思があるとすれば、とうにぃはズボラだと告げているから、家事は私にまかせてよ……」
思わぬ伏兵が現れて今度は透器が渋い顔をした。
「だがな陽芽。お前にも自由が必要だと思うんだよ。毎晩俺たちの飯を作り、掃除や洗濯までしてくれる。俺たちは凄く助かるけどよ、それが前の人生を狭めてと思うんだよ」
「そうですね。ヒメちゃんは優秀な学生だってきいてますし、パティシエになる夢もありますもんね……」
「……大丈夫だから。やらせて。私はそうしたいんだよ……」
「でもなぁ……」
「……二人は私を追い出したいの?」
二人は陽芽の発言は勿論だが、彼女の瞳が映し出した強い感情に息を呑んだ。
それは、怒りと悲しみ、孤独をない交ぜにした、強い負の感情。
そんな彼女を水花は優しく抱きしめ、透器は頭を撫でた。
「……馬鹿ですねヒメちゃん。私たちがそんな事思うわけないじゃないですか」
「そうだぞ陽芽。お前は俺の妹なんだからな」
水花から感じる暖かさ、透器の手から感じる安らぎ。
陽芽は強張った表情が解された気がした。
「……ゴメン。今のは卑屈だった……」
「言いたいことがあったらもっと言えよ。我慢するのは絶対によくないからよ。水花なんてしょっちゅう俺に文句をつけてくるぜ。まったく、居候の遠慮はないのかって感じだよ」
「ムッ、ソレを言ったら終わりじゃないですか。トーキは私に出て行けというんですか!
それに、トーキは鈍感すぎるのでハッキリと言わないと通じないんですよ。この前だって、卑猥なゲームをフルボリュームでしますか普通? 隣の私の部屋まで聞こえてたんですからね。 それに、いくらロリ系の葉月ちゃんが可愛いからといって、あんなに興奮することないじゃないですか! マジ引きですッ!」
「おっ、お前! それこそ心の中にしまっておけよ!」
ギャーギャーと言い合いを始める二人。陽芽はここ数日彼らの遣り取りを見てきたが、彼女から見ても、二人の相性はバッチリだった。
それは陽芽が、これでいいのではないかと半ば諦めてしまいたくなるような程に。
「……ホント、2人は仲が良い……」
『冗談言うな(わないでください)!』
「……だから、なお更私がいないといけない……」
「なんでだよ?」
「……とうにぃが、ハルねぇの下着を洗うと称して、あんな事やこんなこ事をしないよう……」
「……トーキィ……」
「おい真に受けるなッ! 三次元で俺が萌えるわけねぇだろうが! つうか、誰がお前如きのBカップ……で……」
透器は焦りのあまり火に油どころかガソリンを注ぐ発言をしてしまった事を後悔した。
因みに水花のサイズはブラを見ての推測である。
「死んでください。お願いします」
「げりょぉぉぉぉぉっすッ!」
「……それじゃ、私、風呂入れてくるね……」
プロのボクサーも避け切れないような怒涛のラッシュで打ちのめされていく透器を尻目に、陽芽は居間を出て行った。後には、虚しい男の悲鳴が木霊していた。合掌。
波乱はあれど穏やかな日常。だが平穏は些細な理由ではかなく崩れ去るものである。それはまるで砂上の楼閣。押し寄せる波は一瞬にして形を奪う。
この時、ささいな接触で彼女たちは気付いてしまった。それが運命であったかのように。
「トーキ、ロー○ンに行きましょう」と水花が急に言い出したので、もう深夜になるというのに二人は夜の町に繰り出した。
透器たちの家があるこの三栄町は鉾島の中でもそう人が多く住んでいる地区ではない。
それでも、日中に町を歩けば多くの住人たちと出会える。しかし、それも深夜ともなれば当然ながら一変する。ほとんどの人は翌日の労働に備えて眠りにつき、町全体が死んだように沈黙している。だが、その誰も居ないという感覚が返って二人に高揚感をもたらしていた。
それは、まるで自分たちがこの夜の町の王になったような感覚。
「夜の散歩も乙なもんだな。学校がある時は夜中に外に繰り出そうなんて思わないからな」
「あれ、そうなんですか? トーキは特殊な探偵業をしていますので、夜闇に隠れて悪を成敗とかしてるのかと思ってました」
「いや……、そんな自分に酔ったような科白は言わないけどよ。じゃなくて、人間ってのは夜中に溌剌となるわけじゃねぇんだし、大抵は寝てるよ」
「成程、夜になると眠くなりますもんね」
(夜中のほうが逆にテンションが上がる人間も実はいるけどな……)
二人は他愛のない話で盛り上がりながら、夜の道を進んでいく。
彼らが誰もいない夜の町でも楽しいと感じたのは、それは隣に誰かがいたからだろう。
人とは基本的に闇を恐れる生き物だからだ。
――ふと、水花は足を止めると、寝静まった路地をただじっと見詰めた。そして「こっちですか」と小さく漏らすと、そちら側へと進み始めた。
「おい、そっちにロー○ンはないぞ」
「すみませんトーキ。本当はロー○ンが目的地じゃないんです」
「はぁ?」
透器は水花の考えが読めず、眉を潜めるだけだった。
しかし、彼女なりの目的があることだけは分っているので口を挟まずについていった。
先程までは何処か楽しいと思っていた夜闇を、透器は急に恐ろしくなった。何か違うモノがある。直感がそう告げているのだ。だが、水花がその先に進んでいる以上、自分が逃げ出すわけにはいかない。
――と、少し前を歩いていた水花が急に足を止めた。
「どうした?」
「トーキは首狩りって知ってますよね?」
「ん? ああ、あの連続殺人鬼か? 確か先日も事件を起こして、今は十九件目か……」
「実は私、あの犯人に心当たりがあるんですよ」
突然の告白。茹だるような真夏の夜だというのに、体の芯まで凍えそうな冷たい風が吹いた。球が切れ掛かっているのか点滅する街灯。少し離れたせいで表情の見えない水花が、どこか恐ろしく感じた。じっとりと汗が噴出し、肌を伝うのが感じる。息苦しい。水花は何を言いたいのだろうか。透器は次に出てくる言葉が良からぬモノだと半ば確信していた。
「多分、犯人は――」
水花がその名前を口に出そうとした時だった。彼女は何かを回避するようにその場を跳ね退くと、透器の横に着地した。今しがた彼女が立っていた場所に、街頭の光を反射して輝くものが突き刺さっていた。それは数本のナイフだった。刃渡りは十㎝程。
「え? おいッ? 何が起きてんだよ?」
「トーキ、街灯の上です」
透器が視線を上げる。そこには冗談のような格好をした人物がいた。
汗も絶えない真夏の夜だというのに、それが着ているのは死神のような丈長のローブだ
った。フードを目深く被り顔は見えない。そして、それこそが冗談みたいだのだが、人の
丈はあるだろう大鎌を携えていた。
「…………はッ? 何アレ」
「巷で噂の殺人鬼、首狩りですよ。おそらくは」
「あれが……」
首狩りは街灯から飛ぶと、まるで体重がないかのような無音で、5mは下にあるだろう
地面に降立った。首狩りが醸す空気。それは水花と悪霊を退治した時、否、それ以上に濃
い、異界の空気だった。
「トーキこれを」
短い言葉と共に差し出されたのはあの大太刀、黄泉切であった。
「おい、水花。こいつと遣り合おうってのか?」
今は、それを何処から出したのかを問いただす場面ではなかった。透器は、口では疑問
を呈していながらも刀を抜いて臨戦態勢に入っていた。何故ならば首狩りから殺気を向け
られているのをひしひしと感じているからだ。水花はその刃で手首を切ると、血を刀身に
吸わせた。
「……私たちが今、アレを止めないと、きっと後悔しますよ」
「了解」
透器はアレの正体が誰なのかという問いをぐっと嚥下した。態々言わないということは、
その名前を聞くと動揺を隠し切れなくなると判断されたからだという事を理解したからだ。
「今ならまだ止められます」
「よく分んねぇが、やりゃいいんだろッ!」
水花が水弾を放つと同時に、透器も駆け出した。
水弾が首狩りにあたると同時に飛沫が散らばる。しかし、奴はものともせずにその場に
踏み留まる。透器は未だに棒立ちのままの首狩り目掛け、太刀を横に薙いだ。
しかし、それを大鎌の柄で受け止めると、奴は化け物じみた膂力で透器をブッロク塀に跳
ね飛ばした。踏ん張る間も無く吹き飛ばされる透器。背面を強打し、一瞬意識が遠くなる。
しかし、首狩りはそんな彼を無視し、一直線に水花目掛けて駆ける。
近付かせまいと、水弾を連射して弾幕を張るも、その悉くが回避され、コンクリに穴を
穿つ結果に終わった。そして、首狩りが間合いに収めた。
一瞬にしてあの大得物を横薙ぎに振り抜いた首狩り、それを真上に跳躍して回避した水花。
「水花、お前、確かに人間じゃないわ」
透器がそうぼやかずにいられないのも無理は無い。彼女が飛び上がった高さは二階建ての家を優に越し、大輪の月を背に空中を舞っているようだった。
未だ空中にその身がある水花が、両手を首狩りの方に突き出した。
そこから、水柱が生み出され、真下にいる首狩り目掛けて突き進む。
未だかつてない盛大な飛沫が破裂し、アスファルトを抉り飛ばす。首狩りも流石に堪えたのか、注がれる滝の如き水流から飛び退き脱出した。
透器はその隙を見逃していなかった。首狩りは空中という絶対不可避の場所にいる以上、ただ払われた刃を受けるだけ。透器はそう思っていた。
しかし、首狩りはまるで棒高跳びの選手のように、空中で体を反らせ、振り抜かれる刃をかわし、着地、と同時に後方へ跳躍した。
結局、三人の立ち位置は戦闘が始った時のものに戻ってしまった。
「おいおい、あんな化け物、流石に見たことないぜ」
「正直、予想以上の強さですね。本体は堅く、運動能力も高い。困りものです」
「だが、止めなきゃいけないんだろ?」
「はい」
こちらを伺うように立ち尽くす首狩り。
「白風透器。貴様の隣にいる異神を渡せ。さすれば、貴様に害を与えない」
不意に紡がれたのは、聞き覚えのない若い男性の声。それが首狩りの発したものであると気付くのに僅かな時間を有した。
「なッ? お前、喋れるのかよ。っていうか、イシンってなんだよ?」
内容から、水花の事だと察しはついていたが、何か情報を引き出せないかと訊ねてみた。
「異神とは異なる世界より来たりし神のことである。固有名では天野水花だ」
「何で水花を欲しがる?」
その問いにはムッツリと黙ったままである。これ以上は無理かと判断した透器は手にした太刀を握る力を調整し、奴の動きを警戒した。
「おい、水花。正直俺たちの力じゃ、どうこうできないんじゃないか?」
「トーキ、繰り返しますが、今止めないときっと後悔します」
「……後で説明しろよ。で、作戦は?」
「先ほどと同様で、トーキが近接。私が遠距離です。いくら身体能力が高くても二人ならば隙を作れるはずです」
「了解。ってわけだ。交渉決裂だな」
首狩りはやはり沈黙を貫いている。しかし、先程よりも殺気が濃くなった。一筋縄ではいかない相手である事を、透器はひしひしと感じ、内心で嘆息した。
「だからなんだよッ!」
透器は首狩りに向かって駆け出し、間合いに入ると同時に袈裟斬り。
しかし、その一刀はやはり柄で受け止められる。先ほどの再現をするつもりは毛頭にな
い。透器は、受け止められた瞬間に透かさず後ろに引いて間合いを取ると、即座に前に出
て刀を振るい、その一連の動作を相手に隙を与えず繰り返す。
ただ怒涛の如くに攻め立てる。透器にはそれしかできない。なぜならば、本来、懐に入られると弱い大鎌の弱点を、奴の馬鹿力が補っているからだ。鍔迫り合いをすれば先ほどの焼きまわしになる事は火を見るより明らかである。
ならば、攻撃の隙を与えずに責め続けるしかない。だが、それにも限界がある。透器の得物もまた、適正な距離を保って戦わなければならない長物。そんな物を敵に隙を与えずに振るい続けるという事は、凄まじい速度でスタミナが削れて良くという事だ。
「グッ!」
ついに体が着いていかず、体勢が僅かに崩れた。
その時を待っていたかのように。首狩りは透器目掛けて体当たりをかまそうとする。
迫り来る漆黒の塊。透器の回避は間に合いそうにない速度。片腕一本の力がアレである以上、全身のバネを使った体当たりは正に大砲だろう。透器は少しでも衝撃を和らげようと、受身に集中し、直撃の瞬間に備える。
だが、吹き飛んだのは首狩りの方であった。間一髪のところで、水花の放った水の矢が突き刺ささり、迫り来る大砲の砲弾を撃ち飛ばしたのだ。
水花は透器が攻め立てている間、水の矢を番え、隙ができる一瞬を待っていた。
そして、首狩りの注意が透器に注がれた瞬間を狙って放ったのだ。それは、今まで敵に放ったどの攻撃よりも力を込めたもの。
現に首狩りは肩には穴が穿たれ、そこより鮮血が流れ落ちている。
水花は水の矢を再び番えると語りかけた。
「どうですか? 流石に効いたでしょう? もしその傷を塞ごうとすれば次は足を狙います。降参してもらえませんか? 必ず助けますので。私を信じて貰えませんか」
パチン。まるで指を弾いたような音が響いた瞬間だった。突如、閃光が閃き、刹那の間二人の視覚を奪った。それは首狩りの放った眼晦まし。
奴はその一瞬の隙を突いて民家へと逃げ込んだ。
「やってくれますね」
「あの家に入ったな」
二人は逃がすまいとその家に飛び込んだ。その二人が始めに気づいたのは匂いだった。
錆びた鉄の匂い。人の命の匂い。そして今や死の匂い。
電気をつけようとしたがスイッチが反応せず、明かりの消えた屋内で、二人は敵の気配を探った。空気すら凍り付いたような錯覚を起こす建物の中。二人は感覚を研ぎ澄ました。
そして、入ったのは広いリビング。どうやら家族が集まってテレビを見ていたようだ。
構成は若い男女に、幼い姉弟。幼子はそれぞれの両親の膝を枕にして眠っていた。
しかし、その寝顔までは見えなかった。何故なら、皆首から上がなかったのだ。
二人は、その余りにおぞましい惨状に怒りよりもむしろ、恐怖した。
どれ程の意思があれば、これ程の行いを出来るのか透器たちは理解できなかった。
ふと、透器は水花が息を呑んだことに気がついた。そう、斬るだけならそこから上もその場に存在している。水花の足が触れたモノは、目を見開いたままの幼女の顔だった。
「あいつ、何でこんな事ができるんだよッ!」
透器は遂に押えきれずに、怒りを叫びに変えた。奴は何の権利があってこの家族の幸福を奪い去ったのか。透器はそう問いただしたかった。
「理由はおそらくあります。ですが、あくまで推測です」
最早逃げられたと判断したのだろう。水花もまた口を開いた。
「……理由? こんなクソみたいな事をするのにも理由があるのかよッ! そういやお前、犯人を知ってるみたいだったな。……教えろよ」
「それはまだできません」
「何でだよッ! 言えよッ!」
怒りに我を忘れ、透器は水花に掴みかかっていた。
それでも猶、水花の瞳は真っ直ぐに透器を貫いたまま逸らさない。
「私一人の力では奴に勝てないからです。トーキに奴の正体を教えれば、あなたは必ず本気で戦えなくなるでしょう」
「……俺の知ってる奴なのか?」
「どうでしょう」
透器は確信していた。水花があそこまで言った以上、間違いなく自分の知人である。それも、傷つけるのを躊躇ってしまうような相手。このような凶行を行った者が自分の大切な人間だとは考えたくはなかった。もし仮にそうだとしても、透器は覚悟を持って戦えるかと問われれば答えに窮する事を自覚していた。
「分ったよ。もう聞かない。でもよ、そこまで言ったら俺の知人だって言ったようなもんだろ?」
「さて、そうじゃないかも知れませんよ。トーキは優しいので、可愛い女の子だったら、間違いなく手心を加えますね」
「俺だって一応はプロだぞ」
二人して空元気を装っては見たが、余りにも場違いなため虚しく響いた。
「こんなムナクソ悪いところ出ようぜ」
「そうですね。しかし、逃がしたのは痛かった。トーキ考えがあります。家に帰ったら聞いてください」
「おう」そして二人が今しがた入ってきた玄関から、この今生の地獄から出ようとした時だった。水花が弾かれたように振り返ると同時に水の壁を張って何かを防いだ。その水壁に阻まれたのは雷光。紫電が二人目掛けて迫って来たのである。
「まだいたのかよッ!」
「……いえ。違います」
暗闇の向こうに誰かがいる。しかし、それは首狩りではない何か。そして、首狩り以上に危険な何か。透器はその強い視線に冷や汗が流れた。激しい感情を叩きつけられているからだ。
「やっぱりキミだったのか……」
揺らめく闇の向こうから現れたのは一人の修道女、透器の親友ララ・ロウナイトだった。
「……………………ハァ? なんでお前がいるんだよ」
透器の動揺は傍目からも見て取れた。水花はそんな透器を守るように前に出た。
「残念だよミィ。キミとは仲良くなれると思ったんだがな」
「私の話を聞いていただければ、今からでも十分ですよ」
「この状況で信じられると思うか?」
水花はその問いに押し黙った。彼女の顔には諦観を彩った苦笑が張り付いていた。
「おいっ! 何言ってんだよッ! こいつが何したってんだよッ!」
「ワタシが何を考えてるかわからないのか? この状況で」
「……疑ってんのかよ? そもそもお前に何ができんだよ?」
「トーキは聞いていないのか? 異神の話を」
「……神様が違う世界にいるって話か?」
「なら、この地球に張られた結界の話は?」
透器は水花に初め会った時に聞いた話を何とか思い出した。それは結界を張られて自由に行き来が出来なくなったというもの。透器はその話の違和感に漸く気が付いた。
「聞いてる」
「なら不思議に思わなかったか? 誰が何のために張ったのか?」
「それは……」
水花は神と人はかつて(・・・)は深い関わりがあったといっていた。つまり今はそうではないという事。人は神との決別を行ったのだ。それは何故なのか? 誰が行ったのか? 透器は何一つ知らない。この瞬間まで考えようともしなかったのだ。
「トーキ、ワタシはな、ただのシスターではないのだ。キミも見たことがあるのではないか? 幽霊だとか悪魔だとか化け物だとかを。ワタシはそういったヨドミを滅する仕事をしている。また、封じられし彼方の異界より迷い込みし神を捕縛する事も職務の内なのだ。抵抗する場合はやはり滅する。分ってくれとは言わない」
――滅する。その言葉が透器の頭に重たく木霊した。
「ちょっと待てよ。こいつは何も……とは言ねぇが、そんな大逸れたことはしてねぇ。俺が保障する。お前だって知ってるだろ?」
「トーキ、無駄ですよ。どうやら私たちは墓穴を掘ってしまったようです」
「何言ってんだよ。あいつは俺の親友なんだぞ。話せば分かり合えるはずだ」
「ミィ。いや、異神よ。自分の置かれている状況が分っているではないか」
「おい、お前ら何言ってんだよ?」
既に状況を飲み込んでいる二人とは違い、透器は訳が分らず混乱の極みにあった。
(こいつら、何でもうこんなに殺伐としてんだよッ!)
そんな透器の様子を見かねてか、溜息を吐くと、ララは説明という名の宣告を始めた。
「トーキ。キミの置かれている現状を確認してみろ」
「……現状だと」
それは透器自身が先ほど無自覚に言った言葉通りだった。死体の散乱する家に、排除すべき神がいる。そう、状況証拠がこれ以上ない程にそろっているのだ。
「だとしてもだ、俺たちは親友だろ。何で言葉を信じられないんだよッ!」
「では聞くが、なぜ神を、結界を張ってまで侵入することを拒んでいると思う?」
直接的ではない問いだと感じながらも透器は頭を悩ませて答えをひねり出した。
「神様っていうぐらいだからすげぇ力をもっていて、それが怖かったからか?」
「その通りだ、神とはただの人間が束になっても適わないほどに強大な存在だ。全てが全てとは言わないが、神とは横暴で気まぐれなものだ。神の思いつきで我らの命が弄ばれる。そんな事が許されると思うか? それを決して許せなかった力ある者たちが命を賭け結界を張ったのだ」
「それと俺たちの話を聞けないのとどう関係があるんだよ?」
ララは呆れたように鼻をならした。
「まだ分らないのか? 神だろうと人間だろうと嘘を確実に見ぬくことはできない。だからワタシはその異神の言葉を信じることはできない。そして、神とは強大な力を持っている、それはただの人間が抵抗できるようなモノではない。その心すら支配できる。つまりだ、キミ自身が気付かぬうちに洗脳されているという可能性を捨てきれない。だからワタシはキミの言葉すら信用できない」
「なッ!」
そう、この状況になった時点で、既にララは透器たちの話に耳を傾ける気など存在していなかったのだ。偏にそれは神の力が強大すぎるが故に。
「受け入れられないのなら何遍だって言ってやろう。ワタシは上から首狩り犯人を殲滅するように指令を受けた。狡猾な奴で、尻尾をまったく見せなかった。そして今、その現場に乗り込んでみれば、時期をおよそ同じくして現れた、怪しい奴がいるではないか。どうだ? まだ、正常に考えられる思考があるのなら納得できるだろう?」
「お前はいつから、水花を疑ってたんだよ?」
「首狩りとしてなら今だ。だが、違和感を感じて警戒していたのは初めからだ」
「初めからかよ……」
透器は水花が来てからのニ週間を思い返した。確かに長いとは決して言えないだろう。
しかし、水花とララはいつも楽しそうに会話をしていた。
透器は思っていた。こいつらならずっと仲良く遣って行けるのではないかと。
だが、それはララの本位ではなかったようだ。それを知り、寂しくなった。
「ワタシの目標はあくまでその異神だけだ。行動の自由があるとは思えないが、手出しをしなければキミを決して傷つけない」
透器は強い意志の込められた言葉を聞き、ララを見据えた。彼女の言葉に、視線に、ある確固たる意思が込められていた。
「キミは友だ。故に守る」
そう、この殺戮を繰り返した憎むべき異神から透器を助けるという意思。彼女の頑迷さこそが美徳であり、同時に如何ともし難い点であった。
しかし、それも無理からぬ事だろう。彼女はプロとして知っているのだ。神をはじめとして異なるモノのその強大さ、恐ろしさ、狡猾さ、そしてなにより、人の儚さを。
「透器、残念ですがもう言葉では解決できません」
「……分ったよ。だが、どうすんだ?」
「フム。異神よ。結局はワタシと戦うという選択肢を選ぶのか?」
「ええ。友人とは喧嘩をして仲良くなるのが通例だそうですから」
「この惨状を生み出しておいてその口の軽さ。やはりマトモな異神はそう多くないようだ」
ララは手に握っていたロザリオを額に当てた。するとソレから光が溢れ、何の変哲もないロザリオが一瞬にして十字を象った長剣へと変化したのだ。
「我が敵に慈悲を、我が行いに祝福を、主よ見守りたまえ。AMEN」
その祈りを終えた瞬間、まるでチャンネルが切り変わったように剥き出しの感情が消え失せ、ただ平坦な殺気が二人に圧力を掛ける。
「では、その恐ろしき神様の力を受けて下さいッ! なんちゃって」
「なにッ!」
水花が腕を地面目掛けて振り下ろすと、突如地面から水蒸気が噴出し、真っ白い霧が家屋に立ちこめ視界を奪った。そして、水花は透器の腕を引き、室内を駆け抜け、裏口から出ると、狭い裏路地をひたすら逃げた。
「結局逃げるのかよッ!」
「当然です。今の私たちでは傷つけずに無力化なんてとてもじゃないけど無理です。むしろ勝てるかどうかも怪しいです」
「逃げ切れると思うのか?」
「逃げ切れなければそこまでです。それにしても変ですね」
それは透器も感じていた。幾ら深夜だからといって静か過ぎるのだ。そもそも透器たちが首狩りと遣り合っていた時点で相当な物音を立てたのに、誰一人気づかないというのはあからさまに変である。とは言え、今はその異変に頭を悩まさしている状況ではない。二人はひたすらに走った。そしてどれ位走っただろうか、彼らの逃亡劇は思い掛けない幕切れとなった。
「きゃんッ!」先行して走っていた水花が何とも可愛らしい悲鳴を上げ、尻餅をついた。
「どうしたんだよ? 何も無いところで転ぶか、普通?」
「トーキ。そこに何か壁のようなものがあります」
「はぁ、壁?」
水花が指差した位置を、透器は手で押してみた。すると何もないはずの空間からゴムの様な手触りが返ってきたのだ。
「なんじゃこりゃ?」
「おそらくは結界です」
「結界って何だよ?」
「それは第二種並存空間結界。術発動地点から一定距離の空間を模倣し、対象をその球状の人造空間に閉じ込めるのだ」
何時の間に追いついたのか。外に出られず慌てていた二人の後方にララが立っていた。
「お早いお着きで……」
「今のお前たちではこの結果を突破することはできん。方法は三つ。術の媒体となっている霊具のエネルギーが切れるか、その霊具を見つけ出し破壊するか、術発動者と霊具の縁を断ち切るかだ」
「態々教えてくれんですね」
「その方が本性を剥き出しにして襲ってきやすくなるだろう?」
ララは表情を変化させず淡々と会話を行う。彼女は神と戦う上で心を乱すことが何よりも危険だと知っているのだ。取り分け、敵が旧知の仲ならなお更だ。
最早、言葉だけではどうにも出来ない所に来てしまった、透器はそれを自覚し決意した。
「はぁぁ……。聞け、ララッ! 俺はな、絶対に水花を諦めねぇ、例えどんな奴でもこの手で守る。いいかッ! こいつは家族だッ! 俺の家族だッ! だから、簡単には譲らねぇ! それと、こいつはお前の友達でもある。お前を殴ってでも、仲直りさせるからなッ!」
「トーキ……」
雄々しく自分の意思を吼える透器、その姿に水花はつらそうな笑みを浮かべた。
そして、彼女もまた一つの決断を下した。今の彼女はそれ(・・)を成功させる自身と、それを導く確証を得たからだ。
「トーキ額を向けてください」
「こうか?」
「貴様ッ!」
ララは水花の行動の意味に気付き、止めるために駆け出した。しかし、彼女のその行動は、アスファルトの下で埋まっている水道管が破裂し、水柱が吹き上がったことで阻害された。
「我、天野水花の名の下に汝と契り結ばんッ!」
それだけの言葉だというのに、透器は額に添えられた水花の指から強大で凶暴なナニカが流れこんでくるのを魂で感じた。それは透器の内でのた打ち回り、彼の体を破壊せんとする勢いで駆け抜けた。まるで体内で荒れ狂う嵐。純粋にして猛々しい力の奔流。
「ヌォォォォォォォォォォッ!」
透器の口から獣ような雄叫びが放たれた瞬間。透器の体を薄ぼんやりとした何かが纏った。
「なんじゃこりゃッ!」
「透器の魂を開放しました。それにより霊力の活用が可能です。加えて、私の神格を授け、私の力が流れ込むようにしました。つまり、今のトーキはただの人間の領域を突破しました」
「……そういう事が出来るなら首狩りのときにしとけよな」
「……今回のこれは賭けでしたので」
「……反省しろ」
「猛反です」
軽い口調とは裏腹に彼女の表情は苦悩に彩られていた。そんな顔を見せられては何もいえない。命の危機が有った事を透器は深く追求せずに、今一番の問題と相対する。
「初心者にしては中々の霊力だな。キミが異神から解放されたら、ワタシたちの組織にスカウトしてやろう」
「なぁ、ララ。何で俺たちを信じられないんだよ? お前の目には今の俺たちがそんなに危険なモンに見えるのかよ?」
「この後にもおよんで未だに説得をするか。ならばハッキリと言ってやろう。異神は信用に値する存在ではない。奴らは人を同列に見なすような心優しきモノではないからな」
「トーキ、残念ながら無理ですよ。ここまできたら後は行動で潔白を証明するしかありません」
「仕方ないか。ララ、勝ったら話を聞いてくれよ」
「トーキ、意味はないと思うが……死んでくれるなよ」
そして相対する二人は駆け出した。それぞれの信じる正義の為に。守りたい誰かの為に。
(体が軽い)
まるで自分の体が羽になったような軽やかな感覚。流れ行く景色の速度から、生身でありながら時速六十キロは出ているだろう。透器は今の自分の人外ぶりに思わず苦笑した。
そして、接敵。ララが横に薙いだのに対して透器は縦に下ろし、金属のぶつかり合う、けたたましい音が上がった。その瞬間だった。透器が手にした太刀が一際眩く光り、熱を感じた。
「トーキ、力ある者は道具に力を通して強度を上げます。トーキはまだ初心者なので私がトーキの力の流れを操って調整します」
「それはありがてぇ!」
正直なところ、透器には今の自分の体がどうなっているのか摘めていなかった。言うなれば搭載されたエンジンの馬力や機体自体の機能が増えたのに、慣らし運転すら出来ていないのだ。
故に、透器が今できることは、臆することなくララとガチ合うことだけだった。
「前からタダもんじゃなねぇとは思ってたがやるじゃねぇか」
「それはコチラの科白だ」
響きあう鋼の二重奏。互いの体術を極限まで生かしたせめぎ合い。気を抜けばその刹那に人生が終わるというのに、二人はえも言えぬ高揚感と満足感を感じていた。
透器が刃を振り下ろせば、ララがそれを受け止め流す、と同時に透器を蹴り飛ばす。
透器が両足で踏ん張り、地面から身体が流れるのを押し留めると、その隙を逃さずに追撃してきたララの刃を受け止める。小気味のいい金属音を奏で、せめぎ合う二振りの刃。
透器は渾身の力を込めると太刀を振り上げ、互いの鍔迫り合いを跳ね上げると、空いたララの体を体当たりで突き飛ばす、と同時に駆け出した。
狙うは、彼女の体勢が整う前に刃を押し付けての無力化。
しかし、ララの方が一枚上手。彼女は懐から紙片を取り出すと透器目掛けて投げつけた。
「炎あれ」
そして爆発。爆圧で吹き飛ばされる透器。水花が咄嗟に水壁を張らねば重症だっただろう。透器の頬に嫌な汗が伝った。
「おいおい、殺すつもりかよ……」
「死にたくなければ異神を差し出すことだな」
「それは無理なお願いだ、よッ!」
ララが突進と共に突き出した刃を、半身を引いて避ける。
だが、それが決定的な過ちだと気付いた時にはすでに手遅れだった。
今までは透器が水花を守るようにして戦っていたが、迂闊にもそれを突破させてしまったのだ。命の遣り取りで高揚していたとはいえ、ララのこの戦いでの勝利条件を忘れてしまうとは、透器は悔しさの余り歯軋りをした。
しかし、そんな行動に意味はない。透器を突破したララは水花に向かって一直線に突き進んだ。そんな彼女に対して水花は、水弾を放って牽制するも、彼女の前に展開された光る十字を象った障壁がその全てを防ぎきった。
そして、ララが間合いに捉えた。水花に向かって振り下ろされる刃。透器は今まさに両断されんとする水花を前にして無力だった。
「水花ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!」
水花の体を両断していく刃、見るに耐えない惨劇。それを透器は目を見開いて焼き付けた。己の無力さを。己の過ちを。
だが、ある事に気がついたのはまずはララだった。手ごたえがおかしいのだ。まるでゼリーでも斬っている様に手応えを感じないのだ。そして、刃が股までを立ち斬った時、水花であったモノは貯水槽が破裂したような壮大な飛沫を伴って弾けとんだ。
「グヌッ!」
ララは霊力を防御に集中させてその衝撃を耐えたが、完全には防ぎきれなかった上に、受身も取れず、アスファルトをボールのように転がるハメになった。
そして、ララが起き上がるよりも早く、彼女の囲むようにして、地面を突き破って九つの水柱が立ち上がり、それはまるで龍のようにララを見据えると、彼女目掛けて突っ込んだ。発破をかけたような爆発音が轟き、霧雨がララを覆い隠す。次第にそれが晴れると、シスター服がボロ雑巾のようになったララが十字剣を杖にして立っていた。
彼女の全身に裂傷が走り、血が滴る。やがて、彼女は咳き込むとその場に膝を突いた。
「私の現最大術が直撃してもその程度だなんて驚きです」
そう言ったのは、今しがた両断されたと思われた水花だった。彼女は直ぐ後ろの電柱の影に潜んでいたのだ。
「トーキとの戦いで私に対する注意が疎かになってましたよ。あとは水で分身を作り、術で身を隠して電柱の裏に潜み、力を錬って時を待ったのです」
水花は自慢げに自分の手品の種を明かした。
「おいコラッ! まじで死んだかと思ったんだぞッ! テレパシーとかないのかよ」
『ありますけど、敵を騙すにはまず味方からと言いますし』
あっけらかんとした水花に透器は激しく脱力した。透器は最早立ち上がることすら出来ないララに目を向けた。
「どうだ、これでいいだろ? 俺たちはお前を殺す絶好の機会を得たのに、それをしていない。理由は言わなくても分るよな? これが生き残り零の鏖殺魔ならどうなるかって
こともよ」
「……そうか……本当に良かった……」
ララはそれだけを呟くと、アスファルトの上に仰向けに倒れた。そんな彼女に水花は近
付くと、手を添えた。水花の手が蒼い輝きを放つと、ララの傷が瞬く間に癒えていく。
その様を透器は息を呑んで見守った。
「ミィ、何故私の傷を癒す。ワタシはお前を殺そうとしたのだぞ。それにキミの――」
弱々しい言葉は、水花がララの唇に指で添えたことで遮った。
「言ったはずです。友人とは喧嘩をして絆が深まると。少々荒々しい喧嘩にはなりました
けど、皆さん生きてます。それでいいじゃないですか。それに、怪我した友達を助けるの
は当然のことです」
「……まったく。キミには敵わんな。……疑い、殺そうとしてすまなかった」
「いえ、許しません。ですから罰として私たちはずっと友達です。いいですね」
「……まったく。敵わん」
動ける程度に回復したララは水花の回復術を手で制すと、抱きしめた。
「もういい。私はこれで十分だ。それよりもだ。先ほどまで殺し合いをしていたワタシが言うのもなんだが、自分を大切にしろ」
「いえ、でも、まだ完治してません」
「動ければいいさ」
ララは立ち上がり、歩き出した。その足取りは既にしっかりとしていた。
「おい、どこ行くんだよ?」
「まったく本当にトーキは鳥頭だな。いつまでも結界の中にいたいのか? これの連続展
開時間は五時間だぞ」
「へいへい。察しが悪くてワルぅござんした」
透器は今自分たちの居る場所が通常の世界とは違うことを失念していた。この結果とい
うものはそれほど精緻に世界を模倣していた。
「遠距離で解除できないのか?」
「遠隔操作だと操作権を奪われる可能性があるからな」
「そうか。なら、この結果って外から干渉できないのか?」
「そうだな。余程の霊術師でない限りは――」
――ドンッ!
ララが言い終わるよりも早く、その世界に異変が起きた。
世界を区切っていた不可視の壁の一部が、突如、紅の炎を伴って爆ぜたのだ。
「余程の霊術使がなんだって?」
「馬鹿な……奴は……」
「ララ・ロウナイト。失態だな。首狩りに遅れを取るどころか寝返るとは」
まるで纏っているかのように炎の中より現れたのは三十歳後半に見える男性。
巌のように厳しい表情をした大男。その肉体も鍛え上げられ、ギリシャ彫刻のように精
悍でその筋肉は彼が身にまとっている漆黒のスーツの上からでも認識できるほどだ。
初対面だが、透器は彼の眼を嫌悪した。何の感情も意志も浮かんでいない、死人のよう
な眼。透器は、家族を全て失った後の自分の物に似ているそれが嫌で堪らなかった。
「ジャック・トーレス……貴様が何故ここにいる」
ジャックに向けるララの視線には、想定外の出来事に対する戸惑いとその男がもたらす
であろう未来に対する恐怖、これらの感情が入り混じったいた。
「八大龍穴の守護者にして、偶像派の最終兵器たる貴公ではあるが、所詮は第二階梯・第
一級どまりに過ぎん。魔術派の連中が円卓に掛け合って我を送り込んだのだ」
「ワタシの話を聞け。この異神は首狩りではない。ワタシが保障しよう。無抵抗の異神は
捕縛対象ではあっても、処分対象ではないはずだ」
「……その戒律は所詮貴様らのルールに過ぎない。騎士団の唯一にして、絶対の法は人間
に仇名す存在を速やかに排除すること」
「この……神殺しが」
「我に対してその雑言は褒め言葉だな」
「ミスター・ジャック、忠告しておくが霊装は使うなよ。この結界は頑丈ではないからな」
「ふむ、一目見ただけでその異神がそれに値しないことなど分るぞ」
「なら、結構だ」
二人の遣り取りに悪い予感しかしない透器は、苦虫を噛み潰したような顔をしているラ
ラに訊ねた。これから何が始るのか。しかし、彼とて大方の予想は付いていた。
「おい、どういう事だよ? まさかあのオッサンとも戦いになるのか?」
「残念ながらその通りだ。ワタシもそうだったが、奴に至っては決して話し合いは出来な
い。何故なら奴は神を憎んでいるからな」
「まったく、神様というだけで殺そうとするなんて野蛮ですね」
「自己弁護しておくが、ワタシは別にキミが異神だったから殺そうとした訳ではないぞ」
緊迫した事態であっても、平常どおりの遣り取りを行う二人に、透器は力が抜けた。
だが、それがプラスだという事も理解している。
「そんな事よりもアレどうするんだ?」
「残念ながら戦うより他にあるまい。そして隙を見て逃げるぞ」
「またかよ……。っていうか結界を解いたらどうだ? あいつも無茶できなくなるだろ?」
「残念ながらそんなに緩い奴ではないのだ」
透器は既に引き返せないところまで来てしまった事を理解し刀を強く握った。
「で、作戦は?」
「奴を引き付けてくれ。ワタシも切り札を使う。それが発動すればひとまず戦いは終了だ」
「了解」
透器は大太刀を構え。水花も霊力を高めた。応じるようにジャックも殺気を迸らせる。
「ララ・ロウナイトではなく貴様らが相手とはな。舐められたものだ」
「あら、やってみないと分からないですよ?」
「ふっ、残念だな。異神とはいえ、これほどの美しき者を焼き殺すことになるとは」
「なら、やめませんか?」
「我が名は、ジャック・トーレス。騎士団第一階梯・第三級、無道、赫炎の魔人。参る」
水花の問いを無視して名乗りを上げたジャックが、腕を一薙ぎする。すると右手から炎
が爆ぜ、それは彼の身長ほどもあるバスターソードになった。その重量を知らしめるよう
に、地面にそれを突き刺した。瞬間、その大剣は炎を纏い、触れた物を飴細工のように紅
く溶かした。
「トーキ、黄泉切を水の加護で強化しました。熱には耐性があります。ドーンと行っちゃ
ってください」
「お前、マジ軽いなッ!」
透器は叫ぶと同時に走り出した。敵は二mもあおろうかという大男、その上、ララが逃
げを前提にして語っていたという事は、遣り合っても勝てない程の強敵。
(だけど、コイツを倒さねぇと、どうやら俺たちのそこそこ平和な日常は還ってこないみ
たいだからな。一丁気合をいれますかッ!)
透器がジャックを間合いに収めるよりも早く、水花からの援護射撃である2本の水柱が
彼を飲み込んだ。しかし、その水柱はまるで熱した油に注ぎ込んだ時のように爆ぜた。
「マジかよッ!」
それでも透器は臆することなくジャックに斬りかかった。
だが、単純に馬力が違いすぎた。透器の一振りはジャックを押しのけるどころか、逆に
彼の一振りで透器が吹き飛ばされたのだ。
地面を二転して、即座に体勢を正す透器。直後、彼の目の前が真紅に爆ぜた。
咄嗟に張った水花の水壁を打ち崩し、透器自身の防御も打ち崩し、その衝撃は彼を打ち
抜いた。骨の軋む嫌な音、内臓が押し潰されるおぞましい圧迫感、突き抜けた衝撃そのま
まに宙を舞い、地面に打ち付けられる。
「ゴホッ! マジ痛てぇ……」
透器は顔を上げると、ジャックが掌をこちらに向けているのが見えた。
(何かくるな)
その瞬間、透器は横から水花に押し倒される形で助けられ、背後では劈くような炸裂音
が轟いた。負傷した透器よりも早く立ち上がった水花は、その動作と同時に腕を振り、水
弾を放った。するとジャックの放った小さな火花と衝突し、爆ぜた。轟く爆音。吹き抜け
る爆圧。
「それ、地味な見た目の割に驚く威力ですね」
「とはいえ、欠点を早くも見抜かれたようだがな」
そう、その術は接触する事によって爆発する。ならば、直撃する前に何を当てればいい。
「異神にしては細かいところに気付くではないか」
「お褒めに預かり光栄です」
「フム、だからなんだとは思うがな」
ジャックが大剣を一振りすると、それより放たれた炎がまるで突風のように吹き荒び、
二人を飲み込んだ。轟々と叫ぶ炎風。水花は水のドームを張ってそれを防ぐ算段。
ジリジリと蒸発していく水球。しかし、それが蒸発しきるよりも早く、炎の嵐が止んだ。
だが、それを待っていたのは水花だけではない。それが止んだ時、二人の眼前には大剣
を振り下ろすジャックの姿があった。
「消し飛べ」
二人はそれぞれ左右に跳んでそれを避けた。しかし、その大剣が地面の触れた瞬間、そ
こより爆炎が爆ぜ、二人はその衝撃でブロック塀に撃ち付けられた。
ジャックが狙うのは水花。彼はアスファルトに突き刺さった状態から、そのまま水花目
掛けて大剣を横薙ぎに払う。紅いマジックで引いたように、その大剣が薙いだ痕が赤熱し
ている。水花はその一振りをアスファルトに転がって避けていた。そして、ジャックが空
ぶった隙にその胴体目掛けて水弾を発射。直撃を受けたジャック。しかし、彼は僅かに後
退しただけで、防御によって耐え切った。
だが、それでも僅かの隙が生まれる。透器はその一瞬を見逃さずに、刃を振るった。
肉を斬った手ごたえ。しかし、透器の表情は楽観的ではなかった。たしかにジャックに
傷を負わせたが、致命傷ではなかったのだ。ジャックは二人と距離を取ると大剣を正眼に
構え、静観する。
「まったく、彼は金属生命体なんでしょうか? すッごく堅いです」
「ああ、今の斬撃。ララだったら胴体と下半身がさよならだったぞ」
「おい、不吉な話をするな」
「それより、切り札はまだなのかよッ!」
「悪いがまだだ。集中力が必要だからな」
ララはこの戦闘が始った直後からその場に跪き、何かを呟いている。おそらくはこの状況を打破する大技の準備だろう。となれば、透器が解せないのはジャックの行動である。
彼は明らかに何かを仕掛けているララを平然と無視しているのだ。
(何がきても余裕ってわけかよ)
「トーキ。残念ながら今の私たちでは時間稼ぎもできそうにありません。出し惜しみはなしにします」
「おい、何をする気だよッ!」
刹那。水花を中心に風が巻き起こり、彼女の体が光を帯びる。背には銀の龍翼、側頭部には二本の角。それは透器が彼女と出会った日に見た、神としての本当の姿。神化。
「トーキ。今の私は先ほどより力が増しています。そして、トーキに供給される力も増加しています。押し切りますよ」
「了解だ」
水花から漲る神気、それを目の当りにしたジャックは少しばかり目を見開いた。
「ふむ。中々ではないか」
「もう少し驚いてもいいですよッ!」
水花がジャックに向かって腕を突き出すと、彼女の周りから数本の水柱が生み出され、それはまるで大蛇のように宙を駆け、ジャックに殺到する。
次々に迫り来る水蛇を炎を纏いし大剣で屠っていくジャック。しかし、その動きが先ほどよりも鈍い。なぜならば、その一匹ずつは彼の力を以ってしても容易くは斬れず、そのもたつきが次の行動の遅延に繋がっているからだ。
「ムッ。猪口才な」
ジャックは不利を悟り、残りの水蛇を無視して、操者である水花を狙い駆け抜ける。
その速度はとても大剣を携えている人間のものとは思えない。
しかし、その猛進は妨げられる形となった。それは一筋の剣閃。即座に後退し回避したから良いものの、あと少しでも遅れていれば、自分の首が飛んでいただろう。
「いかせねぇよ」
その太刀筋を放ったものこそ、透器。先ほどよりも格段に早い刀使いにジャックは目を見張った。増した自分の力に振り回されずに制御しているのだ。
「ほう、強化された霊力と肉体をもう使いこなすか。どうだ少年。その異神を殺したら、我らの騎士団にこないか?」
(それ、さっきも同じ事聞いたな)
透器は嘆息するときっぱりと言い放った。
「やなこった」
「残念だよ」
いつの間にか忍び寄っていた水蛇を察し、ジャックは上空に跳躍。それを蛇たちも追いかける。だが、何の考えもなく跳んだ訳ではない。彼は上昇が止まると同時に大剣を上段に構え、重力に引かれるがままに落ち、そして、自分を狙い昇ってくる水蛇目掛けて振り下ろす。
それと同時に大気が吼えた。透器たちが見たのは彼らが重なり合った瞬間に、巨大な火の玉が膨らみ、その直後に生み出された爆圧が周りの建物をなぎ倒す光景。
二人はその強大な衝撃に吹き飛ばされた。
まるで桜の花びらのように舞い落ちる火花。衝撃で倒壊した建造物。そして、蜘蛛の巣のようにひび割れ、水が噴出す道路に奴が降立った。
この時、二人は理解した。この化物は間違いなく自分たちでは勝てないという事実を。
「おいおい。あんたの方がよっぽど化け物じゃないか?」
「笑わせるな。神との戦いならば、こんな芸当ですら児戯だ」
「そうなのかよ……」
透器は嫌な汗が止まらなかった。もしも、今までの戦闘中に先ほどのアレをされたら、肉片一つ残らずに消し炭になっていただろう。
そう考えると恐ろしくて堪らなかった。ここまで絶望的な力の差を見せ付けられたことがなかったからだ。
「トーキ、落ち着いて下さい。息を整えて」
ふと隣を見れば彼女がいた。どんな時でも整った彼女の顔。だが、そんな彼女の表情にも疲れの色が濃い。いや、それすらも越えて死人のような顔色だ。
「水花どうした。顔色が良くないぞ?」
「少々疲れただけです。それよりもしっかりして下さい。あんな目晦ましに驚いちゃいけませんよ。あなたは私が守ります。信じてください。こう見えても神様ですよ」
「……信じなきゃ神様だって救ってはくれないよな」
自分の弱音を他人に見せない水花。透器は帰ったあとで説教をしようと心に決めた。
(何か水臭せぇじゃねぇの)
折れた心、彼女の強さを添え木にして、今一度敵に向かう。
「ウォォォォォォォッ!」
「その意気良し」
上段から切り下ろす透器、それを大剣で阻むジャック。先ほどまでは力負けしていたが、今回はそうではない。
「うりゃぁぁぁぁッ!」
裂帛の気合と共に繰り出される縦横無尽、連続の太刀筋。弾くジャックも次第に後ろに押され始める。動きこそ大雑把だが、それを速力で補っている。
「だが、奢るなッ!」
ジャックは振りおろされた刃を上に弾き上げると、その無防備になった腹目掛けて例の火花を飛ばす。そして爆発。
しかし、生み出された煙ごとジャックの腹を横に裂いたのは一筋の刀痕。透器の放ったものだった。見れば、透器の服は破れ、数多の裂傷が刻まれている。しかし、その程度。水花の張った水の壁が熱も衝撃もほぼ相殺したのだ。
「やるではないか少年」
腹に横一文字に刻まれた刀創、そこから溢れ落ちる鮮血。ジャックはその傷に指を宛がうとまるでチャックを閉めるように、なぞった。すると、腹の傷は消え、変わりに火傷の痕がのこっていた。彼は自分の生み出した熱で止血したのだ。
そして、彼は子供と戯れている大人の顔で笑った。
「もういいか?」
――ゾワリ。透器はその言葉が耳を打った瞬間に未だ嘗てない感情を抱いた。それは今すぐに逃げ出したという衝動。本能が叫んでいる。今すぐに全てを投げ出して逃げろと。
「ふざけんじゃねぇッ!」
抵抗の言葉は紡がれたが、透器の体は既に宙を舞っていた。ジャックが徐に大剣を振って生み出した爆風が、いとも簡単に透器の体を吹き飛ばしたのだ。
まるで風に舞う木の葉のように錐揉みしながら宙を飛ぶ透器。そしてかなりの距離を吹き飛ばされた後に、地面を成す術なく転がった。それでも猶残り僅かな意思で立ち上がる。
ヒュゴウッ! まるで戦闘機のエンジンから発せられたような音がし、目を向けると、少し離れた場所で巨大な炎が爆ぜていた。そして、透器の前に転がって来たのは、所々、しかし、体中が、焼け焦げ血が滲んだ水花だった。
「オイッ! 大丈夫かッ!」
「大丈夫……です」
よろめきながらも立ち上がる水花。彼女は透器に向かって投げ出された炎弾をその身ごと盾にしたのだ。
「トーキこそ……しっかり……して下さい。彼が……来ますよ」
息も切れ切れな水花。その死に体の彼女の呟きどおり、炎の魔人が灼熱を背負い悠然と歩んできている。今の透器にとって奴の方がよほど悪魔じみて見えた。
「諦めたらどうだ? お前たちでは我にはかなわん。奴の召霊も間に合わんぞ」
「黙れ」
全身が蓄積した痛みで悲鳴を上げている。それでも諦めるわけにはいかない。
「何故そこまでその異神を守る? 長い付き合いでもないのだろ?」
「黙れ」
体が重くなってきている。どうやら力の供給とやらが滞っているようだ。つまり二人ともガス欠だ。このままでは近い内に終わりを迎えるだろう。
「異神とは人に仇なすものだ。今は友でもいずれは分らないぞ。人の心を持ち合わせていないからな。それでも助けるのか? 我が身を犠牲にして」
「黙れ」
ララの奥の手はまだなのか。酸素を求めて喘ぐ透器は、ゴール直前のマラソンのように、最後の望みだけを考え、心を繋いだ。
「ふぅ。お前の意思で異神を諦めてほしかったが……。仕方がない」
透器は考えた。確かに、何故死にそうになってまで水花を守っているのだろうと。今の判然としない彼の思考ではその答えに辿り着くことはできなかった。だが、そんな彼でも言えることはあった。
「……それでも失いたくないんだよッ!」
どこにそれ程の力が残っていたのか。透器は今までで一番の速力で駆け抜け、ジャックを捉えると、渾身の力で横に薙いだ。
「ぬぅッ!」
ジャックもその予想外の速度に驚きはしたが、その一閃を横に跳んで回避した。しかし、その太刀筋は鋭く、ジャックの脇を切り裂いていた。
「手負いの虎か」
ジャックが大剣を横薙ぎに払おうとしている。今の透器にはその様がゆっくりと見えた。
(こりゃいけるわ)
透器は、彼がそれを振り切るよりも早く、太刀を突き刺せる自信があった。
だが一つ、透器に誤算があったとすれば、それは最早自身の力が尽きていたことだった。
(おいおい、体がうごかねぇ)
人事のように感じた透器。彼の肉体は、先ほどから棒立ちのままだった。
刃が肉に縫いこむ音。撒き散らされる血飛沫。何かが宙を舞い、そして地面に落ちた。
それは、透器ではなかった。
「はっ……おい……なんでだよ……何してんだよ。おい……水花ゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!」
脇腹から、およそ身体半分を断ち切られたのは、水花。
横断の刃が透器に届く直前。彼女は彼を引き摺り倒し、その刃を我が身に受けたのだ。
水花は痙攣を繰り返し、その致命傷から命の紅が流れ逝く。
「おいッ!」
敵の存在を忘れ、透器は水花に駆け寄った。彼女の顔からは血が失せ、その瞳は既に何も捉えていないように見えた。
透器が彼女をどう処置すべきか考えたその僅かの瞬間だった。彼の眼前に大剣の腹が現れた。
そう、ジャックは、何の躊躇いもなく、アスファルトに横たわった水花の身体に大剣を突き刺したのだ。
「オマエ、ナニシテンダヨ」
「何、神ってのはゴキブリみたいに頑丈だからな。駆除だ。燃え尽きろ」
水花を串刺しにした刃から炎が燃え上がる、まさにその刹那、光が世界を満たした。