4*喧嘩
他愛ない話に耳を傾ける時間
ずっとずっと幸せでありますように
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*喧嘩*
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今日は、彼の笑い声が聞こえなかった。代わりに緊張したような、張り詰めた声が飛んでいる。
どうしたんだろうと思ったけれど、椿がいるし、何より忙しいので話す暇がない。
……と思っていたら、和貴はお疲れ様ですと言いながら休憩室へ向かって行ってしまった。
完璧に機会を逃して、静紅は溜め息を付いた。
(……思い過ごしだといいんだけど、さ)
静紅は妙な所で勘が働く。
人の機嫌の悪い時だったり、元気のないときだったり、表情の変化だったり、人の気分を伺う能力に長けている。
ふと見た椿の表情が暗い事にも気がついて、静紅は首をかしげた。
「椿さん…元気ないですね。どうしたんですか?」
「…わかる?喧嘩したとき、和貴にね、別れようって言われちゃって。私は別れたくないんだけど……」
どくん、と心臓が跳ねた。
静紅にとったら、これはチャンスだ。
けれど。
「……大丈夫、ですよっ。静紅、市村さんに言ってみます。別れないであげて、って」
馬鹿なことを言っているのだろう。
このチャンスを逃せば、もう次は来ないのだろう。
それでも、椿の悲しそうな表情を見ると、何も言えなくなる。
「ありがとう、静紅ちゃん」
「え、えへへっ……じゃっ、お疲れ様ですっ!」
椿の笑顔を後に、てててと走って静紅は休憩室に向かった。
休憩室のドアの前で、入るのを少しためらっていると、声が聞こえた。
――すすり泣く、声。
(市村さんが、泣いてるの?)
だとしたら、自分は和貴に声をかけてはいけない気がする。今声をかけたら、優しい言葉をかけたら、弱味につけこむ事になるだろうから。
ドアに手を掛けて、息を吸い込む。
誰かが扉を開いて入ってくるのを悟った和貴は更衣室へ入りカーテンを閉めた。
「……あのっ……お疲れ様、ですっ」
「お疲れ様ー。今日も忙しそうだったな」
「あ、あのっ……椿さん、元気なかったです。えっと、別れたくないって、言ってました……っ」
返事が返ってこない。
静紅は困って、しかし椿に頼まれた事を思い出し、小さく深呼吸して自分を励ます。
「椿さんの事、嫌いになったんじゃないなら……やり直してあげてください……っ」
カーテンの開く音がした。
地面を睨んでいた静紅は顔をあげ、音のほうを見る。
ひどく悲しそうな、和貴。
「……何で、平山さんが泣いてるの」
「……っ、…だって、市村さんが悲しそうで、椿さんも悲しそうで、…変じゃないですか…っ!」
付き合っているのにお互いが悲しそうだなんて、変だと思う。
ずるい、と静紅は思った。
自分は、好きでいることさえも許されないのに。付き合っているのに悲しそうな顔をする椿が。和貴に悲しそうな顔をさせる椿がずるいと思った。
「だって、付き合うって…楽しいことのはず、……じゃないですか……っ」
再び地面を向く。
和貴の手が、ふわり、静紅の頭を撫でた。
「泣かないでくれよ……悪いことしてるみたいじゃん」
「……市村さんは、椿さんのこと、嫌いになっちゃったんですか……?」
「嫌いじゃないけど、もう疲れた……独占欲強すぎ」
その冷たい言葉は。
いつもの和貴からは発される事がない、酷く冷えたものだった。
「……っ市村さんがそんな事言っちゃ駄目です!椿さんは、市村さんの事好きだから……、……ごめんなさい。静紅が口を挟む事じゃないですよね……」
「……もう、別れるから」
静紅は何も言う事ができなかった。
優しい言葉をかけて気を引こうと、少しでも思っていないわけではないから、今何か言うのは卑怯な気がする。
これは、自分が望んでいた展開のはずなのに。和貴はとても悲しそうだ。
(……悲しそうな市村さんなんか、望んでないよ……っ)
「…別れる」
和貴は、再び小さく呟いた。