2*ジレンマ
どうしようもなく切なくて 空を見上げたら
溢れる涙を隠すように 一緒に泣いてくれた
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*ジレンマ*
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お疲れ様でーす、と疲れ切った声で言いながら休憩室の扉に手を掛け、中に入る。
がちゃりと何の変哲もない音をたてて、扉は簡単に開く。
狭い部屋でテレビを見ていたのは、和貴。静紅は驚いてしばらく入口に突っ立ったまま、彼を見ていた。
視線に気がついたのと、開け放たれた扉から入ってくる冷気が静紅の存在を知らせたのとで、彼は彼女の方を見て無邪気な笑顔を浮かべた。
「お疲れー」
「お疲れさまですっっ!」
扉を閉め、結んでいた髪を解く。飲食店というものは清潔感とやらにうるさい。肩より下くらいの長さの髪は、ゴムの跡もつかずにさらりと流れた。
「今日大変だっただろ〜?団体客来るみたいだし」
「えっ、でも静紅がいたときはまだ来てませんでしたよっ?多分椿さんと真理たんが忙しくなると思います」
「そっか。ラッキーだったなぁ」
「日頃の行いですよ〜」
軽口を叩きながら、笑いあう。こんな時間が、とても好きだ。
椿はいい人なのだが、独占欲が強いらしく誰かが和貴と話している所を見ただけで嫉妬にかられる。その時の椿程怖いものはない。だから、椿と和貴が話しているとき、静紅はいつも疎外感を感じるのだ。
更衣室に入ってカーテンを閉めようとしたとき、平山さんと声をかけられる。静紅は驚いて、はいぃっ!?と半分叫びながら返事をした。
「何か元気ないな〜。どうかした?」
「なっ……んでもないっす!」
静紅は、足下が崩される思いがした。
どうして、と思う。
どうして、ばれてしまうんだろう。どうして、そっとしておいてくれないんだろう。彼女がいるくせに。
いっそ、今告白してしまおうか。でも、そうしたらきっと、今の関係は壊れてしまうし、椿さんに目をつけられてしまうかもしれない。
想いを伝えたいのに、伝えることさえできない。ジレンマの嵐だ。
静紅は強張った表情を崩そうと、笑顔を浮かべた。和貴は心配そうに、問う。
「無理するなよー?」
「はいっ大丈夫ですっ!ていうかソレは平中さんに言ってくださいよ〜。
「平山さんをあんまり働かせるな」
って」
「ははは、それもそっか」
平中とは店長の事だ。平中はなぜか店長と呼ばれるのを嫌う。
名字で呼べだなんて、変な店長だな、などと考えながら静紅はカーテンを閉めた。視界から和貴が消える。しかし声はカーテンを越えて静紅へ飛んできた。
「平山さん、ここまで電車で来てるんだよな?」
「?はい」
「大変だよな〜帰り大丈夫?」
自転車だと20分くらいなのだけれど、学校の帰りとなるとそのまま来たほうが早いので帰りは電車なのだ。休みの日も、帰りが遅くなる日は電車をつかう。視力が弱いくせにコンタクトも眼鏡もしない、裸眼一本な静紅にとって、夜道は恐ろしいことだらけだ。
「?大丈夫、ですよ?」
「気をつけてねー?転んだりしそうだから。 また、膝に痣増えてたし」
「……こっ、これはっ」
雨の日に転んだだけです。と続けようとして、やめる。また馬鹿にされそうだ。
静紅は雨が降った日に滑らなかったことがない。特に下水道なのか何なのか金網のようなものの上が滑りやすい。静紅はあれを敵だと思っている。
「……これは、えー……と……内出血ですっ」
「それを痣って言うんだよ」
カーテンの向こうで大爆笑が起こった。
着替え終わった静紅はカーテンを開け、怒ったようにお疲れ様でしたっと告げると鞄を持って和貴の前を通る。
「あ、制服だ〜」
「……だって学校帰り…………市村さん、今
「本当に高校なんだ」
って思いませんでした……?」
「い、いや思ってないよ!」
静紅は18にして自他ともに認める童顔だ。それに背が低いときた。
町中を歩けば、迷子の小学生に間違えられ。病院に行けば、中学生と間違えられ。勤務中は、客に中学生?と聞かれる。……中学生はバイト、できません。
その事を真理に話すと彼女は大爆笑して
「ナイス客!」
と言っていた。
「ナイスじゃないよっ!」
「え!?あー……戻っておいで、平山さん。とりあえず」
心の中で突っ込んでいたはずなのに口に出していたことに気がついて、静紅はすみませんと謝るともう一度、お疲れ様ですと言い扉に手を掛ける。
「暗いし、雨降ってるから気をつけて」
「頑張って濡れます……」
「えぇ!?大丈夫!?」
聞かれて静紅は意味深な笑顔だけ残して休憩室を出た。
――雨はいい。
冷たいけれど、何もかもを洗い流してくれるから。
このモヤモヤした気持ちも、きっと。