好きになってもいいですか…?
土曜日の学校。
授業が無いから、生徒の姿はほとんど無い。
それは、三年生のためにと特別に開放されていた図書室も例外ではなかった。
受験勉強のためにと開放されているにもかかわらず、今日は私以外誰もいない。
こんなにたくさんの本とこんなに広い空間を独り占めしている。
それは贅沢でもあり、寂しくもあり…。
だからせめて人の足音くらいは聞こえるようにと、私はドアを開けっ放しにして英語の参考書と戦っていた。
「ここ、いい?」
不意に掛けられたその言葉が、私の記憶とデジャヴする。
「だめ?」
「あっ、うん。いいよ」
額に手を当てて、必死に記憶を辿って思い出そうとしてみる。でもそれはやはりデジャヴであって、それがいつどこであった出来事なのか思い出すことは出来ない。
「どうしたの?」
そんな私を心配してか、隣に座った水野君がコートのボタンを外しながら私の顔を覗き込んだ。
私は「大丈夫」と返してまた英語の参考書と向かい合ったが、それでもまだデジャヴの跡は消えず、私はもう一度ペンを置いた。
「うぅ……」
「具合悪いの?」
「違う…。デジャヴ…」
そう聞いて安心したのか、水野君はコートを脱ぐと表情を和らげて言葉を続けた。
「もう心配しちゃったじゃん。ってか一人?」
「うん。そう。今日は誰も来なくって…」
私は机に突っ伏したまま答えていた。
話しながらもまだデジャヴのことが気になって頭から離れず、それが何かとても大切な記憶だったような気がしてならなかった。
「何やってたの?」
「英語」
「見せて?」
「うん」
促されて私は起き上がり、顔で覆い隠していた参考書を手渡した。
「長文かー」
「長文苦手なの…」
乱れた前髪を直しながら答える私のその額の辺りで明らかに水野君の視線が止まっていた。
「何?」
「いや…」
「前髪つぶれちゃった…」
「ちょっと…」
そう言うと水野君は私の手をどかし、前髪をかき上げて額を露にした。
「ちょっ…」
「あはは。やっぱり」
「何がっ!?」
「おでこ赤くなってるよ」
おでこを笑いながら人差し指でツンと突かれると、もうおでこの赤なんて赤で無いくらい真っ赤になるほど、恥ずかしさで一瞬にして顔中から火が出た。
「やめてよね…」
「怒った?」
「怒った」
「ほんと?」
「ほんと!」
今はもう何も言っても敵いそうになく、私はとにかく顔を仰いで平常心に戻ろうとしていた。
「いいじゃん。俺しかいないんだし」
せっかく戻りかけた平常心が、また一瞬にしてどこかへ吹き飛ばされてしまった。
でも、今度はさっきの恥ずかしさとは違う。
無意識で無条件に受け入れていたこの状況。
それを意識してしまった途端に、ドクンと大きく胸が高鳴った。
胸が苦しい。
声も出せない。
もう無邪気に笑う水野君の顔は見られなかった。
「あ…いや、そういう意味じゃなかったんだけど…」
私の様子を見て水野君も気付いたようで、咄嗟に弁解したけれど、もう遅かった。
それによって水野君も無意識だったものを意識してしまったようで、お互いに視線を合わせられず、机に視線を落としたり外を眺めたり無意味に時間を気にしてみたり、色々なことをして、気持ちを落ち着かせようとしていた。
「勉…」
「うん」
たぶん「勉強しよう」と言い掛けたのだと思う。
でも、私はそう言い終わる前に頷いた。
今日は勉強をするために来たんだ。だから勉強をしよう。
再び参考書と向き合った私は、そこに答えがあると信じて英語の長文を読み解いていった。
最初は早かった鼓動もいつの間にか収まって、辺りは夕日ですっかりオレンジ色に染まっていた。
あれから会話は無かった。
全然無かったわけではないけれど、分からないところを教え合う程度。
それ以外はずっと目の前の問題集に集中して、良い緊張感の中にいた。
でもそんなにも長くずっと集中が続くわけではない。
集中力の切れた一瞬、ソレはまた私の中で燃え上がった。
ふと、視線を左下のほうへ落としてみる。
細く長い、でもしっかりとした力強さも兼ね備えた腕。
利き腕ではないその右腕をだらんと垂らしたまま、水野君は数学の問題と向き合っていた。
どうやら私の視線には気付いていないらしい。
でも、ずっと眺めていたらそのうち気付かれてしまうだろう。
私は一度視線を問題集のほうへ戻し、そして何を思ったか、
水野君とは逆の形で左腕をだらんと垂らしたまま勉強するふりをして、左手をおそるおそる右手に向けて近付けていった。
手のほうは見られない。
見てしまったらたぶんこんなことは出来ない。
大胆になりながらも心臓は破裂しそうなくらいドキドキして、指先でそっと小指の先を掴むと、もう勉強をしているふりさえも出来ず、私は俯いていた。
ああ…。
やってしまった…。
びっくりしたかな…。
こっちを見てるのかな…。
今、何を考えてるんだろう…。
こんなことされて、どう思ってるんだろう…。
ああ…。
やらなければよかったかな…。
緊張と不安と期待と後悔が綯い交ぜになって押し寄せてくる。
自分から手を離してしまおうかとも考えて、でもそれも怖くて出来なかった。
私にとっては長い長い時間の後、水野君の小指が私の指先からすり抜けていくのが分かり、緊張が解け、不安が絶望に変わり、期待は儚く散り、後悔だけが残った。
こんな鮮やかな夕日にさえその暖かな色を感じない。
すべてが限りなく黒い、辛うじて白い光をまとったグレー。
しかし、そんな一瞬の出来事のその次の瞬間、私の世界は再び明るさを取り戻した。
すり抜けたと思った指が私の指に絡みつく。
その現実を一瞬疑い、でもされるがままにその一本一本の指を受け入れていく。
”恋人つなぎ”
最後にギュッと強く握り締められると、私の手も自然と握り返していた。
誰もいない、二人だけの空間。
二人を邪魔するものは何も無い。
そして、二人にはもう躊躇う理由も残ってはいない。
どちらからともなく次の言葉を発したその瞬間から、本当の物語は始まった。