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『Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜』 本編・番外編まとめ

【番外編】ハディート、秋葉原へ行く

作者: 南郷 兼史
掲載日:2026/07/03

 午後の監察局には使い道のない時間が沈んでいた。時計は十三時を少し過ぎ、廊下からは紙を運ぶ足音と誰かが咳払いする声がたまに聞こえる。

 やることがないという状態は案外辛い。身体は回復しているのにどこへも動かないでいると、血だけが先に退屈してくる。私は端末を伏せ、向かいで脚本の束を読んでいるハディートを見た。


「はぁ……暇ですね」

「それはよくないな」

「じゃあ、すぐそこですし秋葉原行きましょうよ」


 ハディートは紙から顔を上げた。断る顔ではなかった。むしろ、古い抽斗の底から妙な鍵を見つけた時の顔だった。


「秋葉原か。末広町の方に魔術具を扱う店があったな。香、護符、銀の短剣、扱いの悪い水晶玉。店主はいつも黒い爪をしていた」

「今はそういう店なさそうですが……」

「では、跡地巡礼だ」

「普通に遊びに行きたいだけです」

「遊びと巡礼はしばしば同じ道を通る」


 ハディートはそのまま立ち上がった。着替える気はなかった。監察局では正装で済むものが、外に出た途端に現実への攻撃になる。


「その格好で行くんですか?」

「秋葉原だろう」

「秋葉原だから言ってます」

「なら、なおさらだ。不可思議な土地には不可思議な服で行く」


 私は反論しようとしてやめた。止めても変わらないし、少し見てみたい気持ちが勝った。ハディートが自動改札を通るところを想像しただけで口元が緩む。


*


 御茶ノ水の駅まで歩く間、ハディートは機嫌が良かった。ローブの裾をいつもより少し持ち上げ、歩幅も大きい。一駅分の移動を彼は小旅行のように扱っていた。私は隣を歩きながら、監察局の空気が背中から少しずつ剥がれていくのを感じた。


 ホームに電車が入ってくると、風でローブが膨らんだ。近くにいた学生が振り返り、もう一度見た。ハディートは気づいているのに、気づいていないふりをしていた。そういう時の横顔は、舞台袖で拍手を待っている役者に近い。


 秋葉原駅を出ると、音が一気に増えた。呼び込みの声、スーツケースの車輪、どこかの店から漏れる電子音。湿った風には、油と甘い飲み物と古いビルの埃が混じっている。


 ハディートは改札を抜けたすぐ先で足を止めた。


「日本人より異国の客の方が多いな」

「観光地なので」

「僕の知る秋葉原はもっと暗かった。電子部品の箱が積まれ、線と金属片が人間より目立っていた。人々は買い物というより、発掘をしていた」

「ちょっと楽しそうですね」

「楽しかった」


 その声が思ったより弾んでいたので私は笑ってしまった。


「今日は発掘じゃなくて観光です」

「よい。案内を頼む」

「まずはラジオ会館です」

「名前がもう強いな。電波の塔か」


 ラジオ会館に入ると、空気が明るく詰まった。フィギュア、ケース、ポスター、透明な袋、値札、蛍光灯。狭いエスカレーターの機械音が一定の速さで上がっていく。私は何かを買う予定もないのに、足が少し速くなった。


 ハディートも負けていなかった。案内板の前に立ち、真剣に店名を読んでいる。


「BIGMAGIC、magi……。ついに駅近にマジカルショップができたのか」

「違います」

「BIGなMAGICだぞ」

「そういう店名なだけです。MtGメインのお店ですね」

「magiもある。複数形だ。きっと魔術師が何人もいるぞ」

「いません」

「時代が追いついたな」

「追いついてないです。トレカショップです」


 ハディートは私を見た。完全に初耳の顔だった。


「トレカ?」

「トレーディングカードです。カードを集めたり売ったり対戦したりするやつですよ。ポケモンとか、遊戯王とか、ヴァイスとか」

「遊戯王」

「そこだけ拾わないでください」

「遊戯に王号を与えるのか。随分と景気のいい体系だ」


 説明しているうちに私も楽しくなっていた。知っている街を何も知らない魔術師に案内する。しかも相手はBIGMAGICやmagiを本気で魔術店だと思っている。油断すると笑いそうになる。


 ハディートは案内板をもう一度見た。


「タロットはあるのか」

「ないですね」

「カードを扱うのにタロットすら置いていないのか」

「カードの種類が違います」

「なら、トート・タロットを置いてもらおう。教育的価値がある」

「やめてください」


 私が袖を掴むより早くハディートは店の方へ向かった。ローブの背中の刺繍が蛍光灯を受け、安いアクリルケースに反射した。通路にいた外国人客が目を丸くし、すぐスマホを取り出した。


 店内は紙の匂いがした。透明スリーブ、ガラスケース、指先の脂、薄い段ボール。ケースの中にはポケカや遊戯王等の鑑定済カードが並び、小さな値札に大きな数字が書かれている。魔導具より人間の欲を直に吸っている感じがした。


「高いな」

「高いですね」

「護符より高い」

「護符と比べるものではないですよ」

「この竜の絵は強そうだ。攻撃力が3000もあるぞ」


 ハディートは嬉しそうにケースを覗き込んだ。私はその横顔を見て来てよかったと思ってしまった。言ったら調子に乗るので黙っていた。


 カウンターの奥で店員が固まっていた。まずローブを見て、次にハディートの顔を見て、最後に私を見た。助けを求める順番としてかなり正しい。

 店員の視線がふと遊戯王の棚へずれた。ファイルの中に収まった白い服の男のカードと、目の前のローブ姿を見比べる。口元だけが少し動いた。


「あの人、()()()()()()()()に似てる……」


 かなり小さい声だったが、私には聞こえた。ハディートは聞こえていないのか、聞こえていて無視したのか、ガラスケースの中の値札をまだ真面目に見ている。


「通常召喚……」

「朱音」

「何でもないです」


 私は言いかけた言葉を飲み込んだ。説明したところで、面倒な方向にしか転がらない。


「いらっしゃいませ……」


 声が少し細かった。ハディートはカウンターの前に立ち、丁寧な態度で恐ろしいことを言った。


「トート・タロットは扱っているか」

「え? タロット……ですか?」

「アレイスター・クロウリーのものだ。カードを扱う店なら一組は置いておくべきだろう」

「こちらはトレーディングカード専門でして……」

「なるほど。では、仕入れ枠を増やすところからだな。文化はこうして広がる」

「それは文化侵略ですから! 引っ掛けないでいいから違う店行きますよ」


 私は謝りながら一度頭を下げた。ハディートの袖を引くと、厚い布が重く指に沈んだ。


 その時、通路側からシャッター音がした。振り向くと海外客が数人スマホを構えていた。一人が親指を立て、別の一人が笑いながら英語で何か言った。コスプレ、という単語だけ聞き取れた。


 ハディートの眉がわずかに上がった。


「朱音」

「嫌な予感がします」

「誤解は正さねばならない」

「正さなくていいです」


 止める前にハディートは半歩前へ出た。ローブの裾が床を払い金具が鳴る。彼は胸に片手を当て、観客へ向けるように顎を上げた。


「Not a cosplayer, I assure you. A magus of the highest order」


 発音は無駄に綺麗だった。次の瞬間、カウンター横に積まれていた空のカードボックスが三つ、ふわりと浮いた。


 店内が沸いた。歓声、笑い声、短い悲鳴、疑う声が一度に跳ねた。スマホが増え、入口の外からも人が覗き込む。


「店が困っちゃいますって!」

「観客は喜んでいる」

「店が困っています!」

「二度言ったな」

「大事なので」


 私は腕を掴んだが、笑いが混じって力が入らなかった。自分でもまずいと思った。ハディートはそれを見逃さず、ほんの少し得意げに目を細めた。


「君も楽しんでいるではないか」

「楽しんでません」

「声が跳ねている」

「そっちの箱も戻してください」

「これはまだ演出の途中だ」


 店員の顔色はもう演出どころではなかった。奥からもう一人出てきて、通路に溜まった人の数を見た。商品棚の前が塞がり、誰かが店名を口にしながら動画を撮っている。空気の熱が上がり、紙と人の匂いが濃くなった。


 ハディートもようやくそこを見た。歓声ではなく、店の動線が死んでいることに気づいた顔だった。


「朱音、退くぞ」

「最初から退きたかったです」

「嘘だな」


 箱が音もなくカウンターへ戻った。私は店員に何度も頭を下げ、ハディートの腕を引いた。棚と棚の間を抜ける間にもスマホがこちらを追ってくる。ハディートは振り返り、片手を上げた。


「手を振らない」

「礼儀だ」

「逃走中です」

「なら、優雅に逃げる」


 奥の細い通路には、段ボールと清掃用具の匂いがこもっていた。ローブの裾が台車に引っかかり、金具が派手に鳴った。ハディートが一歩よろけ、私はその腕を掴み直した。


「地形が悪い」

「店の裏です」

「迷宮にも格式がある」

「秋葉原の裏口に格式を求めないでください」


 非常口の重い扉を押すと、路地の空気が顔に当たった。室外機の風、古い油、濡れたコンクリート。表通りの明るさから数メートル外れただけで、街は急に昔の残りかすを見せる。


 私は壁に手をつき息を整えた。ハディートはローブの裾を払っている。何事もなかった顔をしているが、目だけはまだ浮かれていた。


「……なんだかんだ面白いですね」

「そうだな」

「ハディートが一番楽しんでました」

「否定はしない。紙の札に高値がつき、魔術師が歓迎され、王が遊戯になる。退屈しようがない」

「歓迎というより珍獣扱いです」

「珍獣にも品格は必要だ」


 私は笑った。声が思ったより大きく出て、すぐ口を押さえた。ハディートは見なかったふりをしたが、肩がわずかに揺れていた。


 ポケットの中で端末が震えた。画面を見ると、さっきの店と白いローブの男がカードボックスを浮かせている短い動画が流れていた。コメントと数字の動きが早い。


「もう上がってますよ」

「仕事が早いな」

「感心しないでください。炎上してますよ」

「好評ではないのか」

「反省してください」

「歩きながらする」


 端末がまた震えた。通知は一つで終わらなかった。私は画面を伏せ、路地の先に見える細い光を見た。ハディートはもう次の看板を読んでいた。


*


 中央通りへ出ると、音の層がまた変わった。車道の向こうから流れてくる宣伝音声、店先の電子音、信号の乾いたメロディ、キャリーケースの車輪。路地裏の室外機の風に慣れた鼻へ、香水と揚げ物と甘い粉菓子の匂いがいっぺんに入ってきた。


 歩道には個性的な服を着た女の子たちが何人も立っていた。フリル、リボン、猫耳、短いスカート、厚底の靴。手には店のチラシや小さな看板を持っている。通り過ぎる男たちの歩幅を測るみたいに視線を配り、声を投げる相手を選んでいた。


 ハディートの足が遅くなった。


「……どの子もかわいいな」

「見すぎです」

「観察だ」


 その姿勢はかなり前のめりだった。ハディートはショーケースを見る時よりも熱心に通りの左右を見ている。ローブの男がメイド服の列に目移りしている絵面はどう考えてもよくないのに、本人だけは堂々としていた。


「ハディート」

「何だ」

「こっちです」

「待て、あの衣装は何の役職だ」

「役職ではないです」


 私はハディートの袖を軽く引いた。さっきより布が汗を吸っている気がした。彼は一度だけこちらを見たが、すぐに別の女の子の方へ視線を戻した。頭に赤いリボンのついた子が、こちらに気づいて笑った。


「お兄さん、かっこいい!」


 声が明るく飛んできた。ハディートはそれだけで足を止めた。止まり方が素直すぎた。


「私と遊ばない? 何でもしていいよ?」


 ハディートの目が分かりやすく輝いた。欲望というより、実験許可の印を見つけた学者の顔だった。よくない。かなりよくない。


()()()()()()()()()()()()!?」


 通行人がこちらを白い目で見る。声をかけた女の子も一瞬、笑顔の形を保ったまま固まった。彼女の視線がハディートのローブの金具から、私の手、それからもう一度ハディートの顔へ移る。営業用の軽さが半歩だけ後ろへ下がった。


「ダメです!」


 私はハディートの腕を掴み、強く引いた。


「朱音」

「ダメなものはダメ」

「本人が許可した」

「その何でもじゃないです」


 ハディートは引かれながらも振り返った。メイド服の子は小さく手を振っていたが、顔には困惑が混じっている。周囲で別のキャッチの子たちが、こちらを見て笑いを噛み殺していた。


「待て、誤解がある」

「誤解を増やす前に移動します」

「僕はただ軽い浮遊術と認識阻害の実演をだな」

「中央通りでしないでください」

「安全な範囲に留める」

「安全の基準が違います」


 私は人波の隙間へ身体を滑り込ませた。ハディートのローブが後ろで遅れ、裾が誰かの紙袋に触れそうになる。さっきカードショップから逃げた時よりも恥ずかしい。


「朱音、歩幅を落とせ」

「落としたら捕まります」

「捕まるのは悪いことではない」

「今の文脈で言わないでください」


 ハディートは不満そうだった。だが、完全に抵抗するほどではなかった。私の手を振り払わず、引かれる速度に合わせている。口では文句を言いながら、少し面白がっているのが分かった。


 人混みを抜け、少しだけ開けた場所で足を止めた。私は息を吐きハディートの腕を離す。指に厚い布の感触が残った。中央通りの音はまだ近く、さっきの明るい声も別の客へ向けてもう一度投げられていた。


「強引だな」

「必要な措置です」

「僕は誘われただけだ」

「誘い文句です」

「何でもしていいと言っていた」

「言葉をそのままの意味で受け取らないでください」


 ハディートは少し考える顔をした。視線が遠くのメイド服に戻りかけたので、私は一歩前に出て遮った。


「次見たら強引に引っ張ります」

「もう引っ張ったじゃないか」

「もっとです」

「君は意外と乱暴だな」

「相手によります」


 ハディートはそこで笑った。カードショップで観客に手を振った時とは違う、短くて低い笑いだった。通りの騒がしさに紛れたが、私の耳には残った。


「秋葉原は誘惑が多いな」

「ハディートが勝手に引っかかっているだけですよ」

「土地が巧妙なのだ」

「土地のせいにしないでください。MtGで同じこと言えないでしょう?」


 私は端末を確認した。さっきの動画通知はまだ増えている。知らない言語のコメントが大量に流れていた。


 ハディートは私の横から覗き込んだ。


「先ほどの映像か」

「見ないでください」

「再生数が伸びている。バズるというやつだ」

「喜ばないでください」


 私は端末を伏せて歩き出した。今度はハディートが、少しだけ早足でついてきた。通りの向こうでまた誰かが「お兄さん」と声を上げたが、私は聞こえなかったことにした。後ろでローブの金具が一度だけ惜しそうに鳴った。


*


 中央通りの明るさを背中に置いて、私たちは末広町の方へ歩いた。ハディートはまだ少し後ろを気にしていたが、次の角を曲がる頃にはメイド服の列より古いビルの看板を見ていた。目移りの対象が変わるのが早い。


「見に行くんですか」

「行く。ここまで来て確認しない理由がない」

「潰れてたらどうするんですか」

「潰れている店には、潰れている店の情報がある」


 情報という言い方をした時だけ、ハディートの声から浮かれた熱が少し抜けた。私は横顔を見たが、彼はもう通りの先を見ていた。人の流れはまだ多いのに、駅前の密度とは違う。電気店の看板、古い雑居ビル、閉じたシャッター、階段の奥の暗さ。歩くほど秋葉原は少しずつ剥がれていった。

 ハディートは時々立ち止まり、ビルの入口や二階の窓を見上げた。ローブ姿でそれをやるので、通行人はまた何人か振り返ったがさっきほど騒ぎにはならない。街の端では奇妙なものもただの通行物になる。


「その店、どんなところだったんですか」

「狭かった。入ると香の匂いが濃く、奥に行くほど湿っていた。棚は傾き、値札は古く、商品よりも埃の方が多かった」

「それ、大丈夫な店ですか」

「大丈夫ではなかった」


 ハディートは当然のように言った。


「店主は魔術師ではなかった。ただ、嘘をつくのが下手な男だった。銀の短剣は大半が飾り物で、水晶玉は硝子だった。だが、奥の棚に一つだけ嫌な方位磁針があった」

「北を指さないんですか?」

「持ち主が最後に戻る場所を指す」

「……それ、売ってちゃいけないような」

「だから売れ残っていた」


 最後の一文だけ少し低かった。売れ残りを笑っている声ではなかった。買わなかった道具の位置を、今も棚の奥から取り出している声だった。


 私たちは細い通りへ入った。歩道の幅が狭くなり、建物の影が濃くなる。店先に出た段ボール箱、古い自販機、油で黒ずんだ排気口、色の抜けたポスター。風は弱く、どこかの店から薄い香辛料の匂いが流れてきた。


 ハディートが急に足を止めた。


「ここだ」


 そこは、何の変哲もない雑居ビルだった。一階にはスマホ修理の看板があり、二階には整体、三階には小さな事務所らしい白いプレートが出ている。魔導具店らしいものは見える範囲には何もない。入口の横の郵便受けには、剥がされたラベルの糊跡だけが残っていた。


「ないですね」

「ないな」


 ハディートは入口の前に立ち、階段の奥を見た。蛍光灯が昼間から点いていて、壁には擦れた黒い跡がいくつもある。誰かが剥がしたステッカーの跡、踏まれて黒ずんだ床、割れたタイルを透明なテープで押さえた部分。そこに昔の店を探すのは、濡れた紙から文字を読むみたいだった。


「何階だったんですか」

「二階だ。今は整体か」

「身体は整いそうですね」

「魔導具より実用的だな」


 冗談の形をしていたが、声はあまり笑っていなかった。

 私は入口の横へ少し寄った。郵便受けの下に、紙屑が溜まっている。レシート、古いチラシ、宅配の不在票らしい破片。その奥に小さなカードが半分だけ挟まっていた。湿気を吸って反り、角が黒く汚れている。


 指でつまむと、紙は薄く剥がれる音を立てた。


「これ」


 ハディートが顔を向けた。私はカードの表面を親指で軽く拭いた。薄れた文字の上に、円と針を組み合わせた図形が残っている。住所はここのものだった。電話番号の一部は擦れて消えていた。


 ハディートの手が伸びたが、すぐには触れなかった。紙片を挟んだ私の指先を見てそれからカードの汚れた縁を見た。


「まだ残っているな」

「店の名刺ですか」

「店ではない。店が扱っていたものの癖だ」


 その言葉で、路地の音が一段遠くなった。

 私はカードをもう一度見た。古い紙の匂いがするだけで、特別なものには見えない。けれど、ハディートの目がさっきのカードショップを見る時とは違っていた。


「危ないもの……?」

「分からない」

「分からないものを見て、そんな顔しないでください」

「分からないから見る」


 ハディートはようやくカードを受け取った。風は吹いていないのに、入口の奥の蛍光灯が一度だけ弱く瞬いた。

 私は階段の方を見た。整体の看板は変わらず点いている。二階へ続く階段には誰もいない。けれど、さっきまでただ古かっただけの壁が、急に触りたくないものに変わった。


「……帰るか」


 表情を見て、何かを見つけたせいでハディートの中の面倒な部分が起きたのだと思った。


*


 端末が震えた。画面を見ると、通知はまだ増えていた。別の通知には、さっき中央通りで声をかけてきた子の店の名前らしいものまで混じっていた。


「……最悪です」

「人気者は忙しいな」

「他人事みたいに言わないでください。張本人ですよ」

「僕は今、別件で忙しい」


 ハディートは汚れたショップカードを光にかざした。薄い紙の向こうで、消えかけた円と針の図形がわずかに透ける。看板を外した跡なのか、入口の壁には小さなネジ穴が四つ残っていた。そのうち一つだけ、方角を持つ汚れのように黒く濡れていた。



 ――なお、監察局へ帰った後、こっ酷くメイザースとリガルディーに怒られました。

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