九話 門の外へ
鐘の音は、まだ空が白みきらないうちに鳴った。
暁光神殿は薄い灰色に包まれている。
朝の色としては、落ち着きすぎている。
空気は澄み、吐く息は白くならない。
石畳は乾いていて、足取りを妨げない。
回廊を渡る足音が増えていた。
声は低く、灯りは必要な場所にだけ点っている。
急ぐ者はいない。
それでも、足を止める者もいなかった。
ルーナは水で手を清め、髪をまとめた。
白い装束の紐を結び直す。
昨日より少し重い。
重さは不快ではない。
ただ、ほどく理由が見当たらなかった。
部屋を出ると、回廊に影があった。
アルトだ。
近すぎない距離。
けれど、いつもより早い時間に立っている。
「おはようございます」
「おはようございます」
短い挨拶。
それだけで、朝が整う。
荷を持つと、アルトは先に歩き出した。前には出ない。半歩だけ位置を変え、角を先に見る。人影があれば、わずかに進路をずらす。
階段を降りると、中庭の空気が変わった。
準備の気配が、すでに外へ滲み出ている。
馬の鳴く声。革の擦れる音。荷を積む音。
門の近くに、人の列ができていた。
巡礼団は二つに分かれている。
門の内側、左右に幟が立つ。紋章は同じ。結ばれた布の色だけが違う。
A班とB班。
名目は危険の分散。
空気は、それ以上のことを知っている。
ルーナはB班の方へ向かった。
足は迷わない。
迷わないことが、少しだけ怖い。
B班は静かだった。人数は少なく、荷も簡素だ。
ルーナは端に立つつもりでいた。
影として。
そう思ったとき、肩の位置に気配が重なった。
アルトが、すぐ隣に立っている。
近すぎない。だが、離れてもいない。
「……こちらで?」
小さく尋ねると、彼は頷いた。
「はい」
ここだ、と言うように。
門の反対側が明るい。
A班の方だ。
ヴェロニカがいる。金糸の外套。光る装飾。整えられた微笑み。
歓声が上がり、人が跪く。
(同じ巡礼なのに)
浮かんだ言葉は、すぐに消えた。
比べる意味はない。
今、見るべきものは別の場所にある。
神官が短く指示を出す。道程。宿。祈祷の順。
言葉は少ない。だが、動くものは多い。
「……影武者の件は徹底するように」
低く、硬い声。
ルーナは頷いた。
「出過ぎないように」
続いた言葉に、アルトの声が重なる。
「問題ありません」
短い一言。
空気が一瞬だけ止まる。
神官は視線を逸らした。
出立の儀式は簡素だった。
香が焚かれ、祝福の文言が流れる。
ルーナは一歩、前へ出る。
白い裾が揺れた。
昨日より、少し重い。
門の外に、民がいた。
多くはない。けれど、確かな数の視線。
見られることに慣れていない。
慣れたくもない。
手を組むと、香の匂いが風に乗る。
ざわめきが、ほんの少し引いた。
誰かが息を吐く。
誰かの肩が下がる。
言葉は足さなかった。
それで足りる。
儀式が終わり、馬車が引かれる。
ルーナが向かうと、アルトが先に扉の前へ立った。
そこは、自然と彼の位置になっている。
「先に」
「はい」
手をかけた瞬間、彼の手がそこにあった。
触れない。けれど、支える。
「滑ります」
「……ありがとうございます」
馬車に乗る直前、門の方が騒がしくなる。
A班が動き出した。
布が揺れ、金具が鳴る。歓声が上がる。
祝福の声が飛ぶ。
ルーナは見ないふりをした。
耳だけが、拾ってしまう。
「聖女様……」
声は遠い。
B班は静かだった。
その静けさが、救いになる。
馬車の中は狭い。布と荷の匂いがする。
腰を下ろすと、扉の外で気配が止まった。
彼は外だ。
扉が閉まる瞬間、胸の奥が少し空く。
すぐに、足音が一定の距離に戻る。
(……いる)
馬車が動き出す。
石畳を離れ、外の道へ出る。
景色が変わる。
神殿の壁が遠ざかり、空が広がる。
最後に、鐘が鳴った。
送る音。
ルーナは手を組んだ。
指先が、少し温い。
触れるのは、聖女。
そして影。
その言葉が浮かんだとき、外から声が届いた。
「寒くはありませんか」
アルトの声。
窓に少し近づく。
言葉が通る距離。
「大丈夫です」
「無理はなさらず」
「はい」
短い応答。
それが、心地いい。
銀色が、一定の距離で並走している。
近すぎず、遠すぎず。
その距離のまま、
巡礼が始まった。




