六話 巡礼の気配
朝の空気が、少しだけ変わっていた。
吐く息はもう白くならない。
それだけで、冬が終わったのだと分かる。
暁光神殿の回廊は、いつもと同じ静けさを保っている。石畳はまだ冷たい。けれど、足音が響くたび、どこか柔らかい。
光の入り方が違う。
柱の影が、昨日より短い。
春が来た、とは誰も言わない。
それでも、神殿の動きは少し早い。
水桶を抱えて歩いていると、回廊の奥が騒がしい。人が集まる気配。低く抑えた声。布を払う音が、断片的に届く。
倉庫の扉が開いたままになっている。普段は鍵がかかっているはずの場所だ。中から、木箱がいくつも運び出されているのが見えた。
「……慎重に」
神官の声が低い。
いつもより、ほんの少し。
ルーナは視線を落としたまま、その前を通り過ぎた。見てはいけないわけではない。ただ、足を止めなかった。
礼拝堂へ向かう廊下で、香の匂いが濃くなる。
朝の祈りの時間だ。
祭壇の前。
本来なら、聖女ヴェロニカが立つ場所は、今日も空いている。
昨日も、その前も。
空いていることに、今さら驚かない。
ルーナは足を止めた。
一拍だけ。呼吸が遅れる。
それから前へ出た。
慣れてきてしまった少し重い白い装束がふわりと舞った。
膝を折り、手を組む。
祈りは短い。言葉を重ねない。ただ、今日が滞りなく過ぎるように。
香が焚かれる。
空気が、ゆっくり落ち着いていく。
参列していた人々が、ほっと息を吐く。肩が下がる。小さなため息が、香に混じって消える。
祈りというより、整える作業に近い。
それで、足りている。
祈りを終えて振り返る。
誰もこちらを見ていない。
礼拝堂を出ると、回廊の柱の奥に、銀色があった。
アルトだ。
彼は今日も前に出ない。
人の流れが分かれる、その境目に立っている。
「……おはようございます」
声をかけると、すぐに頷きが返ってくる。
「おはようございます」
それだけ。
言葉は増えない。
距離も変わらない。
それなのに、少し近い。
理由は考えない。
春のせいにして、歩き出す。
彼が少しだけ微笑んだ。
水桶を置き、布を替える。燭台の蝋を落とし、新しい芯を立てる。指先に残る冷たさが、少しずつ和らいでいく。
回廊を移るたび、光の位置が変わる。
窓から入る風が、かすかに温い。
帳簿を抱えて奥へ回ると、廊下の先で神官が二人、立ち話をしていた。声は低い。
「……日程は分ける」
「護衛の数が……」
言葉は途中で切れる。
誰かが通ったのかもしれない。
ルーナは足を止めない。
聞こえなかったことにして、通り過ぎる。
窓際に出ると、外へ続く道が見えた。まだ土の色は冷たい。けれど、遠くの木々が、ほんのり明るい。
午後、礼拝堂の片付けをしていると、聖女付きの巫女が小走りで来た。
「ルーナ。聖女様が呼んでいるわ」
声が少し速い。
控え室の扉の前で、呼吸を整える。
中から、衣擦れの音。
「入って」
甘い香り。
ヴェロニカは椅子に座っている。表情は整っている。
「最近、前に出るのが慣れてきたわね」
「……私でお役に立てればと」
「そう」
爪先が、床を軽く叩く。
「巡礼、もうすぐでしょう」
「……はい」
「私が出るのは当然よね」
当然、という言葉だけが残る。
「あなたは影。危険を分けるための存在」
「はい」
彼女は満足したように、手を振った。
廊下に出ると、空気が少し冷たい。
香りが背中から離れる。
回廊を曲がると、柱の影に銀色があった。
アルトだ。
さっきより近い気がする。
気のせいだと思う。
「……呼ばれたのですか」
「はい。もう終わりました」
「……」
心配、してくれたのだろうか。
言葉は続かない。
続かなくても、歩ける。
礼拝堂へ戻る途中、後ろで足音がした。
重くない。
けれど、確かな歩調。
足音は少し近づいて、一定の距離で止まる。
近すぎず、遠すぎず。
それだけで、呼吸が整う。
春の光が差し込む床に、影が二つ並ぶ。
言葉にしない。
言葉にすると、形が変わる。
祈りの形に手を組む前の指先が、ほんの少しだけ温かかった。




