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偽聖女は巡礼中。ーーえ? 護衛が神様ですって?  作者: 絹ごし春雨


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五話 欠ける配置

 鐘の音は高く、澄んでいる。

誰のためでもないように響いて、それでも確かに、祈りの時間を区切る。


暁光神殿の朝は、今日も同じ音で始まった。


ルーナは水桶を抱え、回廊を歩いていた。

石畳の冷たさは相変わらずで、光の差し込む角度だけが日ごとに少しずつ変わっていく。


昨日の疲れは、もう残っていない。

残っているのは、言葉にできない、小さな違和感だけだ。


祈りの前に立ったことの余韻でも、聖女ヴェロニカの苛立ちでもない。

もっと些細で、もっと生活に近いもの。


——近い。


誰かが近くにいるということを、いつの間にか当然のものとして受け取っている。

それに気づく瞬間が、ふとある。


(誰かって、あの人なのよね)


ルーナは首を振った。

理由を探す癖をつけたくない。だから、そのまま手放す。


下級巫女の務めは今日も変わらない。

香を補充し、祭具を清め、帳簿を整える。

誰かの祈りが途切れないように、場を整え続ける。


回廊の角を曲がると、視界の端に銀色が映った。


柱の影に、騎士が立っている。

深い色の外套。静かな佇まい。


アルトだ。


彼は今日も前に出ない。

けれど、祈りの場へ向かう道。下級巫女の宿舎へ戻る道。

人が増える場所と減る場所、その境目に、いつも立っている。


「……おはようございます」


ルーナが小さく挨拶すると、アルトはわずかに頷いた。

返事は声ではなく動きだけで返されることが多い。

だが、不思議と失礼だと思ったことはない。


「……おはようございます」


一拍遅れて返ってくる声。

挨拶をし慣れていない人みたいで、ルーナは少しおかしかった。


言葉も、身振りも。

必要な分だけ残して、それ以上は足さない。

そうやって生きている人のように思えた。


水桶を運びながら、昨夜の自分を思い出す。


「この騎士と話すのは、嫌いではない」


あの言葉が、胸の奥に残っている。


嫌いではない。

好きかどうかは分からない。


そこまで考えて、ルーナは思考を止めた。

その境目に留まっていられることが、今はありがたい。




 昼前。

神殿の奥で、小さな会合が開かれていた。


ルーナは書記係として控えの間に座り、扉の向こうの声を聞くでもなく聞いていた。

聞かないふりをするのは、下級巫女に必要な技能だ。


「……祈祷の件はどうだ」


誰かが問いかける声。


「問題はない」

「むしろ——」


言いかけて、言葉が切れる。


「聖女様には、巡礼の務めに就いていただくことが決まっている」

「民衆の目もある」

「神殿の威信も——」


威信。

その言葉だけが、硬く残った。


ルーナはペンを動かしながら、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。

冷えるのは、声の内容ではない。

声の重なり方だ。みな同じ方向を向きながら、誰も神を見ていない。


会合が終わり、神官たちが控えの間を出ていく。

ルーナは席を立ち、書類を整えた。


扉が開いた瞬間、外の空気が流れ込んでくる。

その空気の中に、微かな緊張が混じっていた。


回廊を歩き出したルーナは、いつもなら視界の端にいるはずの銀色を探してしまった。


(……あれ)


柱の影に、いない。


たったそれだけのことが、妙に引っかかる。

いなくていいはずだ。巡回なのだから、ずっと同じ場所にいるわけがない。


なのに、足が止まった。


ルーナは手元の書類に視線を落とし、呼吸を整える。


(大丈夫)


誰に言うでもなく、自分に言い聞かせる。

それでも、視界の端が落ち着かない。


回廊の角を曲がり、礼拝堂へ向かう人々の流れに混じる。

香の匂いが濃くなる。祈りの気配が近づく。


——いつもなら、この辺りで。


ルーナは無意識に歩調をゆるめた。

誰かを待つ歩き方だと気づいて、慌てて足を速める。


(私は、何を)


自分を咎める前に、背後で足音がした。


重くない。けれど確かな歩調。

石畳に落ちる音が、妙に馴染む。


ルーナは振り返らなかった。

振り返ったら、自分が何を探していたのか、はっきりしてしまう気がしたからだ。


足音が少し近づき、すぐに一定の距離で落ち着く。

近すぎず、遠すぎず。


それだけで、呼吸が戻る。


(……戻った)


そう思ってしまったことに、ルーナは驚いた。


戻った、という言葉は、

彼がいない状態を「欠けている」と認めることになる。


ルーナはそれをまだ、認めたくない。

認めた途端、何かが変わってしまう気がした。


けれど——もう、少し遅かった。




 午後、祈りの時間。


大礼拝堂は穏やかだった。

穏やか、という言葉が、もう「特別ではない」ものになり始めている。


参列者たちは静かに膝を折り、香の匂いの中で目を閉じる。

視線の集まる場所に、今日はヴェロニカがいた。


豪奢な衣装。派手な装飾。

祈りの言葉は滞りなく口にされる。作法も、姿勢も乱れていない。


ただ——。


ルーナは遠目に見ながら思う。


(聖女様の祈りは、誰に向かっているのだろう)


神に。

民に。

それとも、自分に。


答えは出ない。

出なくていい。


ルーナは祈りの場を整える側に徹し、ただ静かに手を組んだ。


そして、礼拝堂の端。柱の影。


アルトが立っている。


いつも通りだ。


——いつも通り、という言葉が胸の中に滑り込んできて、

ルーナは小さく目を伏せた。




 夜。


下級巫女用の礼拝室は、変わらずひそやかだった。

白い壁と小さな祭壇。外の音が薄くなる場所。


ルーナは膝を折り、手を組む。


(今日も、一日が終わりました)


今日の祈りは短かった。

言葉を増やすと、何かを望んでしまいそうだった。


望みは、叶うかもしれない。

叶うことが、怖い。


祈りを終えて立ち上がると、扉の外に気配があった。


「失礼」


低い声。


扉を開けると、回廊にアルトが立っている。

夜間の巡回。そう言う前から分かる。


「夜間の巡回です」


「……ありがとうございます」


ルーナは鍵に手をかけながら、ふと口を開いた。


「昼間……お見かけしませんでした」


言ってから、寂しがっているように聞こえないかと混乱する。


アルトは一瞬だけ言葉を止めた。


「……配置が変わりました」


「そう、でしたか」


それなら仕方ない。

そう思ったのに、胸の奥がまだ落ち着かない。


「……気づいてくださったのですね」


妙に嬉しそうに言うから、ルーナは恥ずかしくなった。


(私は——)


言葉にしない。

言葉にしたら、形が変わる。


回廊を歩き出す。足音が重なる。

近すぎず、遠すぎず。


「……アルトさん」


ルーナは、小さく名を呼んだ。


アルトは歩調を変えない。

けれど、気配が少しだけこちらへ寄る。耳を傾けたのだと分かる。


「はい」


返事があった。

声は短い。けれど、今日の神殿でいちばん確かな音に聞こえた。


ルーナは何かを言おうとして、やめた。


言葉は必要ない。

言ってしまったら、この心地いい空間が壊れてしまう気がしたからだ。


それでも、もう一つだけ、胸の中で思ってしまう。


(……近い)


その近さが、怖いのに。

怖いからこそ、手放したくないと思ってしまう。


祈りの形に組んだ指先が、

少しだけ熱を持っている気がした。


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