四十七話 返らない命令
最初は、静かだった。
ヴェロニカには足音が、一つ分しか聞こえない。
それが自分のものだと理解するまで、少し時間がかかった。
(……遅れてる?)
そう思って、立ち止まる。
返事を待つつもりはなかった。
ただ、止まった。
――何も、返らない。
声も、衣擦れも、呼吸の重なりもない。
耳鳴りですら、しない。
「……?」
ヴェロニカは、ゆっくりと振り返った。
通路。
柱。
壁。
誰もいない。
(……さっきまで)
そこまで考えて、思考が止まる。
“さっき”が、どこだったのか分からない。
“誰か”が、誰だったのかも、曖昧だ。
「……聞こえますか」
声は、落ち着いていた。
少なくとも、自分ではそう思った。
返事はない。
「……ちょっと」
名前を呼ぶ。
はっきりと。
指揮官の声で。
沈黙。
(……距離が、開いただけ)
そう結論づけようとして、息を吸う。
距離なら、呼べばいい。
位置がずれただけなら、声は届く。
「……返事をしなさい」
少しだけ、強く言う。
返事は、ない。
音が、返ってこない。
反響すら、ない。
(……吸われてる?)
その考えが浮かんだ瞬間、
背中に、冷たいものが走る。
「……冗談でしょう」
声が、わずかに掠れた。
ここは、敵地ではない。
罠のある場所でもない。
沈黙の書庫だ。
記録にある通りの。
(……一人になる、なんて)
そんな記述は、ない。
ヴェロニカは歩き出した。
速くも、遅くもない。
“正しい速度”で。
角を曲がる。
柱を越える。
「……」
同じ柱が、現れる。
違う。
彫りが浅い。
床の欠けも、違う。
違うはずなのに、
“同じ”という感覚だけが残る。
(……落ち着きなさい)
鍵を握る。
重い。
確かだ。
(……私は、間違ってない)
そう思った瞬間、
胸の奥が、ざわつく。
間違っていないなら、
なぜ――誰もいない?
「……誰か」
声が、低くなる。
命令ではない。
呼びかけだ。
返事は、ない。
足音を、数える。
一つ。
一つ。
(……私だけ)
それを認めた瞬間、
喉の奥が、きゅっと締まる。
(……違う)
違う。
分散しているだけだ。
ここは、そういう場所だ。
一人で動くのは、判断として正しい。
なのに。
“正しい”という言葉が、
今は、支えにならない。
「……落ち着いて」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
壁に手をつく。
石は、冷たい。
確かな感触。
(……私は、ここにいる)
それだけは、分かる。
通路が、三つに分かれている。
さっきより、多い。
数えようとして、やめる。
数えた瞬間、増える。
「……」
ヴェロニカは、中央を選ぶ。
理由はない。
“正面に見えた”からだ。
進む。
進むほど、
灯りが、遠ざかる。
暗くなるのではない。
“光源”が、分からなくなる。
(……戻る)
そう決めて、振り返る。
――通路が、ない。
息が止まる。
「……は?」
声が、ひどく小さい。
さっき通ったはずの道が、
柱に塞がれている。
塞がれた、というより、
“最初からなかった”ように見える。
(……そんな)
一歩、下がる。
床が、少し沈む。
心臓が、強く打つ。
「……落ち着きなさい」
今度は、はっきり言った。
でも、誰も聞いていない。
一人だ。
それを、否定できる材料が、
もうどこにもない。
(……私は、聖女よ)
その言葉が、浮かぶ。
浮かんでしまう。
聖女は、選ばれる側だ。
迷う側じゃない。
守られる側だ。
置き去りにされる側じゃない。
「……ふざけないで」
声が、震える。
怒りではない。
恐怖でもない。
否定だ。
この状況そのものを、
認めないための声。
鍵を、強く握る。
「……私は、ここよ」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、言わずにいられなかった。
通路が、増える。
四つ。
五つ。
どれも、同じ顔をしている。
(……選べば、いい)
選べばいい。
正しい道を。
そう思って、一歩踏み出す。
――距離が、縮まらない。
歩いても、歩いても、
景色が変わらない。
(……おかしい)
思考が、追いつかない。
判断が、機能しない。
「……誰か……!」
ついに、声が上ずる。
反響は、ない。
返事も、ない。
沈黙だけが、ある。
ヴェロニカは、立ち尽くした。
息が、浅くなる。
視界が、狭まる。
(……一人?)
その言葉が、
はっきりと、胸に落ちる。
一人。
誰もいない。
誰も、来ない。
(……違う)
違う。
来るはずだ。
私は、ここにいるのだから。
聖女なのだから。
「……」
唇を噛む。
血の味が、する。
それで、少しだけ現実に戻る。
(……まだ、壊れてない)
壊れてない。
まだ。
でも――
このままでは。
ヴェロニカは、初めて思った。
(……見られてる)
誰に?
分からない。
けれど、
“独りでいる自分”が、
確かに、どこかに認識されている。
それが、
何よりも――恐ろしかった。
彼女は、その場に立ち尽くす。
進めない。
戻れない。
正しさだけを、握りしめたまま。




