四十六話 一本道の歩み
最初に立ち上がったのは、誰でもなかった。
合図も、声も、ない。
ルーナ自身、立ち上がろうと思ったわけではない。
ただ、膝の上に置いていた手が離れ、
床に触れていた足裏に、力が戻った。
それだけだった。
石の冷たさが、さっきよりはっきりしている。
温度が変わったわけではない。
触れている感覚が、戻っただけだ。
(……行くんだ)
そう思ったかどうかも、曖昧だった。
言葉にする前に、身体の方が動いている。
立ち上がる。
衣擦れの音がする。
それがやけに大きく聞こえて、すぐに静まる。
誰も声をかけない。
神官も、随行も、
アルトでさえ、何も言わなかった。
止められないのではない。
止める理由が、どこにもなかった。
ルーナは一歩、前へ出る。
通路は、さっきと同じ形をしている。
柱も、床も、灯りも、変わらない。
それなのに。
足を踏み出した瞬間、
“進んだ”という感覚だけが、はっきりと残った。
距離が縮んだわけではない。
景色が変わったわけでもない。
ただ、深くなった。
(……あ)
理解する前に、身体が知ってしまう。
ここは、戻る場所ではない。
振り返らなかった。
振り返る必要が、もうなかった。
灯りが、少しだけ揺れる。
揺れたというより、
光の輪郭が、整う。
今まで曖昧だった影が、
影として“留まる”ようになる。
通路が、一本になる。
正確には、他の通路が見えなくなる。
塞がれたわけではない。
ただ、選択肢として消えた。
「……」
誰かが、息を吸った音がした。
言葉は出ない。
出ないままでも、足は動く。
歩く。
歩いているはずなのに、
歩数を数える気にならない。
床の感触が、一定だ。
同じ場所を踏んでいる感じがしない。
(……進んでる)
それだけは、分かる。
後ろを確認しない。
前も、見据えない。
視線は、少し落としたまま。
柱の根元。
床の継ぎ目。
灯りの境界。
意味を与えない場所だけを見る。
誰も、追い越さない。
誰も、遅れない。
距離が、一定のままだ。
アルトの気配が、少しだけ近い。
横ではない。
後ろでもない。
“そこにいる”という距離。
「……」
ルーナは、何も言わない。
呼ばれもしない。
進むと決めたことを、
誰にも共有しない。
共有した瞬間、
それは“目的”になる。
目的になれば、
ここは応じない。
だから、ただ歩く。
しばらくして、気づく。
音が、戻っている。
足音。
衣擦れ。
呼吸。
さっきまで、潰れていた響きが、
少しだけ返ってくる。
完全ではない。
でも、消えてもいない。
(……戻った?)
違う。
戻ったのではない。
定まった。
灯りの色が、一定になる。
金でも白でもない。
判断できない色。
でも、揺れない。
通路の先に、
“何かがある”感じがする。
見えない。
輪郭もない。
ただ、そこまで歩けば終わると分かる。
(……終わる)
それは怖くなかった。
終わりが、
ここでは始まりと同じ意味を持っている。
神官が、声を潜めて言う。
「……このまま、行きますか」
問いではない。
確認でもない。
“続いている”ことの共有だ。
ルーナは、頷かない。
けれど、足を止めない。
それで十分だった。
誰も、立ち止まらない。
進む。
進むたびに、
“迷っていた”という感覚が薄れる。
迷いが消えたわけではない。
迷う余地が、なくなった。
(……選んでない)
そう思う。
選んでいない。
だから、外れていない。
通路が、緩やかに下る。
階段ではない。
段差もない。
けれど、空気が変わる。
少し、静かだ。
沈黙が深い。
でも、圧はない。
息が、楽だ。
「……」
誰かが、名前を呼びかけそうになって、やめた。
呼ばない方がいいと、
全員が分かっている。
それが、いつから分かっていたのかは、
誰にも分からない。
ルーナは歩く。
速くも、遅くもない。
ただ、一定。
途中で、影が見えた。
前に見た人影とは違う。
近づかない。
遠ざからない。
ただ、そこにある。
“位置”が、ここだと示している。
(……ここ、だ)
確信ではない。
でも、否定もしない。
ルーナは、その影の手前で、足を止めた。
止まったのは、初めてだった。
今まで、止まらなかった。
止まらなかったから、進めた。
今は、止まる。
意味を与えずに、止まる。
数拍。
影は、消えない。
逃げない。
(……大丈夫)
理由はない。
でも、ここで止まるのは、間違いじゃない。
アルトが、横に立つ。
何も言わない。
止めない。
ただ、同じ位置にいる。
「……」
ルーナは、目を閉じる。
祈らない。
願わない。
ただ、息をする。
吸って、吐く。
それだけ。
影が、薄くなる。
代わりに、
空間の“重み”が、前に集まる。
そこに、
何かが“現れる準備”がある。
まだ、現れない。
けれど、もう隠れてはいない。
ルーナは目を開け、
一歩、踏み出した。
影を越える。
越えた瞬間、
背後の空気が、切り替わる。
戻れない、という感覚だけが残る。
怖くない。
それが、少しだけ不思議だった。
(……進んだ)
今度は、はっきり分かる。
何もしないまま。
意味づけもしないまま。
それでも、
確かに――進んだ。
沈黙の書庫は、何も言わない。
ただ、道を残す。
ルーナは歩く。
後戻りしない。
選ばない。
祈らない。
それが、ここで進むということだった。
そして、もう――
同じ場所には、戻らない。




